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● 大聖堂ドーモ フィレンツェ Firenze(英語=フローレンス)の街の中央に高く構える聖母マリア大聖堂 Cattedrale di Santa Maria del Fiore は、「ドーモ」の名称で知られている。外観に青・赤・白の大理石を使ったゴシック様式と初期ルネッサンス様式の壮麗・優美な建物である。UNESCOは大聖堂ドーモを含めたフィレンツェ市街の歴史的な建築・建造物を世界遺産に登録している。 世界遺産/フィレンツェ・大聖堂&朱色の屋根の旧市街/1972年・夏 大聖堂ドーモは全長150m以上、幅は最大90m、高さは100m以上、13世紀末に建造が始まり、ローマ教皇エウゲニウスW世により1436年に献堂式が執り行われ、その後数世紀にわたって西正面部の改造や再建を初め、色々な箇所の増築が続けられた。 見上げる壮麗な西正面部、高い天井のドーム内部を飾る「最後の審判」のフレスコ画、「聖母被昇天」や「受胎告知などの見事な無数のステンドグラス群、そして大理石の床面に圧倒され、あるいはドームの高さ90m部分や高さ80m以上の鐘楼(塔)へも各々400段以上の階段で登ること(拝観)ができる。 また、大聖堂ドーモの正面に建つ八角形容の建物は、大聖堂と同じような大理石で造られたロマネスク様式のサン・ジョバンニ礼拝堂で、「天国の門」などの銅製の扉がツーリストのカメラ被写体となっている。 街のシンボルである大聖堂ドーモだけでなく、周囲をトスカーナ・ワインのブドウ畑に囲まれた「ルネッサンスの都」であったフィレンツェは、チェコのプラハやスペインのトレドなどと同様に、「ヨーロッパで最も美しい都市」の一つに数えられている。 街全体が屋根の色と同じ鮮やかな朱色一色に染まり、郊外を含めると170か所、市街地区だけでも70か所の博物館・美術館が在るとされるフィレンツェの街は、「生きた歴史の証人」そのものの様相である。 ------------------------------------------------------------------------ ● アルノ川のヴェッキオ橋(下コラム参照/下写真) アルノ川に架かる多くの橋で最も有名なのは、橋と「商店街」が合体化されたユニークな多層構造のヴェッキオ橋 Ponte Vecchio であろう。14世紀、洪水で流された後に2脚の石造の大アーチ構造で再建された橋の上には、当初肉屋など日常品の出店が軒を連ね庶民が利用する普通の橋であった。 しかし、16世紀になって橋の上の出店部分のさらに上層に、川の南側に建つピィティ宮殿 Palazzo Pitti と北側にあるヴェッキオ宮殿 Palazzo Vecchio とを結ぶ統治者メディチ家の「通廊層」が増築された。それを機会に下層部の商店は金銀細工の工房などに入れ代わり、現代でも間口の狭いジュエリー・ショップが連なり、足を止めたツーリストでたいへんと賑わっている。なお、メディチ家は言わずと知れたボッティチェリなどルネッサンス芸術とアーチスト達の最大の擁護者パトロンであった。 世界遺産/フィレンツェ・アルノ川とヴェッキオ橋/1972年・夏 |
