legend ej の心に刻む遥かなる「時」と「情景」

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世界遺産/「生きた博物館」と呼ばれるイエメンの首都サナア旧市街 Sanaa

大峡谷ワディ・ダハールと王の離宮「ロックパレス」 Wadi Dahar/Rock-Palace

UWH

イエメン・サナア旧市街・露天市場スーク/(C)legend ej
            サナア旧市街/男達で賑わうスーク(露天市場)/首都/1998年・夏
     ※ポプラ社発行書籍 世界の宗教シリーズ・「イスラム教」掲載写真に採用される/2005年03月

イエメン/首都サナア旧市街/大規模なスーク(露天市場)

旧市街のスークの風景
アラビア半島先端、イスラムの国イエメン共和国は東西に長いほぼ「長方形」の形容(後述地図)、その面積は日本の約1,5倍に相当、人口は約2,450万人である。首都サナア(Sanaa サッヌア)は標高2,200mの高地にある。その城壁に囲まれた旧市街には「スーク Suq/露天市場(上写真)」と呼ばれる、日本的に言えば、さしずめオープン・ショッピングセンター的な広い商売エリアが展開している。

そこでは衣類・靴・香料・食料品・工具・金属品・陶器・薬品・家具・雑貨など・・・日用品ならあらゆる物品が調達でき、ダミ声の呼込みと物色の男達が取引の交渉に忙しい。イエメンの男達にとって毎日必要不可欠な「カート Khat/Chat」と呼ばれる神経興奮作用のある麻薬性の若葉さえも政府公認で取引され売られている。

サナアのスークは、経験論で言えば、1970年代初めのモロッコのフェズ、イラン北部のカスピ海沿岸〜東部にかけての田舎の町、あるいはアフガニスタンのカンダハールなどに共通した、長い歴史を秘めたイスラム世界特有の雰囲気が漂っていると言える。
このスークでは、売り手も買い手も全て腰に装飾ナイフ・ジャンビアを差した男達だけで、首都でさえまだ女達のショッピング風景は稀である。この典型的なイスラムの国イエメン露天市場では、中世オスマン帝国の時代から変わらない「男達の世界」が展開されている。

「生きた博物館」
城壁に囲まれたサナア旧市街地の路地では、数百年の歴史がしみ込んだ石畳が敷かれ、非常に複雑で狭く入り組んでいる。狭い通りに沿って独特なイエメン様式の建物が連なっている。密集する家々の玄関や窓には幾何学文様の魅力的な装飾が施され、ドアーには頑強な鍵が施工されている。
市街そのものが「生きた博物館」と呼ばれる首都サナアの旧市街地区は、UNESCO世界遺産に登録されており、現存する世界の市街で「最も古い状態」のまま保存されている、と言われている。

長い歴史の中で積み重ねられて来た人々の弛まぬ経験と知恵が現代までも連綿と引き継がれ活かされている情景は、旅する人を感動させ、東京の都市生活で疲労した心を癒してくれる。時間を忘れ、何時までも、迷路の奥まで何処までも歩いていても疲労感はない。
少しだけ覚悟を決めて狭く複雑な路地にあえて迷い込み、さらに一足歩むごとに緊張感を高め、T字路に出るたびに新たな風景が現れ、もしかしたら「やばいハプニング」が起こるかも知れないとする不安と期待と興奮が堪らない。これこそが、誰にも助けを求められないというリスクを承知の上で、単独で旅する者の特権であると、密かに微笑んだりして・・・

※2015年7月、ドイツで開催されたUNESCO・世界遺産委員会は、イエメンの政情不安と内戦による破壊が進んだことから、世界遺産・「首都サナア旧市街」とワディ・ハダラマート峡谷の「城塞都市シバーム」を「危機遺産」に指定した。

          イエメン共和国 地図/作図=legend ej
          イエメン概略マップ/面積=日本の約1.5倍/作図=Web管理者legend ej

※現地では、「イエメン」は「イエーメン」と長く発音される場合が多い。

Ref.  1998年・イエメンへの旅

サナア空港に降り立って
1998年の夏、企業勤務のかたわら2週間の休暇を取り、シンガポールから夜間フライトで中東の湾岸ドバイへ移動した後、9時間の長い乗り継ぎ待ちを行い、翌朝、アラビア半島南端の国イエメンの首都サナアへ飛行した。これが初めてのイエメン滞在であり、中東で最も「誠実で誇り高い人々」の住む国と言われるイエメンへの期待は高まり心が踊った。

