legend ej の心に刻む遥かなる「時」と「情景」

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バルカン山地の古都ヴェリコ・タルノヴォ & エタル民俗博物村
Veliko Tarnovo / Etar Ethnographic Village Museum

トラキア山地 バチコヴォ修道院 & バルカン山地 シプカ修道院
Bachkovo Monastery / Sipka Monastery

ヴェリコ・タルノヴォ Veliko Tarnovo/(C)legend ej
                  真冬の古都ヴェリコ・タルノヴォの夜/バルカン山地

民家の密集するヴェリコ・タルノヴォ旧市街

歴史ある古都の美しさ
バルカン山地の奥地から流れ出たヤントラ川 Yantra は、山中のガブロヴォ Gabrovo を経由した後、複雑に蛇行を繰り返し最終的には国境の町ルッセ Ryce の少し上流でドナウ川に吸収される。ヤントラ川の中流域、ブルガリアの波乱の歴史を秘めた人口約70,000人のヴェリコ・タルノヴォ Veliko Tarnovo は、絶壁の上に開けた町である。

かつて12世紀以来、ヴェリコ・タルノヴォは第二ブルガリア帝国の首都として繁栄を極めた。13世紀になりイヴァン・アセンU世統治の時代には帝国は最大領土となり、その後東ローマ帝国(ビザンティン帝国)をも圧倒する勢力に発展したが、14世紀後半〜500年に及ぶイスラムの強大な勢力オスマン・トルコ帝国のブルガリア支配が始まる。
この間、バルカンはイスラムの影響を大きく受けることになる。ブルガリアがオスマン・トルコからの完全独立を果たすのは1879年になってからである。その厳しく長い独立運動の中心的な存在であったのが、この哀愁漂う古都ヴェリコ・タルノヴォであった。


氷点下15℃・真冬の風景/風はなく ひたすら冷え込む
私が訪ねたこの日、ヨーロッパ全域が「この冬一番」と言われた厳しい寒波に襲われ、ヴェリコ・タルノヴォも気温氷点下15℃を記録した。バルカン山地の山懐にサラサラと音もなく粉雪が舞い、その静けさが風景を美しく変え、凍てつく寒さに震えながら静かに眺める歴史ある古都の黄昏は余りにも優し過ぎる。

その情景は久しぶりに私を感傷的にしてくれた。それはめったに経験することのできない旅の貴重な時間となり、十分な満足感を覚えるに相応しい充実した「人生の時」でもあった。旅行シーズンからほど遠い、この厳しい極寒の真冬の時期、あえて東欧を旅するからこそ、自分の心の奥底へ静かに語りかけることのできる時間でもある。
焦る必要はない、極寒ブーツやアウター、帽子も手袋もすべてGORE-TEX仕様で固めた防寒対策なので心配は不要、しかしハイテンションにならずにメンタルは冷静沈着で良いのだ。


20年ぶりの古都の風景
1982年、私はこの哀愁のヴェリコ・タルノヴォを訪ねたことがある。丁度20年ぶりに訪ねたバルカン山脈の古都は、かつて軍の兵士達だけが目立った緊迫の「東西冷戦」の時代とは大きく様変わりしていた。
1990年代の民主解放により明るくなった人々の表情やミニスカートのウェイトレスが応対する流行りの西ヨーロッパ風カフェテリアの開店など、驚くほどの変化であった。しかし深深と冷え込んできた黄昏時、眺める街全体の佇まいは以前とまったく変わらず、東欧特有の優しい雰囲気と静けさをかもし出している。
昼間見たしゃれたミニスカート姿のウェイトレスの白い太ももの残像は、遠慮がちに少しだけ退いたような気がした。やはり東欧の古都には日本の「侘び・寂び」に通じるものが似合うと思う。

風もなく、ただ気温だけが低い極寒の中にあって、穏やかな東欧の典型的な冬の風景を見せる古都ヴェリコ・タルノヴォの街。砂岩の絶壁に寄り添うように密集する旧市街の家々の窓や降り積もった粉雪の屋根が、重なり合いひっそりと厳しい気候に耐えている。こんな静寂で美しいヴェリコ・タルノヴォの街は心に刻む遥かなる「時」、脳裏に確実に刻みつけようと、しみじみとそう思うのであった。