● イギリス映画≪眺めのいい部屋 A Room with A View≫/1986年作品 イタリア全土を眺めて見ると、人気のミラノやローマなどでなく、何をさて置いても「ルネッサンスの都」であるトスカーナ地方フィレンツェの、圧倒する美観は群を抜きほかに競う街はない。街を二分する黄緑色のアルノ川に架かる有名なヴェッキオ橋、その南岸のピッティ宮殿広場やミケランジェロ広場の丘から眺望(トップ写真)する屋根が朱色に染まったフィレンツェ旧市街は、中世以来、変わらぬ美しさを誇る。 かつて1972年の初夏、初めてこのフィレンツェを訪れた若かった私は丘に立ち、(ずーと内緒にしてきたが)街のあまりに美しい景観に感極まり、独り涙を流しながら眺めた記憶を今でも大切にしている。 1986年作品・イギリス映画≪眺めのいい部屋≫の冒頭タイトルバックに流れるプッチーニ作曲・オペラ喜劇≪ジャンニ・スキッキ≫のアリア≪私のお父さん≫では、田舎者スキッキの娘ラウレッタが、「私、(富豪の息子)リヌッチョと結婚できないなら、ヴェッキオ橋(上写真)からアルノ川へ身を投げるから・・・」と、アルノ川とヴェッキオ橋を心打つ美しい旋律で歌っている。 また、1900年代初めのイギリス貴族の邸宅や生活、教養や伝統文化を含め、手抜きのない映像美で描きアカデミー賞を受賞したこの映画のラストシーンでは、トップ写真と同じ、フィレンツェ旧市街の朱色に染まった屋根の家並み、遠景に西日を受けた大聖堂ドーモとロマネスク様式ヴェッキオ宮殿の塔が一段と高くそびえる、穏やかで美しい光景が背景描写される。 そして、映画では、ロンドン郊外の良家の令嬢ルーシーと恋人ジョージが、かつてフィレンツェ郊外トスカーナのポピーの花咲く淡い緑の麦畑で交わした「強引なキス」ではなく、二人の想い出の場所、アルノ川の南岸のヴェッキオ橋の直ぐ近く(撮影=上写真の左端の建物)にある老舗ペンション「ベルトリーニ」の≪眺めのいい部屋≫の窓辺で、本物の愛を確かめ合う濃密なキスを交わす・・・ |
● ピサの斜塔 ピサ Pisa は11世紀〜13世紀頃に商業都市として繁栄を享受して、フィレンツェと同様にルネッサンス文化の花開いた町の一つでもある。「ピサの斜塔」で名高いこの建造物は、1173年に起工されたが、既に建設中に傾き始めたと言う。斜塔のある区画は開放的な非常に広い空間で、塔には白大理石の美しいロマネスク様式の大聖堂や礼拝堂も隣接されている。 世界遺産/ピサの斜塔と大聖堂/1972年・夏 ピサの町自体は、典型的なイタリアの中規模で混沌とした町の印象を受けるが斜塔を含めたイタリア・ロマネスク様式の大型建造物が集中するこの広い区画は、建物の白大理石に完璧にマッチした鮮やかな緑色の芝生とが美しいコントラストをつくり、別世界を形成している。 ピサの斜塔に登るチケットは聖域のチケット・センターでも購入できるが特に観光シーズンとなる夏季にピサを訪れる場合など、事前にネット予約も可能である。 |
● 初めて「パスタ」を食して 1970年代初め、恥ずかしながら日本で茹でたジャガイモをマヨネーズで和えた「マカロニ・サラダ」しか知らなかった田舎育ちの私は、フィレンツェでガーリックの香りととろけるほどに美味しいトマト・ソースを使った本物のパスタ料理を人生で初めて食することになる。 この時、立ち寄ったフィレンツェの裏通りの食堂の年配シェフから、初めて「パスタ」という単語を教えてもらい、マカロニ(マッケローニ)やスパゲティがすべて「パスタ」に含まれることを知った。あの時の「パスタ」を知った感激とその味は、今でも私の脳裏と舌先に「iPS細胞」の遺伝子DNAとなって鮮明に刻印されている。 なお、ナポリを中心とした手で生地を伸ばして焼き上げる伝統的な「ピザ職人技術」は、2017年12月、UNESCO・無形文化遺産に登録された。 ----------------------------------------------------------------------- ● 「斜塔のピサ」と「焼いたピザ/ピッツァ」の誤解 同じような経験論だが、1970年代初め頃、日本ではまだ「ピザ/ピッツァ」という窯で焼いたイタリア系の手頃で旨い食べ物が一般に知られておらず、当然、流行から程遠い田舎で育った私はピザを食した経験がなく、実際に現物を見たこともなく、その単語の存在さえも私の頭脳の単語集にないまま、ドイツ〜スイス経由で現地イタリアへ独り入国した。 