湾岸ドバイからはアラブ首長国連邦のエミレーツ航空を利用した。若干睡眠不足を感じながらの3時間30分のフライトを経て到着した首都サナア空港は、国際空港とは言え、予想していた通りシンプルな設備があるだけの静かで汚れた空港であった。
サナアからの近隣の中東諸国やヨーロッパなどへの発着国際便は日に数えるほどしかなく、駐機中の民間航空機はまったく見えず、だだっ広い空港敷地の片隅にイエメン空軍の旧式な戦闘機とヘリコプターが数機ずつ待機しているだけの殺風景な光景で、日本ならさしずめ離島のローカル空港と言えようか。
しかも到着ゲートは倉庫のような空間が1か所だけ、2か所ある出発ゲートも使用するのは1か所だけで、待合室の搭乗客は係官の持つハンドスピーカーからの呼び掛けで出発ゲートのドアー付近に集まり、ゾロゾロと古いバスに乗り込んで搭乗の飛行機脇へ移動する、という一昔前の空港システムである。


首都サナアは標高2,200m
熱射が連想できる中東アラビア半島の真夏の時期であったが、幸いにも首都サナアは標高2,200mの高地に位置しているので暑くはなく、極端に乾燥した空気が気持ちが良い。
入国管理イミグレーションでは、在東京のイエメン大使館で取得した私のビザ番号と個人情報が伝送され、入国管理の古い型式のコンピュータに入力されているはずであったが、提示したパスポートとの照合に時間がかかり「もしや記載漏れか・・・?」と若干心配する場面もあった。
が、以外にも手荷物検査はなくチョボヒゲの係官の「Welcome to our country!」の笑顔の言葉に迎えられ、予想された大きなトラブルもなく入国することができた。

照明を落とした暗いサナア国際空港の建物の通路にデスクを置いただけの簡素な銀行の出張所で、この国の通貨である「イエメン・リアルYR」への通貨交換を行った。当面の出費予定から考えて、現金でUS$300(¥42,000)の両替を希望した。
年季物のデスクに座った係から渡されたイエメンの交換通貨は驚くほど多量で、一束$100分が輪ゴムで綴じられ、その枚数は50〜60枚もあった。US$300分・合計200枚近い紙幣を3つの分厚い札束で受け取った。
が、紙幣は古く全てがしわくちゃであり財布やポケットに簡単に収まるボリュームではない。過去に色々な国への入国時に、このような手に収まり切らない大量の札束を受け取った経験もなく、どうしようかと迷ってしまうほどだ。

 イエメンでは、通貨の最大単位が紙幣のYR500(\500)であり、
 YR200-100-50-20-10と小額単位へ続き、硬貨はYR10-5
 である。為替レートは偶然にも「YR1=¥1」で、ツーリストにとって
 電卓を使わずとも通貨換算が容易に暗算できるということは気が
 楽である。

 途上国の共通した特徴であるが、規模が小さくとも首都の国際空
 港の出口には、海外からやって来るわずかなツーリストを目当てに、
 間違いなく大勢のタクシー・ドライバー達が待ち構えているはずであ
 る。
 このサナア空港でも例外ではなく、直感的に英語が幾らか理解で
 きる若干頭髪の薄い中年ドライバーと交渉した後、彼のガタガタの
 トヨタ製コロナ車へ乗り込んだ。
 人の性格を見る上で最も重要となる世界共通の基準は誠実さで
 あろう。
 この時、偶然に私が交渉したのはこの言葉を端的に連想させ、感
 心してしまうほどの安全運転の中年ドライバーであった。
 この誠実ドライバーは左写真の青年のように、腰に大型の装飾ナ
 イフ・「ジャンビア」を差していた。


装飾ナイフ・「ジャンビア」を差す精悍そうな青年
首都サナア旧市街/1998年・夏


そして、タクシーが通り抜ける首都サナアの旧市街の路地には、決して大勢ではないが、「チャドル(ベール)」で全身を覆った女性達が男達に混じり、目立たないように静かに買い物をしていた(下写真)。
あるいは、ターバンを巻いた多くの男達は、活気溢れる露天市場スークの路地や通りに出向き、路上カフェで寛ぎ、世間話に花が咲き、お茶の新芽に似た植物性麻薬カートを噛み、頬っぺたを膨らましていた(下写真)。時間が止まったような平和な光景、中東アラビアの人々の生きた情景である。

