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ゲーバーシュヴィール Gueberschwihr〜プファフェンハイム Pfaffenheim〜ロウファッハ Rouffach ヴェンハイム Wuenheim〜グラン・バロン山 Mt Grand Ballon〜ハルトマンズヴィラーコフHartmanswillerkopf タンThann〜ヴィッテルスハイム Wittelsheim〜カリ鉱山 Mine de Potasse〜オットマールスハイム Ottmarsheim |
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アルザス・ワイン街道・イッタースヴィラー村/キレイな花を飾る家 |
位置: コルマール⇒南南西14km 人口: 4,500人/標高: 210m 「フランス 花咲く町と村」: http://www.villes-et-villages-fleuris.com/ アルザス・ワイン街道・ロウファッハ旧市街/花を飾る泉水(井戸) 遠方は豊穣なブドウ畑/アルザス地方 ● ロウファッハの歴史 5世紀、ロウファッハはメロヴィング朝フランク王国の北東地方(フランス東部・ベルギー・ドイツ西部)を占めたアウストラシアの領地で王ダゴベルトU世(Dagobert II 聖人 650年〜679年暗殺)が旧市街の北側、標高225mの小高い丘に「シャトー・ディザンブール城館 Chateau d'Issembourg」を建てた。 7世紀以降のロウファッハは、城館も含めストラスブール司教の管理に置かれ、エグイスハイムや少し南方のゾウルツ Soultz などと並んでライン中流区域で最重要な場所となった。この頃、ロウファッハ旧市街の西方の斜面、今日のアルザス特級ワイン・グラン・クリュ指定ブドウ畑、標高300m付近、南北2km、約74haの「Vorbourg」に相当するエリアで、早くも司教区のワイン・ブドウ畑が耕作されていた。 7世紀には、「昇天の聖母マリア」の教会堂が建つ現在のロウファッハ旧市街の中心部は、限定的な小規模な城壁で囲まれたいたと推測されている。その後、ストラスブール司教によるロウファッハの街の本格的な城塞化が進み、丘のディザンブール城館を頂点に、平面視野では「歪んだ風船」か「洋ナシ」の形容の「第二次の城壁」が造られた。 しかし、12世紀に入り、聖オディールのホーエンブルグ女子修道院が占拠されたのと同様に、先ず1106年、後の神聖ローマ帝国・皇帝となるドイツ王ハインリヒX世の攻撃があり、その後、1198年、シャヴァーベン公フィリップ(ドイツ王 1178年〜1208年)の攻撃でディザンブール城館と市街が破壊され、公国の支配は13世紀の間ずーと続く。 13世紀に入り、ロウファッハ市街では「第三次の城塞化」が行われ、北西部に北城門(1287年)、西方の山の方角には西城門(1300年)、南方へ抜ける南城門(1346年)と南東部には小型の南東城門(1250年)、そして街のメインゲートとなる東側には東城門(1334年)が造られ、シャトーの足元を除き、城壁の周りには深堀も設けられた。 14世紀の後半、1380年、ストラスブール司教は城館の再建、外敵の攻撃からのさらなる防御のために、北城門〜西城門〜南城門に至る城壁の外周部に「第四次の城壁」を建設した。これにより市街の約半分は、コルマール北方の「フランスの最も美しい村」リクヴィールがそうであったように「二重の城壁」に囲まれ、過剰に強化された防御体勢が取られた。神聖ローマ帝国の支配は続くが、ルネッサンスの15世紀〜16世紀、ロウファッハはワイン生産とストラスブール司教の擁護の下でコルマールの繁栄に並ぶほどの黄金時代を迎える。 しかし、ロウファッハの繁栄はその後の中世の混乱に翻弄されることになる。16世紀には中央ヨーロッパと同様にカトリック教徒からプロテスタント派へ改宗する人々が続出、17世紀になるとカトリック教会とプロテスタント派との「三十年戦争」が勃発、1633年、フランス支持の好戦的なスウェーデン軍の攻撃で街は大きく破壊された後、ストラスブール司教の判断により、ロウファッハは神聖ローマ帝国からフランス王国の支配下に入る。 近世のロウファッハは良質ワインの生産を中心に、さらにケーキの香り付けに使われるサクランボの発酵・蒸留で造られるリキュール・「キルシェヴァッサー」など、農業生産で再び繁栄を獲得する。 ------------------------------------------------------------------------ ● 数多くのフランスの「歴史的建造物」が残るロウファッハ旧市街 都市開発でかつて旧市街を取り囲んでいた中世の城壁は、今日でも見ることのできる南東部を残して、19世紀の初めにほとんど撤去された。さらに完全に埋め戻された深堀は草地となった南東部を除き、多くは住宅地へ転換されている。なお、丘のディザンブール城館の周辺斜面には城壁の名残りと三つの小塔が残されている。 旧市街の南東部、かつて小型の南東城門が在った場所の外側には、現在「ワイン&農業技術センター」があり、城門から市街へ入ると直ぐに「昇天の聖母マリア」の教会堂と共和国広場 Place de la Reoublique となる。 トランセプト部の上部に高さ68mのゴシック様式の尖塔を備える教会堂は、11世紀に遡るロマネスク様式から、1841年以降、地元産のベージュ色砂岩を使ってゴシック様式へ再建された。良く見ると所々に色違いの石材の再使用が確認でき、身廊壁面と塔に目立つ「まだら文様」を否定できない。 しかも、西正面ファサードと付属する南北の塔については、高い北塔は確実に荘厳なゴシック様式で建てられているが、現在でも南塔は「未完成」と言え、かろうじて時計台の役目は果たしているが身廊の屋根とほぼ同じ高さのままである。この「違和感」について、歴史学の研究者は、北塔が完成した後、1870年に始まるドイツ・プロイセン王国との「普仏戦争」に至り、翌年フランスが敗退したため、南塔は中途半端で作業が終了してしまったと述べている。 一方ロウファッハの歴史に詳しい地元の年配者の話では、どうも外観をストラスブールの大聖堂を真似て建てたことで予想外に費用がかさみ、結果、「予算不足」が生じてしまい南塔の完成が難しかったと語っている。どの判断が正解なのか、私には想像の域である。 身廊と西正面の大型ロゼッタ窓(バラ窓)、17世紀のパイプオルガン、高さ150cmの金色の王冠・杖・衣装の16世紀作の聖母子像や説教壇などの内部装飾も含め、教会堂はフランスの「歴史的建造物」に指定されている。なお、「ロウファッハ観光局」は教会堂の後陣の東側、共和国広場12A番地である。 「昇天の聖母マリア」の教会堂のほか、中世の初期から歴史に彩られたロウファッハの旧市街には、数多くのフランスの「歴史的建造物」に指定されている史跡がある。特に教会堂の東側〜南側の旧市街エリアに古い建物が集中している。 共和国広場の南側、門の奥に古い建築用語・「いらか段付き」、一般用語で言えばギザギザの「階段状破風」の正面ファサードに特徴がある、サイド切妻屋根の城館のような四階建て建物が二棟並んで残されているが、これは旧町役場である。なお、現在の町役場 Hotel de Ville は教会堂の西正面の西側、1831年建造、ネオ・ルネッサス様式の二階建ての建物である。 共和国広場の西側を占める切妻屋根でベージュ色の砂岩造り、やはり正面ファサードが凝ったギザギザの「階段状破風様式」、左右から二階へ昇れる両面階段(1924年)を設けた三階建ての建物は、1524年起源、1568年に改築された倉庫を兼ねる旧穀物取引所 Halle aux Bles で、1818年〜1960年までは小学校として使われ、現在、ロウファッハの地方博物館となっている。 また、共和国広場を挟んで、地方博物館と相向かい合う(東側)壁面がややピンク系ベージュ色の二階建ての大型建物は、かつてストラスブール大聖堂の聖堂参事会員トップの邸宅であったが、1778年以降、カトリック教会の司祭館となっている。 さらに、旧町役場の西隣、博物館の南側にあるピンク色の壁面の建物は、現在、「レストラン Haxakessel」となっているが、かつて中世の時代には教会堂の建設の石工達が居住したとされ、玄関を兼ねる半円アーチ型の窓間の切石には「1490年」の刻みが確認できる。 レストランと旧役場の間の狭い路地の奥には、尖塔にコウノトリの巣がある14世紀起源の方形の高い塔が見える。南側(市街の外側)から眺めると旧役場に付属している塔の下部は円形を示し、かつて城壁を構成する見張り塔として建造されたもので、地元ではこの塔を「魔女の塔 Tour des Sorcieres」と呼ぶ。中世の時代には塔が牢屋として使われたとされる。 「昇天の聖母マリア」の教会堂から西方へ100mほど、町役場前を通過する市場通り Rue de Marche 2番地、半切妻屋根の四階建ての建物は20世紀に改築され、現在はケーキショップだが、フランスの「歴史的建造物」に指定されている。 この建物の半円アーチ型ドアー(1616年起源)の前(西側)で、東城門〜西城門を結び市街を東西に貫くメイン通りのルフェーヴル元帥通り Rue du Marechal Lefebvre(下記コラム)が斜めに合流する小さな空間は、「第一次大戦」で連合国側の全権代表としてドイツとの休戦協定をまとめた、フランス軍フォッシェ元帥の名を取った広場 Place du Mar. Foch である。 三角形の広場には古い泉水(井戸)が残され、訪れた2014年の夏、西遠方にロウファッハの歴史を見てきた豊穣なブドウ畑の斜面を望む泉水(井戸)はキレイな花々で飾られていた(上写真)。またケーキショップの東対面の装飾出窓の建物は1663年起源である。 さらに泉水(井戸)の北方80m、中世の建造物ではないが、狭い路地(Ullin 8番地)にある1921年建造のユダヤ教シナゴーク(教会堂 )もフランスの「歴史的建造物」に指定されている。 フランソワ・ジョゼフ・ルフェーヴル元帥(Marechal Fransois Joseph Lefebvre 1755年〜1820年)● シャトー・ディザンブール城館 Chateau d'Issembourg 旧市街の北側、中世城壁を平面視野の「洋ナシ」で例えれば、丁度硬い茎の「花梗」の部分に相当する小高い丘に建つシャトー・ディザンブール城館の「オリジナル」のシャトーは、5世紀の後半、伝説ではアウストラシア・聖ダゴベルトU世王が息子シゲベルグ(ラゼス伯 Sigeberg 670年〜758年)の病気が奇跡的に治癒したことから、そのお礼と敬意でディザンブール城館をストラスブール司教へ譲渡したとも言われている。 その後、ストラスブール司教による所有と居住が続いたが、中世の時代、城塞化されたロウファッハ市街が攻撃を受けたのと同じく、城館も幾度となく攻撃の的となり破壊と再建を繰り返してきた。 18世紀の後半、「フランス革命」の後、ディザンブール城館は国有財産となり民間へ売却され、1822年に古い城館部分は取り壊されたが、幸いにも120mに及ぶアーチ型のワイン貯蔵セラーは残された。 1885年、城館全体は「L字形」で南端に円塔、北端に尖塔を備えたネオ・ゴシック様式の美しい姿で再建され、城館は1974年以降、「☆☆☆☆☆ホテル」として営業を行っている。「昇天の聖母マリア」の教会堂と並び、今日、ディザンブール城館はロウファッハの町のシンボルとなっている。 |
東フランス・「アルザス地方」 Alsace 「アルザス地方」の歴史/「アルザス人」の民族系譜/「アルザス語」 「アルザス地方」の気候と地質 「アルザス・ワイン」とは 「アルザス・ワイン街道」(中部)コルマール周辺/花を飾るコロンバージュ様式の美しい村々 「フランスの最も美しい村」・アルザス・ワイン街道・エグイスハイム村 |
● 「アルザス・ワイン街道」/花を飾る「コロンバージュ様式」の家々 「アルザス・ワイン街道」とは、「ライン下流県」のストラスブール Strasbourg の西方20kmのマルレンヘイム Marlenheim からスタートして、南方の「ライン上流県」のミュールーズ Mulhouse の西北西20kmのタン Thann へ至るまで、直線で100km、道路の総延長で170kmほどの範囲。山岳スイスから流れ出るライン川に平行するヴォージェ山地の東側の山ろくと裾野の地域、正確に言えば、ワインを産する「103か所の市と町と村々」、それらを結ぶ「昔からの道筋」の別称である(下地図=アルザス・ワイン街道・北部〜中部〜南部)。 アルザス・ワイン街道の街と村々の多くの住宅は、この地方が歴史的にドイツの影響を強く受けて続けてきたことから、ドイツ的な「コロンバージュ様式 colombages」と呼ばれる、壁面に柱や梁がむき出した建築施工・「木骨組み造り」に最大の特徴を示す。 また、春から秋の季節、アルザス・ワイン街道のほとんどの家々の窓辺やベランダ、階段やバルコニーには美しい花々が飾られ、さながら中世の風情を呈し遠方から訪れるツーリストの心を癒す。そして、幾つかの村は「フランスの最も美しい村」に指定されている。 アルザス・ワイン街道(ライン下流県)/作図=legend-ej アルザス・ワイン街道(ライン上流県)&「鯉フライ街道」/作図=legend-ej アルザス地方の農道・地方道で見かける標識 標識のある農道・地方道は「アルザス・ワイン街道」 アルザス地方の村々や町の端にある標識 標識のある自治体は「アルザス・ワイン街道」のブドウ栽培とワイン造りの村々と町 現在、フランスには人口2,000人以下の「村」と言われる自治体が約32,000か所あるとされ、そのう ち「フランスの最も美しい村」に認定されているのはわずか172村だけ(2023年現在)である。 「フランスの最も美しい村」: http://www.les-plus-beaux-villages-de-france.org/ 「フランス 花咲く町と村」: http://www.villes-et-villages-fleuris.com/ 「フランス 美しい町100選」: http://www.plusbeauxdetours.com/ アルザス地方の典型的な小さな村、コロンバージュ様式の家々が密集する「フランスの最も美しい村」 ユナヴィール村の聖ヤコブ教会堂/ブドウ畑が「黄金色」に染まる秋の風景は見事な情景である(下描画)。 また、アルザス・ワイン街道の「北部」では、村内の道路が狭いが、16世紀以降の伝統的なコロンバージュ様式の家々が建ち並ぶ、「フランスの最も美しい村」のミッテルベルガイム村がある(下描画)。 アルザス・ワイン街道・ユナヴィール村/秋 聖ヤコブ教会堂の周辺 黄金色に染まるブドウ畑 アルザス地方/描画=Web管理者legend ej 「アルザス・ワイン街道(中部)」 コルマール〜「フランスの最も美しい村」 ユナヴィール〜リクヴィール 南方の平原から「フランスの最も美しい村」・ミッテルベルガイム村を遠望する/アルザス・ワイン街道 赤茶色鐘楼=カトリック教会堂/白色鐘楼=プロテスタント派教会堂 描画=Web管理者legend ej アルザス・ワイン街道 「花咲く美しい村」 アンドー村/描画=Web管理者legend ej 秋の頃 黄金色に染まるワイン用ブドウ畑に囲まれた聖アンドー礼拝堂とブドウ栽培の農家 「アルザス・ワイン街道(北部)」 オベルネ〜ロスアイム〜ミッテルベルガイム〜アンドーなど美しい村々 |
