大久保栄次著 印刷書籍・電子書籍 エーゲ海ミノア文明・ミケーネ文明の遺産 遺跡と出土品詳細データ |
ミノア文明 クノッソス宮殿遺跡 第2巻 |
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・サブタイトル: ミノア文明の遺跡&考古学博物館を旅する ・表記: 日本語 ・形式: e-book/Webダウンロード ⇒ PC・タブレット端末・スマートフォン ・サイズ: 601ページ(kindle画面相当) 容量640Mb ・販売: Amazonネットワーク/Amazon.co.jp |
内容概要: 本電子書籍は日本語表記、ギリシア先史・ミノア文明Minoan civilizationの解説書です。ミノア文明の最大センターであったクレタ島・「クノッソス宮殿遺跡Knossos Palace」を徹底的に詳細解説しています。 現在、「立入禁止区域」となっている宮殿の内部区画の未公開写真や遺構図面も含め、クノッソス宮殿遺跡の全ての区画遺構の詳細解説を行うと同時に、各区画で発掘された重要な出土品のほとんどを精密イラスト画、一部を写真で解説しています。 出土品では、ミノア文明最大級の出土品展示を誇るイラクリオン考古学博物館Heraklion Archaeological Museumを中心に、クレタ島のほかの博物館、およびギリシア本土・国立アテネ考古学博物館National Archaeological Museum of Athensなどで公開されている無数の展示品の中から、特徴ある重要な出土品をピックアップ、美術モチーフ・流行・系譜などを連動的に探究・比較することで、「ヨーロッパ最初の文明」とされるミノア文明を広範囲で立体的・具体的に分かりやすく解き明かします。 内容ボリュームの都合上、「第1巻」と「第2巻」、二部構成となっています。 ミノア文明 クノッソス宮殿遺跡 第1巻 I ミノア文明&宮殿の概要 II 宮殿周辺~西中庭~南翼部 III 中央中庭~王座の間コンプレックス IV 西翼部・聖域 V 西翼部・西貯蔵庫群&線文字B粘土板 VI 西翼部・フレスコ画《女神パリジェンヌ》 ミノア文明 クノッソス宮殿遺跡 第2巻 VII 東翼部・王の居室コンプレックス&両刃斧の聖所 VIII 東翼部・王妃の間コンプレックス IX 東翼部・フレスコ画《雄牛跳び》 X 北翼部~東翼部・フレスコ画《青の婦人達》 XI クノッソス宮殿遺跡 周辺の先史遺跡 |
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サンプル・ページ:(抜粋) ---------- 中央中庭の東側は、東入口East Gateやカイラトス川Kairatosの河畔へ向かって地盤がガクーンと一段と低くなることから、東翼部・王家のプライベート生活区画の一階床面レベルは、中央中庭レベルより二階分に相当する低い位置となる。 言い換えるならば、中央中庭の地表面は、王家のプライベート生活区画の北側区画の三階にあった東大広間East Great Hallの床面レベルにほぼ同等している。 ![]() クノッソス宮殿遺跡・アウトラインセクション視野 南方~西中庭~西翼部~中央中庭~東翼部 王家の生活区画=中央中庭~二階分低レベル クレタ島・中央北部 作図:大久保栄次 f王家のプライベート生活区画・アウトラインプラン(一階レベル) 王家の生活区画の「一階レベル」を限定してピックアップする時、東翼部は石板の舗装床面の大小の部屋が連なり、階段と通路や連絡ドアー口、採光吹き抜けの空間、さらに排水路システムなど、非常に複雑な構造でありながらも、この区画は効果的で利便性の良い配置と構成を成していることが分かる。 これがすでに3,650年前に設計され、現実にミノア王の住む大宮殿として建てられていたのである。驚くべきは東翼部だけでなく、このような正確に施工された部屋や大広間などが、クノッソス宮殿区域全体で1,000室以上も存在したことであり、繁栄した先史文明のレベルとパワーに圧倒される。 ![]() 遺跡:クノッソス宮殿遺跡・東翼部・王家の生活区画 ・一階レベル・プラン図 ・左上=列柱の間Pillar Hall(回り階段・採光吹抜け部) ・右上=王の居室コンプレックスKing’s Room Complex(両刃斧の間・前の間・控えの間・採光吹抜け部) ・左下=王妃の間コンプレックスQueen’s Room Complex(王妃の間・中庭・バスルーム・水洗トイレ) 現地:クレタ島・中央北部 作図:大久保栄次 「両刃斧の間」と呼ばれるミノア王の居室 王家のプライベート生活区画の一階部分のプラン図、右上半分が王の居室コンプレックスKing’s Room Complexである。区画の西側から王の居室である両刃斧の間Double Ax Room、中間が前の間Ante-Chamber/Room、そして最も東側が控えの間Porticoとなり、先史時代から始まった特徴的な建築様式・「三部屋続きThree-room Connecting」の構成と配置となっていた。 ![]() 遺跡:クノッソス宮殿遺跡・東翼部・両刃斧の間Double Axe Room ・壁面&渦巻き線フレスコ画=発掘時の状態(現在 立入禁止区域) ・木製王座=複製品 年代:MMIIIA期~LMIIIA1期・紀元前1625年~前1375年 現地:クレタ島・中央北部 撮影:1982年 王の居室コンプレックスで最も重要な部屋、研究者から「両刃斧の間Double Axe Room」と呼ばれ、比較的落ち着いたフレスコ画で装飾され、石膏石板で床面舗装された部屋が、事実上のミノア王の居室King’s Living Roomであった。 両刃斧の間は隣の部屋との壁面はなく、太い角柱だけで区分された「三部屋続き」の配置であり、光と空気の流通を最大限に考慮した、地中海クレタ島の自然環境に適した快適な造りである。 王の居室コンプレックスでは、すべての部屋の床面は明るい色彩の石膏石で舗装され、両刃斧の間がそうであるように、壁面は白色の石膏プラスター表装&フレスコ画で美しく仕上げられていた。西翼部の「三点セット」の一つ、「政治・行政」の中核スポットである石製王座が置かれた王座の間(王の公的執務室Throne Room)の厳格な雰囲気とは異なり、東翼部の両刃斧の間(王の居室)は、静かに過ごせる安らぎと開放感の世界、という感じを受ける。 ほとんど間違いなく、この両刃斧の間を含める王の居室コンプレックスでは、公的な政務を離れたミノア王が食事を取り、家族と雑談で寛ぎながら、あるいは時には昼寝をした後、美しき王妃と二人だけの熱い愛の時を過ごしたのであろう。 ![]() 遺跡:クノッソス宮殿遺跡・西翼部・王座の間Throne Room(現在 立入禁止区域) ・火炎跡の石膏石製王座&石膏石製ベンチ&石膏石床面=ミノア文明の遺構 ・王座=地中海域で「最古の王座」 ・王座の間の北~西~南側に設置された石製ベンチに座れる人数=16人分 ・王座を挟む北側ベンチ=宮殿最高位の官僚達が座る ・王座の両脇 グリフィン鎮座のフレスコ画の壁面=サー・アーサー・エヴァンズとスイス人考古学美術家エミール・ジリエロンにより1913年&1930年にコンクリート復元 ・王座の前=ミノア文明の大型石製水盤はない 年代:MMIII期~LMIIIA1期・紀元前1625年~前1375年 現地:クレタ島・中央北部 撮影:1982年 朱色円柱と吹き抜け構造の美しい広間・列柱の間 クノッソス宮殿の東翼部には、王家のプライベート生活区画の西側に隣接して列柱の間Pillar Hall/柱廊の間と呼ばれる朱色の円柱と階段で構成された、吹抜け構造のたいへんと美しい区画がある。列柱の間は決して広い部屋&空間ではないが、構造的には非常に複雑でありながら、建築学的には安定感ある調和の取れた区画である。 かつて、中期ミノア文明MMIIB期の終わり頃、3,650年ほど前の地震で破壊された旧宮殿の敷地を利用する形で、ミノアのエンジニア達はクノッソスの新宮殿を設計したであろう。 