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世界遺産/新石器文化・キロキティア遺跡 Khirokitia(Choirokoitia/Chirokitia)

新石器文化・カラヴァソス・テンタ遺跡と周辺遺跡 Kalavasos-Tenta

新石器文化・飼いネコ埋葬・シロウロカンボス遺跡 Shillourokambos

青銅器文化・マローニ・ヴォルネス遺跡と周辺遺跡 Maroni

UWH

キロキティア遺跡 Khirokitia/(C)legend ej
             キロキティア遺跡/発掘A区〜D区/キプロス中部地方/1997年

新石器文化/キロキティア居住地遺跡

キプロス島の新石器文化
キプロス島の中央南部で発見されたキロキティア居住地 Khirokitia は、紀元前7000年〜前5000年頃に遡るキプロス島を代表する新石器文化の極めて重要な遺跡サイトである。
キロキティアと同じような新石器時代の居住地遺跡は、キプロス島中南部の内陸の丘に残されたソティーラ遺跡 Sotira、後述する少し西方の円筒形家屋のカラヴァソス・テンタ遺跡、世界最古の「飼いネコ」の埋葬骨格が見つかったシロウロカンボス遺跡(後述)など、キプロス島全体で約40か所が確認されているが、キロキティアが最も大規模な居住地遺跡と言える。

なお、私が訪れた翌年の1998年、キロキティア遺跡はUNESCO世界遺産に登録された。またキロキティアの文化は、ギリシア中部地方で発見された新石器文化のセスクロ居住地とほぼ同じ時代に繁栄したと考えられる。

新石器文化/キプロス中南部のソティーラ遺跡/ローマ時代のコウリオン(クリオン)遺跡
新石器文化/ギリシア中部のセスクロ遺跡とディミーニ遺跡/ミケーネ文明のオルコメノス遺跡


地名別称
  キロキティア ⇒ ヒロキティア or クィロコイティア Choirokoitia/Chirokitia
  首都ニコシア Nicosia ⇒ レフコシア Lefkosia
  リマソール Limassol ⇒ レメソス Lemesos

          キプロス島・新石器文化〜青銅器文明遺跡/(C)legend ej
          キプロス島・新石器文化〜青銅器文明遺跡/作図=Web管理者legend ej


キロキティア遺跡の位置/マローニの小川と岩山
キプロス首都ニコシア(レフコシア)の南方45km、ラルナカ空港から南西へ35km、南岸のリマソール(レメソス)から北東へ35km、リビア海の海岸から7.5km内陸の丘陵地帯にキロキティア村 Khirokitia がある。
村の東方約1kmに地元で「ヴォウニの岩山 Vouni」と呼ばれる露岩と潅木の標高210mの岩山があり、それを迂回するように北西のトロードス山地から流れ出た小川が、直角にペアピンカーブして南方へ流れ下っている。川を地元では「マローニ Maroni」と呼ぶ。
マローニの岸辺である岩山の北側麓と東側から南東側の麓は、狭い平地となだらかな斜面を形成している。キロキティア居住地遺跡は岩山の南側〜西側の斜面と尾根に残されていた(下作図)。

GPS キロキティア居住地遺跡: 34°47′48″N 33°20′37″E/標高175m〜195m


キロキティア遺跡の発掘
キロキティア居住地の最初の発掘ミッションが行われたのは1934年、担当者はポフィリオス・ディカイオス教授 Dr Pophyrios Dikaios であった。ディカイオス教授の発掘ミッションは1946年まで続き、1970年代になって『キプロス紛争』で一時的な中断があったが、その後も継続的な発掘作業が行われた。
既に下方の麓から発掘A・B・C区が発掘され、1970年代の後半からフランス考古学チームが引継ぎ、(訪ねた1997年時点では)尾根周辺の発掘D区を発掘中であった(トップ写真&下作図)。

         
              キロキティア居住地遺跡・平面プラン図/キプロス中部地方
              1997年/作図=Web管理者legend ej


キロキティア居住地遺跡の規模
現在(訪ねた1997年時点)までに発掘されたキロキティアの居住地は、「ヴォウニの岩山」の南麓の発掘A区から中腹の発掘B区〜発掘C区を斜めに横切るように、最大幅50mほど、200m近い長さで岩山の西側尾根の発掘D区の向こう側まで展開している(上作図)。

居住地遺跡の東方には「ニコシア/ラルナカ=リマソール」の幹線道路(高速A1号)と昔の幹線道路の国道(B1号)が交差してインターチェンジを形成、またマローニの橋の近くにはキロキティア遺跡の「管理ゲート・チケット販売」がある。

管理ゲート近くの標高160mを流れるマローニ川を「基準」とするならば、発掘A区付近で15m、居住地で最高標高となる尾根越えD区付近は、小川より約35m高い位置に相当している。また、尾根よりさらに標高の高い「ヴォウニの岩山」の頂上付近は、マローニの小川から約50mの標高差となる。
確認された居住地の家屋は、訪ねた1997年の時点でおおよそ100棟ほどあると判断できた。既にかなり広範囲に発掘で確認されているが、予想される居住区域はさらなる広がりがあるとされ、その点から言えば「発掘はまだ始まったばかり」である。

キロキティアの居住に関しては、岩山の頂上周辺は露岩が激しく、頂上の北側は落ち込みの崖なので居住は難しいと判断できる。
しかし岩山の麓を流れるマローニの小川の岸辺の全域、要するに、岩山の北東側と東側から管理ゲートと復元家屋のある南東側のマローニの岸辺、さらに発掘B区〜C区の下方の草地の区域にも居住地があった、と想定できる。
あるいは広い平地となっている尾根D区の付近と尾根を越えた岩山の北西側の中腹斜面などにも、居住地の遺構が眠っている可能性が高い(上作図)。

キロキティア遺跡では未発掘区域が広範囲に残されていることから、最終的には家屋だけで、最大で300棟の大規模な居住地となる可能性が十分にある、と私には想像できたが。もしそうならば、単純なスポット居住地ではなく、新石器時代の「大都市メガロポリス」と言うことができる。

Ref.
ポフィリオス・ディカイオス教授 Dr Pophyrios Dikaios
ディカイオス教授はキプロス東部の重要なエンコミ遺跡 Enkomi (現在=北キプロス)など、多くの遺跡の発掘に携わり、1947年、ニコシアのキプロス考古学博物館の館長となった著名な考古学者である。また教授はキプロスのみならず、ヨーロッパのエーゲ海文明の研究者からも「キプロス考古学の父」と言われている。

キロキティア遺跡へ向かう/居住地サイト

見学用の「復元家屋」4棟/石敷きの「メインロード」
幹線道路(国道A1号)側からマローニの小川に架かる橋を渡ると遺跡管理ゲートとなる。管理ゲートの北東50mの平地には、コンクリート製なので遠目にはモダンな感じがしないでもないが、見学者のために新石器時代の円筒形の「復元家屋」が4棟 建っている。管理ゲート付近から折り返しの通路で居住地遺跡へ昇る。

