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エフェソス都市遺跡/セルシウス図書館・正面ファサード/エーゲ海沿岸地方 |
● 大都市エフェソスの歴史 現在、トルコ・エーゲ海沿岸で最も大きい都市はイズミール Izmir である。エフェソス遺跡 Ephesos はイズミールから南方70kmのセルチェク Selcuk の街の郊外3kmに残された大規模な都市遺跡である。 エフェソスの、その輝かしい歴史をひも解く時、この古代都市がギリシア〜古代ローマ〜ヘレニズム〜ローマ帝国〜東ローマ帝国の時代へと至る長期間繁栄した証をはっきりと理解できる。アルテミス神殿の建立など、ギリシアの植民都市としてその歴史をスタートしたエフェソスであるが、都市が最も繁栄したのは、古代ローマの支配下となった紀元前2世紀である。 その後、紀元前1世紀のエフェソスには、ローマの執政官カサエル派のアントニウスとエジプトのクレオパトラ女王が滞在したとされ、アルテミス神殿に退避していたクレオパトラの妹アルシノエは、二人の策略で殺害されたと言われている。アルシノエの墓はエフェソスの街の中心部に残されていた。 そして4世紀にローマ帝国がキリスト教を国教としたことで、エフェソスはさらに発展を続け、都市の整備のみならず、紀元431年のエフェソス公会議など、キリスト教会の会議が開催されほど重要な宗教都市となった。4世紀の終わりに、ローマ帝国が東西に分裂した後、エフェソスは東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の経済的にも、宗教的にも中心となる役割を果たした。 しかし8世紀になると、急速に拡張してきた中東イスラム勢力に対抗できず、エフェソスは最終的に都市の放棄をせざるを得なかった。ギリシア文化に始まりビザンティン文化に至るまで東地中海の主要な文化文明を取り込み、連綿と続いて来たエフェソスの1,300年間の繁栄は、イスラムという異教徒の侵入をもって果かなくも消え去って行く。 ------------------------------------------------------------------------ ● 巨大な円形劇場 エフェソスの都市遺跡は東西500m 南北1,500mの広さ、規模的にエーゲ海沿岸地方で「最大級」と言われている。このエフェソスには古代ローマ〜ローマ帝国の時代を中心とした大規模な遺構が、広範囲に渡って残されている。遠からず、エフェソス都市遺跡もUNESCO世界遺産に登録されるであろう、と個人的には確信できるエーゲ海域を代表する素晴らしい遺跡と言える。 サイトに残る最も大型の建造物は、パナイール山の斜面を削り建設した横幅145mの野外の大円形劇場(下写真)である。その収容能力は24,000人であった。この当時の東地中海地域で最大の規模を誇り、ギリシア本土のペロポネソス地方アルゴスの2万人を収容する大円形劇場よりさらに大型であった。 また、エフェソス遺跡の円形劇場は、ギリシアの有名な世界遺産エピダヴロスの客席14,000、この地から少し北方のベルガマ(ペルガモン)遺跡の1万人、キプロス島パフォス遺跡の約8,000人、同じくキプロス島のコウリオン遺跡の3,500人収容の円形劇場などと比べると、その大きさは歴然としている。 エフェソス都市遺跡・24,000席の円形劇場/エーゲ海沿岸地方 コウリオン(クリオン)遺跡・円形劇場/キプロス島 南海岸地方/1997年 世界遺産/キプロス島パフォス遺跡とコウリオン遺跡 遠方から眺めても優美さを感じる形容、音響効果の素晴らしいこの円形劇場の建設は紀元前3世紀であり、さらに古代ローマの時代になり、現在見ることのできる規模に拡張されたとされる。またローマ帝国皇帝が座った大理石の貴賓席もあり、ステージとなる建物は3階建てであった。 円形劇場は演劇は当然のこと、流行の猛獣との格闘なども行われたであろうし、政治的な集会や宗教的な大きなイヴェントや儀式、あるいは音楽演奏などに使われたはずだ。円形劇場の正面には、石板舗装の幅10m以上もある直線のアルカディアン大通りが延びている。