位置: コルマール⇒南南西11km/ロウファッハ⇒北北西3km 人口: 1,350人/標高: 230m 「フランス 花咲く町と村」: http://www.villes-et-villages-fleuris.com/ ● プファフェンハイムの歴史 プファフェンハイムの歴史を紐解くと、遠くケルト文化〜ローマ時代にまで遡り、村のエリアからは多くの遺跡も確認されている。かつて村は「パパンハイム Papanheim」と呼ばれていたことは、周辺の修道院&女子修道院からの聖職者の駐在施設の存在からとされ、村の語源として「司祭の家」を意味する「Pretre/Priest-heim」との関連が指摘されている。 中世には、ストラスブール司教を初め、近郊の、例えばコルマールのドミニコ会ウンターリンデン修道院、バール(バーゼル)の司教、さらにヴォージェ山地の最高峰グラン・バローンの山麓、標高450mの谷間ミュルバック Murbach の修道院などは、競ってプファフェンハイム周辺の豊穣なブドウ畑の占有・管理を行っていた。 中世のプファフェンハイムの重要性は何をさて置いても「ワイン生産」であり、無数のワイン農家と醸造所が稼動していた。また、プファフェンハイムには、今では痕跡も残っていないが、かつて14世紀まで三つのシャトー城砦(プレステネック城砦、フェルテンフェルス城砦、メイエンハイム城砦)が存在していた。 中世〜近世にかけて、豊穣なブドウ畑と城砦の存在は、周辺勢力からの攻撃の的となり、繁栄するプファフェンハイムは合計4回の大きな攻撃を受け破壊を経験している。先ず1338年、ストラスブール司教の管理下にあったプファフェンハイムの城塞化された街と三つの城砦は、神聖ローマ帝国・皇帝ルートヴィヒW世を支持するコルマール市民により破壊されてしまう。さらに1444年、神聖ローマ帝国から激しい攻撃があり、16世紀には1524年〜25年の「農民戦争」でも大きな被害を被った。 プファフェンハイムの最後の攻撃と破壊は、17世紀、1618年〜1648年の「三十年戦争」とそれに続く神聖ローマ帝国との戦争でもたらされる。17世紀はヨーロッパの戦争の時代、カトリック教会とプロテスタント派との宗教戦争である「三十年戦争」では、覇権を争うヨーロッパ全土に破壊の嵐が吹きまくり、アルザス地方のほとんどの街や村々も何らかの攻撃を受け、大きなダメージを被った。 1633年、フランス支持の好戦的なスウェーデン軍にプファフェンハイムを襲撃、兵士が村に駐屯したとされる。「明日の戦い」に備え、兵士達は聖マルタン教会堂の後陣の周りに集合して、一斉に剣を抜き、剣先をベージュ色砂岩の壁面に押し付けて、砥石代わりに研磨したとされる凹みが今でも確認できる。 アルザス・ワイン街道・プファフェンハイム・聖マルタン教会 後陣外壁に残る17世紀の「剣先研磨」の凹み傷 1648年の「三十年戦争」の終結の後、アルザス地方を含め安定したように見えたフランス国内とその周辺では、至る所が領土拡張を企てるルイXIV世のフランス国王軍と神聖ローマ帝国軍との戦いの場に変わりはなかった。国内の「フロンドの乱」の後、「オランダ侵略戦争」が起こり、ライン川流域では大元帥テュレンヌ(子爵アンリ・ド・ラ・トゥール・ド・ヴェルニュ)率いるフランス軍と神聖ローマ帝国軍の戦いが繰り広げられた。 1674年の秋、今日のストラスブール空港付近、「エンツハイム Entzheim の戦い」で勝利したテュレンヌ元帥のフランス軍は、アルザス地方に冬営する。翌1675年、極寒の新年1月5日、コルマール西方のワイン街道テュルクアイムに駐屯した神聖ローマ帝国・ブランデンブルグ選帝侯(皇帝選挙の権利ある貴族)フリードリヒ・ヴィルヘルム軍に対して、兵力3万のテュレンヌ元帥の軍はアルザス平野からではなく、ヴォージェ山地から迂回作戦の奇襲攻撃をかけ「テュルクアイムの戦い」で勝利を収める。 これにより神聖ローマ帝国軍は撤退、フランス王国軍はアルザス地域の奪回に成功する。が、帝国軍を支援し抵抗運動を起こしたライン河畔プファルツ地方を初め、ドイツに傾倒するアルザス・ワイン街道の街と村々に対して、テュレンヌ元帥は報復として2週間の間、焼き討ちや略奪と住民の虐殺を実行した。 なお、後に皇帝ナポレオンT世が「フランスの偉大な天才司令官」と称えるテュレンヌ元帥は、「テュルクアイムの戦い」の後、同年7月、ストラスブールの東北東27km付近、ドイツ・「黒い森地方」で行われた対神聖ローマ帝国軍との「ザスバッハ Sasbach の戦い」で戦死する。結果、アルザス地方へ再び神聖ローマ帝国軍が進攻してくる。 1675年1月、「テュルクアイムの戦い」の前後、プファフェンハイムに駐屯したフランス軍の司令官・元帥テュレンヌが宿泊したのが、村の東端、主要道路D83号の脇、二階建ての青色壁面で邸宅風の建物、「レストラン Petit Pfaffenheim」と言われている。ここは現在でもアルザス地方料理を提供するレストランとして地元で良く知られている。● プファフェンハイム村 主要道路D83号の西側、わずかに東傾斜で広がる今日のプファフェンハイム村は、南北800m 東西400mほど、中世から続く村の旧市街は南北450m 東西300mほどである。中世の時代には村は城塞化されていたが、現在ではその痕跡は確認できない。 村の中央でブドウ畑側、道路より2mほど高い位置に聖マルタン教会堂が建っている。教会堂は中世以降、複数回の大きな破壊を受けているが、後陣(外部)は地元産のベージュ色と赤色砂岩を使った13世紀のロマネスク様式、西側(ブドウ畑側)の墓地へ延びる身廊は1894年に新しく再建され、鐘楼は1974年に建て替えられた。 内陣(外部)の古い石材と身廊部分の洗柿色(あらがきいろ)の表装色彩の異なりが顕著なので、見た目では若干堅苦しい感じを否定できない。東側(村側)へ突き出た内陣の右外壁面には、17世紀、「三十年戦争」の好戦的なスウェーデン軍の兵士達が、毎朝、戦場へ出動する前に、剣先を研ぐ砥石として使った砂岩の壁面の凹み(上写真)が戦いの歴史の強烈な証拠として残されている。 フランスの「歴史的建造物」に指定されている教会堂の内部には、ネオ・ゴシック様式の豪華な祭壇、精緻な彫刻の説教壇、18世紀のピエタ(イエスの遺体に跪く聖母マリア像)、落ち着きのある美しい色彩の衣装の聖マルタンなど三人の聖人像などがある。 村からブドウ畑を越えて北西へ1.7kmほど、標高400mのヴォージェ山地の山腹に建つ15世紀起源、1685年に再建された聖母マリア巡礼のシャーテンブルグ礼拝堂 Chapelle du Schauenberg は、フランスの「歴史的建造物」に指定されている。礼拝堂脇の清楚な修道院は1704年に建てられた。アルザス・ワイン街道の村々の展望が抜群に素晴らしい礼拝堂の脇には、現在、参拝者とハイカーのためにレストランも営業している。 プファフェンヘイムのアルザス特級ワイン・グラン・クリュに指定されたブドウ畑・「Steinert」は、村の南西、標高250m〜山際380m付近の約39haである。その土壌はほとんど乾燥した石灰岩質で、主としてゲヴュルツトラミネール種やトカイ・ピノ・グリ種、そしてリースリング種とされる。 また、12世紀にはスイス・チューリヒの南西の壮大なムーリ Muri 女子修道院を初め、バール(バーゼル)とストラスブール司教もこの「Steinert」の畑でブドウ栽培を行っていた。 ● プファフェンハイム村のワイン祭り 経験論で言えば、2014年7月12日(土曜日)夕方〜深夜、有名なプファフェンハイム村の「ワイン祭り」であった。コルマールやミュールーズからも遠征してやって来る祭り好きな人達を初め、周辺の村々からの若者や家族連れ、単身者もカップルも、とにかく狭い村の通りは年に一度のワイン祭りに出向いた人の群れ、ともかく人・人・人・・・ 村の道路にゲートが設けられ、祭りの担当者(村の若者達)へ「1人=7ユーロ」の参加料を払い、入場券として村の絵柄の付いた小さな「マイグラス(約100ml)」を受け取る。これを集めて部屋に数十個も飾っている祭り好きな人も居る。私も「絵柄マイグラス」を大切にしている。 先ずは生バンドの演奏が絶好調の教会堂前の特定の出店で注がれる入場券に相当する、リースリングの無料白ワインでエンジンを始動、市価の半額前後のアルザス特級ワイン・グラン・クリュを追加注文する。さらに何処のワイン祭りでも「定番おつまみ」である「タルト・フランベ(右下写真)」をオーダーして盛り上がり、「ワイワイ・ガヤガヤ」、地元産の白ワインも出店のおつまみも、とにかく美味だ! 真夏なのに乾いた涼しい気候、汗を知らない内陸の東フランス・アルザス・ワイン街道の村、北ヨーロッパの白夜の影響で夜21時を過ぎてもまだ陽はヴォージェ山地の尾根に沈まず、「夜のワイン祭り」なのに明る過ぎる。 夕方、22時頃にようやく夕食を確保するために村のファーム・レストランへ向かう。実はこれが「大きな問題」だ。元々村のレストランは限られているので、何処も彼処も超満員の長蛇の待ち列、小さな「マイグラス」を片手に「ワイワイ・ガヤガヤ」、簡易テントのテーブル席を見つけて地元料理をオーダーする。アルザス特級ワイン・グラン・クリュの空ボトルは増えるばかり、生バンド演奏に合わせて軽快なローカル・ダンスを踊る疲れ知らずの年配カップルや村の若者達・・・ アルザス地方のワイン祭りのお決まり料理となれば、お馴染みの「シュークルト(左下写真) 」、あるいは挽肉をパスタ生地でロール状に巻き、ブイヨンで煮込んだ渦巻き形状の「ドイツ語=肉&カタツムリ」を意味する「フレッシュシュナッカ」、そして、濃厚な香りとこくに誘惑され、アルザス特級ワイン・グラン・クリュの何度目か忘れてしまう回数のボトル追加注文・・・ ワイン祭りのファーム・レストラン料理・「シュークルト」 ワイン祭りの定番おつまみ・「タルト・フランべ」&白ワイン また、南部アルザス・サングオ地方では腐葉土がもたら す栄養豊かな雪解け水を溜めた池を利用して、淡水 魚・コイ(鯉)の養殖が伝統的に盛んに行われてきた。 「肉の国」にあって、淡水魚の料理もバラエティに富むが、 鯉を使った最も人気のある料理は、何をさて置いてもフ ライに揚げた鯉の切り身、「鯉フライ」である。 「鯉フライ」も個人的には絶品の味である(左写真)。 「鯉フライ」をメニューにしている地元レストランの点在をし て、人々は「鯉フライ街道」と呼ぶ。 南部アルザス地方の名物料理・「鯉フライ」/サングオ地方 南部アルザス・サングオ地方/フェレット城砦&ダンヌマリー周辺/「鯉フライ街道」と「コロンバージュ街道」の村々 2014年7月中旬、この日、現在は南部アルザス地方に住む技術系サラリーマンだが、祖父の代までプファフェンハイム村で最大級のワイン畑を保有していたという古い家系、「ワイン祭り大好き」を自称する40代のフランス人の案内でアルザス地方の「本物のワイン祭り」を心行くまで楽しんだ。 日本人は発音からして別な意味を連想してしまうが、「乾杯=チンチン!」と言うアルザス地方の陽気な人達に混じり、周囲の人達と次々に「新しい知り合い」となり、その度に数え切れない回数の「乾杯=チンチン!」を受け、アルコールに弱いながらも、結局、私は夕方〜深夜3時までワイン祭りの大渦に巻き込まれ、浮遊状態のままであった。 アルザス人は予想外に「ドンチャン騒ぎ」が好きな民族であると思う。夏の時期、フランス旅行のツーリストが、首都パリに滞在していては「本当のフランス」を知ることはできず、自らが「フランスを体験する」ことも難しい。世界中、その地の「本物」を知るには遠くで眺めるのではなく先ずは現地へ行くこと、現場主義に勝るほかの方法論は存在しない。これは世界を旅して回った旅人の普遍哲学である。 さらに、コルマールの西方のテュルクアイムのワイン祭りと同様に、このプファフェンハイム村でも、ワイン祭りが終わる深夜、皆が車運転で帰宅である。祭りに来た全員が「マイグラス」に注がれたアルザス特級ワイン・グラン・クリュで紛れも無く「酔っ払い」となっているのに、何故か?取締り役のパトカーや警察官などを見ることはなかった。 地元の人達の説では、警察官も「チンチン!」して「酔っ払い」に変身しているとか。アルコール飲酒の取締りが世界で最も厳格な東洋の国から来た旅人には、これは紀元前2世紀の古代ギリシアの学者フィロンの記述した≪世界七不思議≫としか思えない。 また、ワインを味わう時、アルザス・ワイン街道の村々では、日本人が良く使う知ったかぶりの美しい言葉・「フルーティー」という評価は誰も言わない。地元では「フルーティー=水っぽい」の意味に近似するあまり好まれない言葉だ。美しい発音から連想できそうなイメージだけで、賞賛されそうなキレイな「言葉遊び」をしていたのでは、何時になっても「本物」に出会えない。 アルザス・ワイン、特にアルザス特級ワイン・グラン・クリュは、フルーティーの爽やかさではなく、濃厚なこく、宝石の玉を評価する言葉・「玲瓏(れいろう)」とも言えるく深い黄金色、ドロっとした舌触り、喉に長く余韻する芳醇なアロマが命と言える。 「アルザス・ワイン街道」コルマール周辺/リボーヴィレ、テュルクアイム、美村リクヴィール、美村エグイスハイム情報: アルザス・ワイン街道」(中部)コルマール周辺/花を飾るコロンバージュ様式の美しい村々 |
位置: コルマール⇒南南西16km/ロウファッハ⇒西方4km 人口: 2,350人/標高: 260m 「フランス 花咲く町と村」: http://www.villes-et-villages-fleuris.com/ ● ミネラル・ウォーターの産地/ワイン村ソウルツマット 城塞都市ロウファッハ〜西方4kmの丘陵地帯の村ソウルツマット、ヴォージェ山地から流れ出るオムバッハ Ohmbach 渓流の河畔に沿って開けた明るい環境の村である。村の名称の語源は「ドイツ語=塩 Sultz」、草原を意味する「Matt」からの由来とされる。 アルザス特級ワイン・グラン・クリュに指定されたブドウ畑は、村の北側全域〜東隣のワイン村ウェスタルタン Westhalten との間、標高260m〜420mの斜面、約71haに展開する「Zinnkoepfle」である。特級ワイン用の良質ブドウを保障する広大な畑が示す通り、ソウルツマットはワイン村であると同時に、東フランスを代表するミネラル・ウォーターのボトリング地としても知られている。 日本では、フランスのミネラル水と言えば、「ヴィッテル Vittle/ヴォージェ山地」や「エヴィアン Evian/ローヌ・アルプ地方」などが有名だが、実はフランスは地質的な条件と冬の降雪などから「良質な水の国」であり、国の南部〜東部地域を中心に、それぞれの地方では数え切らないほどのボトリング会社が美味しい水を供給している。 アルザス・ワイン街道のエリアでは、ヴォージェ山地の丘陵の谷間に位置するソウルツマット村が、その最も良質な水の供給地の一つとなっている。ソウルツマット村を東方へ流れ下るオムバッハの渓流脇には、ブランド名・「Nessel」や「Lisbeth」などを供給する「Sources de Soultzmatt社」など、数社のボトリング工場施設が並んでいる。 ソウルツマットの水源域・渓流と森林地帯 ヴォージェ山地のミネラル水● ソウルツマットの歴史と市街 西方のロレーヌ地方とアルザス地方を結ぶ渓谷街道に位置するソウルツマットに古代ローマの軍隊が駐屯したことで、早くも3世紀からブドウの栽培が行われていたとされる。中世の時代、ソウルツマットはストラスブール司教とロウファッハの聖職者の管理地域で、オムバッハ渓谷の重要な中継地として栄えるようになった。 12世紀の初め、渓谷に聖アウグスティヌスを信奉する女子修道院が創設された後、13世紀の末、1295年から居住を始めた貴族フレデリク・ソウルツマットなど、以降〜16世紀までに複数の司教と貴族階級が合計7か所のシャトー城館を建てたことから、ソウルツマット地区は「貴族の谷」とまで言われ、さながら高級別荘地となった市街は城塞化された。 13世紀の末、1298年、フランスと同盟を組んだドイツ王アルブレヒトT世(1255年〜1308年)と宿敵のナッサウ家の一代限りの神聖ローマ帝国・皇帝アドルフ(Adolf von Nassau 1250年〜1298年)との戦いは、ソウルツマットへ大きな影響を及ぼす。皇帝アドルフ派であったサングオ・フェレットのキルデベルト伯の農民軍によって、ソウルツマットの街は焼き討ちに合い大きく破壊される。 その後、1375年、ソウルツマットは略奪で生計を立てるフランスの貴族騎士団・「フリーカンパニー(傭兵団)」の「修道服軍 Gugler」により破壊される。