タルノヴォ旧市街の魅力
旧市街には、ヴェリコ・タルノヴォのすべての歴史を偲ばせる古い伝統的な建物や考古学博物館、大司教区教会と大聖堂、13世紀のイヴァン・アセンU世を称える記念碑とその隣の市美術館、ツアレヴィッツ要塞と王宮の丘、そしてクラフトの工房などが建ち並ぶ狭い坂道の通りなど、小さな街ながらツーリストが見るべき所は尽きない。

ヴェリコ・タルノヴォ近郊の美しい町と村

美しい村アルバナシ/美しい町エレナ
ヴェリコ・タルノヴォ市街から北東へ約4kmには、15世紀から栄えてきたアルバナシ村 Arbanassi がある。ここはかつてブルガリアへ侵攻したオスマン・トルコ帝国の高官やリッチ階級の人々、17世紀〜18世紀に海外交易で富を得た裕福な商人や腕の良い職人達の邸宅が建てられた地区である。

現在でも立派な門と広い庭を備えた木造の高級邸宅などが点在して、さながら高級別荘地のような雰囲気が漂う。アルバナシ村全体の雰囲気はヴェリコ・タルノヴォの旧市街、あるいはトルコの「最も美しい旧市街」と言われる世界遺産/サフランボルの街の眺めに本当に似ている(下写真)。

ヴェリコ・タルノヴォ旧市街の「ブルガリアの母」の記念碑広場から南西へ約500m、ミニバス乗り場からアルバナシ村へのバスが運行されている。ソフィア発のアルバナシ村とヴィリコ・タルノヴォへの1日観光として現地オプショナルツアーも企画されている。そのほかでは、ヴェリコ・タルノヴォの南東30kmにある小さな町エレナ Elena も同様にバルカン山地の美しい街として知られている。

世界遺産・トルコ・サフランボル Safranbolu, Turkey/(C)legend ej
           世界遺産/トルコ・サフランボル旧市街
           世界遺産/歴史のイスタンブール/トルコ山間部の美しいサフランボル旧市街

1980年代/エタル民俗博物村

ツーリストのいない博物村
第二ブルガリア帝国の首都であったヴェリコ・タルノヴォ〜南西45kmのバルカン山地ヤントラ渓谷にガブロヴォの町が佇んでいる。エタルの民俗博物村 Etar Ethonographic Village Museum は、繊維産業などが盛んなこのガブロヴォの街中から南方へ10kmほど入ったヤントラ川上流域の峡谷にある。

この野外の民俗博物村では、近代工業がスタートするまでブルガリアで盛んであった、小規模な木工細工や金属鍛造(鍛冶屋)、毛織物業などで継承されきた伝統的な技を見ることができる。それぞれの工房では、得意とする製品の製作作業を公開して、出来上がった品物は販売も行っている。

また、狭い通りを挟んで建てられた家屋の幾分外へ張り出した2階部分の構造と屋根や煙突に、このバルカン山地の独特の建築様式を見ることができる。訪れた11月初旬、珍しく晴れの天候、がんじがらめの東欧の暗い社会を反映したかのように、訪れるツーリストもなく、伝統的な家々が並ぶこの民俗博物村は余りにも静まり返っていた。

2000年代/エタル民俗博物村

明るくなった民俗博物村
最初にエタル民俗博物村を訪れた1982年から20年が経過した2002年の真冬、舞い散る粉雪も止み幾分晴れ間も見えてきた時間、この博物村を再訪した。
東欧の国々は、1980年代の末期に社会主義の終焉と経済システムの崩壊という激動の時期を耐え、1990年代になると、かつての暗い社会環境から一転して大変革が急激に起こり、東欧の歴史と社会は自由経済システムがまかり通る「開放の時代」へ変容して行った。