        イエメン・チャドル姿の女性たち/(C)legend ej
       黒一色のチャドルの女性達/サナア旧市街   鮮やかなチャドルを羽織る女性達/サナア旧市街
       イエメン/1998年・夏               イエメン/1998年・夏
       ※ポプラ社発行書籍 世界の宗教シリーズ・「イスラム教」掲載写真に採用される/2005年03月

  イエメン・植物性麻薬カートを噛む青年&露天取引/(C)legend ej
サナア旧市街・スーク(露天市場)/カートを噛む青年   カートの露天販売&枝葉の直売/1998年・夏
イエメンの人々/大型装飾ナイフ・「ジャンビア」を差すイエメンの男達とチャドル姿の女性達


シンドバット・ホテル/≪アラビアンナイト≫
通常、私は海外への旅行習慣として、滞在先の「ホテルは現地で決める」という主義を守っているので、今回もホテルを確定しないまま現地到着である。誠実な中年ドライバーに問うと、職業柄か、彼は私にこの件を問われるのを待っていたかのように、即座に「シンドバット・ホテル」と返答してきた。そして彼はサナア中心部にある中流ホテルで、清潔・親切がモットー と付け加えた。

国際空港に詰めるタクシー・ドライバーである彼は、ほとんど間違いなくホテルとの何らかの相互の利害関係があるはずだが、そんなことはこちらが興味本位で詮索する話ではない。私はドライバーの推奨ホテルの名称を「シンドバット・ホテル」と聞いた時、思念なしに「そこに泊まろう!」と即決した。

「シンドバット」、私の雑学の知識が正しければ、それは≪アラビアンナイト/千夜一夜物語≫に登場するあの若き船乗りのシンドバットのことである。そのホテルは、光る宝物が眠る洞窟があるという「宝島」の地図を手に入れ、友人や王女と共に「ボルダー号」で冒険の旅に出る勇猛果敢なシンドバットの物語から、千客万来や商売繁盛の希望を託して付けられた名称のはずだ。そうか、この誠実な国イエメンで≪アラビアンナイトの物語≫か、悪くないなあ・・・

---- 昔、中東アラビアに栄えた王朝の暴君王スルタン・シャリアールは、妻の裏切りを発端とした女性不信から怒り心頭、女はすべて虚偽と不実のかたまりと決め付け、以降王妃に迎えた女と初夜を過ごした後、次から次へと王妃を殺すことを誓ってしまう。しかし、ある大臣の娘で自ら王妃となった美しき女性・「シェエラザード」は、毎夜ベッドで暴君スルタンに興味ある物語を聞かせたと言うのだ。
王は王妃シェエラザードの語る実話や逸話を問わず、恋や冒険や悲劇など、広いジャンルのたくさんの物語の面白さに惹かれ続けた。
「話の続きは明日の夜に・・・」と告げる魅力的な王妃の優しい言葉に、ついつい婚姻した王妃を次々と殺すとした暴君スルタンの誓いの実行は日一日と延期され、とうとう惨い誓いを捨て去るまでになり、心優しきスルタンへと変身していったと言う 物語・・・


その美しき王妃シェエラザードの語る一つ一つの話の集約が、かの有名な ≪アラビアンナイト≫ の物語であり、中年ドライバーから推奨されたホテルには、アラビア世界の誰もが知っているその伝承物語に登場する勇敢な船乗り・シンドバッドの名前が付けられている。
これは何たる偶然なのか、予想もしていなかった不思議なことが早くも起こり始めた証拠に違いない、と私は心の中にアラビアの赤い炎がメラメラと燃え上がるのを感じた。

イエメン・サナア旧市街・裏通り/(C)legend ej 入国早々から幸先も良いし、そうだ、もしかすると、そのシン
 ドバット・ホテルは≪アラビアンナイト≫の美しき王妃シェエラザ
 ードのように、私にこのイエメンで幸運をもたらしてくれるホテ
 ルになるかもしれない、などとまるで夢多き少年のように、私
 の目の前には楽観的とも言える美しい花咲く草原が無限に
 展開され始めたのである。

