legend ej の心に刻む遥かなる「時」と「情景」

ホームページ ⇒ トルコ ⇒ ベルガマ遺跡

世界遺産/ペルガモン王国の遺産/ベルガマ遺跡 Bergama-Pergamon

UWH

ベルガマ・ペルガモン遺跡・トラヤヌス神殿 Pergamon/(C)legend ej
ベルガマ/ペルガモン遺跡トラヤヌス神殿/エーゲ海沿岸地方

ベルガマ・アクロポリスの丘/ペルガモン王国の遺産

古代王国・「ペルガモン」/トラヤヌス神殿
現在名=べルガマ Bergama、古代名=「ペルガモン Pergamon」は、紀元前282年〜約150年の間、エーゲ海沿岸からアナトリア内陸地方に及ぶ地域で繁栄した王国であった。ペルガモンは王国になる以前には、紀元前4世紀のアレキサンドロス大王やマケドニアの支配者の統治を受け、ギリシアとオリエント文化の融合であるヘレニズム文化を基盤に発展を続けた。
その後、5代続いたペルガモン王国はローマ帝国の自由都市としての立場となり、紀元3世紀頃まで繁栄を続けるが、ローマ帝国の弱体化に追随して、徐々に衰退し歴史の中で埋もれ消え去って行く。

ベルガマの街の北方にある標高335m アクロポリスの頂上付近、更には丘の中腹と麓全体にはヘレニズム文化とローマ時代の多くの遺構が無数に残されている。アクロポリスの丘に残るトラヤヌス神殿は、ローマ皇帝ハドリアノスが前皇帝であったトラヤヌスのために、紀元2世紀半ばに建造したものである(トップ写真)。
ギリシア語で「深みのある青」を意味する宝石カイヤナイトに似た玲瓏とも言えるか、エーゲ海の紺藍色の抜けるような空を背景として、優美さを今に伝えるトラヤヌス神殿に残るコリント様式の白大理石柱の見事なコントラストは、「美しい」という言葉を超越して圧倒される感がある。

神殿の前に佇み、スリムにあってバランスのとれた石柱を見上げ、その柱頭上部に残るフリーズ部分の精緻極まる彫刻に視線が移る時思わず感動を言葉で表現する意思を失ってしまう程だ。何時まで眺めていても決して飽きのこない美しさとは、このような美と調和のとれた具象、粛然たる厳かさを言うのかも知れない。
建立以来1,850年の歴史を秘めた美しい神殿の遺構が、乾燥したエーゲ海の風に触れ、夏の明る過ぎる陽光に反射して、ゆっくりと進む時間の中で輝いている。この長い歴史を含んだバランスの良い光景は正に心に刻む遥かなる「時」。その美しい姿と胸打つ感動を私は生涯に渡って忘れることはできない。

2014年、ペルガモンの遺跡はUNESCO世界遺産に登録された。


円形劇場
アクロポリスの丘にはトラヤヌス神殿跡の他に、南方の都市国家エフェソスに残る24,000席の巨大な円形劇場には遠く及ばないが、かなりの急斜面を利用して造られた客席10,000を有する野外の円形劇場(下写真)、当時、エジプトのアレキサンドリアに次いで「世界でニ番目の規模」と言われた図書館、そしてアテナ神殿などの基礎遺構も確認できる。
所蔵20万冊を誇ったとされる図書館など多くの大型建造物は、ペルガモン王国の最盛期であったエウメネスU世の時代に建てられたものである。

         ベルガマ遺跡・円形劇場/(C)legend ej
              ベルガマ遺跡・円形劇場/観客1万人収容/エーゲ海沿岸地方


遺構を持ち去ったドイツ・プロイセン帝国/「ゼウスの祭壇」
円形劇場から少し南方へ下った平地には、紀元前2世紀、繁栄のエウメネスU世が建造した「ゼウスの祭壇」の基礎部分が残されている。現在、サイトにはわずかな遺構と大きなトルコパイン(松の木)が3本立っているだけである。祭壇の基礎部分は、おおよそ34mx36m、かつてヘレニズム文化を象徴する、平面プランで「コの字」形の列柱式回廊と大階段と台座で構成されていた。