社会情勢が大きく変わっても、この民俗博物村では20年前とまったく同様に、伝統工芸の刺繍・毛織物・金属細工・伝統菓子、或いは水車を利用したヒモ編みや木彫細工など、実際の製作作業を行なう独立した工房を見ることができた。
通りに降り積もった粉雪が、博物村の建物に違和感なく、静かで絵のように美しい冬の情景に良く溶け込んでいる。路地のような通りがこの民俗博物村の唯一のメインの通りであるが、ドカンと構えたバルカン山地を南側へ越えたブルガリア第二の都市プロヴディヴ旧市街地 Plovdiv に残る坂道と狭い起伏の路地に似て、静かな風情が漂い、如何にも「東欧」という雰囲気をかもし出している。

20年前に香水の原料となるバラの集散地カザンラークのバス・ターミナルで、シプカ村の修道院とこの民俗博物村を訪ねるよう、薦めてくれた工学部の学生のひた向きで誠実な姿を思い浮かべながら、極寒の谷間、粉雪が止んだ博物村をゆっくりと回った。
博物村のほとんど全ての工房のドアーを押し、暖房の効いた室内を覗き、可能な限り時間に余裕をもって職人達と静かな質問と会話を重ねた。ここでも日本の「侘び・寂び」に共通するものが継承されている。立ち寄った親子で営む木工細工の工房で、鳥と植物をモチーフにしたバルカン地方の伝統的な木彫りの飾り板を購入した。これは開放経済になった二度目のブルガリア訪問の私のかけがいのない記念品となった。

バチコヴォ修道院

11世紀建立修道院
東欧のブルガリアでは、中央部を長い皺(しわ)のように東西に伸びるバルカン山脈(最高峰2,376mボテフ Votev 峰/プロヴディヴの北方)が走り、南部ではトラキア地方ロドピー山脈 Thacia-Rhodope が広い範囲を占めている。首都ソフィアや第二の都市プロヴディヴ Plovdiv などは、その二つの山岳地帯に挟まれるようなトラキアの平原丘陵地帯の中で発展して来た。
首都ソフィアの南方〜プロヴディヴの西方と南方全域を占めるトラキア・ロドピー山脈は、地中海式気候の影響を受けながらも、最高峰2,925mのムサラ峰 Mycana (プロヴディヴの西方)を抱く、非常に深い山岳地帯となっている。

11世紀後半、グルジア人により建立されたバチコヴォ修道院 Backkovo Monastery は、トラキア・ロドピー山地の標高400mのアセニッツァ Asenitsa 渓谷に佇んでいる。プロヴディヴからは車で約30kmの距離である。
修道院はブルガリア南西部の有名な世界遺産・「リラの修道院」に次いで、その歴史的な重要性や建造物と壁画類などの規模が、国内第二番という高い評価を得ている。

細長い中庭に僅かに積もった粉雪が印象的な真冬の日、精密画のような美しい壁画(写真の左側壁面)と雲の全くない真っ青な空が対比する。そんな真冬の晴れ間に、伝統的に信仰深いブルガリアの人々が一人二人と修道院を訪れ、静かに祈りを捧げる姿はたいへんと印象深い。

バチコヴォ修道院の建つ周囲の風景はどこか日本の東北地方などの山地のそれにたいへんと似ている。修道院を取り囲む山の傾斜は決して穏やかではなく、全体的に起伏と変化に富み、マツや雑木の林が不規則に続いている。
また、修道院の直ぐ近くには、海抜1,500mのロゼン山 Rozhen から流れ出る冬でも枯れることのないアセニッツァの谷川(現地名= Chaya 川)がとうとうと流れ下る。更に少し下った谷間の出口付近では、岩肌をむき出しにした険しい崖もあり、修道院という厳しい修行と祈りの場に相応しい自然環境となっている。

          ブルガリア・バチコヴォ修道院/(C)legend ej
                   冬の晴れ間、バチコヴォ修道院/トラキア山地

現在、まだ世界遺産ではないがユネスコからの援助を受け、修道院内部の天井全面に描かれた12世紀のフレスコ画(撮影禁止)やイコン(聖画)の管理が行われている。ブルガリア最大規模のリラの修道院に比べ、幾分小規模だが、素朴で静かな空間が心落ち着く。
聖堂を囲む周回の建物の階上は、図書室や資料室のような部屋や修道士の宿舎などになっている。階上の回り廊下を静かに歩む時、年長の修道士に会い、少しの間話をする機会があった。その穏やかに微笑む表情に厳しい修業と悟りで啓いた寛容の心を見た思いがした。