石積み建造物特有の構造力学は当然の事、美的な空間演出という点からも、時間をかけて熟考した後、紀元前1625年頃、彼らが最も力を注いで建築した新宮殿のセクションの一つがこの列柱の間であった、と言えるほどにこの区画は見事な構造を示している。 ![]() 遺跡:クノッソス宮殿遺跡・東翼部・列柱の間Pillar Hall ・石膏石舗装の一階~二階を見上げる(階下=現在 立入禁止区域) ・二階=フレスコ画 聖なる「8の字形」の盾装飾 ・床面&基礎部・石段以外=サー・アーサー・エヴァンズによる復元(1900年) 年代:MMIIIA期~LMIIIA1期・紀元前1625年~前1375年 現地:クレタ島・中央北部 撮影:1982年 列柱の間の二階・「バルコニー風の部屋」 王の居室コンプレックスの西隣の吹抜け構造の美しい空間、列柱の間の二階、バルコニー風の部屋の壁面は、渦巻き線紋様の横帯と二枚貝が開いた、形容の聖なる「8の字形」の大型盾をアレンジしたフレスコ画で装飾されていた。この渦巻き線紋様の装飾は、例えば王の居室や王妃の間を含め、ミノア宮殿の高貴な部屋の「定番」とも言える上質な壁面装飾である。 ![]() 出土遺跡:クノッソス宮殿遺跡・列柱の間・二階バルコニー風の部屋 表現:フレスコ画・典型的なミノア美術モチーフ=渦巻き線&「8の字形」の盾 年代:MMIIIA期~LMIIIA1期・紀元前1625年~前1375年 展示:HAM 現地:クレタ島・中央北部 撮影:1996年 現在、ミノア時代の本物のフレスコ画断片は、イラクリオン考古学博物館HAMで展示されている。一方、東翼部二階の復元されたバルコニー風の部屋の南壁面には、ツーリストに見せるために現代の化学塗料を使った渦巻き線紋様と「8の字形」の大型の複製フレスコ画が描かれている。 なお、渦巻き線&「8の字形」の盾紋様の装飾では、ギリシア本土のミケーネ宮殿遺跡から出土したフレスコ画が、クノッソス宮殿遺跡・列柱の間・二階のフレスコ画とサイズや紋様が同様である。ただ、ミケーネ宮殿のフレスコ画は、紀元前14世紀~前13世紀の製作であり、クノッソス宮殿のフレスコ画の方が一世紀以上早い作品となる。 ![]() 出土遺跡:ミケーネ文明・ミケーネ宮殿遺跡・宮殿区域・ツーンタスの邸宅House of Tsountas 表現:フレスコ画 聖なる「8の字形」の盾&渦巻き線の紋様 年代:LHIIIA2期~LHIIIB1期・紀元前1375年~前1250年 展示:NAM・登録番号14163 現地:ペロポネソス・アルゴス地方 描画:大久保栄次 「立入禁止区域」に指定された列柱の間 列柱の間は一階部分を除き、残念ながら上階の建物の部分や、大型円柱とその朱色と黒色の塗装、開いた二枚貝をモチーフにした「8の字形」の大型の盾紋様のフレスコ画などは、すべてエヴァンズにより復元・複製されたものである。さらに残念なことに、中央中庭から優雅にターンして階段を下る複雑構造の列柱の間の階下区画は、現在、ツーリストの立入禁止区域となってしまった。 このため石膏石板が敷き詰められた一階の正方形の床面から、天井を支えるリズムカルな配置の円柱群、上階への吹抜け構造の壮麗さ、感動にも値する美しい光のコントラストなどを体感する見学ツーリストの、「ウワ~、きれい~~!」という感嘆の声が響くことはない。 列柱の間に関しては、コンクリート復元の見学ステージの上階(三階)から見下ろしていたのでは、複雑な造りの階段&吹抜け構造の本当の美しさ、復元したエヴァンズ自身も感嘆した「美の空間」を実感することはできない。明るい吹抜け構造の列柱の間では、階下から上階を見上げてこそ、見学者は圧倒されるミノア建築仕様の卓越した機能美を体感できるのであるが・・・ 列柱の間の複雑にして均整の取れた見事な構造は、発掘者エヴァンズも認めた「ミノア建築の最高峰」と言えるスポットである。