この強力な傭兵団はイングランド王エドワードV世の王女イザベルと結婚したパリの北東100kmのクーシー領伯アンゲランZ世(エンゲルラム Ingelram/Enguerrand-Coucy 1240年〜1397年)の率いる16,000名から成る騎士団とされ、40を数える南部アルザス・サングオ地方のフェレット領の街が破壊される「修道服軍 Gugler の戦い」への途中であった。 しばらくして、1444年、フランス貴族諸侯の内部の対立から起こるアルマニャック派(オルレアン公ルイ&アルマニャック伯ベルナールZ世)とブルゴーニュ派との戦いで村は破壊され、さらに1571年のフランスの宗教戦争・「ユグノー戦争」の被害も相当に甚大であった。 15世紀には、1489年〜1497年まで司教座首席司祭を務めたジョン・ネセル Jean Nessel などの努力によりオムバッハの渓谷地域で6か所の泉水(源泉)が確認され、それらは後世19世紀末に装備される村の「消火栓ネットワーク」に活用されてきた。 17世紀、「三十年戦争」では好戦的なスウェーデン軍の襲撃でソウルツマットから多数の死者を数え、1675年、極寒の1月、ワイン街道テュルクアイムに駐屯した神聖ローマ帝国・ブランデンブルグ選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム軍を攻める「テュルクアイムの戦い」で兵力3万のフランス・テュレンヌ元帥の軍隊が、ソウルツマットのオムバッハ渓谷を密かに通過したことで、街の人々はパニック状態となり司祭と共に教会堂の聖体を森へ運び避難を強いられた。 中世〜近世のヨーロッパの戦争の時代、破壊に継ぐ破壊を受けた歴史から、ソウルツマットの旧市街はアルザス・ワイン街道の特徴である中世コロンバージュ様式の住宅がほとんどなく、19世紀〜20世紀以降の比較的モダンな建物が、村を東西に貫通してヴォージェ山地へと続く渓谷通り Rue de la Vallee の両脇に建ち並んでいる。 ソウルツマット村の市街には、フランスの「歴史的建造物」の11世紀ロマネスク様式を残す聖セバスチャン教会堂、市街の手前にはかつて中世には7か所存在した貴族シャトー城館の一つ、現在ワインカーブとなっている赤ベージュ色壁面、15世紀起源のワゲンブール城館 Chateau de Wagenbourg などがある。 また村から南東へ1.7kmほど離れた標高390mのヴォージェ山地の尾根に建つ14世紀起源、地元で「ル・ヴァル・デュ・パトル Le Val du Patre」と呼ばれる聖マリア礼拝堂もフランスの「歴史的建造物」に指定されている。 |
位置: コルマール⇒南西10km/ロウファッハ⇒北北西5.5km 人口: 850人/標高: 260m 「フランス 花咲く町と村」: http://www.villes-et-villages-fleuris.com/ ● 山際のワイン村/歴史の大波に揺れた村 10世紀、ゲーバーシュヴィールはストラスブール司教の管理下に置かれた。11世紀の終盤、1089年、有力領主バーチャードは、村の北方2,5kmにマールバッハ修道院を建立し、1090年以降には村の教会堂の改築を行っている(下記)。なお、マールバッハ修道院は創建直後からエグイスハイム家や遠縁のゲラルドT世が11世紀に起こしたロレーヌ・ヴォーデモン家 Vaudemont などからの手厚い擁護を受けている。 13世紀には一部はエグイスハイム家系が管理し、ゲーバーシュヴィールの多くはストラスブール司教の領地となった。ただ、その世紀の終わり、1298年にはサングオ地方フェレット伯により村の教会堂付属の塀に囲まれた墓地が破壊され、この襲撃の後、14世紀に村は城塞化の必要性に迫られた。 この時代、ゲーバーシュヴィールの村には幾らかの貴族階級の、村の南側にミッテルブルグ城砦 Chateau de Mittelburg、北側にノルトガス城館 Chateau de Norgesse、北の近郊にはエルテンベルグ城砦 Chateau de Hertenberg、そして、ニーデルヴィール城館 Chateau de Niederwiller などが次々に建てられた。 その後、ヨーロッパの戦争の時代が始まり、北方の守りであったエルテンベルグ城砦は、1375年、上述のソウルツマット村と同様に、略奪で生計を立てるフランスの貴族騎士団・「フリーカンパニー(傭兵団)」により破壊される。さらに村からファフェンハイム方面へ向かう場所、市街から南方200m付近にあった「城館の草原」と呼ばれたミッテルブルグ城砦も、ソウルツマット村と同様に、1439年と1445年、宮廷闘争で激しく活動するアルマニャック派による村への攻撃を受けた際に大きく焼失する。ただ、この戦いでは領主と住民の連合は大きな反撃を果した。 1525年の「農民戦争」でも、その後17世紀に入りヨーロッパ各地が激しい戦場と化し、地政学的に常に攻撃の的となったアルザス地方は、1618年〜1648年の「三十年戦争」で好戦的なスウェーデン軍の激しい襲撃を受けた。ほかの多くのアルザス・ワイン街道の街と村々と同じように、「三十年戦争」でゲーバーシュヴィールでは多数の死者を数え、戦いが終わった時、生き残ったのはわずか「25の家族」のみという、村の存亡に影響するほどの大きな犠牲を支払った。 さらに同じ世紀の半ば、「三十年戦争」が終わって数年後、1652年、追い討ち的にロレーヌ公シャルルW世の軍隊の侵略を受け、そして、フランス王ルイXIV世とテュレンヌ子爵による「オランダ侵略戦争」でもゲーバーシュヴィールは大きな被害を被り、豊穣なワイン畑が破壊された。戦争の混乱の後、18世紀にかけて徐々に平成を取り戻したアルザス地方の街と村々と同じく、ゲーバーシュヴィールでも、人口が増加傾向を示し、農産物の増産とワイン用ブドウの改良に力を入れ始めた。 ● ワイン村ゲーバーシュヴィールを訪ねる ヴォージェ山地の麓の斜面に広がるゲーバーシュヴィールの村のほぼ中央に方形の村役場広場(パーキング場)があり、その南側が村役場 Hotel de Ville、反対側(北側)には地元ヴォージェ山地から切り出した赤色砂岩造りの聖パンタレオンを奉るゲーバーシュヴィール教会堂 Eglise St-Pantaleon が堂々たる姿で建っている。 教会堂のオリジナルは、北方2,5kmのマールバッハ修道院を建立した有力領主バーチャードが、1090年〜1130年、元々在った医療の聖人 Himera を奉る古い教会堂を12世紀ロマネスク様式で改築したものであった。後世になり、1835年、老朽化した12世紀の鐘楼が崩壊したことから、教会堂の建て直しが計画され、1874年〜1878年、新たに19世紀のネオ・ロマネスク様式で再建されたのが今日の教会堂である。 教会堂の南正面ファサードの左手に立つ典型的なアルザス様式の切妻屋根を持つ高さ36mの鐘楼は、古い塔の崩壊後、教会堂の再建より早く1841年に現在の姿で建て直された。塔の入口などはマールバッハ修道院のそれい近似して再建されたという。 ロマネスク時代の教会堂では医療の聖人 Himera を奉っていたが、16世紀にはカトリック教徒からプロテスタント派へ改宗する人々が続出、17世紀になるとカトリック教会とプロテスタント派との「三十年戦争」が勃発、それ以降、教会堂では聖パンタレオンを奉るようになったと言う。教会堂は内装も含めフランスの「歴史的建造物」に指定されている。 村役場を初めコロンバージュ様式の建物が密集的に取り囲む村役場広場の南西隅から、わずかな勾配で南方へ向かう石畳の「上の通り Rue Haute」を100mほど登った左側(東側)に、赤色砂岩の古めかしいアーチ型入口から入る老舗のレストラン・「タベルナ・メディエヴァル Taverne Medievale(中世食堂)」がある。 玄関から石段で下がる内部は、むき出しの太い梁材の高い天井、壁面には砂岩を積み上げた「倉庫」を連想するような堅固な造り、テーブル席も多くはなく、「中世食堂」の看板通り、時代の香りをかもす村の邸宅の部屋を思わせるレストランだが、1513年起源のこの建物は、村で唯一フランスの「歴史的建造物」に指定されている個人の建物である。 サーブされる料理は、2014年・夏のランチで訪ねたが、エスガルゴや鴨肉もあったが、濃厚な味付けのソースを使った地元の肉料理がお薦めで、村で醸造されるアルザス特級ワイン・グラン・クリュも安価、地元野菜を使ったフレッシュな農村風味のサラダも美味しかった。 ----------------------------------------------------------------------- ● 「ツールドフランス 2014」/ゲーバーシュヴィール村で観戦 ゲーバーシュヴィール村を訪ねた2014年7月13日(日曜日)、曇空だが、この日は「ツールドフランス2014・第9ステージ」。スタート地点はヴォージェ山地の標高700mのジェラールメ Gerardmer、スタート直後に1,000m級の峠を二か所越え、一気に下ってワイン街道の標高240mの城塞都市テュルクアイムへ。そうしてエグイスハイム西方の「五つの城ドライブウェー」を経由、アルザス平野からブドウ畑の斜面の村ゲーバーシュヴィールを経由する。 歴史ある村ゲーバーシュヴィールから登坂を強め、再度ヴォージェ山地へ入り、標高500mの峠を三つ通過、その後コース最高標高1,336mのグラン・バロン峠から「ヴォージェ山頂ドライブウェー Routes des Cretes」を走り、「第一次大戦」の激戦地・ハルトマンズヴィラーコフ Hartmannswillerkopf(後述)を通過する。 そうして、一気に下ってゴール地点の標高230mのアルザス平野の産業都市ミュールーズまで、走行170km、そのほとんどが激しく起伏とヘアピンカーブを繰り返す難所続きの山岳コースである。 ゲーバーシュヴィール村の通過予定は15時過ぎだが、昼過ぎ、上空には8機の取材・放送用ヘリコプターが舞う。選手の通過3時間前から狭い村の通りは、コルマールや周辺の村々からの人達だけでなく、遠くイギリスやドイツなどから来た熱心なツールド観戦ファンでごった返している。 私は賑わう村役場広場から移動して、村の北方500mのブドウ畑の中、急登坂が始まる右カーブに陣取った。選手に先駆け、ゴタゴタに装飾されたスポンサーの派手な宣伝カーが次々に通過して、車上で落下防止ベルトを留めた水着姿のキレイなフランス娘達が笑顔を投げかけ、沿道の観戦ファンへお菓子や飾り物などばら撒いて行く。 子供だけでなく、大人も誰もがそれを受け取り、もう心は「ツールドフランス 絶好調!」そのものだ。私も手を伸ばして白コットンのサマーハットやスナックお菓子などを頂戴した。 ツールドフランス 2014/第9ステージ中盤の競り合い/アルザス地方ゲーバーシュヴィール村の登坂 トップの選手がやって来た。ゲーバーシュヴィールは第9ステージのコース中盤、他を寄せ付けず圧倒的な強さのドイツ選手(75番)。かなり遅れて50名以上の集団が登坂の曲がり角を通過(上写真)、一塊となって競り合いながらパワー全快で登って行く。結局3時間以上も待って、目の前を選手が通過したのは10分程度、初めて現地で観戦した私の「ツールドフランス」が終了した。 なお、ゲーバーシュヴィール村のアルザス特級ワイン・グラン・クリュの指定ブドウ畑・「Goldert」は、私が「ツールドフランス」を観戦した村の北方の斜面一帯、約46haの耕作地である。 |
位置: ミュールーズ⇒北西17km/ロウファッハ⇒南南西11km 人口: 780人/標高: 210m ● 第一次大戦での破壊 ヴォージェ山地の麓の村ヴェンハイムは、13世紀以降、「ウォンナッハ Wounach」と呼ばれ、ストラスブール司教の所有地であった町ゾウルツ・オー・ラン(村から北東2km Soultz-Haute-Rhin)の管理下にあり、この状態は19世紀初めまで続けられた。 18世紀以降、ヴェンハイムにも「産業革命」の余波が押し寄せ、この頃アルザス地方で盛んとなった繊維工場が、さらに1870年には鋳物工場が操業をスタートしたことで、経済的にも潤い、1900年代の初めには村の住民が1,000人を越えたこともあったと言う。 しかし、1914年に始まり4年間続く対ドイツ帝国との「第一次大戦」では、村の西方一帯のヴォージェ山地・「ヴェンハイムの尾根と森 Bois de Wuenheim」に、ドイツ帝国軍とフランス軍の最前線の大規模陣地と司令部が置かれたことで、双方の軍からの非常に激しい攻撃を受け、ヴェンハイムの建物は60%以上が破壊され、村は壊滅状態となる。 戦争による大きな被害を被ったことで、村のほとんどの住宅は「第一次大戦」の後、1920年以降に再建された。そのため、中世をかもすアルザス地方の特徴であるコロンバージュ様式の建築はなく、ヴェンハイム村の佇まいは全体的にモダンな感じを受ける。村役場の東方、村の中心に建つ聖ジル教会堂も「第一次大戦」の後、19世紀ネオ・クラシック様式で再建されたものである。 ---------------------------------------------------------------------- シャトー・オールヴィラー城館 Chateau de Ollwiller 戦争の激戦地ヴェンハイム村の南西約1km、シャトー・オールヴィラー城館 Chateau de Ollwiller の建つ区域は、中世にはサングオ・フェレット伯により要塞都市ベルフォールの南西30kmのマンスナン村 Mancenans に在ったシトー修道会系譜リー・クレセント Lieu Croissant 修道院(フランス革命⇒破壊)へ譲渡された。 その後、13世紀、1260年になるとストラスブール司教に仕えるワルデナー家 Waldener に所有権が移り、即時に城砦が建てられた。 18世紀になると、その古い城砦を取り壊し、1752年、オールヴィラー城館から西方6km(直線)、ヴォージェ山地の標高900mに在ったワルデナー家フレンドシュテイン城砦(Freundstein 現在=城壁のみ残存)に居城した伯クリスチャン・フリードリヒ・ダゴベルト(Christian Frederic Dagobert von Waldner 1712年-1783年)が、今日のシャトー城館を再建している。 シャトー・オールヴィラー城館(下描画・右端)は、ヴェンハイム村から南方へ向かう地方道D5号で1kmの距離である。地方道からヴォージェ山地の裾に建つ城館までは、真っ直ぐな並木道が約650mほど伸びている。 ポプラやトチの木などの並木道の両側は、地元では良く知られた「菜の花畑」となっている。春の頃、約19ha(445mx445m相当面積)の広い耕地は菜の花の明るい黄色に染まる(下描画)。 遠方に標高950mの穏やかな稜線を描く、フランス軍15,000名・ドイツ軍15,000名、合計3万の将兵が犠牲となった「第一次大戦」の激戦地、ハルトマンズヴィラーコフ Hartmannswillerkopf(下描画 中央の穏やかな山並/詳細 後述)が控える。 右端: ヴィエンハイム村 シャトー・オールヴィラー城館/城館〜並木道の手前=春の季節 満開の「菜の花畑」 中央の山並: 「第一次大戦」の最前線・激戦地・「ハルトマンズヴィラーコフ(標高950m)」 アルザス・ワイン街道/描画=Web管理者legend ej 伯クリスチャン・ダゴベルトはアルザス・ワイン街道の賑わう町ビボーヴィレで生まれ、ドイツ・プロセイン王国の軍人として中将まで昇進、数々の武勲からドイツ王国の「大十字勲章」を受章している。また伯の娘は19世紀のフランス・ロマン派の作曲家エクトル・ベルリオーズの母親方の系譜となる。 その後、1825年、シャトーは繊維業界の有力者ジャック・ガブリエル・グローが 買収、所有地はモデル農場とブドウの改良のための耕作地となった。 シャトーはフランスとドイツ・プロイセン帝国との「第一次大戦」で大きく破壊され たが、その後、1925年に修復が行われ、現在でもグロー家の所有である。 