遺跡の手前から居住地の中心エリアへ向かって、研究者に「居住地メインロード」と呼ばれる幅1.5m〜3mほど、石灰岩をびっしりと敷き詰めた新石器時代の狭い坂道(作図 赤線)が延びている。
また、舗装道の脇には分厚い塁壁が付属することから、石敷きの道と壁面を合わせて「舗装道メインロード&長い塁壁」と呼ぶ研究者も居る。この石敷きの舗装道と長い塁壁は、発掘A区〜B区〜C区を通過して、尾根D区の向こう側まで約185mにわたって長々と続いている。この舗装道こそが、新石器時代のキロキティア居住地から外部へ連絡する「唯一の道」であった。


ツーリスト見学ルート/見学者用展望ステージ
ツーリストの「見学ルート(上作図・紫線)」は居住地遺構に影響が及ばないように柵で完全規制され、全体では居住地遺跡の南側〜西側外周を回るように設定されている。
管理ゲートから発掘A区周辺では遺構の南外側を回り、またB区では居住地遺構の中に張り出した枝ルート的な「見学者用展望ステージ」が設けられ、ステージ周辺のB区と眼下のA区を中心に複雑な遺構をはっきりと眺めることができる。

ちなみに、このページの掲載写真も含め、今日インターネットに流されているキロキティア遺跡の写真のほとんどは、この「展望ステージ」から撮影した写真である。この場所からの眺めがキロキティア遺跡を最も理解するに適している。
その後、見学ルートは斜路と段差のないステップで徐々に発掘C区〜尾根D区へ登って行く。見学ルートはC区と尾根D区で(規制の柵は有るが)遺構の中を通過している。見学ルートはB区の「展望ステージ」の枝ルートを含めても全長で200m前後である。
管理ゲートから尾根D区まで標高差50m以上があるので、当然、ルートは若干登り斜面である。見学ルートはなだらかに整備されているので中高年者でも歩きやすい。ただし、段差やステップがあるので、現状では車イスでの見学は難しい。


居住地の石積み塁壁
発掘A区〜尾根D区へ至る舗装道メインロードに沿った右側(岩山側)には、場所によっては2.5m以上の高さを残す石積みの累壁が残されている。また、数段のステップを付けた居住地への幅の狭い入口が設けられている箇所もあり、外敵からの攻撃や野生動物の侵入などに対応した構造であったかもしれない。

石敷きの「舗装道メインロード&長い塁壁」の平面視野が、丁度半円を描きながら岩山の中腹を回るような形容となっていることから一部の研究者の間では舗装道メインロードと塁壁は「岩山のリボン」とも比喩され呼ばれている。
石積みの長い塁壁の存在、そして岩山の北側〜東側にはマローニの小川が流れていることから判断すれば、新石器時代にあってキロキティアの居住地は、防御を考えた中世ヨーロッパの「城砦都市」のような形容であったとも想像できる。

塁壁に沿って延びる舗装道メインロードの東側(岩山側)が、事実上、塁壁の「内部」に相当して、より早い時期に居住された区域とされる。その後、居住人口の増加に伴って、塁壁の外側となる舗装道メインロードの西側にも居住地が徐々に拡大して行ったと判断されている。
また、居住地の拡大時の追加的な塁壁なのか、尾根D点付近では長い塁壁から西方10mほど離れた位置に平行するように長さ60mの「第二塁壁」とも言える遺構も確認されている。

キロキティア遺跡/住居用家屋

家屋の構造
キロキティア居住地の住まい用の標準的な家屋の構造は、マローニの河床や崩落の谷崖から運んだ丸みの石灰岩を主に、赤茶色の砂岩や黒灰色の玄武石系の玉石をコア(内部材)として積み上げ、隙間に小石を詰めた外径2m〜9mの円形・円筒形容で、外装は干草を混ぜた粘土の漆喰塗りであった。
家屋の入口は各1か所だけ設け、内部の床面はフラットな敷石や泥漆喰塗り、内部スペースは平均して内径1.5m〜5m程度、内壁は床面と同様に粘土と泥漆喰塗りで仕上げられていた。
住まい用の家屋の天井(屋根)は一部の説で唱えられているドーム状の丸天井ではなく、「復元家屋」でも確認できるが、円筒形に積み上げた壁の上部に梁の役目の木枝を横に並べ干草を敷き、その上に粘土と泥漆喰で防水施工を行なっていた(下描画)。

                   キロキティア居住地などキプロス島の新石器時代の集落(想像描画)/(C)legend ej
          キロキティアなどキプロス島の新石器時代の集落/輪切りダイコン状の円筒形家屋群
          中庭があり シロウロカンボス(後述)など共同井戸が掘られた居住地もあった
           1997年/描画=Web管理者legend ej

一部の家屋には窓があったが、キロキティア居住地のほとんど全ての家屋の外観は、小さな入口だけを備えた極めてシンプルな円形・円筒形〜楕円形(オーバル)で、遠方から眺めたのなら、岩山の斜面に大小無数の「輪切りダイコン」が、ポコンポコンと密集的に置かれていたような景観であった、と私は想像する(上描画)。
このような統一的で目にも穏やかな円筒形の家屋が、岩山のなだらかな斜面を埋め尽くすようにして合計300棟もビッシリと建ち並んでいたとすると、それは壮観そのものであったはず。現代の風光明媚な地中海の別荘地ではなく、時は9,000年〜7,000年も以前、やはりキロキティアは新石器時代の人々が憧憬して止まない最先端の「大都市メガロポリス」であったのかもしれない。


家屋に窓があったのか?/床面の表層は?/ベッドはあったのか?
管理ゲート近く、マローニの岸辺の見学用に復元された4棟の家屋では壁面に窓が付けられている。また尾根D点周辺の一部の家屋でも幅50cm以下の窓の存在が確認されている。
しかし、窓の施工は幾分高度な建築技術を必要とするので、多くの新石器時代の家屋と同様に、キロキティア居住地でも「すべての家屋に窓があった」とする結論は難しい。おそらく窓を備えていたのは比較的大型の家屋であり、小型の家屋や穀物倉庫などには「窓の設備はなかった」、と考えるべきである。

屋内への灯りは昼間は小さな入口からのみで、人々は夕方から夜間では灯りのない暗い家屋の中で過ごし、当然早めの就寝となったはず。時は新石器時代であり、太陽が上がり明るくなれば人々は活動を始め、陽が沈み暗くなれば直ぐ寝るという、自然の法則に従ってすべての人が規則正しい生活を営んでいた。もし居たとしても、灯りがないことから、現代のような「夜型人間」はおそらく生きて行くのはかなり難しかったであろう。