 数え切れない種類の香辛料と深い香りと酸味のあるモカ・マ
 タリ・コーヒーの香りがたなびく、首都サナアへ向かうコロナ車
 中古タクシーの中で目を閉じた私は、湾岸ドバイで一夜を
 過ごした乗り継ぎフライト待ちの疲れとタクシーの適度の揺れ
 からか、しばらくするとウトウトとなり、次第に意識が薄れ始め
 た。
 そうして自身が若きシンドバッドと同じ、≪アラビアンナイト≫の
 主人公の一人となり、ラクダに乗って砂漠の彼方へ歩んで行
 くような心地よい「夢の世界」へ誘惑されて行った ・・・


 世界遺産/サナア旧市街の裏通り
 イエメン首都/1998年・夏

Ref.
「乗合タクシー/ダッバーブ」
イエメンでは普通のタクシーのほかに地元で「ダッバーブ」と呼ばれる乗合タクシーが重要な移動手段となっている。イエメン国内に何処でも運行されている乗合タクシーでは、セダンタイプ車のみならず、特に首都サナアなどの都市部に多いのは、トヨタ・ハイエース車などの座席増設の改装を行い大勢が乗車できるワゴンタイプ車が標準ダッバーブである。
車両タイプの異なりがあろうとも、乗合タクシーでは超定員オーバーでたくさんの人が乗車するのは当たり前で、その分料金は「割り勘」となることから超格安となる。子供から老人まであらゆる年齢、男女を問わず、買い込んだジャガイモやニワトリも含め重い食料品などを携えたイエメンの人々にとって欠く事のできない移動手段である。

乗合タクシーは公共アクセスが無いに等しいここイエメンの田舎や都市の郊外に住む人々の生活を支える重要な業界と言える。誠実な国民が住むイエメンでは、この超格安料金のワゴン型ダッバーブの車掌のお兄ちゃんは親切だし、たとえ車両は中古のガタガタ車であっても、私のような低予算の個人ツーリストも利用でき、移動手段を持たない低所得者層の人達にとっても絶対的に安全な移動手段である。


外務省・海外安全情報
外務省はイエメン全土に安全情報・「最高危険度4」を発令中、イエメン滞在邦人の同国からの全員撤退と渡航の延期を勧告中。
※現在イエメンへの渡航はできない。

大峡谷ワディ・ダハール/王の離宮・「ロックパレス」

大峡谷の雄大な風景
中東のアラビア半島の多くの岩盤大地には、太古の大洪水の爪痕である「ワディ」と呼ばれる大峡谷地帯が刻まれている。
東方500kmの「イエメン砂漠の摩天楼」と呼ばれる世界遺産オアシス・シバームの長さ200kmのワディ・ハダラマートには及ばないが、首都サナアから北西へ15km付近、標高2,400mにある大峡谷・「ワディ・ダハール Wadi Dahar」は、長さ100km以上、最大幅3km 深さ150m前後、蛇行する途方もなく巨大な地球の裂目のような地形である。ナツメヤシの緑の林がなければ、この荒涼とした風景は火星の表面や月面とかと同じなのかもしれない。

          イエメン・ロックパレス旧離宮/(C)legend ej
                   大峡谷ワディ・ダハールに建つ夏の離宮・「ロックパレス」
                    首都サナア近郊/1998年・夏

渇いた川底であったワディの底部に建てられた「ロックパレス Rock Palace(上写真)」と呼ばれる建物は、かつて1930年までイエメンを統治していた王の夏の宮殿で、巨大な岩塊をくり抜きその上に宮殿部分が建てられている。
現在ロックパレス周辺のワディには村が形成され、ナツメヤシを初め乾いた高原でも栽培できる野菜畑など、灌漑設備の整った実り豊かな緑の農耕地となっている。

富士山の五合目に匹敵する標高2,400mのこのワディ底部に湧き出す地下水脈が、厳しい自然環境のイエメンの人々に生きる術を与えている。ヒツジの群れがのんびり草を噛み、同じ形容の石造の家々が点在する広大な峡谷ワディを展望できる崖上に佇み、底部からの上昇気流がもたらす僅かな風に心癒していると、乾いた空気の中を咳込むような独特なロバの鳴き声が流れてきた。
荒々しく雄大な大自然の風景の中で、今、輝きのイエメンの午後の陽光が地上から突き出たようなロックパレスを照らし出す。何と美しく感動的なシーンなのか!