シャトー銘柄の「アルザス特級ワイン・グラン・クリュ・Ollwiller」は、アルザス 地方で良く知られている高品質ワインの一つである(左写真)。 アルザス特級ワイン・グラン・クリュ/醸造所=シャトー・オールヴィラー わずかに甘み 澄みきった濃黄金色・香り濃厚な白ワイン ------------------------------------------------------------------------ ● ティ-レンバッハ・ノートルダム教会堂 オールヴィラー城館から北西1.8kmの草原には、西フランスのモン・サン・ミッシェル修道院やブルゴーニュ地方ヴェズレー修道院などと並び、「フランスの聖地(20か所)」に認定された、ティーレンバッハ Thierenbach ノートルダム教会堂がある。 教会堂の歴史は古く、1130年、クリュニー修族(クリュニー会)の修道士により創建された修道院が起源、「フランス革命」の後〜1790年までクリュニー修族(クリュニー会)が占有した。 ただ、歴史の中で火災の発生、17世紀の「三十年戦争」、さらにハルトマンズヴィラーコフの丘を巡る「第一次大戦」でも大きく破壊され、再建を繰り返したことから、美しい草原に囲まれ池のほとりに佇み、イエスを抱く黄金装飾の戴冠の聖母マリア像を奉る現在のノートルダム教会堂は、比較的新しい教会建築様式となっている。 「フランスの聖地(20か所)」: http://www.villes-sanctuaires.com/ 中世修道院・クリュニー修族(クリュニー会)とシトー修道会の情報: 中世ヨーロッパ・キリスト教の世界/クリュニー修族&シトー修道会/聖ベルナール ● ヴェンハイム村/ワイン共同組合主催の賑わう「ワイン祭り」 ヴェンハイム村のアルザス特級ワイン・グラン・クリュに指定されたブドウ畑・「Ollwiller」は、シャトー・オールヴィラー城館と同名で、約36ha、村から南西1kmにある城館との中間付近に広がっている。ヴェンハイムは小さな村であるが、城館銘柄の特級ワインをメインにアルザAOCクラスのワインも盛んに造られている地区でもある。 ヴェンハイム村は東西に走る地方道D5.4号の沿って約1kmに住宅が連なり、そのほとんどが農業とブドウ栽培で生計を立てている。村の東端に、大型の建物施設があり、北方のゲブヴィールやゾウルツ・オー・ラン地区も含めた周辺約100軒のワイン生産者が共同運営する「Le VIEIL ARMAND ワイン醸造・販売センター」となっている。ワインセンターはこの周辺では有名な醸造所 Cave であり、オールヴィラー城館のブドウ畑・「Ollwiller」も含め加盟者のブドウ畑の総面積は140haとされる。 ワインセンターの名称・「Le VIEIL ARMAND」とは、村の西方一帯に広がるヴォージェ山地の「ヴェンハイムの尾根と森」、フランス軍の陣地と司令部が置かれた「第一次大戦」の激戦地、ドイツ語では「ハルトマンズヴィラーコフ Hartmannswillerkopf(後述)」と呼び、フランス語地名では「Le Vieil Armand」となり、これからセンターの名称が由来されている。 ワインセンターには大規模な直売所と見学可能な自動化された近代的なビン詰め設備と貯蔵用タンク施設がある。そのほか地下には「ワイン博物館」が併設され、一昔前のブドウの収穫や運搬に使った桶や荷車、あるいはワイン醸造用の無数の用具、巨大な貯蔵樽そして、「第一次大戦」のフランス軍将兵の実際の装備や武器類、戦いの塹壕や司令部のモデル部屋なども展示されている。 夏の季節限定だが、毎日曜日、ここではセンター主催のヴェンハイム村の「ワイン祭り」が開催される。2014年8月3日(日曜日)、私は地元の40代と50代のフランス人とその家族と共にワイン祭りへ参加した。広い中庭には大型の簡易テントが張られ、最大音量の生バンド演奏、ダンスに歌に、周辺から集まった家族連れや若者達でごった返している。 何処のワイン祭りでも「定番おつまみ」であるご当地名物の「タルト・フランベ」をオーダー、「ワイワイ・ガヤガヤ」の盛り上がり。先ずセンター醸造のアルザス特級ワイン・グラン・クリュ・「Ollwiller(右上写真)」で「乾杯=チンチン!」。 帰りにほとんどの人が市価の30%〜40%ほど割安な「10本入りボックス」を複数箱購入して帰路に着くが、センター内のシャレた試飲コーナーでは、アルザス特級ワイン・グラン・クリュを含め、すべてのセンター醸造ワインが、醸造職人の説明付きで飲み放題である。何と言うサービス精神なのか! 「乾杯=チンチン!」の連続、ボトルは次から次へとドンドンと空になってゆく。アルコールに弱いので、こちらは顔真っ赤だ。さらに新しいアルザス地方料理が運ばれて来た。挽肉をパスタ生地でロール状に巻き、ブイヨンで煮込んだ渦巻き形状の「フレッシュシュナッカ」だ。東洋からの旅人には食べきれない量のボリュームに「フーフー」しながら、これも「本物のアルザスだ!」と気合を入れて挑戦する。 |
位置: ヴォージェ山地/ミュールーズ⇒北西18km(直線距離) 標高: 400m〜950m山中/2.5km四方相当エリア オール・ヴィラー城館(上述)の西方へ張り出した尾根と山麓 交通: セルネー Cernay からヴォージェ山地を蛇行して北上する山岳道路 「ヴォージェ山頂ドライブウェー Routes des Cretes」を走行/標高が高いので冬季は降雪 ・夏7月〜8月の週末=セルネーから路線バス(本数少ない) ・ムンステ西方の町レ・オーネック Le Hohneck から路線バス(本数多い) ● 「普仏戦争」〜「第一次大戦」の始まり、経緯、終戦 「フランス革命」の後、18世紀の終わりから19世紀の初め、政権を掌握したナポレオンT世の第一帝政のフランス軍は、兵力を150万名に増強、イタリアに始まりエジプト遠征から遠く対ロシアまで連続的な「ナポレオン戦争」を繰り広げた。「ヨーロッパ統一」を旗印に20年間にわたって続けられた「ナポレオン戦争」では、当初、戦線を拡大する時期は優勢であったが、ナポレオンT世の失脚からフランスは連続的に大敗、結果、周辺諸国のナショナリズムを高め、イギリスなどの覇権主義を助長することとなった。 1860年代になると、スペインの「王位継承問題」が起こり、ドイツ・プロイセン王国系譜のホーエンツォレルン候レオポルドがスペイン国王に推挙され、これが現実となると国の東西をプロイセン貴族が治めるという地政学的な国家危機として、ナポレオンV世のフランス第二帝政は強く反発、1870年、対ドイツとの「普仏戦争」が勃発する。 10か月間続いた戦争は、北ドイツ連邦や南部のバーデン大公国とバイエルン王国などと同盟関係を結び、動員兵力に勝ったドイツ・プロイセン軍の圧勝となり、翌年1871年に戦争終結となる。ドイツ軍の戦死者が3万名以下に対して、敵対したフランス軍は戦死者14万名、さらに捕虜将兵47万名を数える無残な結果となった。 引き継いだ次のフランス第三共和政は、プロイセン王国から請求された巨額の戦争賠償金だけでなく、当時のフランスの鉄鉱石の80%を産出していたアルザス・ロレーヌ地方を失う結果となり、国の政治力も経済力も大きく後退する。一方、「普仏戦争」の最中、プロイセン王国は「統一ドイツ帝国」を宣言、アルザス・ロレーヌ地方を「独語=エルザス・ロートリンゲン」と名称し直轄統治を行う。 これにより、フランスとドイツとの国境は、アルザス地方最南端のスイスとの国境地帯、フェレットの西方8km付近、北へ流れ出す小川ラルギュ Largue のラルガン農場 La Largin の場所を「0km地点」と決め、そこから北上する境界線はアルザス地方南部でヴォージェ山地へ入り、現在のライン上流県の西県境を北上、ストラスブール西方のヴォージェ山地からロレーヌ地方を斜めに北上、ルクセンブルグとの国境へ至るラインが確定された。 要するに、今日のアルザス地方のライン上流の「オー・ラン県」とライン下流の「バ・ラン県」のすべて、さらにナンシーを含まない「ムルト・モゼル県」の東1/3の区域、そしてメッスを含む「モゼル県」のほぼ全域がドイツ帝国領・「エルザス・ロートリンゲン」となった。 ヨーロッパ大陸で最強となったドイツ帝国と海洋で覇権を握っていたイギリス大英帝国との対立姿勢は鮮明となり、ドイツはオーストリアとイタリアとで「三国同盟」を、対抗するイギリスは緩衝地としてベルギーの独立と中立を保障、さらにドイツ包囲網としてフランスやロシアなど周辺国や日本とも同盟関係を次々に締結する。 そんな中、その後の歴史を操る大きな事件が発生する。オーストリア・エステ家の大公フランツ・フェルディナントと妻ゾフィーが、1914年6月28日、セルビアの重要な宗教的な祝いの日、1908年の帝国併合に対して強い不満と反感が渦巻くボスニア・サラエボ市内を視察中、民族主義組織の青年に襲われ、二人はピストルで暗殺されてしまう(第一次大戦の原因=サラエボ事件)。 大公フランツ・フェルディナントはオーストリア・ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフT世の甥であり、皇位継承者でもあり、チェコ・プラハの南南東40kmにあるボヘミアの優美なコノピシュテ城に居住していた(下描画)。 コノピシュテ城/ボヘミア地方/描画=Web管理者legend ej チェコ共和国/フェルディナント大公のコノピシュテ城/カールW世のカルルシュティン城 その1か月後、怒りのオーストリア・ハンガリー帝国はセルヴィアへ宣戦布告、ドイツ帝国は同盟関係のオーストリア帝国を支持、一方、セルビアを擁護するロシア帝国は国内に総動員令を発令、続いてドイツは「ビスマルク秘密・保障条約」を結んでいたロシアへ、さらにロシアと同盟関係にあった宿敵フランスへも宣戦布告を行う。 こうして続け様に大国による「危険なゲーム」の切り札が出され、以降1918年までの4年間、世界はドイツ、オーストリア、トルコ・オスマン帝国、ブルガリアの「同盟国」、対してイギリス、フランス、ロシア、アメリカ、後に日本、カナダ、オーストラリア、アラブ諸部族なども参加する「連合国」とが戦う、大量殺戮の「第一次世界大戦」の暗雲に覆われる。 ----------------------------------------------------------------------- 開戦時、1914年8月、ドイツ軍はベルギーとルクセンブルグへ進撃、対してイギリスはドイツへ宣戦布告して「西部戦線」の戦いが始まる。イギリスの海上封鎖はドイツの工業生産と食糧事情に大きな影響を与え、対してドイツ軍はUボート潜水艦でイギリス船舶の撃沈作戦を実行、ポーランドを巡りロシア軍のドイツへの攻撃も始まり、泥と寒さに耐える悲惨な「東部戦線」の戦いもスタートした。 一方、親独派であった中東トルコ・オスマン帝国軍はロシアからの宣戦布告を受け攻撃を開始、ブルガリアもドイツの「同盟軍」に参加した。「三国同盟」のイタリアは同盟を破棄して「連合国」へ鞍替って戦争に参加する。 ≪アラビアのローレンス少佐≫の舞台の中東ではイラクやパレスチナへも戦線が広がり、イギリスの後ろ盾のアラブ諸族軍と支配者・オスマン帝国軍との戦いが行われた。さらにドイツの植民地があった西アフリカや、ドイツ人とイギリス人が利権を争っていた南アフリカまで戦線は拡大された。 一方、アジアでは大正時代が始まった日本は「日英同盟」のイギリスから中国大陸への出兵を要請され、1914年10月、大正天皇の帝国陸軍将兵23,000名とイギリス軍1,500名は、ドイツ極東艦隊の本拠地・中国・青島(チンタオ)への攻撃を開始、さらにイギリスの同盟国オーストラリアとニュージーランドが参戦して南洋諸島のドイツ軍基地への攻撃を始めた。 そうした中、1917年3月、北方の大国ロシアでレーニン率いる共産主義・「ロシア革命」が起こり、3世紀続いたロマノフ王朝の専制政治が崩壊、ロシア国内は大混乱、その隙を突きドイツ軍はモスクワ郊外まで進軍、講和条約の締結で休戦となる。 東欧では「連合国」を支持したルーマニア軍の降伏で「東部戦線」は事実上終了となるが、1917年4月になると、意気盛んなアメリカが「連合国」として参戦することになり、「西部戦線」は組織的・機械的で惨烈極まりない戦いの場と化して行く。 「西部戦線」では、アルザス南部からベルギー海岸まで750kmの長い防衛ライン(最前線)が設定され、新たに開発された機関銃・迫撃砲・火炎放射器・毒ガス弾・戦車・攻撃機が初めて戦場へ投入され、塹壕に篭る一進一退の消耗戦が繰り広げられた。 その後、1918年3月になり、膠着状態であった「西部戦線」では、重火器開発に優れたドイツ軍がフランス首都へ迫り、口径210mm 射程120kmの巨大な「列車砲」がパリ市内を攻撃、パリ市民は脱出を余儀なくされる。しかし、豊富な軍需物資を揚陸した強力なアメリカ軍の猛攻が始まり、戦意を失ったドイツ軍は大量の捕虜を出しながら徐々に後退、戦争の主導権は「連合国」へ傾いて行く。 終戦の年1918年の春以降、ドイツは敗戦の色合いが濃厚と なったことで国内に混乱が始まり、「ロシア革命」の影響から労 働者のストライキが頻発、帝国政治から議会政治への流れが 急加速、君主制の廃止、軍兵士の反政府運動さえも発生、 「ドイツ革命」へ発展して行く。 立憲君主制の導入と王政打倒の動きが活発となり、とうとう 「ドイツ共和国宣言」が出され、本人の同意なしに皇帝退位 が宣言されドイツ皇帝ヴィルヘルムU世はオランダへ亡命する。 1918年11月、パリ北東70kmの「コンピエーニュの森」で行わ れたドイツ代表と「連合国」の全権代表フランス・フォッシュ元帥 との「休戦協定」が署名され、「同盟国」と「連合国」、戦闘に 参加した双方の将兵の戦死者約1,000万名、行方不明 者700万名以上、それまでの人類史上で最大の犠牲を出し た惨烈な「第一次世界大戦」は終わる。 「パリ講和会議」の後、ヴェルサイユ宮殿で「ヴェルサイユ講 和条約」が締結され、オーストリア・ハンガリー帝国の解体、ト ルコ・オスマン帝国とロシア帝国も解体され、フィンランドを初め 東欧や中東に複数の独立国が出現、世界の版図は大きく変 更され塗り換えられた。 「ヴェルサイユ条約」が締結されたフランス・ヴェルサイユ宮殿 1970年代の飾りのない「鏡の間」/パリ郊外 ※1972年・秋の撮影時は無装飾だが、2000年代以降、豪華なシャンデリアや無数のまばゆい金色蜀台が置かれ見学のロープ規制が始まった。 ● 「第一次大戦」・ハルトマンズヴィラーコフのドイツ軍vsフランス軍の戦いの始まり 1870年〜1871年の「普仏戦争」の結果、フランス軍は死者14万名、今日の「オー・ラン県」と「バ・ラン県」、「ムルト・モゼル県」の東1/3区域、「モゼル県」のほぼ全域がドイツ帝国領・「エルザス・ロートリンゲン」となった。 敗戦の屈辱を味わうフランスにとっては失ったアルザス・ロレーヌ地方の奪回こそが、雪辱に燃える政府も国民も、正に国を挙げての最も重大な国家戦略となった。 「第一次大戦」が始まり、1914年8月、周辺国へ宣戦布告を行った強力なドイツ軍はベルギーとルクセンブルグへ侵攻、一方、9月になるとフランス軍はアルザス地方の奪回を目指して南部の要衝ミュールーズより南方地区、さらにアルザス・ワイン街道の南端の町タン(下述)〜サン・タマランのツュル渓谷、その一つ南方のマズヴォー Masevaux 渓谷へ軍を進める。 上述のシャトー・オールヴィラー城館の東方800m、同じくワイン村ハルトマンズヴィラー(現在人口650人)がある。ドイツ軍とフランス軍の双方共に、ライン川〜アルザス平野〜ベルフォールへの交通ルートの全容が監視できる、アルザス南部の最前線の最重要戦略ポイントとして、ヴォージェ山地の標高400m〜950m、穏やかな山容の「ヴェンハイムの尾根と森」に注目した。 アルザス駐屯のドイツ軍は、ハルトマンズヴィラー村から眺め、オールヴィラー城館の西方一帯に広がる「ヴェンハイムの尾根と森」を「ハルトマンズヴィラーの丘」を意味する「ハルトマンズヴィーラコフ Hartmannswiller-kopf」と名称した。