legend ej の心に刻む遥かなる「時」と「情景」

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ボヘミア地方 コノピシュテ城 Hrad Konopiste

カルルシュテイン城 Hrad Karlstejn


コノピシュテ城

ボヘミアの美しい森に佇む優美な城
プラハから南南東へ約40km、豊穣なるボヘミヤの広大な平原に小さな町ベネショフ Benesov がある。ベネショフにはプラハから南方ターボルやチェスケー・ブデヨヴィツェへ至る幹線鉄道の駅があり、町の西方にはブナやトチの大木、白樺などの混在するボヘミア特有の広葉樹の深い森が広がっている。

東西2km 南北に1.5kmほどの起伏の少ない森の中には、所々に切り開かれた明るい草地が点在して、時折森を貫く遊歩道を散策する人の姿が見える。ここはボヘミアの典型的な静かな美しい森だ。町から約2km西方、鬱蒼とした森の中に優美なコノピシュテ城 Hrad Konopiste が静かに佇んでいる。

城から100mほど西方には細長くカーブする湖があり、湖面に映るコノピシュテ城の白い壁面と朱色の屋根のコントラストは上品であまりに美しい。コノピシュテ城や後述のカルルシュタイン城などは、首都プラハから週末の丁度良い日帰り旅行の最適なスポットである。

コノピシュテ城 Konopiste, Czech/(C)legend ej
               コノピシュテ城/ボヘミア地方/描画=Web管理者legend ej


コノピシュテ城の歴史/第一次大戦の勃発
コノピシュテ城は、13世紀の終わり頃、ベネショフの街の防衛城砦としてゴシック様式で創建された。その直後の14世紀初期にフレンチ・ゴシック様式に改造され、以降、中世チェコの混乱の歴史の中で複数の所有家が変わり、その度に建築様式の変遷を経て来た。15世紀には城館シャトーとしての姿が整えられ17世紀にルネッサンス様式、そして18世紀になるとバロック様式で造り直された。

19世紀の後半になり、城の「最後の居住者」となったのが、オーストリア・ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフT世の甥であり、皇位継承者であったオーストリア・エステ家の大公フランツ・フェルディナント Franz Ferdinand であった。
フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィーは、1914年6月28日、当時オーストリア・ハンガリー帝国に併合されていたボスニアのサラエボを訪れた。その日はセルヴィア人の重要な祝日の「聖ウィトゥスの日」であり、また偶然に大公とゾフィーの結婚記念日でもあった。

オーストリア・ハンガリー帝国に対して強い不満と反感があったサラエボ市内を視察中のこの日、大公とゾフィーの乗るオープンカーはセルヴィア政府と軍が関与していたとされる民族主義組織の青年に襲われ、二人はピストルで暗殺されてしまう。
この「サラエボ事件」を契機に、オーストリア・ハンガリー帝国はセルヴィアへ宣戦布告、以降1918年まで4年の間、ヨーロッパとアフリカ、中東、南洋〜インド洋、日本を含む世界は「「第一次大戦」の暗雲に覆われる(第一次大戦の詳細=下記コラム)。


フェルディナント大公の城
コノピシュテ城の最後の居住者フランツ・フェルディナントは、元々オーストリアの貴族であったが、ハプスブルグ家の皇位継承者が次々に亡くなるなど、複雑な「御家の継承問題」が生まれ、フェルディナント大公が皇位継承の候補者となった。
大公の妻ゾフィーはチェコ王妃の女官をしていた女性で、身分の差があるその秘めた結婚は、当然のことに高貴なハプスブルグ家系の仕来りからして「望まれた」ものではなく、本家のウィーン貴族社会からも冷ややかな目で見られ、妻ゾフィーへの当て付け的な王侯貴族特有の「いじめ」さえも多々あったとされる。