家屋の内部床面は泥漆喰で表装され、部屋の片隅に平らな石材ブロックがあったり、プラットフォーム的な、おそらくベッドに利用したのか、泥漆喰で表層された「台」も確認されている。
あるいは「炉」のような大型の石材や床面に段差を設けた家屋も少なくない。ある家屋からわずかに赤茶色の色彩の太い線模様が確認されただけで、内壁の粘土や泥漆喰が流れ出てしまっているので、ほかの家屋の内壁の装飾紋様などの痕跡は見つかっていない。赤茶装飾は後述のカラヴァソス・テンタ居住地遺跡と同様に、この地方で多く産出する「黄土オーカー」を焼成して作る「レッド・オーカー」が使われた可能性がある、と私は思う。


人々の背丈は?/居住地の人口は?
幅も狭く、高さもそれほど高くない入口のサイズ、そして住まい用の家屋の建築構造や見つかった埋葬骨などから判断して、キロキティア居住地に住んだ新石器時代の人々の背丈では、男性が160cm、女性が150cm程度であったと推定されている。
通常、円筒形の一つの家屋に一家族が住み、5棟〜7棟前後で一つの小さな庭や共有スペースを作るように配置され、発掘ではこの小さな庭で食事の用意や炊飯で火を燃やしたと推測できる平石、石製棒などで穀物の製粉を行ったことで磨り減った凹みのある石材ブロックなども発見されている。

また未発掘区域を含む予想されるキロキティアの居住地は、全体で約1.5ha以上(単純計算=122m 四方)とされ、その規模から想定できる居住地の人口キャパシティは、少なくとも常時300人、最大では600人前後であったとされる。後述のカラヴァソス・テンタ居住地の最大150人に比べると、キロキティアはかなり大規模な居住地であったことが分かる。

キロキティア居住地の埋葬習慣

「屋内埋葬」・「屈葬」/埋葬の男女の差
青銅器時代になると出現する聖所的な施設は確認されていないが、キロキティア居住地の特徴的なことは、住まいの家屋の脇に付属した建物があり、または複数でグループ形成する埋葬用の建物の存在である。その建物構造は住宅家屋と殆ど同じで、円筒形とやや楕円形(オーバル)、内部に祭壇のようなプラットフォーム(台)を設けた建物もある。

キロキティア居住地の場合、埋葬のほぼ100%が「屋内埋葬」であったことも特徴の一つである。また、埋葬場所が円形の建物内部の狭いスペースであったこと、あるいは満足な用具もない新石器時代で硬い地盤にピット穴を掘削するのは容易な作業でなかったことなどから、建物内部に小さな浅いピット穴を掘り、ほとんどの被葬者が足腰を曲げ小さな姿の「屈葬」で葬られていた。

被葬者はピット穴の中に安置され、土を掛けられ、さらに泥漆喰で覆うという埋葬形式がとられた。土と泥漆喰を被せるとは言え、生在る人が住む居住地内のまったく同じ形状をした円形・円筒形の建物の中に葬ることで、死者にあっても常に家族と同様に「家の中で眠っている」という、キロキティアの人々の死生観を表した埋葬方法である。

この居住地で埋葬用の家屋が非常に多いのは、居住期間が1,000年単位の長期であった結果でもあるが、キロキティアの人々が死と死後の世界に対する強い宗教的な観念、あるいは種族の伝統として死者への尊厳を抱いていた証拠でもある。

多くの男性の被葬者の方が、女性より「良い場所」に葬られ、時には死体の上に大きな石が置かれている例もあり、これは被葬者に何かの病気やトラブルなどがあり、「もう二度と復活しない」ことを畏怖した埋葬方法だったかもしれない。また、後述のカラヴァソス・テンタ居住地では例が少なかったが、石製容器など遺体と一緒に色々な副葬品が多数見つかっている点が、キロキティアの埋葬習慣の特徴的な一面と言える。


副葬品/埋葬年齢は?/多くの子供の埋葬
1953年、発掘者ポフィリオス・ディカイオス教授から発表された、「トロス式墳墓・18号墓」と呼ばれる埋葬家屋のピット穴の屈葬例では、遺体に副葬されていた水平ハンドル付きの容器(キプロス考古学博物館・登録番号927)は、表面が全面研磨されたグレー系安山岩の浅いボウル容器であった。破断状態を復元したこの石製容器は直径270mm 高さ90mmである。また、遺体の直ぐ後ろに置かれていた別の石製容器には小さな注ぎ口が付いていた。
出土したこれら石製容器類は、安山岩など硬い石材をさらに硬質な黒曜石やチャートなどの削器スクレーパー石器を使って削り、時間をかけて陶器のように加工した優れた作品で、現在、首都ニコシア・キプロス考古学博物館で展示公開されている。

キロキティアの人々の平均寿命については、研究者の推定では、埋葬骨格などから、男性で35歳前後、女性では33歳程度であったとしている。現代に比べると非常に短命であり、おそらく女性は10代半ばまでに子供を生み終わり、人々は30歳になるともう老人となり、世代は次々と交代していった。新石器時代のキロキティアの人々にとって時間が現代の私達の二倍〜三倍の速さで過ぎ去ったことになる。

発掘により埋葬用の建物で確認された遺体は合計120人分、そのうち30%弱が子供の埋葬であった。新石器時代のキロキティアでは快適な地中海式気候帯に属し食料事情も悪いとは思えないが、深井戸が確認されていないことから、人々はマローニの水を飲料していたと考えられる。
この川の水質に問題があったか、例えばマローニの源流トロードス山地の銅鉱石から滲みだした鉱毒(ヒ素・カドミウムなど)とか、あるいは避けられない風土病的な感染症など、当時としては何らかの対応が難しい深刻な理由があったはずで、子供が大人へ成長する前に亡くなるケースが結構多かった事実を示している。

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埋葬用の大型家屋/トロス式墳墓・1号墓
発掘A区付近の石敷きの「舗装道メインロード&長い塁壁」の左側(南西側)、見学ルートから見ると柵の直ぐ右脇(北側)に外径の長幅10m 短幅8m、若干楕円形(オーバル)の大きな建物遺構がある。1.8mの分厚い壁をもつこの楕円形建物の中には、幅2mx1.2mの大型角柱のような目立つ石積み遺構が2か所残されている(上述作図&下写真)。

           キロキティア遺跡・埋葬家屋/(C)legend ej
         キロキティア居住地遺跡/埋葬用のトロス式墳墓・1号墓周辺(A区)
         右脇はマローニ川・管理ゲートから登って来る見学ルート/キプロス中部地方/1997年