後になり、この戦場で倒れるフランス軍セーレ将軍(後述)は、この地を「古いアルマン Le Vieil Armand」と別称することになる。 1914年8月の開戦の後〜数か月間、ドイツ軍の斥候隊が、今日高さ20mの白亜の「慰霊十字架」が立つ標高956mのハルトマンズヴィラーコフの尾根頂点の東側一帯のパトロールを続けた。 一方、12月中旬になり、西方のツュル渓谷から進軍したフランス軍も斥候隊によるパトロールを行い、慰霊十字架の尾根頂点から西方900m付近、ハルトマンズヴィラーコフの最西端となる標高900m、シルベルロッホ高原 Silberloch へ大隊を展開した。シルベルロッホは今日の「国立慰霊碑」の建つやや平原状の広い場所である。 1914年末、12月30日、ドイツ軍とフランス軍の斥候隊同士がハルトマンズヴィラーコフの頂点付近で遭遇し初めて銃撃戦となり、ドイツ軍歩兵が最初の犠牲者となった。この戦闘の後、ドイツ軍とフランス軍はなだらかな尾根の頂点を軸点として、北北西〜南南東、わずかに西方へ傾く感じでほぼ縦に東西に分ける形容の戦線を設定、その東側がドイツ軍、西側がフランス軍の陣地となった。 この後、尾根の頂点を奪い合う4年間の激しい「塹壕戦」が続くとは、両軍の将兵は知る由もなかった。そして1918年11月の終戦に至り、ドイツ軍の撤退後、ハルトマンズヴィラーコフの戦闘で行方不明も含めフランス軍15,000名、ドイツ軍15,000名、合計3万名の将兵の命が失われた事実が明るみとなる。 また、イギリス軍・フランス軍の戦死・行方不明15万名、ドイツ軍16万名が犠牲となった北フランス・「ソンム河畔の戦い」、フランス軍の戦死者16万名、ドイツ軍10万名の命が失われたベルギーとの国境・ロレーヌ地方の「ヴェルダンの戦い」などと並び、ハルトマンズヴィラーコフは「第一次大戦」の激戦地の一つとして歴史に深く刻まれた。 開戦時の軍事戦略的な重要性はあったものの、ハルトマンズヴィラーコフの尾根を奪い合った4年間の塹壕での消耗戦が終了した時、戦いの意味に比べ、ドイツ軍とフランス軍の支払った命の犠牲はあまりに大きく、歴史と生命の時計を元へ戻すことはできなかった。 ● ハルトマンズヴィラーコフの戦い/フランス軍・精鋭「第152ライン歩兵連隊」の活躍 1914年12月30日、初めての斥候隊同士の銃撃戦の後、新年早々、1月4日以降、積雪2m、氷点下の悪天候の下、ハルトマンズヴィラーコフの尾根頂点の周辺を巡り、東側のドイツ軍が幾分優勢のまま、前線は西側のフランス軍陣地シルベルロッホ高原までわずか300mに迫る尾根頂点の西方600mまで移動した。両軍の前哨戦は加速度的に激しさを増し、1月下旬までには双方共に1,000名規模の犠牲者が出るほどであった。だが、この犠牲者の数はハルトマンズヴィラーコフの戦いの「序の口」に過ぎなかった。 その後、ドイツ軍は麓のヴェンハイム村やハルトマンズヴィラー村から尾根の前線陣地へ連絡する山麓斜面に、工兵1,000名と170頭のロバを使ってヘアピンカーブの道路、兵士と弾薬と物資運搬のケーブル施設(最上駅=パノラマの岩場の下部・標高900m Wartburg 陣地)を建設した。 一方、フランス軍は西方のツュル渓谷と今日予約の取り難い超有名な農場オーベルジェ(宿泊&食事/ファーム・オーベルジェ・モルケンハ Ferme Auberge du Molkenrain)がある標高1,000mのモルケンハ高原 Molkenrain に司令部を設置、シルベルロッホ陣地への連絡道路を整備した。 1915年2月、先ずフランス軍が攻撃を仕掛けたが、ドイツ軍も激しく応戦した。3月になり、220mm砲25門と155mm砲32門を使った砲撃の後、銃剣を装着した≪赤い悪魔≫の異名を持つフランス軍の精鋭・「第152ライン歩兵連隊(現在=コルマール駐屯フランス第7機甲旅団の前身)」の勇敢なる攻撃が始まる。 この戦闘では、死者400名・捕虜200名を出したドイツ軍は1月に奪った前線を失い、さらに尾根頂点から150mも東方へ大きく後退を余儀なくされる。260名の犠牲を払いながらも第152歩兵連隊は、ドイツ軍の機関銃陣地の多くを破壊した。 続く3月下旬の戦いではドイツ軍・フランス軍共に1,000名以上の犠牲者を出し、前線は再び尾根頂点を軸線としたオリジナル位置に戻ってしまう。1915年4月、濃霧など天候不順から大きな作戦が実行できず、戦闘のこう着状態が続いたが、下旬になると増派されたドイツ軍は攻撃を再開して尾根頂点付近を確保、陣地を囲まれたフランス軍は100名単位の戦死者と1,000名以上の捕虜を出した。 ハルトマンズヴィラーコフ・「第152ライン歩兵連隊」の記念碑 塹壕と陣地 ● ハルトマンズヴィラーコフの陣地&塹壕ネットワークの構造/一進一退の無意味な戦い〜戦闘の終了 その後、1915年・夏以降、両軍が兵を退き、攻撃が止む年末まではハルトマンズヴィラーコフの頂点周辺が事実上「無人状態」となることもあった。しかし、尾根頂点と前線の確保は両軍の最大目標であり、時折、双方共に大砲を使った砲撃と銃撃戦が散発的に行われ、30m先の敵の守備陣地を奪うために数十名〜100名単位の将兵が死傷すると言う、意味の無い消耗戦が続いた。 大規模な作戦がなく、戦闘がこう着状態となると、追加の援軍が到着したドイツ軍、そしてフランス軍は互いの防衛線に沿うように無数の塹壕(トレンチ)と銃撃する将兵の守備と休息や弾薬保管のための小型陣地を構築する(右上写真)。 ドイツ軍の塹壕は岩盤を掘り下げ石材を丁寧に積み上げ、機関銃などを撃つ陣地はコンクリートと鉄材を相当量使い、高い建築技術に裏付けされたシェルター様式の堅固な構造で、一方、フランス軍は深堀状の若干シンプルな塹壕、陣地は丸太と薄板材の骨組みで土石を積み上げる比較的簡素な構造であった。 その後も、特にドイツ軍の塹壕の構築作業は顕著となり、よりスピードアップされ、左上写真の例のように、ほとんどすべての陣地は蛇行する1m〜1.5m幅の塹壕で網の目のようにネットワークされ、電気や水道設備を備えた恒久的な要塞陣地の様相を呈してきた。 標高400m〜950mのハルトマンズヴィラーコフの尾根と山麓全体、ほぼ2.5km四方の森と斜面に構築された、約70%がドイツ軍の構築分だが、フランス軍分を合わせた両軍の塹壕ネットワークの総延長は90km(現存45km)、司令部を初め機関銃座や兵舎、診療所、食料・武器弾薬の保管施設、風呂やトイレ設備、捕虜収容所、礼拝所や戦死者墓地も含め、大小の陣地と兵站建物の総数は約6,000か所(現存1,500か所)という、互いに負けられない長期戦を意識した信じられない規模の駐屯施設に拡大された。 特に標高956mのハルトマンズヴィラーコフの尾根頂点の南北500mほどの区域には、数え切れない両軍の陣地とそれらを結ぶ塹壕ネットワークが連絡し合い引き締め合っていた。最も接近する敵対陣地では、尾根頂点から東南東75m付近に敷設されたドイツ軍陣地・「Dora」とフランス軍陣地・「P8」はわずか20mの距離で対峙していた。 尾根頂点から東南東400mに位置するアルザス平野を望む絶好の展望ポイント、標高920m、現在高さ6mの小型十字架が立っている「パノラマの岩場 Aussichts-felsen」に至る、ほぼ平原状のスペースに点在する陣地と塹壕ネットワークは、すべて互いに敵陣地から50m前後の至近距離に施設されていた。 1915年9月になり、尾根頂点から北東200m付近の戦闘でドイツ軍の工兵隊により初めて火炎放射器が使用され、塹壕ネットワークが丸見えとなる空軍の攻撃機の援護によりドイツ軍が幾分攻勢となった。反面、この時期のフランス軍は前線の奪回より、次の攻撃作戦の準備と防衛に力点を置き、新たに8か所に大隊駐屯地が設営された。 1915年12月、準備を整えたフランス軍は大砲300門を使い、約5時間にわたり、25,000発の砲弾を東側のドイツ軍陣地へ浴びせた。 砲撃の後、≪赤い悪魔≫の第152ライン歩兵連隊などが中心となり、フランス軍はドイツ軍の堅固な陣地と塹壕ネットワークが密集する尾根頂点から東北東400mの「パノラマの岩場」へ至る平原区域を初め、その下方の山麓の標高700m付近まで、最大で尾根頂点から東方1,200mのエリアまで進軍した。 この快進撃を称賛しながら犠牲となった将兵を悼むために、激戦となった「パノラマの岩場」の北壁には、戦争の終結後、1921年、彫刻家ヴィクトー・アントワーヌにより、戦闘兵士を形容した青銅製のフランス軍精鋭・第152ライン歩兵連隊の「慰霊レリーフ碑(左上写真)」が建てられた。 この戦闘で山麓の司令部まで150mの距離にまで追い込まれたドイツ軍は、800名の戦死者と1,400名の捕虜を出し大敗する。しかし翌日にはミュールーズに本拠地を置く援軍が到着、反撃体制を整えたドイツ軍が猛反撃に移り前線を押し戻した結果、フランス軍は600名の戦死者と1,500名の捕虜を出すことになる。この数日後の戦闘ではフランス軍セーレ将軍 General Marcel Serret がドイツ軍からの迫撃砲の炸裂を受け負傷、西方のツュル渓谷の病院へ収容されたが、4日後の新年に死亡する。 ドイツ軍は激戦の地・「ヴェンハイムの尾根と森」を「ハルトマンズヴィラーの丘 Hartmannswiller-kopf」と名称したが、亡くなったフランス軍セーレ将軍は、この地を「古いアルマン Le Vieil Armand」と別称し、また戦闘に参加したフランス軍将兵からはあまりの犠牲者をして「死の山」と呼ばれるようになった。 フランス語・「Armand」はドイツ語・「Herman」に相当する古くからの人名語であり、その言語由来は「戦う男=戦士」を意味している。 12月30日〜1916年の新年早々、1週間にわたり100門の大砲を使い、特殊部隊を投入したドイツ軍の猛攻撃が行われた。結局ドイツ軍の司令部に迫る位置まで快進撃したフランス軍は、獲得した前線ゲインをすべて失う事態となり、しかもわずか1週間の短期間に将校160名と兵士7,300名の命が失われ、ハルトマンズヴィラーコフの尾根と山麓の白い粉雪は流れた多くの血で赤く染まった。 そして、1916年4月になると、ドイツ軍は小粒子の詰まった通常の榴散弾のほかに毒ガスを充填した砲弾を使い始め、両軍の兵士は互いに防毒マスクを装着、極寒の冬に凍傷となった脚をかばいながら、残雪の過酷な環境の塹壕に潜む戦いを強いられた。 その後、1918年が始まり、深い積雪と極寒の2月下旬、フランス軍は500門の大砲と迫撃砲を並べて、172,000発という膨大な数の砲弾を撃ち続ける猛攻撃を開始、ドイツ軍は多数の死傷者を出し、尾根と山麓の陣地と塹壕ネットワークの大半が破壊された。 その頃、激戦の続くフランス・ベルギー国境地帯では、大集結したドイツ軍が1,500門の大砲を並べ、かつて無い最大規模で150万発の途方も無い数量の砲弾を撃ち続ける「勝利を信じた最後の作戦」を遂行するが、「連合国」の軍を壊滅させることはできなかった。 1918年・秋10月には、北方の戦線から装備に勝る強力なアメリカ軍がハルトマンズヴィラーコフの戦いに参戦してきた。そして、本国の敗戦の色彩が濃厚となり政治と社会の混乱から最前線のドイツ軍将兵も交戦意欲を失った。その後、北フランスで「連合国」とドイツとの休戦協定が締結された。 11月15日、ドイツ軍・フランス軍合わせて戦死者3万名を数えた「悪夢の戦場」・ハルトマンズヴィラーコフの尾根と山麓からも硝煙が消え、駐留したすべてのドイツ軍将兵が下山して撤退して行った。4年間の「命の消耗戦」を経た後、ハルトマンズヴィラーコフの尾根頂点を軸点とする両軍の最前線の防衛ラインは1mも動くことがないまま・・・ ------------------------------------------------------------------------ ● ハルトマンズヴィラーコフの慰霊/2014年8月3日/フランス&ドイツ大統領の参列した儀式 「第一次大戦」の開戦から丁度100年となる2014年8月3日(日曜日)、互いに敵対して戦ったフランスのオランド大統領とドイツのガウク大統領が、国立の「第一次大戦慰霊碑」が建つ標高900mのシルベルロッホ高原 Silberloch を訪れ、抱擁し合い、平和の尊さを訴え、大戦で犠牲となった合計3万名を数える両軍の従軍将兵を慰霊した。 シルベルロッホ高原はハルトマンズヴィラーコフの慰霊十字架の尾根頂点から西方900m付近、フランス軍の旧本拠地であり、直ぐ西脇をヴォージェ山地・最高峰1,424mグラン・バロン峰(峠=標高1,336m)へ向かう山岳道路、「ツールドフランス2014(上述・ゲーバーシュヴィール村)」も走行した快適な「ヴォージェ山頂ドライブウェー Routes des Cretes」が通っている。 シルベルロッホ高原のこんもりとした場所に「第一次大戦」の慰霊碑が建ち、その地下はフランス軍の無名将兵12,000名の納骨堂と記念展示室、そして、ハルトマンズヴィラーコフへ向かう慰霊碑の西方のなだらかな斜面には、フランス軍将兵1,260名が眠る芝生の国立墓地が整備されている。 現在、フランスの「歴史的建造物」に指定されているシルベルロッホ高原の施設は、近い将来、フランスとドイツ両国の「第一次大戦・共同慰霊地」として再整備される予定である。 なお、犠牲となり本国へ運ばれた将兵以外のドイツ軍の無名兵士は、ハルトマンズヴィラーコフの尾根から「水の村」・ヴァットヴィラーへ下る標高620mの山中墓地、南東麓のアルザス・ワイン街道の町セルネーや北東の渓谷の町ゲブヴィールの墓地に埋葬されている。 |