夏が始まった5月中旬、地中海の活気ある港町ジェノバ Genova からローカル列車に乗り、大理石産地で有名なカッラーラ Carrara を横目で眺めながら、斜塔のピサ Pisa へ移動した時、2等コンパートメントで自分のオフクロと同年輩、50代の三人の陽気なイタリアのセニョーラ達(オバサン・グループ)と同室した。 しばらくして、「若いセニョール(お兄さん)、何処まで行くの?」と問われた私は、「斜塔のピサ」と「窯で焼くピザ/ピッツァ」との区別もあやふや状態で、しかも真面目に「ピザ Pizza まで行く!」と答えてしまった。 そうでなくとも話好きの陽気な中高年のセニョーラ達は、私の「答」に言葉通り腹を抱えて大笑い状態。何の騒ぎかと隣のコンパートメントの年配のオジサン・セニョールや若者セニョール達まで覗きに来る始末。 そして、セニョーラ達の私の「答」に輪をかけた大げさな説明に、笑いの渦はさらに巨大トルネードと化し、状況が錯綜して把握できずに取り残された私だけが、その笑いの「意味」を理解できないという、「何が? どうしたのか? 何が可笑しい? ピザ Pizza がそんなに変か? エッエッ・・・」、私の精神は混乱して、梅雨末期の集中豪雨状態となった。 丁度昼時でもあり、あまりの可笑しさに流れた涙を拭き、笑いをこらえた若干太めのセニョーラ達は、持参した大きなバッグの中から、手作りのピザ/ピッツァやバルマ地方産の硬いチーズ、薄切れ生ハムなどを取り出し、私にこう説明したのである; --- 日本の若いセニョール(お兄さん)、良く聞いて! これがピザ/ピッツァ Pizza よ。セニョールが向かうのは斜塔のピサ Pisa の街だからね。ピサの街は食べられないよ。食べるピザ/ピッツァはこれ、ハイどうぞ召し上がれ ブオナッペティート Buon Appetito! 日本から来た若いセニョール!--- まるで優しき母親が愛しの息子を諭すように、笑顔のセニョーラ達はそれぞれ手作りピザ/ピッツァやチーズなどを貧乏な旅にある若い私へ渡してくれたのである。私の記憶が正しければ、時は1972年5月13日か、あるいは翌14日、イタリア中部・トスカーナの眩しい初夏の昼過ぎの事であった。 その後10年あまり経過した1980年代後半になり、日本にも「イタ飯ブーム」が到来して、イタリアン料理が極普通のポピュラーな食べ物となり、今日、誰でも抵抗感なく美味なスパゲティやピザ/ピッツァを味わっている。 時が経った現在、私が赤唐辛子を描いた真っ白なプレートに盛られたイタリアン料理を目の前にする時、誰にも悟られることなく必ず秘かに回想するのが、1972年の初夏、初めて実感する明る過ぎるトスカーナの陽光に輝く地中海での「恥ずかしき経験」である。 それは波打つ丘陵地帯をのんびりと南下するローカル列車内での「斜塔のピサ」と食べる「ピザ/ピッツァ」との誤解、そしてすべてを暖かく包み込んでしまう三人の陽気なセニョーラ達から頂いた食べ切れないほどの美味しいイタリアン・ピザ/ピッツァの「家庭の味」でもある。 私は「ハイどうぞ召し上がれ ブオナッペティート Buon Appetito!」と、イタリアン・セニョーラ達の優しい言葉を受け取った1972年の初夏のこの小さな出来事を回想する度に、今でも胸に熱いものが流れる。 それは今は亡き大正生まれの我がオフクロへの回想と同じく安心が絶対的に保障された母親だけが放す「優しい温もり」への郷愁心である・・・ |