この楕円形の建物遺構は「トロス式墳墓・1号墓」とも言われ、キロキティア居住地の最大の建物遺構、そして最も大きな埋葬用の建物であった。
大型角柱のような石積みは、埋葬時に何か特別な用途、例えば死者の使っていた食器や供物などを置いた奉納台とも考えられる。だとすれば、大きな台のような遺構は、現在では露出した石積みだが、当時は泥漆喰か石膏(プラスター/焼石膏)の漆喰表装が施されていたはずである。

ニつの石積みを残す大型の埋葬建物の南東側、見学ルートの直ぐ脇にも外径5mの小型の円形遺構が見える。こちらも埋葬用建物であった。
また、楕円形の埋葬建物の北側〜西側には3mほど離れて建物を半周するような格好で小規模な塁壁が廻らされ、塁壁の外側に付属するように2か所の小型の円形遺構が見える。これらも埋葬用に使われていた家屋の遺構である。

そのほか楕円形の大型埋葬建物の周辺には、外径2m前後の小さな円形遺構が点在していることから、この区画がキロキティア居住地で最も密集した家屋形式の埋葬施設、あるいは「共同墓地」のような場所であったと考えられる。なお、発掘A区内の少し離れたほかの場所にも、さらにB区やC区でも数多くの埋葬用の建物が住まい用の家屋に隣接して残されている。

Ref.
キロキティア居住地の人々の人生
現在までに発掘された家屋は、住まい用を初め穀物倉庫や埋葬家屋など約100棟、未発掘の建物を含めると上述の通りキロキティア居住地の人口キャパシティは常時300人〜350人前後、平均寿命が35歳とすれば、単純計算だが毎年10人前後の子供が生まれ、同時に10人前後の老人や病気の子供達が亡くなっていたことになる。

このような状況が、新石器時代のキロキティア居住地では約2,000年間も続いていたとすれば、単純計算では「毎年10人x2,000年間=約2万人」が、この居住地で生まれ、人生を終えているはずである。そして死生観を重要視したキロキティア居住地の特徴的な埋葬習慣は、ほぼ100%が特定の建物内部での「屋内埋葬」であった。

特に居住地で最大の埋葬用家屋であった上写真の「トロス式墳墓・1号墓」の建物に限っても、すでにほとんどは土に帰ってしまっているはずだが、間違いなくこの居住地で人生を終えた1,000人単位の新石器時代の人々が伝統に従ってこの大型家屋の中で順番に永遠の眠りについたことになる。
そう想いながら「見学者用展望ステージ」から眺めるキロキティア居住地遺跡は、単純な観光遺跡ではなく何か胸を打つ畏敬なる場所のように見えるのであった、私には・・・

キロキティア遺跡からの出土品

出土品/石製容器・石器
数は決して多くないが、キロキティア居住地からの出土品がある。その多くは埋葬家屋の内部ピット穴の遺体の副葬品として出土したものである。キロキティアではすでに陶器の製作が行われていたが、その数量は多くはない。ただ、「回転ろくろ」はまだ開発されておらず、すべてがハンドメードで成形された。初期の陶器は無装飾、後期では幾何学的なわずかな紋様などが表現された。

キロキティアの新石器文化ではまだ陶器焼成の技術レベルが低く、居住地の人々が使っていた容器では硬い石材から削り出した石製容器、そして既に腐食してしまったが加工が簡単な木製容器が多用されたと推測できる。石製容器はキプロス島のほかの新石器文化の居住地からも多く出土している。
黒曜石やチャートのフリント・ナイフ(右下写真)を初め、磨製石斧や石製ハンマー、チョコレート色の削器スクレーパーなどの石器類も出土している。骨片を加工した小穴付きの太い縫い針、骨を割いて作った削器スクレーパーなども多数見つかっている。

また、女性の頚部(首)や腰部を表す「くびれ」を付けた単純な石製像、「トロス式墳墓・51号墓」の埋葬家屋から出土した顔型の石製像(左下写真)のような安山岩製の像(おそらく女性像)も数点見つかっている。

(左写真)キロキティア遺跡出土・安山岩製の顔型石像
 写真情報:キプロス政府考古庁
         Deparment of Antiquities

(右写真)キロキティア遺跡出土・チャート・フリント石器
 写真情報:キプロス考古学博物館情報
 紀元前7000年〜前6000年頃
 ニコシア・キプロス考古学博物館

キロキティア居住地の人々の生活

栽培農業と採集生活/動物の飼育と家畜化/子供達の健康状態
キロキティア居住地の生活と経済活動については、サイトが現在の地理で海から7kmほど内陸という点を考えると、新石器時代のこの居住地の人々が、海からの幸を日常的に食するには海岸までの距離からしても、行動面でも幾分制限があったと考えられる。しかも居住地から海岸までマローニの流れと起伏の少ない谷間があったにせよ、この時代に歩きやすい整備された道が存在したとは考え難いので・・・

レポートでは確かにシーフードの骨も若干確認されたとされるが、その海の幸の捕獲はキロキティア居住地の人々の日常的な活動と消費を意味しているとは考えられず、むしろ何処かより海岸地帯に住んだ近隣の居住者達との物々交換の結果、「時折シーフードも食していた」、と私は判断したい。

キロキティア居住地では、飲料水はマローニの小川からの供給で十分であったであろう。周辺には平らな土地はないが、なだらかな斜面が広がり、また出土品の状況からしても、キロキティアではシーフードより種を蒔く小麦や大麦などの耕作栽培を初め、ピスタツチオナッツ、オリーブ、イチジクなどの果実栽培と収穫、色々な木の実などの採集活動に重点を置いていた、と考えられている。

さらに色々な動物の飼育と家畜化、周辺山地での活発な狩猟活動を裏付けるヤギやヒツジ、シカやイノシシ(ブタ)などの哺乳類の骨が大量に出土している。栽培穀物と動物骨(肉類)の豊富さを考えるとキロキティア居住地での「深刻な食料問題は存在しなかった」ように考えられる。
ただ、今日の栄養食材と同様なレベル、肉類などは相当に恵まれた食料事情と推測できるが、上述の通り、子供の死亡率が高かった点が気にかかる。あくまでも私の仮想だが、やはり飲料していたマローニの水に含まれた銅鉱石の鉱毒(ヒ素・カドミウムなど)が、子供達の健康を害していたのかもしれない。現代の深刻な環境問題と同様に、子供の成長を妨げていたのは化学物質と言える。


オシャレをしていたか?/井戸端会議はあったのか?
女性の被葬者と一緒に出土した装飾品では、骨の欠片に小さな穴をあけて糸でつなげた単純なネックレース、数は少ないが研磨された穴付きの硬い小石(準宝石)の飾りなどもある。
特に女性達に好まれたであろうきれいな装飾石では、後述するテンタ居住地と同様に、トロードス山地を源流としてリマソール西方のローマ時代のコウリオン遺跡の東側を流れる、コウリス川流域 Kouris で採れるグリーン系硬質蛇紋岩 Picrolite が使われた可能性があるだろう。