位置: ミュールーズ⇒西北西19km 人口: 7,950人/標高: 340m 「フランス 花咲く町と村」: http://www.villes-et-villages-fleuris.com/ 「フランス 美しい町100選」: http://www.plusbeauxdetours.com/ ● ヴォージェ山地・渓谷の交通の要衝タン/エンジェルブール城砦 ヴォージェ山地・最高峰1,424m・グラン・バロン山系 Le Grand Ballon の南麓、渓流ツュル川 Thur がアルザス平野へ流れ出る場所に位置するタン旧市街は、北西〜南東方向へ長方形に細長く伸び、その広さは東西450m 南北180mほどである。 ヴォージェ山地側、旧市街の南西端には13世紀起源のコウノトリの塔 Tour des Cigognes が建ち、アルザス平野側の北東端のツュル河畔には1411年起源で「白熱電球」か「球根」に似た珍しい形容の赤屋根の「魔女の塔 Tour des Sorcieres(1628年改築/内部=ワイン博物館 Cave Charle Hippler)」が残されている。 二つの石積みの塔とツュル渓流、そして、ヴォージェ山地の奥地の村クルス Kruth へ連絡する現在のフランス国鉄SNCFの線路に挟まれたタンの旧市街は、13世紀の終わり、1290年代には城壁に囲まれ要塞化されていた。 タンはミュールーズ方面からヴォージェ山地ビュッサン峠(1220年開通 Col de Bussang 標高731m/モーゼル川源流地)を越えてロレーヌ地方へ抜ける交通の要衝であり、交易の中継地として重要な町であった。このためツュル渓谷を往来する人々からの通行料の徴収場所として、南部アルザス・サングオ地方の名門貴族フェレット家が拠点としていた。 渓流ツュル川を渡った旧市街の北側にグラン・バロン山系の尾根が張り出し、標高415mの山頂(旧市街〜標高差65m)にフェレット伯フレデリクU世が、13世紀の初め頃、遅くとも1224年、シャトー・エンジェルブール城砦(天使の城砦 Chateau d'Engelbourg)を造営している。尾根の最も高い岩盤上に円筒型の見張り塔を建て、城砦の周囲全体を城壁で囲み、入口は2か所、少なくとも8か所に城壁塔があり、中庭はさらに内部城壁で囲まれていた(下述の描画・尾根の頂上付近)。 その後、1234年、フレデリクU世が親族(息子 or 父ルイ伯の息子?)に暗殺されたことから、一時的にストラスブール司教がエンジェルブール城砦を管理したが、1251年、バーゼル司教ベルトルドU世 Berthold II von Ferrette によりフレデリクU世の息子のフェレット伯ウルリヒU世(Ulrich II 〜1275年)へ引き渡している。 さらに14世紀になり、1324年、ウルリヒU世の孫の伯ウルリヒV世が男子継承者なしで亡くなり、その正統継承者となった娘ジョアンナが、ハプスブルグ・オーストリア公国のアルベルトU世公の元へ嫁ぐことで、エンジェルブール城砦はオーストリア領地の西の最前線を固める城砦の役目を果したが、翌年1325年、バーセルの司教へ所有権が移る。 南部アルザス・サングオ地方/フェレット城砦&ダンヌマリー周辺/「鯉フライ街道」と「コロンバージュ街道」 17世紀になると歴史は大きく激動して指導者や領主の変遷は激しくなり、「三十年戦争」の最中、スウェーデン軍や傭兵からスウェーデン軍の近衛騎兵連隊長を歴任したプロテスタント派のドイツ・ザクセン・ヴァイマール公ベルンハルト Bernhard von Sachsen Wiemar など、フランス支持の軍隊と神聖ローマ帝国軍とが入れ替わりタン市街に駐屯したことから、1633年〜1639年の短い間にエンジェルブール城砦の所有者は、何と7回も代わるという異常な事態となった。 1648年の戦争終結の後、城砦はルイXV世のフランス王国管理となり、1659年、イタリア生まれの枢機卿で、幼少のフランス王となるルイXIV世の教育担当となり、事実上の宰相(さいしょう)であったジュール・マザラン Jules Mazarin へ、タンの町と共に城砦の管理が委ねられた。 アルザス地方がフランス領となり、ツュル渓谷の「出口」に位置するタンに課されていた国境防備の役目が薄れたことから、1673年、ルイXIV世は尾根のエンジェルブール城砦の破壊を発令、居住建物と最も大きな見張り塔も破壊されてしまう。 今日、城砦跡には円筒型の塔の胴体部分の一部が、「穴開き輪切り大根」のように横向きに残り、タン市街を見下ろしているような形容、これを地元では「魔女の眼 Oeil de la Sorciere」と呼んでいる(下描画)。 アルザス・ワイン街道・タン/城砦の「エンジェルブール」 破壊された円筒型塔の名残り「魔女の眼」 また、城砦の「エンジェルブール」の呼び名は15世紀頃からとされ、フランスの守護聖人である大天使聖ミカエルから由来された名称とする説がある。なお、17世紀の破壊で崩れた居住建物の壁面と「魔女の眼」が遺構するエンジェルブール城砦跡は、1898年、フランスの「歴史的建造物」に指定された。 ------------------------------------------------------------------------ ● アルザス・ワイン街道の最南端/タンのブドウ畑 タン市街の中心である聖ティエボー教会堂(下述)〜北方100mのツュル川の橋を渡り、右折して住宅街を道なりに尾根へ向かえば、市街から標高差65mのエンジェルブール城砦跡へ登ることができる。 城砦跡の芝生の尾根からは、聖ティエボー教会堂を囲むタン旧市街の美しい中世の街並みそして、ツュル川に沿った東方(左岸)の斜面に広がるアルザス特級ワイン・グラン・クリュの指定ブドウ畑・「Rangen」を眺望できる。 アルザス・ワイン街道・タン/急斜面45°の特級ワイン・グラン・クリュ指定ブドウ畑・「Rangen」 アルザス・ワイン街道・タン/遠方の尾根に「魔女の眼」が残るエンジェルブール城砦跡 聖アーバン礼拝堂 St-Urbain Chapelle を囲む急斜面45°の特級ワイン用ブドウ畑「Rangen」 秋の季節・黄金色に染まる風景/描画=Web管理者legend ej アルザス・ワイン街道で最南端のブドウ畑・「Rangen」は、標高460m〜340m、聖アーバン礼拝堂 St-Uebain Chapelle を囲む最大45°の急斜面にある。め耕作地は約22haと決して広くはないが、陽当たりの良い尾根の南斜面であり、ブドウの品質はハイレベルである。 ワイン生産でタンが繁栄するのは15世紀になってからである。が、「Rangen」のブドウ畑に関しては、ヴォージェ山地の最高峰グラン・バロンの山麓、標高450mの谷間に建つミュルバック Murbach 修道院(フランスの歴史的建造物)の1272年の記述が残されている。 「Rangen」はアルザス・ワイン街道で最大級の急斜面のブドウ畑であるが故に、手入れと秋の収穫作業は難易である。地元情報に詳しい人から聞いた話だが、上方からセットしたロープを頼りに身の安全確保で剪定や収穫作業を行うとのこと。アルザス・ワイン街道の最南端に相応しいブドウの品質のみならず、その作業の「危険価値」も加味され、タンのアルザス特級ワイン・グラン・クリュは比較的高い価格となっている。 |
聖ウバルド St-Ubald(フランス=聖ティエボー St Thiebaut)の史実/タンとの関わりの伝説 後の聖ウバルド (Ubald-Gubbio=聖ティエボー)は、1084年、イタリア中部地方グッビオ(Gubbio ペルージャ⇒北北東30km)を治める裕福な貴族階級バルダシーニ家に生まれた。ドイツ系とされる祖父は有力者であったが、継承した父親と麻痺症を患った母親は短命で亡くなり、孤児となったウバルドは伯父にあたる父親の兄の家庭で育ったとされる。 同じ町にある聖セコンド修道院で最初の教育を受けたウバルドは、その後、生れ故郷で有力な司教を務め、1160年、76歳で亡くなる。タンに残る伝説では、ウバルド司教には北ヨーロッパ(オランダ or ロレーヌ地方)出身の忠実な下僕(しもべ)が居た。生前の司教の「遺言」では、司教が亡くなった時、忠僕は誠実に尽くした報酬として「司教指輪」を頂戴できるとされていた。 1160年、司教が2年間の痛みと出血の病気(痛風?)を患い亡くなると、その忠僕は「遺言」通り、「司教指輪」を外し親指を切り落とした。それを巡礼の杖の握りの中に隠して、生まれ故郷の北ヨーロッパを目指して帰省の旅に出た。 翌1161年6月30日、アルプスを越えて北へ向かうその忠僕がアルザス地方タンまで辿り着き、疲労困憊から一休みするため、モミの木に杖を立てかけ眠りにつく。そうして翌朝眼が覚めイザ出発する時、杖に「根が生え」抜けなくなってしまった。同時にモミの木の先端から「三つの光」が上がった。 その光景を尾根のシャトー・エンジェルブール城砦から見たフェレット伯フレデリクT世が下山して、忠僕から「物語」を聞き、これを「神のご指示」と判断、その場に聖遺物の礼拝堂を建てる約束をした途端に杖は抜けた。その後、聖ウバルド(聖ティエボー)の「親指と指輪」の奇跡は、北欧バルト海沿岸も含めヨーロッパ中に広まり、タンは人々が押し寄せる巡礼聖地となってゆく。 史実として、聖ウバルド(聖ティエボー)の妹スペランディアの娘(姪)がフェレット伯家親族と結婚したことで、タンの「親指と指輪」の伝説との相乗効果が生まれたもされ、聖ウバルド(聖ティエボー)とアルザス地方を強く関連付けている。 また、「神のご指示」の6月30日の夕方、タンでは「3本のモミの木」を燃やす≪送り火 Cremation des 3 Sapins≫の祭りがある。なお、タンの町の名称の由来はドイツ語・「モミの木=タンネ Tanne」とされ、町の紋章にも青地に「金色のモミの木」のデザインが施されている。 |
● タンの歴史と聖ティエボー参事会教会堂 歴史へ話を戻そう。12世紀以降、聖ウバルド(聖ティエボー)の「親指と指輪」の奇跡の物語、そして良質なワイン生産でタンの町は急激な発展を見る。 そうした中、「親指と指輪」の奇跡が起こった場所、フェレット伯フレデリクT世が聖遺物(親指)保管のために建てた小さな礼拝堂の場所に、1324年、聖ティエボーを奉る巡礼教会堂の建立が始まった。1351年には内陣と尖塔が完成、1490年代には身廊が完成、その後、作業は約200年をかけ、1516年に今日見ることのできる教会堂全体の完成を見る。 アルザス・ワイン街道・タン/14世紀創建〜16世紀完成のティエボー教会堂を中心に旧市街が広がる 聖ティエボー教会堂は、当初、1389年、教区の教会堂としてスタート、1441年にはタンの北西9kmのサン・タマラン(St-Marin 現在=人口2,300人)にあった修道院の修道士達のための学校(大学)となり、以降17世紀まで教区に属さない参事会教会堂 Collegiale St. Thiebaut であった。 聖ティエボー教会堂は、アルザス地方に限れば、ストラスブールの大聖堂に並ぶライン流域ゴシック様式の大型教会堂で、傾斜の強い切妻型のスレート屋根は、コルマール大聖堂と同じ仕様の赤茶と緑色の六角形の連鎖を描く美しい金網文様、身廊外壁は全体的には地元産のベージュ色の砂岩の切石積み造り、ぶ厚い柱状壁(バットレス/控え壁)は文様屋根と同様に1895年に増築されたものである。 身廊の北側にはストラスブール大聖堂やドイツ・フライブルグ大聖堂のそれに共通する、16世紀初頭に改築された高さ78m強、尖塔部は「8本の矢」を束ねたような複雑な施工のゴシック様式の鐘楼が立ち、一方、身廊と内陣の南外側には、1632年建立の「聖母マリア礼拝堂」や16世紀起源の聖ティエボー礼拝堂などが幾分複雑は配置で付属されている。礼拝堂に奉る聖母マリアはタンのワイン生産者の守護聖人とも言われている。 聖ティエボー教会堂の西正面入口(左下写真)は、有名な世界遺産のストラスブール大聖堂(右下写真)のそれに匹敵する位に非常に豪華で精緻な装飾が施されている。唐草文様に似た装飾金具で補強された赤錆色の入口扉は左右二か所、真ん中に中心柱が立ち、柱の上部には1360年に作られた高さ190cmの「聖母子像」が立っている。 アルザス・ワイン街道・タン参事会教会堂・西入口 ストラスブール大聖堂・西入口/アルザス地方 世界遺産/ストラスブール旧市街とノートルダム大聖堂 鮮やかな赤錆色の左入口脇の左壁面には、ドラゴン退治と農業の守護聖人ゲオルギオス像(19世紀)、14世紀の聖レオナルドと聖アマラン像、右側には守護聖人ティエボー像(14世紀)が参拝者を迎えている。 右入口脇の壁面には聖アポロニア像(14世紀)、19世紀の王冠と剣を持つ聖ルイ像、オルガンを携え神を賛美した聖セシリア像、容姿と知性の持ち主で「神秘の結婚」のベールを持つアレキサンドリアの聖カタリナ像など、高さ150cm〜等身大180cmの大型石像が教会堂への参拝者を見守るように立っている。 左右の扉口上部に各々小型タンパン部があり、「三人の博士マギの訪問」と≪イエスの誕生≫を表す「☆救世主」、「磔刑のイエス」の聖なるシーンの彫刻が施されている。さらに二つの小型タンパン部に支えられるように、その上部に大型メイン・タンパン部があり、細溝にびっしりと聖人と聖なる場面を刻むアーキヴォルト部(飾りアーチ部)、その上部壁面には聖人像が横に並ぶたいへんと豪華で複雑な装飾構成である。 5連の尖頭弧を描くアーキヴォルト部に囲まれた高さ400cm、幅520cmのメイン・タンパン部は上下に5段に区分けされている。その装飾は聖書(外典)からピックアップされた「聖母戴冠(尖頭部)」など≪聖母マリアの生涯 Vie de la Vierge≫、そして聖母マリアの母親と父親である「聖アンナと聖ヨアキム」に関わる25を数える聖なるシーンで、技巧極まる丁寧な表現力をもってベージュ色砂岩でレリーフ彫刻されている。 タンパン部の製作時期は1380年〜1400年とされ、西正面入口が「三面のタンパン部」で装飾された教会堂は非常に稀であり、聖なるシーンに彫刻された聖人や兵士、庶民を含め、三面の登場人物は合計500人に及ぶとされる。しかも、砂岩彫刻の技術面からしても、優美で細密な造形を最大の特徴とする中国の伝統的な象牙彫刻に並ぶほどの高い表現力である。 タン教会堂のゴシック様式のタンパン彫刻は、これより時代が150年以上早い12世紀ロマネスク様式の典型であるブルゴーニュ地方オータン・聖ラザール大聖堂のタンパン彫刻・≪最後の審判≫の図像などより、遥かに進歩した高い技工レベルと言える(下写真)。 オータン聖ラザール大聖堂/タンパン部・「最後の審判」/ブルゴーニュ地方 ブルゴーニュ地方ロマネスク様式のオータン聖ラザール大聖堂/ブランシオン教会堂 ---------------------------------------------------------------------- 訪れる人のために常時開いている身廊の北入口の装飾も見事で、巨大な窓の間を占める窓間壁(まどあいかべ)には15世紀の「聖母子像」が立ち、両脇には洗礼者ヨハネ像と聖ティエボー像、さらに脇には聖マルガリータ像などが並んでいる。その東方の鐘楼の北壁面にも10体を数える聖人の大型石像が立つ。 また、後陣の外壁(東側の広場)のぶ厚い柱状壁(バットレス/控え壁)に置かれているのは、11世紀の高潔で敬虔な人物であったとされる神聖ローマ帝国・聖ハインリッヒU世像(高さ120cm 1911年)、そして守護聖人である聖ティエボー像がある。これらの石像を含め、聖ティエボー教会堂の外壁全体は「合計87体の聖人像」で装飾されている。この表装石像の数は圧倒的と言える。 聖ティエボー教会堂の内部は高い複合柱で区分された三廊式、内陣とトランセプトの仕切り・内陣障壁の上方、尖頭アーチ型天井には十字架の磔イエス像が架けられ、イエスの養父・聖ヨセフ St-Joseph の祭壇(第二祭壇)がある左(北)側廊と南側の聖母マリア礼拝堂へ連結する右(南)側廊の天井は、他ではあまり例を見ない圧倒される美的なデザイン性、六方向へ延びる非常に複雑な星型交差ヴォールトになっている。 美しい聖なるインテリアでは、黄金のミトラ(司教冠)を支える二人の天使と黄金の衣装(カズラ)の聖ティエボー像で、これは木製でありながら黄金をふんだんに使い、銀などで多彩塗装された非常に美しい彫像(1520年・全体高さ130cm)である。内陣の右脇には高さ115cmの木製、黄金と銀などの多彩塗装された静かに書物を読む聖ティエボーの座像(1500年)、そして高さ137cm、濃いバラ色と深みのある瑠璃色の衣装の聖マリアが幼児を抱く姿を表現した聖母子像(15世紀)なども美しい。 17世紀の大理石製の説教壇、聖歌隊席(コーラス)の磨き抜かれた美しい木製ストール、19世紀のパイプオルガンなど内部のインテリアも含め、聖ティエボー教会堂はフランスの「歴史的建造物」に指定されている。 ● 中世〜近世/歴史に翻弄されたタンの町/フランスの「歴史的建造物」 1618年〜1648年の「三十年戦争」では、タンの市街はフランス支持の好戦的なスウェーデン軍の襲撃を受け破壊されるが、「フロンドの乱」を鎮圧したフランス王ルイXIV世はアルザス地方の大部分をフランス領土として獲得した事で1659年、宰相(さいしょう)であったジュール・マザラン枢機卿へタンの町の管理と所有を委ねた。 19世紀の後半に起こったフランスとドイツとの「普仏戦争」の後、タンも含めフランス領であったアルザス地方はドイツ・プロイセン帝国に編入、続く「第一次大戦」の後にはフランス領となる。50年〜100年毎に目まぐるしく入れ替わる、支配権と帰属の絶え間ない変換の歴史は、地政学的に避けることのできない「アルザス地方の宿命」とも言える大きな特徴である。結果、大きな戦争の後、支配権や経済面の変化を受け、相容れないかなりの人々がタンの町から去って行った。 戦争で激しく動揺する時代であっても、タンからツュル渓谷上流12kmのヴェッセラン Wesserling の大規模な繊維工場跡(現在=オーラン県繊維博物館 Musse Textile de Haut Alsace)でも分かるように、「産業革命」の影響を受け、19世紀から大量の水を使う繊維工場のツュル渓谷進出が相次ぎ、タンの町は繊維産業が活況、さらに糸や布生地を染める化学染料に関わるケミカル企業の進出(現在=市街東方で稼動)、1839年には産業都市ミュールーズへ連絡する鉄道も敷設された。 中世以来、波乱の歴史に翻弄されながらも繁栄したタンの旧市街には、エンジェルブール城砦や聖ティエボー教会堂のほか、フランスの「歴史的建造物」に指定されている史跡が数多く残されている。 旧市街の南西端の「コウノトリの塔(13世紀)」やツュル河畔の「魔女の塔(15世紀)」を初め、聖ティエボー教会堂の北西側の教会広場の聖ティエボー立像の大型円形噴水(16世紀)、広場の西側で現在「タン観光局」が入居しているが、柳色の壁面で上階がコロンバージュ様式で五階建て、三角帽子型の美しい装飾出窓を設けた建物(16〜17世紀)などがある。 また、聖ティエボー教会堂から北方100mのツュル川の橋の手前右側に建つ、柳色の四階建て、アーチ型ドアーの古い建物は16世紀からの穀物取引所であった。現在、ここは「博物館 Musse des Amis de Thann」となっている。教会堂から西南西50mほどの古い狭い通り Rue Curiale 17番地、壁面に痛みが認められるが装飾出窓付き建物は、1290年頃、タン旧市街が城塞化された時、エグイスハイム旧市街などと同様に、家屋の裏壁面を城壁にした造りの非常に古い建物(15世紀改築)である。 |