暗殺で51歳で亡くなるまで、フェルディナント大公は生涯にわたって狩猟を好み、現在、コノピシュテ城内には大公が射止めた無数の獲物の剥製(はくせい)を飾る廊下を初め、コレクションした武器刀剣類が所狭しと展示され、アンティックな家具類、精緻な織りのタペストリー、優美な壁画や大公家族のプライベートな写真などに囲まれた広間サロンなどをガイド・ツアー形式で見学できる。

コノピシュテ城は白壁の円筒形でトンガリ帽子風の朱色の三角屋根の高い塔を備え、全体の平面視野では明るい中庭を持った二つの正方形の建物がつながったような長方形の形容(約90m x 約60m)、内装は主にバロック様式、外観は均整のとれたルネッサンス様式の四階建て(屋根は5階)である。ボヘミアの静かな森に佇む清楚で美しい城である。
城のある森の面積は広大だが、城の南側にある付属の庭園が若干狭く、建物の周囲に芝生などのスペースもないことから、城の直ぐ近くまで森の大木の葉枝が迫り、外観全体を上手に写真に収めるには結構難しい。が、木々の濃い緑と白壁と朱色の屋根のコントラストは必見の価値がある。

思うに、花で飾ったフランス式庭園や広い芝生の空間などは、自然と森と狩猟をこよなく愛したフェルディナント大公の嗜好に合わず、あえて城の周りに空間を設けずに、湖と深い森と住まいの城とを同居させ、自然との一体化を意図したのではないだろうか。あるいは城の周りの地形的な理由なのであろうか?

なお、大規模ではないが、「ローズガーデン」と呼ばれる幾何学的な庭園は城から南東へ200mほど離れた森の中にある。城から離れているガーデンは珍しい配置かもしれない。

Ref.
ドイツ・プロイセン王国〜サラエボ事件〜第一次大戦〜パリ講和会議〜ヴェルサイユ講和条約
「フランス革命」の後、18世紀の終わりから19世紀の初め、政権を掌握したナポレオンT世の「第一帝政」のフランス軍は、兵力が150万人に増強され、イタリアに始まりエジプト遠征から遠く対ロシアまで連続的な「ナポレオン戦争」を繰り広げた。
「ヨーロッパ統一」を旗印に20年間にわたって続けられた「ナポレオン戦争」では、当初、戦線を拡大する時期は優勢であったが、ナポレオンT世の失脚からフランスは連続的に大敗、結果、周辺諸国のナショナリズムを高め、イギリスなどの覇権主義を助長することとなった。

1860年代になると、スペインの「王位継承問題」が起こり、ドイツ・プロイセン王国系譜のホーエンツォレルン候レオポルドがスペイン国王に推挙されることで、実現となると東西をプロイセン貴族が治めるという、地政学的な国家危機としてナポレオンV世の「フランス第二帝政」は強く反発、1870年、対ドイツとの「普仏戦争」が勃発する。

10か月間続いた戦争は、北ドイツ連邦や南部のバーデン大公国とバイエルン王国などと同盟関係を結び、動員兵力に勝ったドイツ・プロイセン軍の圧勝となり、翌年1871年に戦争終結となる。
敗戦した「フランス第三共和政」はプロイセン王国から請求された巨額の戦争賠償金だけでなく、当時のフランスの鉄鉱石の80%を産出していたアルザス・ロネーヌ地方を失う結果となり、国の政治力も経済力も大きく後退する。

ヨーロッパの大陸で最強となったドイツ帝国と海洋で覇権を握っていたイギリス大英帝国との対立姿勢は鮮明となり、ドイツはオーストリアとイタリアとで「三国同盟」を、対抗するイギリスはドイツ包囲網としてベルギーの独立と中立を保障、フランスやロシアなど周辺国や日本ともの同盟関係を次々に締結する。