この大通りはかつて西方にあったエフェソスの古代港へ連絡していた。 エーゲ海に面していた北方のトロイの街(イリオス)と同様に、長い年月の間に川の流れと土砂の堆積が続き、現在ではエーゲ海は円形劇場から6kmほど遠く離れてしまったが、かつてエフェソスの街から1km以内にまで海が入り込んでいたとされる。 古代の頃、円形劇場の最上段からは、足元近くにまでエーゲ海が迫るという感覚で展望できたはずだ。当時の人々にとって最高の娯楽施設は、何と言ってもたくさんの人が同時に楽しめる円形劇場であり、この巨大劇場の収容人数から推測できる古代エフェソスの人口は、最盛期で25万人と言われている。 世界遺産/「トロイ戦争」の舞台のトロイ遺跡 ● 無数の遺構群 エフェソスは街の南区域を除いてあまり起伏がなく、その分長く延びる非常に素晴らしい道路が建設された。円形劇場の正面に延びる直線のアルカディアン大通りのほかにも、列柱道路や大理石の全面舗装のクレテス大通りなど、広く豪華な道路が細長いエフェソスの街を貫いている。 さらにエーゲ海域で最大規模と言われるエフェソス遺跡には、所蔵12万冊を誇り当時アレキサンドリア、ペルガモン(ベルガマ)に次いで世界第三番目の規模とされたセルシウス図書館(トップ写真)を初め、優美なレリーフ彫刻で人気の高いローマ皇帝ハドリアヌス皇帝の神殿、紀元114年に完成した高さ12mのトラヤヌス皇帝の泉、大型石柱の立つヘラクレスの門などが残されている。 そのほか複雑で精緻溢れる大理石の装飾で満たされた数多くの大型の建造物の遺構が、街の通りに沿って連続して並んでいる。2015年、エフェソス遺跡はUNESCO世界遺産に登録された。 世界遺産/ヘレニズム文化・「ペルガモン王国」のベルガマ遺跡 |
● セルシウス図書館/古代のエフェソスの街/「並び席」の公衆トイレ/ワイン居酒屋 細長いエフェソス遺跡の丁度真ん中付近に位置するセルシウス図書館(トップ写真)は、かつてこの場所にはローマ帝国の特権階級であった元老院の議員であり、ローマの属州であったエーゲ海沿岸地方の総督の役職でもあったティベリウス・J・セルシウス(ケルスス)の墓があり、紀元117年、彼の息子が父の墓の上に建てたものとされる。今でも図書館内部に父セルシウスの墓が残されている。壮麗さを誇ったセルシウス図書館は、3世紀の火災で炎上して建物全体は崩壊してしまう. 現在下部がコリント・イオニア折衷様式、上部がコリント様式の見事な石柱で支えられた図書館の正面入口ファサードだけが建っている。1970年代に復元修復されたセルシウス図書館の正面部は、二層構造で高さ11m 幅17m、この遺構を見るだけでも、現代建築でも勝負できないほどローマ建築の技術と規模、そして美しさに圧倒される。 その他、エフェソスには市民のための施設の代表と言える広いアゴラ市場、力強いアーチ柱とレンガ積み構造のヴァリウスの浴場(体育館)、教会堂、屋根付であったとされる1,400人収容の円形の音楽堂オデオンなどもある。 さらに興味深いのは、市街には上水道が完備され、壁面に沿って横に伸びる箱型ベンチ式の大理石の厚い石板に大穴を開け、皆で仲良く並んで行うことができる公衆トイレの設備である。公衆トイレは隔離の仕切り板などなく、完全に隣同士が丸見え状態、航空機用語のいわゆる「並び席」だが、何しろ座り板が大理石製であり、古代から木材が主流の東洋の国から見るとかなり高級感ある造りである。 なお、古代ローマ時代に遡るエフェソスの大理石製の公衆トイレは間違いなく水洗式であった。参考に記すが、エフェソスが繁栄した時代よりさらに時を遡る紀元前15世紀、今から3,500年以上前の時代、エーゲ海クレタ島ではミノア文明が繁栄していた。 その文明の中心地クノッソス宮殿のミノア王妃は、エフェソスの公衆トイレと構造が若干異なるが、すでにドアー付きの「個室タイプ」の水洗トイレを使っていた。驚くべきは、クノッソス宮殿では水洗トイレのほかに、ミノア王妃は「世界最古のお風呂」とされる焼成テラコッタ製(素焼き粘土)のバスタブで入浴していたことも分かっている。 