位置: ミュールーズ⇒北西10km 人口: 10,500人/標高: 250m 「フランス 花咲く町と村」: http://www.villes-et-villages-fleuris.com/ ● 戦争による破壊と復興の繰り返し/町の情景 有史以前、紀元前1500年代からアルザス地方には「ガリア人」と呼ばれる古代ケルト系譜の諸族が居住していた。古い伝承では、紀元前1世紀、古代ローマ帝国の終身独裁官ガイウス・ユリウス・カエサル(シーザー)が自ら執筆した「ガリア戦記・第1巻」の中で、「ウォセグス(ヴォージェ山地の古名)の戦い」の場所として、ヴィッテルスハイム周辺に関連を残すとされている。 その後、この地方への居住を試みたのは、現在のドイツ南西部の「黒い森地方」〜スイス北部を本拠としていた好戦的なゲルマン系アレマン人(アラマンニ人)とされ、弱体化したローマ帝国領への侵入を繰り返して、5世紀になりアルザス地方に定住を果した。 中世になり、神聖ローマ帝国(ドイツ)の混乱から、安定化に寄与するフリードリヒT世(バルバロッサ=赤髭王 1122年〜1190年)の統治時代、ヴィッテルスハイムは「ヴィットルスハイム Wittolsheim」として、1183年、ローマ教皇ルキウスV世の記述に登場する。中世のヴィッテルスハイムは政治的・宗教的に神聖ローマ帝国の支配下に置かれ、そのほとんどをバーセル司教やアルザス地方南部の貴族ハーゲンバッハ家 Hagenbach との関わりと共に歩み、波乱の歴史を積み重ねてきた。 近世、「フランス革命」の後、18世紀の終盤から19世紀の初め、政権を掌握したナポレオンT世の「第一帝政」の連続的な「ナポレオン戦争」により、アルザス地方はフランス領となる。その後、1870年〜1871年、スペインの「王家の継承問題」からドイツ対フランスとの「普仏戦争」が行われ、ドイツ・プロイセン軍が圧勝する。結果、「統一ドイツ帝国」を宣言したプロイセン王国は、アルザス・ロレーヌ地方を「独語=エルザス・ロートリンゲン」として直轄統治する。 20世紀に入り、1914年に第一次大戦が始まり、アルザス・ロレーヌ地方は上述の「激戦地ハルトマンズヴィラーコフ」を例に見るように、多くの町と村々と共に西部戦線の最前線としてヴィッテルスハイムも激しく破壊され、終戦後にフランス領となる。続く1939年から第二次大戦が始まり、ヴィッテルスハイムは再びナチス・ドイツ軍の砲火にさらされ、町の70%以上が破壊された。 |
シーザー執筆・「ガリア戦記」 古代ローマ帝国のガイウス・ユリウス・カエサル(シーザー)が、ローマへの反抗著しいガリア人に対して遠征した戦いを自ら執筆した「ガリア戦記」は、全8巻から成り、特にアルザス地方の南部に関わる史実では、紀元前1世紀、ガリア・ゲルマン系諸族との戦いを記録した「第1巻」である。 シーザー率いるローマ軍は、紀元前58年、先ず現在のブルゴーニュ地方オータン付近で行われたスイス〜南ドイツ地方を本拠とするゲルマン系ヘルウェティイ族との戦い・「ビブラクテの戦い」で勝利する。続いてシーザー軍は北上して現在のブザンソンを占拠した。 さらに首領アリオウィストゥス Ariovistus 率いる12万人のゲルマン系諸族との戦い、現在のヴォージェ山地周辺での「ウォセグス/ヴォージェ山地の戦い」でもローマ軍が勝利、ゲルマン諸族軍は8万人の犠牲を出し敗退する。 第二次大戦/ナチス・ドイツ軍の侵攻・駐屯したヴィッテルスハイムの街 2014年の夏、偶然の関わりで知り合った、「第二次大戦」を経験したヴィッテルスハイムの中心部、聖ミカエル教会堂の近くに住みドイツ語を理解できる80代の婦人の回想では、特に1940年のドイツ軍の攻撃では、メッサーシュミット戦闘機の機関砲の銃撃に始まり、地上軍の大砲による激しい砲撃が連続10日間にわたって行われ町は焦土と化したと言う。 婦人が大切に保管していたセピア色の写真にも映っていたが、東隣の住宅は榴弾砲の直撃で完全に破壊され、婦人の自宅も納屋の一部が被弾し破壊された。が、自宅は街で破壊を免れた数少ない大型建物の一つであった理由で、以降、侵攻して来たドイツ軍が撤退する1945年2月まで、ドイツ軍の司令部として徴用されていたと言う。 夫は60代で亡くなり、5人の子供達はそれぞれ家庭を持ち離れて生活、「キジトラ系文様」の年配ネコと花好きの婦人が独り住む2階建ての自宅に招かれ、宿泊した際に見せて戴いたが、慌てた司令部の撤収であったのか、ナチス・ドイツ軍兵士の錆びた鉄カブトが一つ残され、「記念品」としてネコのベッドルームである屋根裏部屋に置かれていた。 |
「第一次大戦」の破壊から復興したが、22年後の「第二次大戦」で再び完全に破壊されたヴィッテルスハイムの街の中心部では、コルマール南方の「フランスの最も美しい村」・エグイスハイムのようなコロンバージュ様式の古い建築の住宅や建物はほとんど見かけない。 ヴォージェ山地の麓の町セルネーからエンシスハイム Ensisiheim を結ぶ地方道D2号が東西方向へ延び、それに南東のミュールーズへ連絡する地方道D19号が直角に交差するヴィッテルスハイム中心部には、アルザス地方の伝統色でもある赤錆色の壁面と白色の窓枠が特徴の、左右対称の均整のとれたネオ・クラシック様式(新古典主義)の町役場 Mairie が建っている。 ● ヴィッテルスハイムの波乱の歴史を見つめてきた聖ミカエル教会堂 町役場の正面北側の空間は役場前広場、その北東側はフランスの守護聖人である大天使ミカエルを奉る聖ミカエル教区教会堂 Eglise St Michael de Wittelsheim の高い西正面ファサードが建ち塞いでいる。聖ミカエル教会堂はヴィッテルスハイムの象徴であり町の人々の心の拠り所である。 ヴィッテルスハイムの聖ミカエル教会堂が、歴史の中で最初に登場するのは12世紀後半の1183年、ローマ教皇ルキウスV世の記述である。その後、17世紀の「三十年戦争」ではアルザス・ワイン街道の多くの町や村々と同様に、教会堂はフランス支持の好戦的なスウェーデン軍の襲撃を受け破壊されてしまう。アルザス地方の大部分がフランス領となった後、1705年、身廊の再建、1768年に鐘楼が建てられ、さらに18世紀末までには内陣などが拡張された。 20世紀になり、「第一次大戦」で大きく破壊されるが、1931年、建築家 P. Kirchacker と彫刻家 Alexandre Morlon により、西正面ファサード上部切妻にタンパン部と荘厳な破風彫刻が施工された。しかし、その10年後には「第二次大戦」のナチス・ドイツ軍の砲撃により教会堂全体が粉々に崩れ落ちてしまう。 戦後、信仰深いヴィッテルスハイムの住民と自治体からの寄金を元に、崩れた瓦礫を積み上げ、教会堂の基礎部と西正面ファサードは元の姿へ復元された(左下写真)。ファサード切妻の頂点には羽先がわずかに破断した大きな両翼を広げ、右手に剣を持ち、左手に公正なる秤(はかり)を持った守護神・大天使聖ミカエル像が、さらに切妻の左右端には巻物を持つ2体の天使像も復元・安置された。 ただし旧教会堂の構成石材の破壊が激しく、基礎部や時計台を兼ねる鐘楼の一部を除き、身廊や後陣の屋根や外壁は元の姿へ戻すことはできず、20世紀の新しい白壁建築となった。教会堂と鐘楼の再建が完了した後、1955年、新たに製作された鐘ベルの献鐘式は、町の住民(当時約9,000人)のほとんどが参列した壮大・壮麗な式典(上述コラム80代婦人の話)であったとされる。 ヴィッテルスハイム・大天使-聖ミカエル教会堂 西正面入口付近・「銃弾痕」 また、西正面入口の左側の石材は旧教会堂の壁面に使われていたヴォージェ山地産の灰色と淡い赤茶色の砂岩を再使用した施工で、「第二次大戦」のドイツ軍の戦闘機の機関砲の掃射による弾痕が生々しく残され(右上写真)、ヴィッテルスハイムの被った戦争の悲劇を後世に伝えている。 教会堂の内部は、当然、「第二次大戦」の後の再建だが、アルザス地方で生まれた彫刻家による十字架を背負って「ゴルゴダの丘を登るイエス」や「磔刑」など、≪イエスの受難≫を表現した木製の大型浮彫図像が身廊の側壁を飾っている。また、半円形の内陣へ続く十字型トランセプトの左右には男女の聖人が装飾されている。 |
戦争の傷跡/銃弾痕の壁面 アルザス地方では激しい戦争が繰り返し行われたことから、ヴィッテルスハイムの聖ミカエル教会堂のみならず、戦争の記憶として銃弾痕を残す壁面のある教会堂は珍しくない。また、アルザス地方だけでなく、現在ドイツ領となっているライン川の東側の、例えば岩丘に建ち15世紀の聖なる壁画を残すブライザッハ Breisach の聖ステファン大聖堂の身廊外壁面でも「第ニ次大戦」の激しい銃弾の跡が確認できる。 「アルザス・ワイン街道」(中部)コルマール周辺/エグイスハイム旧市街/花を飾るコロンバージュ様式の村々 |
● アルザス・カリウム岩塩鉱床の生成 中世〜近世、絶え間ない戦争にさらされて来たアルザス平野のヴィッテルスハイムだが、800年以上の町の歴史の中で「最大級」の出来事は、何をさて置いても「第一次大戦」が始まる直前、1904年の試掘ボーリングにより、ドイツ帝国領であったヴィッテルスハイム周辺の地下に眠る膨大な量の「カリウム(カリ)岩塩鉱床」が確認されたことを抜きに語れない。 ヴィッテルスハイムはカリウム岩塩の大規模な採掘・精練を行う「鉱山の町」として、20世紀の初頭から資源が枯渇する約100年間、繁栄を享受してその存在を堅持して来た。 「窒素・リン酸・カリウム(カリ)」は世界中の学校で教える「肥料の三元素」である。その一つ、アルカリ金属元素カリウム(K)は高い反応性から単体では自然界に存在できず、通常、塩化ナトリウムや粘土類などの「岩塩」と一緒の状態で産出される。 精製されたカリウムは主に根の生育に欠かせない塩化カリウム系や硫酸カリウム系 の肥料、利尿薬などの医薬品、食品添加物や火薬原料、さらに電子や化学工業 分野にも幅広く使われる。 地質時代、塩湖や沿岸の浅い潟(ラグーン)などの水分が蒸発して、濃縮生成さ れた本来無色の塩化カリウムの「シルバイト(シルビン)」は、「岩塩」と呼ばれる塩 化ナトリウムとほぼ同種の堆積鉱物で、鉄分などが混じり透明感のある赤茶色とな り、通常、岩塩と一緒に産出される。 一般に塩化カリウム含有の赤茶色シルバイトと塩化ナトリウムの乳白色の岩塩は、 「カリウム(カリ)岩塩」と呼ばれている(左写真)。 1970年代採掘カリウム岩塩(シルバイト) ヴィッテルスハイム近郊鉱山エンジニア勤務者家族の保管品/アルザス地方 太古の昔、最高峰1,424mのグラン・バロン山を抱く今日のヴォージェ山地、さらにライン川東岸のドイツ南西部・「黒い森地方」などはほぼ平坦、なだらかな形容の地形であったとされる。ただ南部アルザス平野に相当する幾分低い場所には「大きな浅い湖」があり、その湖底に塩類が沈殿・堆積され、途方も無い長い年月をかけて岩塩層が形成されて行く。 そうして今から5,000万年前、「新生代・古第三紀」に地球規模の地殻変動が起こり、「大きな浅い湖」を挟むようにドイツ・「黒い森地方」とフランス側・ヴォージェ山地が、100万年ほどかけて同時に隆起を始めた。この結果、「大きな浅い湖」の水は南西のベルフォール方面から遠く地中海へ流れ出し、湖の乾燥化が進み「アルザス平野」が生まれる。 さらに東西の山地が形成される過程で平野の地盤が幾分引き延ばされた結果、「黒い森地方」の麓付近に南北の直線の裂け目が生まれ、これが現在のライン川となったとされる。 ● 1904年/「石炭探査」の試掘ボーリング 太古の昔に起こった地殻変動の結果、「大きな浅い湖」が乾上がり形成されたアルザス平野、その地下400m〜1,100mには膨大な量の「カリウム(カリ)岩塩鉱床」が生成され、今から100年ほど前、20世紀初頭、1904年にその存在が確認された。 カリウム岩塩鉱床の発見者は、アメリア・ズーシィ女史(Amelia Zurcher 1858-1947年)と技術者であり政治家・実業家でもあったジョセフ・フォークト(Joseph Vogt 1847-1921年)、鉱山の開発に尽力したのは実業家ジョン・バティスト・グリーゼ(Jean-Batiste Grisez 1861-1915年・下記コラム)やジョセフの息子フェルナンド・フォークト Fernand Vogt などであった。 アメリア・ズーシィ女史の父親は、18世紀の「産業革命」の波に乗ってアルザス地方の経済を潤した繊維会社(インド風織物)の経営者であった。アルザス・ワイン街道のオールヴィラー城館の東方4km、ボルヴィラー村 Bollwiller にあった父の邸宅シャトーで生まれたアメリアは、その後、ナンシーのドミニコ修道会系の学校へ進み、地質学の学士号を取得した。 その後、父親が亡くなり、親の遺産を引き継いだアメリア女史と1870年〜1871年の「普仏戦争」で負傷した兄アルバートは、1877年頃、アルザス・ワイン街道の町セルネー市街地から南方2,5kmの平原・ルツェルホーフ Lutzelhof の農園邸宅を購入した。その農園はセルネー周辺〜アルザス平野まで、荒れた森林を含め農耕地など約800ha(約9km四方相当)に及ぶ広大な敷地を保有していたが、1890年代になり頻繁に厳しい干ばつに見舞われた。 農園経営の破綻回避策として、アメリア女史は当時ミュールーズやヴォージェ山地マズヴォー渓谷(Masevaux-Niderbruck セルネーの西南西15km)など4か所で、鉄と銅の鋳物工場や繊維用機械の会社を経営するアルザス・ワイン街道ゾウルツ・オー・ラン生まれの技術者であり実業家のジョセフ・フォークトに相談、ジョセフの冶金とメカニカル技術力をもって、アメリア女史の所有地内での「石炭探査」を持ちかけた。 その当時、1900年頃、すでにジョセフ・フォークトはビール醸造所の経営者ジョン・バティスト・グリーゼと共同で、ストラスブールから北方40kmのペシャルブロン村 Pechelbronn で原油の採掘を始めていた。ジョセフ・フォークトはビール醸造に関連する水脈探査の技術者でもあったジョン・バティスト・グリーゼの持つ専門知識が、アメリア女史との地下の石炭探査に活用できると確信していた。 そうして、準備を整えた土地保有者であり地質学者のアメリア女史と兄アルバート、技術者で政治家・実業家のジョセフ・フォークト、実業家であり地下水理学の専門家ジョン・バティスト・グリーゼと研究者である弟フィッシャー、合計5人の「合弁事業者」は、1904年7月ヴィッテルスハイムから南方3.5km付近、「Joseph地区」で最初の石炭探査の地下試掘ボーリングを開始した(下地図)。 アルザス・カリウム(カリ)岩塩鉱山/操業所&採鉱坑道/作図=Web管理者legend ej |
