legend ej の心に刻む遥かなる「時」と「情景」

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1,700年の「歴史の証人」・東西文明の十字路 イスタンブール Istanbul

「トルコで最も美しい旧市街」サフランボル Safranbolu

UWH

世界遺産・イスタンブール・「地下宮殿」/(C)legend ej
                イスタンブール・「地下宮殿」/水面に写る林立の円柱群

東西文明の十字路/歴史上 最重要都市の一つ・イスタンブール

ビザンティオン居住地/都市名・コンスタンティノポリスからイスタンブルへ
かつて紀元前7世紀には、現在のイスタンブール Istanbul のヨーロッパ側の半島部分に「ビザンティオン Byzantion」と言うギリシア人の居住地があった。その後4世紀になると、地中海世界では弱体化し始めたローマ帝国の支配地域への諸民族の侵入が激化して、いわゆる「ゲルマン民族大移動」が起こる。

この頃、ローマ皇帝コンスタンティヌスT世が、黒海と地中海を結ぶ交通の要衝、交易の中継地であった居住地・「ビザンティオン」に注目し、330年、この地に都市を建設した。それ以来、この街は「コンスタンティヌスの街」を意味する「コンスタンティノポリス Constantinopolis」と呼ばれるようになる。
ゲルマン民族の侵入に対応してキリスト教をローマ帝国の宗教として公認したコンスタンティヌスT世、さらにキリスト教を国教に制定した皇帝テオドシウスT世が亡くなった395年、ついにローマ帝国は東西に分裂してしまう。

しばらくして西ローマ帝国は事実上崩壊してしまうが、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の首都となったコンスタンティノポリスは、地中海と中東地域の政治と経済の中心的な役割を果たし、シルクロードを含めた東西交易ルートの最も重要な都市になって発展する。7世紀になると、アラビア半島では「アルッラーの神」の啓示を受けたムハンマドがイスラム教を唱える。
その後、その新しい宗教は中東地域に急速に広まって行く。8世紀にはイスラム教を背景としたバグダッドを首都とする強力なアッパーズ朝が成立して、その後数世紀の間、地域の安定化が計られる。しかし11世紀になると、小アジア〜中央アジア地域では政情不安が顕著となる。

12世紀に入り、中央アジア方面からオスマンT世の祖父の率いるイスラム系遊牧民が、現在のトルコにあたるアナトリア地域へ進出して領土拡張を図る。この時、部族が目指した西方の空に三日月が浮かび、現在のトルコの国旗に「三日月と星」が使われたという説もある。
13世紀、アナトリア北西部にオスマンT世によるイスラム教を背景としたオスマン候国が成立する。14世紀にはこのオスマン候国は、息子オルハンが占領したプルサを首都とするオスマン帝国となり、軍事力を増した次のムラトT世の時代に急速に帝国の領土拡大が行われた。

15世紀半ば1453年、第7代スルタン・メフメトU世によるコンスタンティノポリスの包囲と攻撃で、1,100年間続いた東ローマ帝国(ビザンチィン帝国)は陥落する。そしてこの都市の名称がコンスタンティノポリスから「イスタンブル Istanbul」へと変更される。以降イスタンブルはオスマン帝国の首都となり、君主スルタンの居城トプカプ宮殿が造営され、聖ソフィア大聖堂のモスクへの大改造を初めキリスト教徒の信仰の自由と自治の許可、イスラム教徒・キリスト教徒・ユダヤ教徒の移住も認められ、イスタンブルは国際都市に発展する。

16世紀の第10代スルタン・スレイマンT世の時代に、都市としてのイスタンブルとオスマン帝国は絶頂期を迎え、ヨーロッパへの侵攻である第一次ウィーン包囲や北アフリカへの攻撃が行われた。しかし17世紀になると、第二次ウィーン包囲の失敗などから、軍事勢力の減退が始まり、オスマン帝国は徐々に領土を失っていく。ただ反面イスラム文化の発展はさらに続いて行く。