当然、糸は腐食してしまったが、キロキティアの女性達は骨の小片や研磨小石の穴に糸を通して、ジュエリーとして首や腕を飾っていたのであろう。7,000年以上前の新石器時代、キロキティア居住地の女性達も現代と同様にかなりオシャレであったようだ。
今日とまったく同様に、キロキティア居住地でも飾り石やベッピン娘の恋愛話など、話題豊富な女性達の賑やかな「井戸端会議」があったのかもしれない。今から9,000年〜7,000年前の遠い昔、明るい笑い声の響く平和な時間が、地中海の温暖な気候と豊かな食料に恵まれた新石器文化のキロキティアでは、気が遠くなるくらいの年月、2,000年の間 連綿と続いていたのである。

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キロキティア遺跡近郊のキプロス新石器文化〜石器・青銅器文化〜青銅器文化の遺跡群

             1) 無陶器・新石器文化/カラヴァソス・テンタ居住地遺跡

テンタ居住地
キロキティア居住地遺跡の南西6kmほどには、トロードス山地を源流とするヴァシリコス川 Vasilikos がリビア海へ流れ下っている。ヴァシリコス川によって造られた丘陵低地は「ヴァシリコスの谷」と呼ばれ、その最も北奥が標高100m前後のカラヴァソス村 Kalavasos である。ヴァシリコスの谷とリビア海へ続くその扇状地は、キプロス新石器文化〜石器・青銅器併用文化〜青銅器文化の「遺跡の宝庫」と呼ばれている。

カラヴァソス村の北側に広がる標高150m〜200mの丘陵地帯の墳墓群を含め、幹線道路(高速A1号)の周辺エリアなどから、USボストン・ブランディーズ大学のイアン・トッド名誉教授 Dr Ian A. Todd を中心とした、イギリス・US・キプロス合同考古学チームの「ヴァシリコス渓谷調査プロジェクト Vasilikos Valley Survey Project」により、規模の大小を問わずカウントするならば、今までに少なくとも135か所で遺跡が確認されている。


テンタ遺跡の位置/居住地遺跡の発掘の歴史/塁壁と円筒形の家屋
カラヴァソス・テンタ居住地遺跡 Kalavasos-Tenta は、谷間に開けたカラヴァソス村の南方約2km、キロキティア居住地遺跡から南西へ約6km、今日、新しく建設された「ニコシア/ラルナカ=リマソール」の幹線道路(高速A1号)から北側へ250mほど離れた場所である。
テンタ居住地の遺構は、ヴァシリコス川の右岸から150m、わずかに傾斜する耕作平原の小高い丘状の場所で発見された。居住地のある場所はリビア海から最短で3.5km内陸、そのピンポイント標高は約55m、周辺の扇状地はやや波打つ感があるが、全体はほぼ平坦で海まで続いている。

巨大支柱の骨組み、野外の大掛かりなイベント会場を連想させる「尖がり帽子」の大きな白色テントで保護されたテンタ遺跡は、ニコシア or ラルナカ空港から幹線道路(高速A1号)でリゾート・リマソールへ向かう時、キロキティア遺跡付近からわずかに下り走行となり、標高の低いヴァシリコスの谷になると一気に展望が開け、高速道路の直ぐ右方に見えてくる。
大型テントの保護屋根は1994年〜95年の工事で完成した。尖がったテント屋根があまりに大きいことから、ヴァシリコスの谷と扇状地の何処からも見えるので、この地域のランドマーク的な存在となっている。

GPS カラヴァソス・テンタ居住地遺跡: 34°45′09″N 33°18′12″E/標高55m

カラヴァソス・テンタ居住地遺跡の最初の発掘ミッションは、1940年代、世界遺産キロキティア居住地遺跡を手掛けた考古学者ポフィリオス・ディカイオス教授であった。その後、発掘作業は一端中断されるが、新たに1970年代からイギリス・US・キプロス合同考古学チームの「ヴァシリコス渓谷調査プロジェクト」により再開され、今日でもテンタ居住地周辺と青銅器文化の源泉であった山麓の銅の採掘場なども含め、広範囲の長期の発掘ミッションが継続されている。
ヴァシリコスの谷で最初の居住が始まったのは紀元前7000年前後とされ、このテンタの定住はキロキティア居住地と同様に比較的早く紀元前7000年〜前5000年頃である。規模的に極端に大型遺構とは言えないが、テンタ居住地は世界遺産キロキティア遺跡に匹敵する十分な内容を残している。

            キプロス・新石器文化・テンタ遺跡 Tenta, Cyprus/(C)legend ej
         カラヴァソス・テンタ居住地遺跡・円形家屋群/上部の手すり枠は見学用の周遊通路
         1987年/描画=Web管理者legend ej

農業耕作などによる部分的な破壊や崩壊があった理由から、居住地の元々の形は明確ではないが、発掘されたテンタ居住地は高さのない石積みの塁壁で囲まれていたと推測されている。予想されるおおよその敷地は1,600u(単純計算=40m四方)、最大で3,000平方メートル(単純計算=55m四方)程度。この数値から推計できる居住人口では、常時40〜45家族、成人でおおよそ150人以下のキャパシティであったとされる。

キロキティア居住地と同様に、遠方から見たらテンタ居住地は「輪切りダイコン」に似た形容の円形・円筒形〜楕円形(オーバル)の家屋が密集的に建ち並んでいた。オーバル形の大型家屋では、屋根を支える理由からか、広い部屋スペースを小分けするためか、あるいは徐々に外への拡張を行ったのか、二重三重の円形の内部壁面を設けた特殊な構造の家屋もあった。
比較的広い部屋では、中心に1本〜2本の石積みの角柱を立て、または壁面から出っ張った柱状の仕切り壁を備え天井を支えていた。特に大型の家屋では、この種の角柱と出っ張り壁は、木を並べた今日で言う「ロフト・スペース」や物置のような準二階の天井空間を支えていたと推測されている。

円筒形の家屋のサイズはキロキティア居住地と同じ程度で、最大でも外径8m、穀物倉庫だったのか最小では外径がわずか2mの建物もあり、平均では外径2.4m〜3.6mとされる。家屋の壁面の一部に日乾しレンガも使われたようだが、発掘情報によれば標準では石灰岩や玄武岩を積み上げ、隙間に粘土を練り込んだ堅固な構造、その壁の厚さは30cm〜40cm、最大で55cmであった。