Ref.  1998年の夏/イエメン・ターバンを巻いた日

イエメン砂漠/ターバン巻きを伝授される
ワディ・ダハールを訪れる数日前まで、私は「イエメン砂漠の摩天楼」と呼ばれるシバーム Shibam や外気温60℃の灼熱のオアシス・タリム(Tarim 下写真)などを訪れるために、イエメン砂漠の中心地サユーン Sayen に滞在していた。
その時、私は活気あるサユーンのスーク(露天市場)で、白と黒の細かなマス目模様(ブロック・チェック柄)のイエメン・ターバンを買った。パレスチナ解放戦線PLOの天才戦略家と言われ、2004年に亡くなったヤーセル・アラファト議長が愛用したターバンと同じようなデザインである。

当地イエメンでは、成人男性の多くが文句なしにこのイエメン・ターバンを頭に巻き付けている。ターバンは砂漠や乾燥の荒野での強い日差しからの頭部の保護のみならず、巻き付けた後に余った部分の垂れ下がりで手や顔を拭いたり、寒い時に頭から解いて肩を覆ったり、時にイスラムの祈りの時間にはターバンを外し砂漠の砂の上やモスクの床面に広げ、その場で祈りの儀式を行うこともできる、たいへん便利な男の必需品とも言える。

昼過ぎ、サユーンの市街で営業する通い続けた大衆食堂の若いウェイター達に頼み、ターバンの巻き方を伝授してもらった。「頭にターバンを巻く」ということ自体は、彼らにとって極普通の日常であり、「手本を示す」と言っている間に、スルスルと30秒もかからずに簡単にしかも確実に巻きつけてしまう。
子供の頃に育った埼玉県北西部の村の夏祭りで、豆絞り柄の手ぬぐいを頭に巻いたことはあるが、このような広い布地を頭に巻くということをまったく経験してない東洋の旅人にとっては、当初「簡単だろう」と予想したこのターバン巻きが非常に難しい技であることが分かった。何回トライしても、直ぐに崩れて解けてしまう私の巻きを、砂漠の若いウェイター達は少々の笑いを含めながらも時間をかけて丁寧な修正と細かなアドバイスをしてくれた。

結果、1時間後には、私のターバン巻きも砂漠の若者達でさえも、うなずき感心するほどの「イエメン人レベル」に達していた。これで腰に幅広ベルトと「J字型」の装飾ナイフ・ジャンビアを差せば、私も正真正銘の「イエメン人」となれるはずだ。ターバンが巻けたことで、何か年甲斐もなく心が躍り、外気温60℃の熱さも忘れ、心底から感動し嬉しかった。

イエメン砂漠・タリム/(C)legend ej
           オアシス・タリム/密集する日乾しレンガの住宅群/イエメン砂漠/1998年・夏
           イエメン砂漠シバーム〜タリム

オープンエアーの経済学講義/ライフル銃の試し撃ち夫婦
イエメニア航空のローカルフライトを使って砂漠から首都サナアへ戻り、明日イエメンを出国するという前日の朝から夕方まで、私はこのワディ・ダハールの大峡谷が見渡せる崖上で、イエメン滞在の最後の時間を過ごした。この時一日中解けることのないターバン巻きを伝授された私は、教わった通りの巻きを行い、まるっきり「イエメン人」に成りきった感覚でこの雄大な大自然の中で悠然と終日過ごせたのである。

それは明らかに幸福感に満たされた穏やかな心境で、ライフル銃と大型ナイフを身に付けた男達でごった返す首都旧市街のスークの雑踏も、内戦の負の遺産である地雷埋没とテロ爆発への不安や危険も、ワイロを渡せねばならない軍による検問も、何もかも忘れただひたすらに静かに微笑む時間を味わったのであった。当然のこと、「イエメン人」になった私のターバン巻きはこの日夕方まで解けることはなかった。