ビール醸造所の経営者ジョン・バティスト・グリーゼ ジョン・バティスト・グリーゼ(Jean-Batiste Grisez 1861-1915年)は、世界遺産・要塞都市ベルフォールの北東17kmのラシャペル・スー・ルージュモン村 Chapelle -sous-Rougemont にあった、1805年創業のグリーゼ家の「ラシャペル・ビール醸造所」の四代目経営者であった。 ビール醸造に必要な良質な地下水を研究する専門家でもあったジョンは、1900年頃、技術者であり事業家で政界有力者ジョセフ・フォークトと共同でバ・ラン県(北部アルザス地方)で原油掘削も行っていた。 アルザス平野〜ベルフォールを結ぶ主要道路(現在N83号)の宿場町であったラシャペル・スー・ルージュモンはかつて駅馬車の停留所があり、18世紀には15軒の宿屋も営業、1870年〜1871年の「普仏戦争」の後には破壊と混乱のアルザス地方の都市から避難してきた学生300人が学ぶ大学も開校され、住民1,000人の賑わいがあったとされる。 グリーゼ家の醸造所では最盛期に従業員40名が働いていたとされるが、1962年、時代の流れの中で160年近いビール造りの歴史に幕を閉じている。 またグリーゼ家のビール醸造所の施設などは撤去されてしまったが、1881年、ジョンの妻が建立した小さな礼拝堂が、村役場よりベルフォール寄り、主要道路N83号の南側、かつてのビール醸造所敷地に残されている。現在、村は人口600人ほど、村役場と教会堂、機械関連の小企業が稼動する以外に目立つスポットはない。 |
● カリウム岩塩鉱床の発見/「カリウム岩塩トライアングル」/ドイツ資本と地元鉱山会社KST 5人の「合弁事業者」によるJoseph地区での最初の試掘ボーリングは1904年10月末まで続けられ、ボーリング・ドリルビット(先端)は地下1,119mの深さに達した。ただ、試掘されたボーリング・コア(採取サンプル) の分析では、石炭の埋蔵鉱床は確認できず、アメリア女史と協賛の技術者達の期待を大きく裏切る結果となった。しかし、サンプル・コアでは地表から深さ600m付近に予想外の厚さ20mの膨大の量の「カリウム岩塩鉱床」が確認された。これはアルザスの歴史を上塗りする世紀の大発見であった。 19世紀のドイツでは肥料となるカリウムは石炭より遥かに利益が生まれる地下の鉱物資源とされ、1900年の時点で中世から岩塩産地として知られている中北部ハルツ山地の北東側のシュタースフルトなど、すでに100か所のカリウム岩塩の採鉱坑道が稼動していた。このことから、試掘ボーリングは合弁事業者が当初期待した石炭探査から「カリウム岩塩探査」へとターゲットが大きく変更された。 試掘ボーリングはさらにスピードアップが図られ、ミュールーズの北西エリア一帯に探査範囲が拡大され、そのカリウム岩塩鉱床を探す作業は1907年まで続けられ、試掘されたボーリング孔は累計165か所を数えたとされる。 各地の試掘ボーリングで得られたサンプル・コアの精密分析の結果、半透明のガラス質で赤茶色と乳白色の無数のゼブラ層を呈するアルザス・カリウム岩塩は極めて良質で、25%の塩化カリウム、60%の塩化ナトリウムを含有、残り15%が「ぼた山・ズリ山」を築く不要物の硬石膏質と粘土類と判明した。 そして、地下400m〜1,100mで確認された平均厚さ20m、場所によっては厚さ40mとなるアルザス・カリウム岩塩の鉱床分布は、産業都市ミュールーズ〜(地方道D20号)〜エンシスハイム〜(D4号&主要道路N83号)〜セルネー〜(主要道路N66号)を結ぶ「カリウム岩塩トライアングル(三角地帯)」を形成、その地表面積は約222Kuに及んでいることが正式に公表された(上述地図)。 当時、アルザス地方は「アルザス・ロートリンゲン」と名称され、1870年〜1871年の「普仏戦争」の勝利者・ドイツ帝国の支配区域であり、アメリア女史とジョセフ・フォークトなど合弁事業者は、フランス・パリではなく、ドイツ・ベルリンでの資金融資先を模索、1906年、ドイツ系企業 Gewerkschaft との契約で操業資金の調達を行い、採掘会社を立ち上げた。 1908年、ヴィッテルスハイムから南東2km、発見者アメリア女史の名を取り後に「Amelle第一鉱山」となる場所に最初のヘッドフレームタワーが建ち、縦坑道の掘削(深さ694m)が始まり、2年後、1910年、本格的なカリウム岩塩鉱石の採鉱が開始された。 1910年、「Amelle第一鉱山」で採鉱・精練が始まると、有望な埋蔵量のカリウム岩塩へ期待をかけた潤沢資金を持つドイツ系資本が流入して、3つの鉱山資本グループが組織され、鉱山開発と採鉱に拍車をかけた。 1910年には「Amelle第一鉱山」の直ぐ南側で坑道掘削を開始した「Max鉱山」も稼動、翌1911年には最初の試掘ボーリングが行われたヴィッテルスハイムの「Joseph鉱山」、ボルヴィラー近郊「Alex鉱山」や「Rodolphe鉱山」などが、続々と直径4m〜6mほどの縦坑道掘削を開始した。 また、1910年、当初の合弁事業者の1人ジョセフ・フォークトの息子フェルナンド・フォークトが最高管理者となって、民間企業・「Kali Sainte- Therese カリー・サント・テレーズ鉱山会社 KST」が創設され、地元企業としてカリウム岩塩の採鉱をスタートさせた。 ● 「第一次大戦」の始まり/鉱山のドイツ管理 アルザス・カリウム岩塩の採鉱と精練が始まった直後、1914年、ヨーロッパはドイツ帝国とオーストリア・ハンガリー帝国などの同盟国それに対するイギリス・フランス・ロシア・アメリカなどの連合国との「第一次大戦」が始まる。 すでに戦争直前までにカリウム岩塩の採掘坑道は合計13か所で操業を行っていたが、戦争開始と同時に、すべての鉱山はドイツ帝国の管理となり、民間鉱山会社KSTの責任者フェルナンド・フォークトはドイツで軟禁状態に置かれ、会社が保有していた鉱山からの岩塩の産出は中断された。また、戦争中、フランス軍の戦闘機による爆撃で一部の鉱山施設が破壊された。 開戦前、労働力不足から各鉱山は先ず地元アルザス地方と特にイタリアからの労働者の雇用を行っていたが、戦争が始まるとお国の徴兵制度からイタリア人労働者は本国に帰国して戦地へ赴くことになった。またアメリア女史の農園はドイツ軍の野戦病院となった。 ----------------------------------------------------------------------- ● 「第一次大戦」〜戦後/鉱山のフランス国営鉱山会社MDPA/新鉱山開発とポーランド移民/「鉱山街」 1918年、「第一次大戦」が終戦、「ヴェルサイユ講和条約」の締結から、アルザス・ロレーヌ地方はフランス領となり、カリウム岩塩鉱山はすべてフランス政府の管理下に置かれ、採鉱の再開と拡大が図られた。 戦後、1921年、4か所の採掘エリアが編成設定され、鉱山会社KSTは民間企業のまま主に「カリウム岩塩トライアングル」の北部エリアに組み込まれたボルヴィラーとエンシスハイム近郊の操業が保障され、残りの鉱山はフランス政府の管理となった。 さらに、1924年になると法律が改正され、フランス政府の「Mines de Patasse d'Alsace 国営アルザス・カリウム鉱山会社 MDPA」が誕生して、主に「カリウム岩塩トライアングル」の西地区となるスタフェンフェルザンやヴィッテルスハイム周辺、東地区のヴィッテンハイム〜ミュールーズの北西地区など、広大な南部エリアに点在する鉱山を担当することになる(上述地図)。 特に国営鉱山会社MDPAは、新規の鉱山開発と産出量の増加、それに伴った労働者の雇用と生活面のバックアップに力を入れた。「第一次大戦」が終わった1918年に登録された鉱山労働者数は約3,400人、1924年には6,500人に増加、1930年には11,000人に激増、これは国策の後押しで主に数千人規模の東欧ポーランドやアフリカ諸国からの外国人労働者の受入を行ったことによる。 民間鉱山会社KSTも、国営鉱山会社MDPAも、新規の坑道の掘削、精練工場と汚水処理施設、連絡鉄道の敷設などに莫大な資金を投入して、カリウム岩塩の増産を図った。 さらに国営鉱山会社MDPAは、地元と海外から雇用した労働者の激増から、中世から続く伝統的な町と村の郊外に、新たに18か所の「鉱山街」を設定して、人口の増加に伴う社会的な課題と問題に対応した。1925年〜1930年の間に約4,000戸の労働者向け住宅が建てられ、道路整備が行われ、幼稚園や学校、教員宿舎や独身寮、病院と薬局や健康センター、教会、協同組合ショッピングセンター、スポーツとクラブ活動施設、大型集会ホールなども建設された。 |
「鉱山の町」ヴィッテルスハイムの人口増加 第一次大戦が終わり、国営鉱山会社MDPAが誕生した後、主にポーランドからの労働者の雇用などでヴィッテルスハイムの人口も急増する。1900年頃まで村の人口は約1,500人前後で安定推移していたが、第一次大戦の後、1920年頃から増加傾向となり、1930年代には7,100人の町、1960年代に入ると10,000人、今日では10,500人となっている。 2014年夏、「鉱山の町」ヴィッテルスハイムを訪ねた際、偶然に知り合った人達の中に祖父が鉱山で働いたというポーランド系の40代の男性(三世)も居て、現在、ミュールーズ郊外のプジョー自動車の大規模工場に勤務をしていた。 鉱山労働者用の住宅建設 「鉱山の町」であるヴィッテルスハイムを例に取れば、聖ミカエル教会堂と町役場のある市街から南方3.5kmの「Joseph鉱山」へ抜ける地方道D19号の両脇には、2014年に訪ねた時点でも、第一次大戦後に建てられた鉱山労働者用の大型住宅が点在している。多くの建物は丁寧にメンテナンスされ第二次大戦後に建てられたモダン住宅と同様なキレイな外観を保ち、現在でも居住されている。 第一次大戦後に急増した二世帯、または四世帯が入居できる集合住宅様式のこのタイプの建物に共通した特徴は、納屋に充てる半地下部屋があり、生活居住階は地面から1,5m〜2mほど高く、数段のステップを上ると玄関となり、居間やキッチン、トイレ・バスルームが並び、ベッドルームに使用された屋根裏の2階には外部へ出られるベランダ空間はないが、眼に止まる特異な半切妻屋根には大型屋根付きの張出ドーマー(出窓・明り採り・通風)が施工されている。建物全体は独特なフォルムでたいへん堅固な造りである。 また、同じ地方道D19号の東側には、フランスの「歴史的建造物」に指定されている、1926年に建てられた傾斜のある赤茶色のスレート屋根、3階建ての大型邸宅風の「集会ホール Salla Grassegert」が残され、当時を偲ぶ貴重な建築物として公開されている。 |
● 「世界恐慌」〜「第二次大戦」の始まり〜戦後/失業者増加⇒新鉱山開発⇒再雇用 1929年にアメリカから始まった「世界恐慌」の影響を受け、カリウム岩塩鉱山の採鉱と販売にも影響が及び、翌1930年になると鉱山労働者の失業が始まった。さらに1939年のヒトラー率いるナチス・ドイツ軍のポーランド侵攻で「第二次大戦」が始まり、1940年になるとアルザス地方はドイツ軍の激しい攻撃を受け占領され、すべてのカリウム岩塩鉱山はナチス・ドイツの管理下に置かれた。 鉱山の管理体制の弱体化から、1940年には25名の犠牲者を出す大きな坑内事故も発生、1944年の「ミュールーズ解放」、翌年の終戦に至るまでカリウム岩塩の採掘量は激減する。が、戦後アルザス地方はフランス領となり、1946年にはフランス政府指導で採鉱が再開され、その産出量は1939年のレベルまで回復した。 しかしながら、幾らかの鉱山では戦争中にドイツ軍機の攻撃で採鉱ヘッドフレームタワーが破壊され、さらに市街地のみならず4,500棟以上を数えた労働者用住宅も大きなダメージを受け、全壊120棟を含め、約3,000棟が何らかの破壊から免れなかった。 「第二次大戦」の後、民間鉱山会社KSTと国営鉱山会社MDPAは、設備の近代化と工場の機械化、現場環境の改善、生産性の向上と採鉱量の増大に焦点を当てた。新たな坑道も稼動を始め、労働者の雇用も再開、1948年には13,880人が登録された。北部エリアを担う民間鉱山会社KSTは合計4か所の操業鉱山・坑道8本、南部エリアで操業する国営鉱山会社MDPAは合計7か所の鉱山・坑道16本をフル稼動させて岩塩採鉱と精練を行い、カリウム生産量はフランス最大級となった。 1922年から操業始めた民間鉱山会社KST・「Ensisheim鉱山」の縦坑道は最大深度1,033mに達した。また、地下の採掘現場では22m下がる毎に地熱温度が1℃上昇したとされ、例えば深度800mの岩盤温度は47℃にも上昇、作業環境の維持と採鉱効率を上げるために、大量のフレッシュな外気が地下深い切羽(きりは)へ供給されたとされる。 ● 最盛期⇒岩塩鉱床の枯渇⇒2002年全鉱山の閉山 その後、1950年代に入ると複数の鉱山でカリウム岩塩鉱床の枯渇が現れ始め、1952年に国営鉱山会社MDPAが運営する南部エリアの「Max鉱山」が閉山、1954年には北部エリアの民間鉱山会社KSTの「Alex鉱山」が、さらに1961年には「Ensisheim鉱山」が閉山するなど、資源の有限性が意識されるようになる。 それでもほかの鉱山は問題なく稼動を続け、最盛期となる1974年には「カリウム岩塩トライアングル」の鉱山全体で年間1,300万トンを産出できた。また、「Staffelfelden鉱山」では累計9,300万トンのカリウム岩塩だけでなく、最深部1,900m以上の試掘孔から原油が噴出、12年間で55,000トンの産出量を上げるなど「副収入」も生み出した。 しかし、鉱床の枯渇はその後明白となり、減産と閉山を余儀なくされる鉱山が次々に現れる。1970年代の後半には累計8,600万トンの岩塩を採鉱したヴィッテンハイム近郊の国営鉱山会社MDPA・「Fernand鉱山」が閉鎖、さらに1990年代には累計8,000万トン以上を実績したスタフェルフェルザンの「Marle-Louise鉱山」も閉山する。 2000年代に入り、すべての鉱山が閉鎖された後、最後まで操業を続けたのは岩塩の発見者アメリア女史の名を付けたヴィッテルスハイム南方の「Amelle第一鉱山」で、1910年の操業以来の産出岩塩量は累計1億5,000万トンを達成、2002年に操業が停止された。 1904年、南部アルザス平野のヴィッテルスハイムの地下で膨大な埋蔵量のカリウム岩塩鉱床が発見され、1910年の本格的な採鉱〜すべての鉱山閉山までほぼ100年間、「カリウム岩塩トライアングル」から掘り出された岩塩鉱石は合計5億6,700万トンに上った。その内の88%(4億9,700万トン)は国営鉱山会社MDPAの坑道から、残りの12%(7,000万トン)を民間鉱山会社KSTが採鉱した。 現在、閉山したずべての鉱山の縦坑道はコンクリートなどで埋め戻され密封、多くの工場施設は解体され更地へと整地され、幾らかは不要物の粘土類などの「ぼた山・ズリ山」が残された。 1904年に最初の試掘ボーリングが行われた「Joseph鉱山」やボルヴィラーの「Rodolphe第二鉱山」などでは、高くそびえる採鉱ヘッドフレームタワーを初め、壁面がレンガ造りの精練工場や労働者用施設などは保存され、フランスの「歴史的建造物」の指定を受け、今日、NGO運営の「産業博物館」として一般公開が行われている。 また、鉱山の繁栄の影では、カリウム岩塩の採掘で地下に空洞が生まれ、精練に大量の水を使った理由から、「カリウム岩塩トライアングル」に囲まれた南部アルザス平野の地下水脈が大きく変化を起こし、農業耕作地は顕著な影響を受け(上記コラム 80代の婦人の話)、学校や住宅が傾くなど市街地の極端な地盤沈下も各地で発生、さらにカリウム岩塩鉱床以外の岩石層に含まれる水銀のライン川への流出汚染も深刻な問題を引き起こした。 閉山された鉱山勤務の地元の人々とポーランドや北アフリカなどからの外国人労働者は、ミュールーズ郊外のプジョー自動車工場、清涼な水が豊富なヴォージェ山地の渓谷や古い街タンで発展した大規模な繊維産業などで再雇用されたとされる。 |