そんな中、オーストリア・ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフT世の甥であり、皇位継承者でもあり、プラハの南南東40kmにあるボヘミアの優美なコノピシュテ城(上描画)に居住していたオーストリア・エステ家の大公フランツ・フェルディナントと妻ゾフィーが、1914年6月28日1908年の帝国併合に対して強い不満と反感が渦巻くボスニア・サラエボ市内を視察中、民族主義組織の青年に襲われ、二人はピストルで暗殺されてしまう(サラエボ事件)。

怒ったオーストリア・ハンガリー帝国はセルヴィアへ宣戦布告、ドイツ帝国は同盟関係のオーストリアを支持、一方、セルビアを擁護するロシア帝国は国内に総動員令を発令、続いてドイツは「ビスマルク秘密・保障条約」を結んでいたロシアへ、さらにロシアと同盟関係にあったフランスへも宣戦布告を行う。
こうして続け様に大国による「危険なゲーム」の切り札が出され、以降1918年までの4年間、世界はドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリアの「同盟国」、対してイギリス・フランス・ロシア・アメリカ、後に日本・カナダ・オーストラリアなども参加する「連合国」とが戦う「第一次世界大戦」の暗雲に覆われる。

開戦時、1914年8月、ドイツ軍はベルギーとルクセンブルグへ進撃、これに対してイギリスはドイツへ宣戦布告して「西部戦線」の戦いが始まる。イギリスの海上封鎖はドイツの工業生産と食糧事情に大きな影響を与え、対してドイツ軍はUボート潜水艦でイギリス船舶の撃沈作戦を実行、ポーランドを巡り、ロシア軍のドイツへの攻撃も始まり、激しい「東部戦線」の戦いもスタートした。

一方、親独派の中東トルコ・オスマン帝国軍はロシアからの宣戦布告を受け攻撃を開始、ブルガリアもドイツの同盟軍に参加した。「三国同盟」のイタリアは同盟を破棄して「連合国」へ鞍替って戦争に参加する。≪アラビアのローレンス少佐≫の舞台、中東ではイラクやパレスチナへも戦線が広がり、イギリスの後ろ盾のアラブ諸族軍と支配者であったオスマン帝国軍との戦いが行われた。

さらにドイツの植民地があった西アフリカ、そしてドイツ人とイギリス人が利権を争っていた南アフリカまで戦線は拡大され、一方、「大正時代」が始まった日本は。「日英同盟」のイギリスから中国大陸への参戦を要請され、大正天皇の帝国陸軍とイギリス軍はドイツ極東艦隊の本拠地であった中国・青島チンタオへの攻撃を開始、南洋諸島ではイギリスの同盟国オーストラリアとNZが参戦してくる。

そうした中、1917年3月、北方の大国ロシアで共産主義・「ロシア革命」が起こり、3世紀続いたロマノフ王朝が崩壊、ロシア国内は混乱、その隙を突きドイツ軍はモスクワ郊外まで進軍して休戦となる。東欧では「連合国」を支持したルーマニア軍の降伏で「東部戦線」は事実上終了となるが、1917年4月にアメリカが「連合国」として参戦することになり、「西部戦線」は激烈な戦いの場と化す。

「西部戦線」では、東フランス・アルザス地方からベルギー海岸まで長い防衛ラインが設定され、新たに開発された機関銃・迫撃砲・毒ガス・戦車、さらに攻撃機が初めて投入され、一進一退の塹壕の持久戦が繰り広げられた。その後、1918年3月、膠着状態であった「西部戦線」ではドイツ軍がフランス首都へ迫り、巨大な「列車砲」がパリ市内を攻撃しパリ市民は脱出する混乱となる。
しかし、その後、強力なアメリカ軍の猛攻が始まり、ドイツ軍は徐々に後退、戦争の主導権は「連合国」へ傾いて行く。

第一次大戦の激戦地の一つ東フランスのアルザス・ワイン街道の村:

       「第一次大戦」の激戦地・ハルトマンズヴィラーコフの丘/(C)legend ej
     ハルトマンズヴィラーコフ・「第152ライン歩兵連隊」の記念碑       塹壕と陣地
  第一次大戦の「西部戦線」の激戦地・ハルトマンズヴィラーコフ/東部フランス・アルザス・ワイン街道の村々

終戦の年1918年の春以降、ドイツの敗戦の色合いは濃厚となったことで国内に混乱が始まり、「ロシア革命」の影響から労働者のストライキが頻発、帝国政治から議会政治への流れが急加速、君主制の廃止、軍兵士の反政府運動さえも発生する有様となる。

1970年代 装飾のないヴェルサイユ宮殿・鏡の間/(C)legend ej 立憲君主制の導入と王政打倒の動きが活発となり、とうとう
 「ドイツ共和国宣言」が出され、本人の同意なしに皇帝退
 位が宣言され、ドイツ皇帝ヴィルヘルムU世はオランダへ亡命
 する。

 その後、1918年11月、ドイツと「連合国」との「休戦協定」
 が結ばれ戦争が終結する。「同盟国」と「連合国」、双方の
 戦闘に参加した将兵の死者は約1,000万人、行方不明
 者700万人以上を出す、それまでの人類史上で最大犠牲
 の戦いは終わる。
 「パリ講和会議」の後、ヴェルサイユ宮殿で「ヴェルサイユ講
 和条約」が締結され、オーストリア・ハンガリー帝国の解体、
 トルコ・オスマン帝国とロシア帝国も解体され、東欧や中東
 に複数の独立国が出現する。



「ヴェルサイユ条約」が締結されたフランス・ヴェルサイユ宮殿
飾りのない「鏡の間」/パリ郊外/1972年・秋

プラハ城&マラー・ストラナ地区 Praha/(C)legend ej
                  プラハ城と美しいマラー・ストラナ地区/チェコ共和国首都
                  世界遺産/歴史を秘めたチェコの美しい首都プラハ

カルルシュテイン城

美しい形容の城砦
カルルシュテイン城 Hrad Karlstejn はプラハから南西へ直線で25km、コノピシュテ城と並んで首都から日帰りトリップの代表的なスポットの一つで、プラハ発の「カルルシュテイン半日観光」などの現地オプショナルツアーも企画されている。個人ツーリストではプラハから頻繁に発着するチェコ国鉄の列車利用ができる。
城のあるカルルシュティンの村は、プラハへ流れる大河ヴルダヴァ川へと合流するベロウンカ川 Berounka の北側へ500mほど深い渓谷を入った狭い場所である。

国鉄駅から村へは橋を渡り、渓谷へ分け入る。カルルシュティン城は村の北側200m、緑濃いボヘミアの森を抱くこの渓谷に突き出たような尾根の上に、14世紀、ボヘミア王であり、神聖ローマ皇帝でもあったカールW世(ボヘミア王=カレルT世)が建てたゴシック様式の城砦であり、壮大で優美な城館シャトーでもある。

          カルルシュテイン城/(C)legend ej
                       カルルシュテイン城/ボヘミア地方

カルルシュテイン城は険しい石灰岩質の崖の上に建てられ、周囲を鋸歯状の低い城壁が囲み、美しいだけでなく戦闘と防御の構造をも兼ね備えている。城館のほかにマリア礼拝堂と聖堂、半宝石が埋められた壁面と100枚以上の聖人画などで美しく装飾された聖十字礼拝堂などを見ることができる。また渓谷の丘に佇むその魅力的な姿からか、城内で結婚式を挙げるカップルも少なくないとか。

訪ねた初秋の9月、天候が変わり易く、今まで晴れていたカルルシュテインの空が急変して、深い森と丘陵地帯に真っ黒な雨雲が広がり始め、遠くで雷鳴がとどろいている。丁度中世ボヘミアの歴史のようにカルルシュテインの空は、安定の晴れ間と混乱の雷雲の交錯する複雑な様相を呈していた。

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