台座の正面左右翼部・側面・裏面の全周壁には、ゼウスなど「オリンポスの神々」と「ティターン神族との激戦」を描いた壮大なレリーフ彫刻で飾られていた。かつて「祭壇」は大階段のある西側に向かって建てられた巨大な建造物であり、中央松の木側が「祭壇」の裏手となる東翼部の基礎壇に相当、西側には「祭壇」の入口であった角度30°強・24段の大階段が存在した。

このサイトは1860年代にドイツ人・カール・フーマンの持ち帰った断片が切掛けとなり、1877年、ドイツ・プロイセン帝国による本格的な発掘作業で明るみに出た極めて重要なヘレニズム文化の遺跡である。しかし、当時のプロイセン帝国は、5段の石積み基礎部だけを残し、祭壇上部の列柱回廊や素晴らしいレリーフ部分など全ての発掘品を本国へ持ち帰ってしまう。
それらは現在ベルリンの「博物館の島」の一角を成すペルガモン博物館で完璧に復元、展示・公開され、ドイツが「保有」する最も重要な歴史遺産の一つになっている。

Ref.
≪ヨハネの黙示録≫
かつてイエスが最も信頼した弟子は聖ヨハネとされていた。その聖ヨハネが書いたとされるエフェソスやペルガモンなど7か所の主要教会へ宛てた書簡をまとめたものが、新約聖書の≪ヨハネの黙示録≫である。その第二章の中で記述されたペルガモン教会宛の書簡の「そこにはサタンの王座がある・・・」の一説から、この「ゼウスの祭壇」は「サタンの王座」を意味していたとされる。

ベルガマ・アクロポリスの丘/埋蔵遺跡群/市内〜郊外の遺跡

アクロポリスの山麓の遺跡/ベルガマ市内/クズル・アヴル遺跡
アクロポリスの丘から下方のベルガマの街まで古代の石畳の道を歩いて下りることができる。丘の中腹や麓周辺では、市民アゴラやヘラ神殿、体育館や音楽堂など無数に点在する遺構が徐々に発掘されつつある。
いずれ学術的な調査が終われば、内容も伴ったかなりの規模の公開遺跡となるであろう。もしかすると、それはイズミール南方のセルチェク郊外のエーゲ海沿岸地方で最大級と言われるエフェソス都市遺跡(下写真)を上回る規模になる可能性さえも感じる、と私には思えたのだが・・・

          エフェソス遺跡/(C)legend ej
             エフェソス都市遺跡・24,000席の円形劇場/エーゲ海沿岸地方
             世界遺産/エーゲ海沿岸地方で最大級のエフェソス都市遺跡

ベルガマは2,000年以上も栄えた都市であり、市内にはその名残りの遺跡が幾らか残されている。
例を挙げれば、市内北東部の「赤いバシリカ/クズル・アヴル遺跡 Red Basilica-Kizil Avlu」がある。紀元2世紀にローマ皇帝ハドリアヌスが建立しエジプトのセラピス神を祀った神殿だが、その後の東ローマ帝国(ビザンティン)の時代に聖ヨハネ教会堂に改造された大型の建造物である。
現在、クズル・アヴル遺跡には広い敷地に赤レンガの積み重ねの巨大な崩壊壁面が残されている。一見した感じでは、(私は)日本の明治時代に繁栄した紡績工場などの廃墟のような雰囲気が漂っていると思う。


アクスレピオン遺跡
ベルガマ市街〜南西1.5km、草木の少ない丘陵地帯にローマ時代のアクスレピオン遺跡 Asklepion が残されている。ここは、ギリシア・エピダヴロス遺跡と同じく、医療神アクスレピオンの名をとった当時の「医療センター」と言える場所である。紀元前4世紀の時代、早くもこの施設で医療や滋養が行われ、その処方の幾らかは現代医学にも通じるほどの高いレベルであったと言う。

遺跡サイトでは舗装された長さ150mの列柱参道を初め、図書館や治療施設、 トンネル通路、収容3,500人規模の円形劇場などがあり、比較的良好な状態で保存されている。また、入口受付(駐車場)からサイトへ向かう列柱参道からは、北東約2kmにどっしりと構えたペルガモンのアクロポリスの丘が展望でき、雄大な風景を見せている。

ホームページ ⇒ このページ・トップへ