故にクノッソス宮殿の中で、《女神パリジェンヌ》を含む《キャンプスツールのフレスコ画》が描かれていた西翼部二階の聖なる北西儀式広間Northwest Sanctuary Hallと並んで、ミノアの「花ほとばしる新宮殿時代Minoan New Palace Era with dancing Flowers」、この東翼部・列柱の間は、クノッソス宮殿が誇る自慢の区画の一つであったと想像する。 ただ、今日、おびただしい数の見学ツーリストに対応、「外観を見せて 内部を見せない」の遺跡保護を優先する管理当局が、120年前の復元構造の強度の劣化と安全性を考慮した結果なのか、列柱の間も立入禁止区域に指定してしまったことはたいへんと残念である。 ![]() 遺跡:クノッソス宮殿遺跡・東翼部・列柱の間(現在 立入禁止区域) ・最下床面・円柱の林立・階段最下部 ・中央明るい箇所=採光吹抜けの空間 年代:MMMIA期~LMIIIA1期・紀元前1625年~前1375年 現地:クレタ島・中央北部 撮影:1982年 参考・関連:1980年代 列柱の間(柱廊の間)での居眠り 現在、ツーリストの立入禁止区域となっているが、1980年代には中央中庭脇から朱色の円柱が林立する列柱の間の優雅に折り返しターンする階段を二回り下り、吹抜け構造の石膏石舗装の最下部一階へ降りることができた。 さらに列柱の間の最下空間から東側ドアー口を抜け、通路を右折して王の居室コンプレックス・両刃斧の間Room of Double Axeへ進み、王座の正面にある南側ドアー口から、狭い石板舗装の「直角曲がり」の暗い通路を通過すれば、王妃の間Queen’s Roomコンプレックスへ直接通じていた。 また列柱の間の南側ドアー口を抜け、業務用階段の遺構・「デーモン印章の区画Daemon Seal Area」と「直角曲がり」の通路を経て、王妃の化粧室&水洗トイレFlushing Toilet、さらに王妃のバスルームBathroomへ自由に進むこともできた。 クレタ島の真夏の時期、空気は乾燥しているが直射の屋外は非常に暑い。しかし複雑な地下室のような構造の列柱の間はたいへんと涼しいこともあって、著者も含め見学に疲れたヨーロッパからの学生や若者達や高齢ツーリストが、この列柱の間の区画でしばしの小休止を取り、時折、床面や階段に座って居眠りをする風景があった。 1980年代の居眠りツーリストがそこで見る「夢」は、宮殿・西翼部の王座の間や上階の大広間で執り行われた午前の儀式や遠来の賓客との謁見を終えたミノア王が、昼下がり、お付きと共に中央中庭を横切り、この列柱の間の美しい階段を下り、すでにランチの席に着いた王妃や子供達が待つ王家のプライベート生活区画へ向かうシーンであった・・ ミノア時代 王妃の間はどんな雰囲気であったのか? 東翼部・王妃の間の壁面を飾る鮮やかに描かれたイルカや紋様などの絵柄は、残念ながら、ミノア時代の本物のフレスコ画ではない。実は発掘時に王妃の間コンプレックスで残っていたのは、宮殿区域のほかの遺構と同様に、床面レベルから高さ0.5m~1.5mの支柱の下部、床面とわずかな崩壊壁面だけであった。 故にイルカの個体数や向きと位置、壁面の高さやスペース、天井、小魚の群れなどは、120年前の発掘ミッションの後、発掘者エヴァンズとミッションの協力者であった、オランダ系イギリス人の考古学・建築美術家Piet Christiaan de Jong(1887年~1967年)による復元・複製である。また、Jongは王妃の間の想像画をイラクリオン考古学博物館HAMに残している。 王妃の間の天井を飾っていた渦巻き線紋様のフレスコ画では、ほとんど同じ絵柄パターンの浮彫フレスコ画が北翼部・神殿区画Shrineから見つかっている。 エヴァンズの発掘レポート(1930年)では、渦巻き線紋様のフレスコ画の復元絵柄では、精緻な立体フレスコ画であった。中心部に小さなロゼッタのある無数の浮き彫り(レリーフ)された白色の渦巻き線紋様が四方へ連鎖して広がり、その隙間には中サイズのロゼッタ紋様、さらに間隔約75cm毎に四花弁の縁取りの中に大きな浮き彫りロゼッタ紋様が配置されていた。 ![]() クノッソス宮殿遺跡・東翼部・王妃の間(想像画) 描画情報:イラクリオン考古学博物館HAM 描画作者:Piet Christiaan de Jong 王妃の間 付属の部屋/ベランダ形式部屋&小さな中庭 かつて1980年代には、クノッソス宮殿遺跡のほとんどの区画がツーリストの「立入自由」であり、当然の事、王妃の間Queen’s Roomへの立ち入りも許されていた。 当時、王妃の間の北側にニつ在るドアー口の、上階へ上がる階段の右ドアー口は金網で閉鎖されていたが、左側ドアー口から照明もない真っ暗な「直角曲がり」の狭い通路を抜け、王の居室コンプレックスの最も西側の両刃斧の間Double Axe Room(王の居室)へ移動することができた。 ![]() 遺跡:クノッソス宮殿遺跡・東翼部・王妃の間コンプレックス (現在 立入禁止区域) ・王妃の間~ベランダ形式部屋~明るい中庭を見る 年代:MMIIIA期~LMIIIA1期・紀元前1625年~前1375年 現地:クレタ島・中央北部 撮影:1982年 王妃の間の東側にはベランダ形式の部屋Room of Veranda typeがあり、二本円柱を隔てたその東側の小さな中庭Courtyardへ出ることができる。明るい中庭の南東隅には、東翼部の排水路システムへ連結された排水口が残されている。かつてミノア時代では小さな中庭には、日陰をつくる葉を延ばしたソテツやキレイな草花などが植えられていたであろう。 残念なことに現在では王妃の間コンプレックスもツーリストの立入禁止区域に指定されてしまい、元々は採光吹抜け中庭であった、王妃の間の南側の窓外に設置されたロープ規制の見学コースから、複製の《イルカのフレスコ画》で装飾された室内を外から覗き見ることは可能だが、王妃の間の内部への立ち入りは許されていない。 また、エヴァンズの想定では、王妃の間の東側に立つ角柱間(上述写真)には両刃斧(支持棒)を立てる、小型の石製角錐台 三基が置かれていた可能性がある、とされている。 「世界最古のお風呂」・ミノア王妃のバスルーム 王妃の間コンプレックスでは、王妃の間の西側には直結されたミノア王妃のバスルームMinoan Queen's Bathroomがあるが、残念ながら、現在、王妃のバスルームの立入見学は許されていない。 王妃のバスルームはそれほど広くなく、内部には小さな鉢植えなどが置かれたであろう、高さ1mの仕切り壁と細い円柱一本がある。このため王妃のバスタブQueen’s Bathtubが置かれた実用のお風呂スペースは、正確には南北2.4m・東西2.3m、和風サイズ換算では約3畳半の広さである。 ちまたで「ミノア王妃のお風呂」と憧憬の話題になっている割には、バスルームは極端な豪華さは一切なく、実際にその場に立ってみると、単にバスタブを使って湯水で身体を洗うという「実用優先」であったように感じる。 ![]() 出土遺跡:クノッソス宮殿遺跡・東翼部・ミノア王妃のバスルーム (現在 立入禁止区域) ・「世界最古のお風呂The Oldest Bathtub in the World」=実用のバスタブ 年代:MMIIIA期~LMIIIA1期・紀元前1625年~前1375年 展示:宮殿遺構 現地:クレタ島・中央北部 撮影:1982年 発掘者エヴァンズは王妃のバスルームの壁面の高い位置に直線と渦巻き線紋様を復元・複製しているが、バスルーム内部の石膏プラスターの塗壁や石膏石の床面は、紀元前1375年頃、クノッソス宮殿が大火災で最終崩壊した「最後の状態」を今に伝えている。 125年前、エヴァンズによる発掘ミッションの後、時間経過とクレタ島の乾燥した外気に触れていることから、初めて訪ねた1982年の時点では、「世界最古のお風呂The Oldest Bathtub in the World」とされるミノア王妃のバスタブにクラック割れが確認でき、石膏プラスターの塗壁表装の剥離も目立ち、変色と劣化もかなり進行していた。 