幾分高台となる遺跡の南区域に残されたヘラクレス門からエフェソスの街中へ向かって、かつて市街の最大の通りであったクレテス大通りがなだらかに下っている。石製舗装の大通りの先150mには、街の中心となるセルシウス図書館の正面ファサードが見える。大円形劇場の最上段からの眺めも素晴らしいが、私にはわずかに傾斜するこのクレテス大通りに立って眺めるエフェソスの街並みも感動的な光景と映るのだが。 かつて繁栄したエフェソスの大都市には人々が溢れ、仕事が終わるとアゴラ市場でショッピングを済ませ、声高々に友と語り、絶え間なく行われていた円形劇場の演劇やオデオンの音楽演奏に酔い、大浴場で疲れを癒し、神殿で祈りを奉げることもあったであろう。 あるいは時々セルシウス図書館でアカデミックな書物に目を通し、ファッショナブル・ドレス姿の婦人達もいたであろうし、当時「居酒屋」があったかどうか想像の域だが、荒くれの男達は仲間同士でワインを浴びるほど飲んだ後、勢い余って娼婦の館で「癒しの時間」・・・この都市遺跡に立つと何だか現代と同じような人々の活況で隠すことのない「生」の日常を想像してしまう。 |
● 廃墟の礼拝堂 トルコ・エーゲ海沿岸地方は古くからキリスト教との関わりが深い。4世紀にローマ帝国のキリスト教の公認と国教制定の後、エフェソスはキリスト教世界の重要な宗教都市の役目を果たすようになった。エフェソス都市遺跡の南方約3kmの岩山には、イエスが処刑された後、イエスの母(聖母マリア)が迫害を逃れるためにイエスの弟子ヨハネに付き添われ、ユダヤのエルサレムからこの地へ逃れ、晩年を過ごしたとされる礼拝堂・聖母マリアの家がある。 聖母マリアの家はパウロY世以降のヴァチカンの歴代教皇も参拝し、さらに毎年教皇庁からの使者の参拝があることは広く知られている。このことから聖母マリアの家は、現在、敬虔なカトリック教徒にとっての重要な聖地となっている。 またイエスの処刑後、エルサレムを追われたイエスの配偶者パートナー(内縁の妻)とされた美しき女性マグダラのマリア(下写真)は、フランス・プロヴァンス地方へ逃れたとされるが、エフェソス地方の伝承では、聖母マリアや弟子ヨハネと共にエフェソスへ逃れたマグダラのマリアは、この地で没したとも信じられている。 ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂・「マグダラのマリア」の地下納骨堂クリプト/ブルゴーニュ地方 世界遺産/「フランスの最も美しい村」のヴェズレー修道院・聖マリー・マドレーヌ大聖堂 |
● 「世界七不思議」 セルチェクの街の中心付近あるエフェソス考古学博物館から真西へ400mほど、エフェソス都市遺跡へ向かう道路脇には、≪世界七不思議≫と言われたアルテミス神殿跡がある(下写真)。 アルテミスはギリシア神話の「狩猟と純潔」の女神であるが、エフェソスで信仰されたアルテミスは、植物の豊作や多産豊穣がより強調され、その像はたくさんの乳房、あるいは植物の実のような装飾をつけた衣装姿であった(後述・エフェソス博物館)。 アルテミス神殿は紀元前6世紀に完成して、紀元前4世紀に放火により崩壊してしまうが、その後30年余りの後に再建され、東地中海の重要な聖地として長く崇められてきた。しかしローマ帝国の支配下にあった紀元3世紀には、徐々にアルテミス信仰も廃れ、4世紀にローマ帝国がキリスト教を国教としたことで、古代ギリシアの信仰は完全に消滅してしまった。その後、神殿は解体され、大理石などの石材は運び出され、都市建設に再利用されてしまう。 長さ115m 幅55mとされた巨大なアルテミス神殿は、高さ18mとも言われたイオニア式石柱群で支えられ、内部に高さ15mもの豊穣の神アルテミス像が立っていたと言う。現在、アルテミス神殿が建っていた場所には、往時をしのばせるように、かろうじて石柱が1本だけ残されている(下写真)。 エフェソス遺跡・アルテミス神殿跡/エーゲ海沿岸地方 遠方にはイスラム教モスク、丘には東ローマ帝国時代(ビザンティン)の要塞とわずかに残る聖 ヨハネ教会堂跡が見える/石柱1本を残すアルテミス神殿跡には往時の面影はまったくない。 