キロキティア居住地と同様に、家屋の天井と屋根は円筒形壁面の上に枝木と干草を敷き、防水対策で泥漆喰表装を施した「輪切りダイコン」の平屋根タイプが標準であった。しかしテンタ居住地の高い施工技術から判断するなら、一部では雨を流す傾斜を持たせるためにセンターを少しだけ盛り上げる準ドーム型屋根が存在した可能性もある、と私は推測したい。

テンタ居住地の家屋内部では、キロキティア居住地と同じく、多くの壁面と床面は泥漆喰や石膏(プラスター/焼石膏)の漆喰表装が標準であった。
またベッドやベンチ、あるいはプラットフォーム(台)的な造りも確認され、これらも石膏漆喰で表層されていたはずである。さらに近郊からは「黄土オーカー」が産出され、それを焼成した「レッドオーカー」を使い、壁面に「両手を上方へ挙げた二人の人」を描いた赤色装飾の家屋も確認されている。
中型〜大型の家屋では、窓の設置もほぼ標準化され、壁面ニッチ(凹み)を設けていた家屋もあったとされる。


テンタ居住地の埋葬習慣/遺跡からの出土品/テンタの人々の身長と年齢
埋葬習慣では、埋葬用の円筒形の家屋内に設けたピット穴にすべての遺体を埋葬したキロキティア居住地とは異なり、テンタ居住地の埋葬遺体の半分は円筒家屋の内部ピット穴、そして半分は屋外の家屋と家屋との間などの露天ピット穴で見つかっている。
ただ、今までに発掘された埋葬遺体の合計がわずか14人分とされ、1,000年単位の長期の居住期間の埋葬習慣が、この少ない発掘例だけで「結論」するのは、私には何か強引過ぎるような気がしないでもないが。
例えば、現在では耕作地となってしまったが、居住地の周辺外部に特定の「共同墓地」があったとか、ほかにも埋葬に関しての未発見の理由がまだまだ数多くあるかもしれないし・・・

確認された遺体のすべては、キロキティア居住地と同様に、狭いピット穴に安置しやすいように身体が折り曲げられた状態の「屈葬」であったが、キロキティア居住地に比べ副葬品は決して多くはなかった。
発掘された骨格の計測では、男性の背丈は160cm〜165cm、女性は150cm〜155cm、年齢(寿命)では、男性が30.5歳、女性は36.5歳とされる。データから判断する限り、大人の体格や年齢(寿命)はほぼキロキティア居住地と同じと考えられる。

テンタ居住地はまだ陶器生産が始まっていない無陶器・新石器文化であった(新石器文化の終盤から陶器が作られた)。だた居住地近くのヴァシリコス川の河床などには、今日近郊でセメント材料を採掘しているように、石膏石と石灰岩、玄武岩、チャートや安山岩などの石材は無尽蔵にあった。テンタに居住した新石器文化の人々は豊富な硬質の石材を上手に加工して、注ぎ口付き石製容器や工具(石器)を初め、石製像や半宝石で小さな装飾品などを作る技術を会得していた。

例えば、ニコシアのキプロス考古学博物館に展示されている安山岩製の大型の磨製槍先(or 斧)では、先端が少し欠損しているが、長さ17cmの槍先(or 斧)の手元部分には木を差し込む深い穴があり、主にシカやイノシシなどの大型動物を射止めるに使われていたはずである。

また装飾品では、トロードス山地を源流としてリマソール西方のローマ時代のコウリオン遺跡の東側を流れるコウリス川流域で採れたグリーン系硬質蛇紋岩が使われたとされる。テンタ居住地からコウリオン遺跡までは直線でも優に40kmの距離があり、今から7,000年以上前の新石器時代、すでにキプロス島南岸地域では、物々交換などを通じて、近隣の居住地との共通言語を含む何らかのコミュニケーションや交易ネットワークが成立していたと考えられる。

Ref. カラヴァソス・テンタ遺跡の「テンタ Tenta」とは?

「テンタ」とは?/スタヴロヴォウニ修道院
テンタ tenta」とは地元名、またキプロスではキャンピングのテントを「テンタ」と呼ぶ。この地方の伝承によると、今から1,700年前の紀元327年、ローマ皇帝コンスタンティヌスT世(大帝)の母・聖へレナが、かつてイエスがユダヤ・エルサレムで磔刑にされた十字架を発見して、それをローマへ持ち帰る際にキプロスに滞在したと言う。

また別の伝承では、カルヴァソス〜北東20km、険しい崖の山頂にスタヴロヴォウニ修道院 Stavrovouni Monastery を建てるために、聖へレナがキプロス滞在したとされる。その際、聖ヘレナはここヴァシリコスのテンタ遺跡付近の平原に野営の「テント」を張ったと言われている。

発掘された居住地遺跡の保護のためにプラスチックの平屋根などでなく、1994年〜95年、あえて聖ヘレナに由来する地元名・「テンタ」への語呂合わせで巨大テント張りの屋根で遺構を覆ったと推測できるが、キプロス考古庁の担当者のその発想に対して「なかなかクールでニクイね!」と拍手で賞賛したい。
なお、標高650mの崖山の頂に建つスタヴロヴォウニ修道院からは、紀元4世紀の聖へレナの遺産?とされる十字架が見つかり、今日でも女人禁制の厳しい修道活動が行われ、信仰深いキプロスの正教徒の人々の間では有名な修道院となっている。

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真夏の時期、キロキティア遺跡〜テンタ遺跡まで歩く
1997年の夏、私はまだ世界遺産の登録前(登録1998年)の観光ツーリストの居ないキロキティア遺跡を訪ねた。その後、この地域が田舎で公共のアクセス手段がないことから、やる気モードを全開にして「徒歩」でテンタ居住地遺跡へ向かおうと試みた。

ずーと昔の小さな経験論だが、1970年代、20代の後半期のまだ若かった私は、「徒歩による33日間・東京=関西往復1,300km」という、声高らかに自慢すべき事でもないが、今で言う長距離ウォーキングの結構な苦行に挑戦したことがあった。
キロキティア遺跡を訪ねたこの時、気持ちではまだ色褪せが始まっていないと思い込んでいる、体力や徒歩に対する幻想的な自信と言うか、年齢に比例してより増した単純なカラ元気だけで、「ヨッシャ、テンタ遺跡まで歩いてやろうではないか!」と独り言を呟き奮起したのであった。

※参考: 中世フランス・ロマネスク巡礼と「徒歩による33日間・東京・関西往復1,300km」の辛い旅路:
世界遺産/フランス・ブルゴーニュ地方・「ロマネスクの宝庫」 ヴェズレー聖マリー・マドレーヌ大聖堂