フレスコ画 《雄牛跳び》は何処から出土したのか? 雄牛跳び(牛飛びor牛跳び)とは、現代で言えば全員集合のお祭り的な大きなイベント開催の時に行われた、おそらくスペインの闘牛に似た見世物やスポーツ、あるいは幾分神聖な儀式の一つであった、と考えられる。 この予想を前提とするならば、雄牛跳びは勇気あるミノアの若者達が暴れる雄牛の角につかまったり、背にまたがったり、動き回る雄牛の背上で逆立ちしたりするなど、非常にアクティブな行為であったであろう。 ミノア文明の特徴的とも言える雄牛跳びでは、象牙製のほかにクノッソス宮殿遺跡・東翼部からは、保存状態の良好なフレスコ画 《雄牛跳び》が出土している。フレスコ画の製作時期は、後期ミノア文明LMI期・紀元前1500年頃とされる。 ![]() 出土遺跡:クノッソス宮殿遺跡・東翼部・機織り重りの階下Loom Weight Basement 表現:フレスコ画 《雄牛跳びBull leaping》を最も詳細に描写した最高作品 年代:LMI期・紀元前1500年頃 展示:HAM・登録番号T-15/高さ78cm 現地:クレタ島・中央北部 撮影:1994年 現代的にはやや危険過ぎるような行為、クレタ島内で発見されている多くの石製の印章や容器のデフォルメ絵柄、彫刻品などの表現を除き、比較的大きなサイズで「雄牛の背上を跳ぶ」という同様なシーンを描いた、ほかのフレスコ画や陶器の詳細絵柄のサンプルは乏しい。この理由から、ミノア時代に雄牛跳びが「どのような状況」で行われていたのかなど、未だに不明な点も多い。 ミノア文明の特徴的、重要な伝統的なイベント行事、または奉納儀式であったと推測できる雄牛跳びを描写した素晴らしいフレスコ画 《雄牛跳びBull leaping》が、東翼部・「機織り重りの階下Loom Weight Basement」から出土している。高さ約78cm、残存するフレスコ画 《雄牛跳び》は、決して大型の壁画ではない。 雄牛の背上を跳ぶという危険な動作と言える雄牛跳びこそが、美術表現として長い間ミノア人に愛された最高のモチーフであり、フレスコ画以外にも無数の石製の印章&粘土印影、容器の絵柄、あるいは彫刻品などに表現された。 出土品・フレスコ画 《青の婦人達 Ladies in Blue》 ミノア文明の出土品展示の最高峰、イラクリオン考古学博物館 HAM の「至宝」の一つでもある、美しくドレスアップした三人のミノア女性を描いたフレスコ画 《青の婦人達Ladies in Blue》は、東翼部・「機織り重りの階下」の区画の一部、東貯蔵庫群の北側の通路付近で見つかった。 ![]() 遺跡:クノッソス宮殿遺跡・東翼部・機織り重りの階下Loom Weight Basement ・東貯蔵庫群 周辺 ・フレスコ画 《雄牛跳び》、フレスコ画 《青の婦人達》 ・ファイアンス製品 《タウン・モザイク》 ・「王家のゲーム盤」など出土 年代:(大部分)新宮殿時代の遺構/(部分的)旧宮殿時代の遺構 ・新宮殿=MMIIIA期~LMIIIA1期・紀元前1625年~前1375年 ・旧宮殿=MMIB期~LMIIIA1期・紀元前1900年~前1375年 現地:クレタ島・中央北部 撮影:1994年 華やかな髪飾りを付けたカールするロングヘア、細い眉毛、凛々しくも淑やかな顔形、エジプト・アレキサンドリアから直輸入された流行の豪華なネックレースとブレスレット、余りに大きなバストとミノア織りの斬新デザインの衣装・・・ 「花ほとばしる新宮殿時代」の初期、中期ミノア文明MMIII期・紀元前1650年~前1550年の作品とされるこの美しいフレスコ画 《青の婦人達》は、当然の事、東翼部・上階(二階)にあった広間、または三階にあったとされる聖なる東大広間East Great Hallの壁面を飾っていた、クノッソス宮殿が誇る第一級のフレスコ画であった。 