1,700年の歴史の重み/世界遺産の登録
このように、イスタンブル(後のイスタンブール)は、大きくうねる歴史を刻んだ舞台であり、キリスト教もイスラム教もこの街に留まり、宗教を背景とした政治の興隆と衰退と戦いの場所でもあった。街が生まれてから1,700年が経過した現在でも、なおも拡大を続ける中東最大の歴史の大都市イスタンブール。この「歴史の証人」の街を抜きにして、地中海世界も、中東もイスラム世界も語れない。1985年、UNESCOは「地下宮殿」、「ブルーモスク」、トプカプ宮殿を初め、イスタンブールの歴史的な区域の主要な建造物、グランドバザールなどの施設を世界遺産に登録した。


本来は地下貯水池/幻想的な「地下鉄宮殿」
発見以来人々に「地下宮殿(トップ写真)」と呼ばれるこの名所は、実はかつて6世紀、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)ユニティニアヌスT世の時代に、もともと宮殿であった建物を、現在の旧市街地の地下に改造して大規模な地下貯水池としたものである(紀元565年完成)。

ここは時代が経過した中世オスマン帝国の時代でも使用されていたとされ、現存のローマ時代の地下貯水池では最大級と言われている。説では、当時、黒海方面の森から水道橋などを経由して運ばれた水がこの地下の大空間に溜められたとされている。そして水はトプカプ宮殿を初め、権力者に関わる施設に供給されていた。
なお地下貯水池に水を運んだ水道橋(ヴァレンス水道橋 Valens Kemeri)の部分が、現在でもヨーロッパ側イスタンブールの旧市街、スレイマニエ・モスクの西方750m付近に長さ450mほど残されている。

巨大とも言える地下貯水地は「横70m x 幅140m」、圧倒される程の面積を有し、焼きレンガでびっしりと詰められたアーチ型の精巧な交差ヴォールト構造の天井は、優美な彫刻が施された柱頭をもった花崗岩製の高さ8mのコリント様式大理石柱で支えられ、まるで「宮殿」である。4m置きに配置された大理石柱は、何と総数336本を数えると言う。

一般公開されている現在の「地下宮殿」は、橙色の照明が創り出す幻想的とも言える不思議な雰囲気に包まれ、地上では気温40℃の熱射の真夏であっても、ここだけは一年中ひんやりとした歴史の残した空気が漂っている。1973年以来、31年ぶりに訪れたイスタンブール、特にこの「地下宮殿」の神秘的な美しさは、かつてとまったく変わっていないことに感動してしまう。

神秘な青き大建造物・「ブルーモスク」

青き「ブルー・モスク」/巨大なスレイマニエ・モスク
古くからイスラム世界では「モスクの大きさは権力の象徴」と言われる如く、「ブルー・モスク/スルタン・アフメト・モスク(上写真)」は他に類を見ない程の規模と内容を誇る。その言葉通り、第14代スルタン・アフメトT世が1616年に建立した「ブルー・モスク」は、普通では4本であるが6本のミナレット(尖塔)をもつ優美で壮麗なモスクで、美しさと調和のとれた内部空間は見る者を感動させずにいられない。

「53m x 51m」の広さを誇る礼拝の場は、その中心が高さ43mのドームに覆われている。モスクの天井と内部が余りに高く広いため、眺めていてもその正確な距離空間を認識できないほどだ。直径5mの太い柱のみならず、全ての壁面は淡いブルーがかった細かな幾何学文様で装飾され、それが250か所以上あるステンドグラスの窓を通して差し込む光に神秘的に反射している。

美しい青色系内装から「ブルー・モスク」と呼ばれているこのスルタン・アフメト・モスクは、現在でも市民の通常の礼拝の場所として使われ、多くの信者の頭を垂れ、祈りを続ける姿が後を絶たない。イスラムは祈りの世界である。

世界遺産・イスタンブール・「ブルー・モスク」/(C)legend ej
               堂内が神秘的な青色に染まるイスタンブール・「ブルー・モスク」

モスクの規模から見ると、金角湾からその堂々たる姿を望むことができるドーム高さ47m、16世紀のスレイマニエ・モスクが、イスタンブールで最大級である。このモスクは第10代スルタン・スレイマン大帝とその家族の霊廟である。スレイマニエ・モスクの位置は、金角湾のガラタ橋 Galata とローマの時代の水道橋との中間付近の旧市街地区である。

聖ソフィア大聖堂(モスク)