しかし、詳細な発掘レポートを持参していなかった理由もあり、遺跡のピンポイント位置が不明なまま、遠方に白く見えていたが、まさか居住地遺跡が例を見ない巨大な「尖がり帽子」に似たテント張りとは発想できず、「あれは絶対に遺跡ではない!」と目立った白いテント施設をのっけから無視してしまった。
キプロス(南)がギリシア語圏とは言え、現地の名称・「テンタ」とキャンピングの「テント」の連想くらい、平常心があれば普通は出来てしかるべきであったのだが。「テンタ遺跡は一体何処なのか?」と悩みつつ、出会った英語の理解できない村の人達に手書きの絵図を示して、身振り手振りで何度も“聞きながら”、広い耕作地の中をがむしゃらに探し回った。
そうして、キロキティア遺跡から正規の距離で6kmほどをさらに4km以上も遠回りして、結局、最初から遠くに見えていたテント張りのテンタ遺跡へ汗タラタラでようやく到着、という大きな判断ミスを犯したのである。

やっとのこと到着できた巨大テントに覆われた遺跡全体は、1997年当時、柵囲いで施錠され、居住地の遺構は背丈のある雑草で完璧に覆われ封鎖状態であった。訪ねる研究者もツーリストも居ない、結果、当局の管理者が居る訳でもなく、立ち入って見学もできずに柵外から草むら同然の写真を数ショットだけ撮り( Sorry!公開できる良質写真ではない)、遺跡をぐるりと一周して何とか覗き見で納得して立ち去る以外に術がなかった。

夏場の炎天下、時間を費やし汗流す徒歩で遠回りして、苦労の末に辿り着いた遺跡なのに、「誰も居ない施錠遺跡かよ、まいったなあ・・・」と、疲労感と落胆で去らざるを得なかったあの時の無念の心境は今でも忘れられない。
ただ、「天は人を見捨てない」の如く、後述するように、この直後、テンタ遺跡のわずか200m南方でカラヴァソス・アギオス・ディミトリオス遺跡の発掘作業が行われていることが分かり、サイト見学が許されたのは偶然の幸運であったが。何事も積極的にチャレンジするなら何時か結果は好転してくるものである。

この翌年の1998年になり、キロキティア居住地遺跡がUNESCO・世界遺産に登録されたことから、おそらくキプロス考古庁も嬉しさで職員全員が総立ちで「万歳三唱」、興奮状態は覚め止まず、鼻息荒く予算を捻出したのでありましょう、 私が訪ねた前年までは草ぼうぼうであった新石器文化のテンタ遺跡も完全に美しく再整備が行われた。
遺跡の脇には担当者常駐の管理事務所が新しく建てられ、立派な階段やテント内部には数m上方から見学しやすい周遊通路も設備され(上描画)、雑草が生茂っていた居住地遺構はきれいにクリーニングが終り、現在、一般公開が行われている。文化遺産保護に力を入れているキプロス政府らしい積極的で効果的な対応である。

テンタ遺跡は世界遺産キロキティア遺跡から幹線道路(高速A1号)で6kmの距離、西方のキプロス島を代表する美しいリゾートであり世界遺産パフォス遺跡へ向かうルート上にある。日本からのグループツアー旅行では、キロキティア遺跡を見学した後、現地スルーガイドが高速道路のバスの車窓から右遠方250mに見える白い尖がり帽子のテント施設を指差し、「あれが新石器文化のテンタ遺跡で〜〜す」と説明するだけで立ち寄らずに、グループ・ツーリストに評判の悪いいわゆる「10秒間の車窓見学」で通過となる。

特に比較する訳ではないが、イギリスやフランスからの熱心なキプロス島ツアー・グループなどは、日本のツアーより滞在日数が長く時間的に余裕があること、また本国の考古学チームが発掘担当したことなどで関心度も高く、キロキティア遺跡と共にテンタ遺跡も周遊コースに組み入れるケースが多く、グループツアーが頻繁に立ち寄る「有名なプチ考古学サイト」となっている。

    2) 新石器文化〜石器・青銅器併用文化(Chalcolithic Period)〜青銅器文化遺跡

カラヴァソス渓谷と扇状地/アギオス・ディミトリオス遺跡/サイト発掘作業の見学
尖り帽子のテント施設のカラヴァソス・テンタ遺跡から南南西へ約200m、幹線道路(高速A1号)の北側約70m付近から、「50mx60m規模」のカラヴァソス・アギオス・ディミトリオス遺跡 Ag Dhimitrios のメインとなる遺構が発掘されている。

発掘ミッションは新石器文化のテンタ遺跡と同じく、イアン・トッド名誉教授の指導下のイギリス・US・キプロス合同考古学チーム・「ヴァシリコス渓谷調査プロジェクト」が担当した。カラヴァソス・アギオス・ディミトリオス遺跡は、幹線道路(高速A1号)の建設に伴って確認された一連の遺跡群でもある。

「ヴァシリコス渓谷調査プロジェクト」の表面調査で確認された陶器片などの遺物の拡散範囲は、幹線道路(高速A1号)を基準とすれば、北側へ最大270m、南側へ250m、東西320mの広い範囲とされた。そのうち建物遺構や古代の路地、墳墓などが確認されたアギオス・ディミトリオスの居住地区域は、単純な一塊の小規模な遺跡ではなく、おおよそ東西320m 南北300mのほぼ正方形に近似する範囲、最小推測でもで10ha(単純計算=316m四方)が想定できるとされる。

1997年にテンタ遺跡を訪ねた際、丁度「ヴァシリコス渓谷調査プロジェクト」の合同考古学チームによりアギオス・ディミトリオス遺跡のメインとなる「50mx60m規模」の遺構が発掘作業中であった。
本来なら作業中の発掘区域への部外者の立ち入りは許されていなかったが、遺跡写真や遺構図など考古学情報として「個人で公表しない」という条件で、責任者の温和な教授から立ち入りの許可を頂き大学院の女子研究員の説明も含め、自由に1時間ほど写真撮影とサイトのチェック見学ができた。

この見学が許された「50mx60m規模」の遺構は、居住地全体の北東端に位置することから調査プロジェクトでは「NEエリア」と名称している。このほかの発掘サイトでは、いずれもすでに幹線道路(高速A1号)の建設工事で埋没してしまったが、「NEエリア」の真南に居住地の東区域となる「Eエリア」とその西側には「Centralエリア」、さらに「NEエリア」から南西へ250mほど離れるが、居住地の最西区域には同じく道路の工事埋没の「Wエリア」が確認された。

居住地の東区域・「Eエリア」の南方、幹線道路(高速A1号)の直ぐ南側50m付近では、「50mx40m規模」の「SEエリア」の居住地遺構の発掘が完了している。アギオス・ディミトリオス遺跡群は道路の工事埋没の「Eエリア」・「Cエリア」・「Wエリア」を除き、現在「NEエリア」と「SEエリア」の一般公開はされていないようだが、発掘後の埋め戻しは行われていない。