研究者から、クノッソス宮殿は「美しいフレスコ画の宮殿」と比喩される中、この《青の婦人達》はその連想の答えを真っ先に示すほどの、群を抜くミノアの魅惑のフレスコ画と言えるだろう。《雄牛跳び》を初め、一階レベルの「機織り重りの階下」で大量に見つかっているほかのフレスコ画と同様、この美しいフレスコ画 《青の婦人達》もクノッソス宮殿が大火災により最終崩壊する時、紀元前1375年頃、上階から崩落したものである。 ![]() 出土遺跡:クノッソス宮殿遺跡・東翼部・機織り重りの階下Loom Weight Basement 表現:フレスコ画 《青の婦人達Ladies in Blue》 年代:MMIIIA期~LMIA期・紀元前1625年~前1500年 展示:HAM/スイス人考古学美術家Émile Gilliéron修復・復元 現地:クレタ島・中央北部 撮影:1994年 ミノア文明の美しい女性を描いたフレスコ画では、クレタ島北海岸のプッシーラ島Pseiraの居住地遺跡・神殿遺構で見つかったフレスコ画 《ミノアの王女Minoan Princess or女神Goddess》がある。他に類を見ないミノア織りの複雑な紋様の衣装を身に付けた二人の女性を描いた、この引き寄せられるほどに典雅にして非常に魅惑的な浮彫フレスコ画のモデルは、研究者からミノアの「女神」、またはより可能性あるクノッソス宮殿の「王女」であった、と推測されている。 このフレスコ画の製作時期は、《青の婦人達》より一世紀ほど遅い「花ほとばしる新宮殿時代」の最盛期、紀元前1500年~前1450年と断定されている。 3,500年以上前の女性とは思えないほど楚々とした気品と美しさを放し、「女神」を表す神的な要素がまったくないことから、このフレスコ画のモデルはクノッソス宮殿に住んだ実在の「王女」であったと確信する。 ![]() 出土遺跡:プッシーラ遺跡Pseira・神殿遺構 表現:レリーフ(浮彫)フレスコ画 《ミノアの王女Minoan Princess》 年代:LMIB期・紀元前1500年~前1450年 展示:HAM 現地:クレタ島・東部北海岸・エーゲ海沖/アギオス・ニコラオス市街地~東方13km 描画:大久保栄次 GPS:35°11'08''N 25°51'51''E/標高15m 「王家の墳墓」からの出土品・金製リング 《Gold Ring of King Minos》 ![]() クノッソス宮殿遺跡&周辺 現地:クレタ島・中央北部 作図:大久保栄次 ジプサデスの丘の東斜面、アルカネス方面への地方道路(Knossos=メッサラ平野Karakas)の西側、現在、立ち入りが許されていないが、王家の墳墓Temple Tombが発掘されている。「王家の墳墓」の発掘は、クノッソス宮殿遺跡を発掘したサー・アーサー・エヴァンズと若い考古学者John Pendleburyが中心となり、1930年にミッションが実施された。 「王家の墳墓」(発掘前の地表面)からの最も有名な出土品の一つ、ミノア文明の非常に祭祀的なシーンを刻んだ金製シグネットリングがある。この金製リングは、考古学者が発見したものではなく、1928年、地元の10歳の少年Michalis Papadkisが、後にエヴァンズにより存在が確認される「王家の墳墓」のわずか10mほど南方のオリーブ耕作地の「地表面」で見つけた、とされている。 通常ではこのような非常に高貴な宝飾品が、オリーブ耕作地の地表面に存在するはずがなく、歴史の中で盗掘者が「王家の墳墓」から抱えられないほどの大量の金銀財宝を掘り出し、慌てて撤収する時に地表面に偶然に落としたのかもしれない。 ただ、当時のクレタ島の文化遺産に対するやや低い関心と、途轍もない利益獲得を夢想した地元の宗教指導者や役人も絡む特有の社会環境などが背景にあり、「本物・偽物・所有権・価格$35万・・・」の騒動の後、70年間ほど金製リングは「行方不明」となっていた。 