キリスト教の聖地/大聖堂からモスクへ改築
「ブルー・モスク」とトプカプ宮殿の中間にある聖ソフィア大聖堂は、ローマ皇帝コンスタンティヌスT世によって、コンスタンティノポリスが建設された直後の紀元360年、大聖堂として建立された。その後5世紀に火災があったが、初代東ローマ帝国皇帝アルカディウスの息子テオドシウスU世が再建して、今日見られる形容になったのは6世紀頃と言われている。当時、聖ソフィア大聖堂は、西のローマと並んで、キリスト教の最大の聖地でもあった。

中世15世紀になって、コンスタンティノポリスの征服者7代スルタン・メフメトU世が、キリスト教の大聖堂からイスラム教のモスクへの大改造を行い、ミナレット2塔を建造した。16世紀なるとさらに2塔のミナレットが追加され、中東で最大級のモスクとなった。

天井の高さは56mとされ、外観はイスラム教のモスクの形容だが、内部にはキリスト教の関連装飾も残されている。見所はギャラリーと呼ばれる2階で、壁画とモザイク画が壁面を飾り、特にイエスを中心に聖母マリアと洗礼者ヨハネを描いた「ディーシス(請願)」とタイトルされた図像、あるいは身廊部分にあるコンスタンティノポリスの守護聖人であった聖母マリアの図像などが有名である。金地に有色大理石を使った見事なモザイク図像を見る時、この場がキリスト教の大聖堂であったことを改めて再認識させられる。

「グランド・バザール」

中東最大のマーケット
「バザール」と言っても、ほかの国で見かける小規模な市場のレベルではなく、イスタンブールのグランド・バザールは、全ての建物と通り全体が屋根で覆われている大規模な施設である。
グランド・バザールの歴史は古く、1453年、ビザンチン帝国を陥落させた第7代スルタン・メフメトU世が、商人の取り引きのために、この場所に最初に建てたのが始まりと言われ、その後550年間も連綿と商いが続いているのである。現在ではイスタンブールを訪れるツーリストが、必ず足を向ける重要な観光スポットになっている。

バザールの中は無数の狭い通りが複雑に交差している。多くの通りには絹織物屋通りとか、宝石屋通りなどと扱う商品ごとに通りに名称が付けられ、類似各の商店が集合的に売り場を設け商売を行っている。このバザールではトルコ産商品のあらゆる品物が手に入ると言われ、宝石・貴金属を初め、絨毯、タイル・陶器類、革・布製品などから、子供の玩具やエキゾチックな女性の悩殺下着まで販売されている。

社会が進んだ現在でも、多くの店では商品に値札を付けておらず、売り手と買い手は交渉で値段を決める中東特有の駆け引き方式が息づいている。そこかしこでやり取りが行われ、時間の許す限り、プロの売り手に負けじと値引き交渉を行うツーリストの姿は、かつて31年前、若かった私が1970年代の初めに訪れた時と全く変わっていない。

中東の歴史ある大都市にあるマーケットは何処でも活気に溢れている。例えば、イスラム世界の典型、アラビア半島のイエメンの首都サナアのスーク(市場・下写真)では、イスタンブールのグランド・バザールのような屋根付きではない。
イエメンでは、多くの店が露天タイプで有りとあらゆる商品が所狭しと並べられ、腰に大型ナイフ・「ジャンピア」を差したターバン姿の男達は商売と買い物に忙しい。私はこの中東の、どの国でも、古い大都市のマーケットの活気に心惹かれる。

イエメン・サナア旧市街・露天市場スーク/(C)legend ej
     イエメン首都サナア旧市街/男達で賑わうスーク(露天市場)/1998年・夏
     ※ポプラ社発行書籍 世界の宗教シリーズ・「イスラム教」掲載写真に採用される/2005年03月
     イエメン首都サナア旧市街

世界遺産/「トルコで最も美しい旧市街」 サフランボル

                          UWH

世界遺産の旧市街/心落ち着く木造の家並み
イスタンブールから東方へ300km/首都アンカラの北方140km、トルコ中北部、標高600mの内陸山間部にひっそりと佇むサフランボル Safranbolu の旧市街(下写真)は、かつてシルクロードの時代には黒海〜地中海方面を結ぶ交易の中継地として繁栄してきた。