昼を過ぎた頃だったか、この朝にサナア旧市街のスークで買った薄いパンと焼いた羊肉のスライスを食べ、ミネラルウォーターで渇きを潤し荒涼たる風景に身を融け込ませた後、ワディ・ダハールの崖上で車座になって論議する10人ほどの人達に気付き近付いて行った。
彼らはサナア大学の教授と若い学生達で、キャンパスから離れ、この雄大な風景をバックに、飲み物とささやかな食べ物を持参して、標高2,400mの崖上に広がる岩の平原に車座で座り、聞けば、経済学の討論を行っているのだと言う。狭い教室でなく、広大にして雄大な自然の崖上の平原をたった10人だけで授業に使う余裕とその効果は、狭苦しさしか知らない東洋の国から旅人の想像を遥かに超えていた。

さらに200mほど離れた高い崖上では、ターバンを巻いた男性とおそらくその妻と思われる中年の二入が、峡谷の彼方を目標にライフル銃の「試し射ち」を行っていた。「タンタン・・・ン」と乾いた銃の連射音が峡谷全体に雷のように轟いていた。近付いた私に気付き、笑顔を返した後もさらに弾を込め直し連射を行い、「フゥー・・・」と緊張から解かれたため息を漏らし、二人は再び私へ満足感を含めた笑顔を送り、窓から手を振りながら古いトヨタ車で街の方向へ帰って行った。
これもそこ彼処で見かけるイエメンの日常の風景であり、ライフル銃の発砲音など気にする人は誰も居ない。ライフル銃の航空機内への持ち込みを「常識」と考えている砂漠の人達さえも居るのであるから・・・


自動小銃持参の砂漠の青年達
午後3時前後、眼下のロックパレスを遠く巻くように続く見晴らしの崖縁を歩いていたら、日産・ダットサンの小型トラックを止めてくつろぐ20代の三人の若者に出会った。彼らは首都から東方へ約150kmにある砂漠のマーリブ Marib 地区をさらに越えた荒野のオアシスに住む砂漠の青年達であった。オアシスで採集した蜂蜜をプラスチックボトルに詰め、月に一度、首都へやって来て、スークで蜂蜜を量り売りして現金を得るという生活をしているらしい。

彼らのダットサン・トラックの荷台には数枚の汚れた毛布があり、この下に別な毛布で丁寧に包んだ彼らの商品である蜂蜜を入れたプラスチックボトルがあり、さらに運転席のバックシートには使いこなされた東欧製の自動小銃銃1丁が隠されてあった。彼らの話では、マーリブ地区は同じ砂漠の部族でありながら、伝統的に闘争心がみなぎる部族が多く、地区の通過には絶対に銃の携行が欠かせないのだと言う。

実は私のイエメン滞在プランでは、可能ならばこの「何があっても不思議でない」と言われ、日本の外務省から危険度情報が発令されていたマーリブ地区を訪ねる積りであった。このマーリブ地区の乾燥砂漠には、今から3,000年前の紀元前10世紀以降、800年間も繁栄した有名な「シバの女王」がいたシバ王国の古代遺跡、世界最古と言われる水溜めダムや宮殿遺構などが残されていた。

混乱と不安定の社会状況もあり、私がイエメンに滞在した時、危険なマーリブ地区に外国人が立ち入るための絶対条件は、専用ドライバーの運転するジープタイプの車とライフル銃で武装したガードマン兼任のガイドを雇わねばならなかった。
私もその通行許可書の申請で警察署のドアーを押したが、窓口では先ずは「許可条件を満たしてもらいたい」との厳しい回答であった。この条件を軽視して通行許可書を保持しない「何とかなるさ」の軽い気分で現地を訪れようとしても、首都からほぼ20km前後に設置された軍の検問チェックの際、「首都へお帰り!」と警告されるはずだ。

私は個人ツーリストとは言え、在サナアの日本大使館へ滞在予定書を提出して、それなりの緻密で計画的なスケジュールと過去の経験と教訓を生かした強い意思でイエメン滞在をしていた。しかしながら、サナア警察署から通行許可が下りないために、限られた短い滞在時間はますます減り続け、結局、私のマーリブ行きのチャンスは実行されずに諦めの道を辿る結果となってしまう。
この時の首都サナアからマーリブ往復の旅程では、何が起こるかまったくの不透明さがあり、万一のトラブルに臨機応変で対応するためには、少なくも4日〜1週間程度の時間的な余裕がないと実現できないと考えていたのだが・・・