その後、ギリシア政府が金製リングを取得、彫刻モチーフや発見当時に印面にできた「傷跡」の合致などから、研究者によってミノア文明の「本物」と確定された結果、2002年7月、政府・文化大臣も列席した大々的な式典を経て以降、イラクリオン考古学博物館HAMの「至宝」の一つとして展示公開されている。 ![]() 出土遺跡:クノッソス地区 王家の墳墓Temple Tomb (現在 立入禁止区域) 表現:金製シグネットリング/エピファニー表現・女神・祭祀王・聖所・雄牛角U型 年代:MMIII期~LMIB期・紀元前1600年~前1450年 展示:HAM/重さ約30g 現地:クレタ島・中央北部 描画:大久保栄次 金製シグネットリングは、エヴァンズをして《ミノス王の金製リングGold Ring of King Minos》と呼ばれるようになった。楕円形(オーバル形状)の印面には、「四つの聖なるシーン」が互いに関連付けられる感じで技巧表現されている。 左右に三分割聖所(神殿)があり、左聖所の枝葉を延ばした聖なる樹木に右手を置き振り向くような姿勢の大きな女神が、右聖所には聖なる雄牛角U型オブジェが飾られ、しゃがみ姿勢のやはり大きな女神が居る。 印面の中央には聖なる樹木が茂る山頂聖所が建ち、その左斜面に二羽のハト(or 水鳥)が佇んでいる。聖なる枝葉に右手を置いた若い「祭祀王」、あるいは「王子」など尊貴な人物、または活発な「ミノア青年」が今まさに、左手に携えたリュトン杯を山頂聖所に奉納しようとしている。 祭祀王(or王子or青年)の下方は小波の立つ海が広がり、雄牛角U型オブジェを積んだタツノオトシゴの上半身を形容したような舳先の舟を女神(or上位階級の女性)が漕いでいる。一方、右上方には小さな刻みだが、天から別な女神が「四つの聖なるシーン」、聖木の聖所と女神、U型オブジェの聖所と女神、山頂聖所と祭祀王、海と小舟の女神を見守っている。 極めて微細で精緻加工が特徴の、この金製シグネットリングのモチーフは、間違いなく「神出(かみいずる)エピファニー表現」であり、極めて尊貴な人物と女神、聖なる樹木の山頂聖所と三分割聖所、聖なる雄牛角U型オブジェや特徴ある高貴な舟など、非常に高尚にして厳粛な宗教的な情景を印面に隙間なく刻んでいる。 これは過去にクレタ島で発見されているミノア文明の金製シグネットリングではあり得ないほどの濃密な聖なるシーン、表現内容からして王家に深く関わると連想でき、ミノア文明の宝飾品を代表するに相応しい最高傑作の金製リングと言える。 最高位の「エピファニー表現」と右聖所と小舟の女神の履く厚ぼったい感じのミノア風スカート姿からの判断では、この金製シグネットリングの製作は、ミノア文明が最も繁栄した「花ほとばしる新宮殿時代」の前半、中期ミノア文明MMIII期~後期ミノア文明LMIB期・紀元前1600年~紀元前1450年と断定できる。 クノッソス宮殿遺跡外・王家の邸宅Royal Villa からの出土品 準宮殿様式・水差し クノッソス宮殿遺跡・東入口の周囲林の北東の方向、農道の右下(東側)に残るクノッソス宮殿の尊貴な王族や祭司などが居住した、王家の邸宅Royal Villaの遺構からは、準宮殿様式の美しい器形の水差しが見つかっている。 特徴的な長い頸部と注ぎ口、楕円形状のハンドル、肩部の絵柄には抽象化されたパピルスの花、腹部に横帯線無地のスペースを活かしたデザイン、後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年の作品である。 ![]() 出土遺跡:クノッソス宮殿遺跡・王家の邸宅Royal Villa 表現:準宮殿様式・美形の水差し・抽象化のパピルスの絵柄 年代:LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年 展示:HAM 現地:クレタ島・中央北部 描画:大久保栄次 GPS:35°17'57''N 25°09'52''E/標高80m ---------- ![]() |
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