シプカ修道院

「シプカ峠の戦い」/犠牲者悼む修道院
世界最大の香水用バラの集産地のカザンラーク Kazanlak から北北西へ13km、シプカ修道院 Sipka Monastery からヘアピンカーブの連続する国道をヴェリコ・タルノヴォ方面へ向かい、15kmほど登坂すると標高1,185mのシプカ峠となる。
1877年〜78年、この峠を中心として、ブルガリアが受けた500年に及ぶオスマン・トルコ帝国支配から脱するための大激戦の「シプカ峠の戦い」があった。ブルガリアを擁護して南下政策を取るロシア軍は、23,000の軍勢を誇ったオスマン・トルコ軍を打ち破ったが、ロシア軍の犠牲者も甚大となり、ここシプカ修道院はその戦争で戦死した多くのロシア兵を悼んで建立された僧院である。

ブルガリアは「シプカ峠の戦い」のロシア兵の大きな犠牲と政治的な後ろ盾を得て、ようやくトルコ軍に勝利したのであった。しかし支払った犠牲はロシア兵だけでなく、亡くなった自国ブルガリア軍兵士は15万とも18万名とも、それ以上とも言われている。現在、シプカの峠には高さ31m、角錐体の巨大な記念碑が建っている。

シプカ修道院は粉雪の積もった針葉樹の深い森の中にひっそりと佇んでいる。真白い雪にマッチした淡いピンク色のタイル壁面や黄金のネギ坊主型の屋根が印象的である。山麓に建つ修道院の黄金に光輝く屋根は、遠く離れたカザンラーク近郊からも確認できる。

かつて訪ねたブルガリアが社会主義/共産主義であった時代、日本を含めた西ヨーロッパ諸国やUSAなど、「西側」に属していた国のツーリストが旅行する際に「難」を極めた1982年当時、修道院の黄金の屋根は修復した直後だったのか、犠牲となったロシア兵を奉っていることからソ連連邦の援助があったのか、正にピカピカの黄金一色であった。

しかし、20年の歳月が過ぎ、民主社会に変わった2002年の再訪時には、左写真のように、ネギ坊主型の屋根の、特に雪と風雨にさらされる最上部の金色表層の劣化がかなり目立っていた。

「バラの谷」のトラキア人の古墳群

                          UWH
古代の墳墓
「バラの谷」の中心地カザンラーク市内の北西側には、トラキア美術の傑作とも言われる原色の壁画、金の宝飾品などが見つかり、世界遺産となった回廊と丸型天井から成る「トラキア人の古墳」が残されている(実物墳墓は非公開/複製墳墓が公開)。紀元前4世紀〜前3世紀に属するとされる。

また、カザンラーク〜国道5号線でシプカ修道院の建つシプカ村へ向かう途中、村の手前2km〜3km付近の国道脇の平原には、東西3km 南北1kmほどの区域の所々に裾広がりの「もっこり」した小山が転々と並ぶ。これらの古墳群も世界遺産ですべて紀元前5世紀〜前3世紀頃、この地を治めた好戦的な古代トラキア人の古墳である。

予算の関係からか古墳群はそのほとんどが未だに未発掘であるが、近い将来に発掘が進めば、一夫多妻主義や火葬と死後の世界を重視して、豪華な金製の宝飾品を副葬したことで有名なトラキア人の歴史がより解明されると考えれる。丁度、この古墳群辺りから眺めると、深い針葉樹の山の中腹にシプカ修道院のネギ坊主型の屋根が一際印象的に佇む光景が美しい。

なお、世界遺産に登録されたブルガリアの「トラキア人の古墳」は、「バラの谷」の中心地カザンラーク市内と近郊の古墳群(1979年登録)のほかに、北部の交通の要衝ルセ Ruse の東南東65kmのスヴェシュタリ村 Sveshutari の古墳群(1985年登録)が該当する。また、トラキア王国の首都とされる「セフトポリス」は、発掘調査ではカザンラークの西方7kmのコプリンカ村 Koprinka とされたが、村に造られた人造湖 Koprinka の建設の際に湖底に沈んでしまったとされる。

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