マーリブ地区の殺害事件/誠実な青年達との別れ/誇り高きイエメン民族
記憶が正しければ、私が通行許可の申請を行おうとした直前、東洋人の外交官家族(多分?)がマーリブ地区で誘拐され、その後その妻と子供が首を切られ殺害されるという凶悪な事件が発生した。
私も滞在計画書の提出で訪ねたことがあるが、サナアの南部郊外で大型パラボラアンテナを備えた厳重警備の我が日本大使館は、常に「たとえ誘拐されても、焦らず、騒がず、犯人の意向に沿った行動を取ること・・・」を勧告していた。

この国での外国人を狙った危険部族による誘拐事件のほとんどは、先ずは話し合いよりむしろ金銭で解決されるが標準のパターンで、犯人達が誘拐した外国人に対して生命に関わる重大な危害を加えるという、凶悪事件はほとんどないと言われていた。しかし何かの手違いからか、東洋人家族の誘拐事件は殺害という悲惨な結果となってしまい、首都の警察当局も外国人に対するマーリブ地区への通行許可の発行に神経を尖らせていたのである。

夕刻近く、砂漠から来た蜂蜜売りの青年達が、首都へ行き食料の買い込みを行うと言うことで、私もトラックに同乗して滞在のホテル近くまで送ってもらった。彼らは食糧の調達後、明日の朝スークが開かれる広場で早くも陣を取り、車の中で汚れた毛布に包まり睡眠を取ると言う。
そうやって蜂蜜が売り切れるまで1週間ほどを首都のスークで過ごすとのことである。そうして緊張感を高め、ささやかな売上金と使い慣れたライフル銃を抱えながら、危険なマーリブ地区を通過して、自分達の家族が住む過酷な砂漠のオアシスへ戻るのであろう。
私を含め、収入の安定確保がほぼ保障されている日本の企業勤務のサラリーマンと大きく異なり、現金収入の不安定な砂漠地方に住む彼らとその家族の生活は決して楽ではないはずだ。彼らはイエメンの別れの言葉を私へ投げかけ、誠実そうに一人一人が両手で握手を求め、穏やかに笑って去って行った。

中東諸国で最も「誠実で誇り高い民族」と言われながらも、砂漠地方のわずかな可能性を除き、豊かさの源となる原油の産出がほとんど無い、言ってしまえば豊かさを未だに享受できないイエメンの人々。
湾岸諸国のような富んだ社会への憧憬は当然あるにしても、自分達の置かれた厳しい現実状況に嫌悪感を抱かずにまっとうして生きていく姿は、日本やヨーロッパ先進国を初め、林立する近代的な高層ビルで富を確保する湾岸の人々より、むしろ「生の人間らしさ」をも感じた。

Ref.
イエメンの「車」事情
イエメンの車のほぼ90%は、自家用もタクシーも業務用も中古の日本車であり、乗用車はトヨタ、生活に必要な小型トラックはダットサンが主流で、しかも既に20年前の型式の日本車が堂々と活躍して使われていた。多くのドライバーは故障しない日本車の高い技術を通じて、日本の「こと」を良く知っていて、日本人の高い教育レベルや誠実さへの「賞賛の嵐」を何回も受けた。


南北イエメンの内戦
20世紀の歴史をひも解くと、国はサナアや山岳地方を占める国際的に認められた北部のイエメン王国、それに対抗するためインド洋沿岸の南部地方からオマーン国境に至る砂漠地方を占める社会主義勢力とで長い間内戦が繰り広げられていた。南北両陣営は互いにアメリカと旧ソ連の政治的な援助を受け、イエメン各地で激しい戦闘が行われた後、1990年になりようやく南北の合併で現在のイエメン共和国が成立する。
しかし、この国の政治は安定を確保できず、4年後の1994年になると再び相容れない南北間の戦いが起こり、大型ミサイルが飛び交い数万の命が失われた「イエメン内戦」となる。

私がイエメンを訪れた1998年では、南北の合併後10年、内戦後4年も経過していないこともあり、未処理のまま残された数十万個と言われた内戦時の地雷の存在、あるいは止むことのない部族間の紛争が多くの地区・地域で発生していた。

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