遥か1,500年前に石材が運び出され、その数130本近くあったとされる神殿のイオニア式の壮麗な列柱は当然のこと、大理石の床面や基壇石材さえもなくなっていることから、現在突っ立っているこの石柱とて、元々の位置である神殿の基壇と床面の上ではない。おそらく1800年代の発掘以降に、散在していた石柱の部分を集め、誰かが単純に積み上げたものかもしれない・・・ 今ではアルテミス神殿跡は周囲よりレベル面が若干低くなってしまい、雨上がりの後などでは雨水が溜まり「池」と化し周囲は背を伸ばした雑草が生い茂り、壮麗さを連想させる≪世界七不思議≫へのツーリストの期待感は完璧に裏切られてしまう。 かつてギリシア人の居住地であったビザンティオン(現在=イスタンブール)に住んだフィロンは、紀元前2世紀の数学者であり旅人でもあった。そのフィロンの著書である≪世界にある七つの必見の景観≫で語られ、人々から≪世界七不思議≫とまで言われたアルテミスの巨大神殿は、今は石柱1本を残し完全に消え去り、物語の中で語られるだけになってしまった。 |
● 廃墟の教会堂跡/露天の聖ヨハネの墓 アルテミス神殿跡から距離にして北東へ500m、セルチェク市街の北西端に小高い丘がある。丘はアルテミス神殿跡から農耕地を隔てて眺めることができる(上写真=アルテミス神殿・石柱の遠方)。丘の頂上には東ローマ(ビザンティン)時代の要塞があり、その手前にはイエスの最も信頼した弟子の聖ヨハネが葬られた大理石の墓と聖ヨハネ教会堂の遺構が残されている。 エフェソス遺跡・聖ヨハネの墓/エーゲ海沿岸地方 かつての聖ヨハネ教会堂は長さ100m、トランセプト横幅50mあまり、平面プランで十字形をなす大規模な建物であった。しかし、現在、壁面の一部と基礎部分や石柱の幾らかを残し、遠い昔にイスラム勢力に破壊されたままの状態である。建物の配置プランは何とか推測できるが、建物の原形をはっきりと連想するのが難しいくらいその破壊は進んでいる。 教会堂の内陣に位置したはずの聖ヨハネの墓は、乾燥した地方であることから、破壊そのものはなく、墓自体は比較的良好な状態が保たれている。聖ヨハネはイエスから信頼された第四番弟子でキリスト教の発展の基礎をつくり、新約聖書の著者の一人とされ、さらに聖母マリアの晩年を見届けたカトリック教世界では最上級の極めて重要な聖人である。 にもかかわらず、上写真のように聖ヨハネの墓は保護用の屋根カバーもなく、完全に露天に晒され、ツーリストに対する規制の柵やロープも設置されていない(2004年)。訪れた人が、この場を聖ヨハネの墓と知らなければ、四隅に細い大理石石柱の立つ場所だが、地面(かつて大聖堂の床面)とほぼ同じレベルの平面的な造りのため、人が墓に乗って上を歩いてしまう心配さえも抱いてしまう。 もし今でも教会堂の壮大な建物が現実に存在するならば、あるいはこの聖ヨハネの墓がヨーロッパのカトリック教圏に存在したのであれば、イエスの第一番弟子・聖ペトロ(漁師時代=シモン)が眠るローマ・ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂、あるいは聖ヨハネの兄であり第三番弟子の聖ヤコブが葬られているスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂などと同様に、聖ヨハネの墓は荘厳な大聖堂の、しかも内陣の最も重要な地下納骨堂クリプトに祀られているはずだ。墓が露天のままであるのは、現在、この地がイスラム圏域に属し、その歴史と社会環境がそうさせているのであろうか? |
● 25,000点の出土品の展示 セルチェク市内のほぼ中心、バス・ターミナルや緑の公園にほど近いエフェソス博物館では、豊穣を意味する多乳房(または植物の実か?)の新旧2体のアルテミス像を初め、エフェソス都市遺跡から出土した彫刻品など25,000点の収蔵品を誇り、エフェソス観光のスポットとなっている。 ただし、個人的な感想では、この博物館は常設展示品は決して多くはなく、アテネ国立考古学博物館など、ヨーロッパ諸国の考古学博物館に比べると、それほど大規模な博物館とは言えない。「豊穣」を意味する2体のアルテミス像がエフェソス博物館の「メイン展示品」である。 |