サフランボルに関する最も古い記述はビザンチィン時代、その後、統治者が代わる度に、街の名称も「ザリフレ」、「ボルル」、「ザクフィランボル」へと変わって来た。19世紀なってから、人々はこの地方に群生したサフラン(クロッカス)の一大集約地でもあったこの古い街を「サフランボル」と呼ぶようにになる。

世界遺産・トルコ・サフランボル Safranbolu, Turkey/(C)legend ej
                      世界遺産/トルコ・サフランボル旧市街

UNESCO世界遺産に登録された「チャルシ Carsi」と呼ばれるサフランボル旧市街は、決して広くはなく歩いて回れる区域で、公衆トルコ風呂であるハマムを中心に、横に広がる斜面には中世以来の特徴的な建築様式で造られた2,000棟を数える穏やかな外観の家々が建ち並ぶ。

倉庫などに使われている1階部分は切石積み構造、住居階は2階以上にあり、モスクなどを除き多くの住宅は木造で、柱や梁が壁面から露出する「木骨造り」が採用され、1階よりかなり外側へ張り出す独特な構造となっている。サフランボル旧市街の殆どの通りは石畳の路地がほとんどで、その両脇には昔ながらの職人工房の店が建ち並び、織物や刺繍などが手作業で作られ、小物の金属加工も行われている。
乾燥した薬草や豆類を扱う店や情緒ある「チャイハネ」と呼ばれるカフェテリア、パン焼き屋、そして有名なこの地方独特の甘いデザート菓子を扱う店などもある。 路地の多くは葉枝を広げたブドウ棚で覆われ、真夏でも涼しい日陰をつくっている。

この古い街にはゆったりとした一昔前の時間が流れ、穏やかな人々の生活が営まれている。UNESCOはこの特徴ある伝統的な建築様式と生活文化を含め、人々に「トルコで最も美しい街」と呼ばれるサフランボルの旧市街地域を世界遺産に登録している。
旧市街の家々の構造に木材が多用されているためか、東洋からのツーリストにとっては、日本の木造建築に似た家々がかもし出す何か不思議と心落ち着く雰囲気に静かな喜びと感動を覚えてしまう。標高400m、夏の乾いた風と眩しい陽光、そして真っ青な空にモスクの尖塔が伸び、豊かな緑の中で古風な民家が光輝くサフランボル旧市街の光景は、余りにも穏やかで美しい。
新市街も含め、サフランボルの街には博物館やかつての有力者の邸宅、モスクなど歴史的な建造物が多く、旧市街の独特な住宅だけでなく見学するに値する場所は多い。

また、サフランボルの旧市街を埋め尽くす木造の家並みとその雰囲気は、私の狭い経験論では、歴史的にも伝統的にもトルコと関係が深い、隣国ブルガリアの古都ヴェリコ・タルノヴォの崖上に密集する旧市街の家並みにあまりに似ている。

ヴェリコ・タルノヴォ Veliko Tarnovo/(C)legend ej
          東欧の真冬の風景/古都ヴェリコ・タルノヴォの夜/バルカン山脈
          バルカンの古都ヴェリコ・タルノヴォ旧市街/エタル民俗博物館/美しい村アルバナシ

サフランボル近郊のツーリスト・スポット

独特な建築様式ヨルク村/ブラク・メンジリス洞窟
サフランボルから東方へ直線で7km(蛇行道路で約13km)のヨルク村 Yoruk にも、通りに沿ってオスマン・トルコ時代に遡る独特の木造建築の住宅が残されている。中世の時代、遊牧民族の中心的な存在であったこの村には、数軒のホテルも営業しているので滞在も可能である。

サフランボルから北西へ直線で3kmには有名なブラク・メンジリス洞窟 Bulak Mencilis がある。洞窟へはサフランボルの新市街から幹線道路を製鉄所のあるカラヴュク Karbuk 方面(イスタンブール方角)へ約3km戻り(バスターミナルより約1.5kmカラヴュク寄り)、交差点〜北方の山中へ5kmほど入った場所である。なお、ブラク・メンジリス洞窟の総延長は2,700mと言われている。

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