詳細は不明だが、見学を許された発掘完了の区画を見る限り、「宮殿様式」とされる建物を含め整然と配置された方形の遺構部分がほとんどであった。見学の際、責任者の教授と助手の研究員から、このアギオス・ディミトリオス遺跡群は円形家屋が標準であった新石器文化ではなく、後述のマローニ・ヴォルネス遺跡などと同様に、キプロス後期青銅器文化/紀元前1650年〜前1100年頃に属している、とするアウトライン説明をして頂いた。

また、幹線道路(高速A1号)から南方100m〜250m付近には、高速道路にほぼ平行するように旧幹線道路の国道B1号が走っている。遺物の拡散範囲の南東端で旧国道の直ぐ北側には、古代ローマの殉教者ゲオルギオスを祀る糸杉に囲まれたアギオス・ゲオルギオス礼拝堂 Ag Georgios が建っている。

予想される居住地区域の外部となるが、遺物の拡散範囲の最南端、アギオス・ゲオルギオス礼拝堂の直ぐ西方付近の3か所から後期青銅器文化に遡る塁壁遺構が見つかっている。塁壁遺構の、特に北側付近に建物遺構が確認されていないので断言はできないが、もしかしたら、居住地区域の南側は最大でこの塁壁地点まで広がっていた可能性もあるだろう。
この推測が正しければ、アギオス・ディミトリオスの居住地は10haを優に超え、最大で15ha前後(単純計算=390m四方)になるかもしれない。もはやこれは単純で小規模な居住地ではなく、人口1,000人規模、いやそれ以上の人々の住む後期青銅器文化の繁栄する「大都市」であったと言えるだろう。

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アギオス遺跡/パムボウルス遺跡(パムボーレス)
幹線道路(高速A1号)の建設工事に伴い見つかったほかの遺跡では、テンタ遺跡の東方600m、高速道路の工事で埋没してしまったが、無数の円形の埋葬墳墓が確認されたカラヴァソス・アギオス遺跡 Agios がある。
直径2.7mの大型ピット墳墓、二つのベル(釣り鐘)型ピット穴とトンネル状の複合埋葬遺構も見つかっている。白地に赤色の細線装飾の陶器などが出土していることから、新石器文化の後となる石器・青銅器併用文化 Chalcolithic Period の初期/紀元前4000年〜前3500年頃に属するとされた。

そのほかでは、テンタ遺跡から南東900mのカラヴァソス・パムボウルス遺跡(パムボーレス Pamboules)は、1940年代にキロキティア居住地遺跡を手掛けたポフィリオス・ディカイオス教授により調査が行われた。また合同考古学チームの「ヴァシリコス渓谷調査プロジェクト」から、今後、この遺跡の再調査を行う近未来のプランも発表されている。

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カキノイア遺跡(コッキノイア)
カラヴァソス・パムボウルス遺跡(パムボーレス)からさらに南東へ400mほど、テンタ遺跡からは約1,3kmの距離の平原耕地からはカラヴァソス・カキノイヤ遺跡(コッキノイア Kokkinoyia)が発掘されている。
遺跡は1940年代にポフィリオス・ディカイオス教授により発掘が行われていたが、2000年代になり、合同考古学チーム・「ヴァシリコス渓谷調査プロジェクト」が再調査を行っている。

この再調査では、上述の幹線道路(高速A1号)の工事埋没のカラヴァソス・アギオス遺跡と同じように、直径2m〜4mの10基ほどのピット墳墓がトンネル状の横穴で結ばれた複合的な墳墓も確認され、出土した陶器から新石器文化の終期/紀元前4400年〜前3900年頃に属する遺構と考えられている。リビア海から約2.8km内陸、標高60m、現在までの発掘ミッションでは、このカラヴァソス・カキノイア遺跡(コッキノイア)が、ヴァシリコスの谷と扇状地の遺跡群で最も南方に位置している。

              3) 無陶器・新石器文化/シロウロカンボス居住地遺跡

定住農業と動物の家畜化/「飼いネコ」の埋葬
世界遺産・キロキティア遺跡から西南西へ約20km、カラヴァソス・テンタ遺跡の西方14km、南岸のリゾート・リマソールの市街地から北東15km、海岸から約3km内陸にパレクリシア村Parekklishia がある。
パレクリシア村の北西1.5km、標高180mのポイントで1991年〜2004年までミッションを行ったフランス考古学チームは、紀元前8500年〜前7000年頃に属する無陶器・新石器文化のシロウロカンボス居住地遺跡 Shillourokambos を発掘した。この遺跡は海岸から約4kmの距離である。

この継続的な発掘ミッションでは、細い編み枝と粘土を使った泥漆喰で表層仕上げした「輪切りダイコン」のような形容の円筒形の家屋群、集落の中心には井戸も確認された。また、出土品では黒曜石のフリント石器を初め、顔をモチーフにした石製像、装飾の小石そして、色々な動物の骨、埋葬人骨などが確認された。家屋構造や出土品に関しては、キロキティアの新石器文化と連動しているとされる。

2004年、フランス考古学チームの発表した発掘レポートでは、石器以外に大量のヒツジ、野生のロバやウシ、さらにイヌの仲間やイノシシ(ブタ)の骨まで出土したことから、このうち幾らかの動物は食料にするために家畜化されていたとされる。これらの出土品はシロウロカンボスの人々が、野生動物の家畜化や種を蒔く定住した初期農業を営み、この地方の新石器文化のセンターであったキロキティア居住地と同様に、豊かで発達した生活を営んでいたことを暗示させている。

装飾石や磨製石斧、黒曜石のフリント石器類などが一緒に副葬されていたことから、かなり「地位」の高い人物であったことを推量させる30歳前後の屈葬人骨が見つかった。興味深いことに、その屈葬人骨から40cm離れた地中から「埋葬された」と判断できるネコの完全骨格も見つかっている。

ネコの骨格発掘に関してフランス・チームの担当者は、紀元前7500年頃、今から約9,500年前の新石器文化の時代、シロウロカンボス居住地ではすでにネコを家庭内で飼う、いわゆる「飼いネコ/ペット」が行われていた、と判断している。なお、シロウロカンボス居住地の「ある家族」が可愛がって飼っていた後、死亡したことから手厚く「埋葬した」と推測されるこのネコの骨格は、アフリカン・キャットの仲間で生後8か月〜9か月と推測されている。

以前からの説では、飼いネコと死後の埋葬は、古代エジプト人がアフリカン・キャットを餌付けして始まったと言われてきた。しかし、新石器文化のシロウロカンボス居住地では、エジプト文明より5,000年以上も以前から、すでに家庭内でネコをペットとして飼い死後に埋葬する習慣、「世界最古の飼いネコの埋葬」が行われていたことになる。

Ref.
「キプロスの宝」・極甘口タイプ・コマンダリア・ワイン/トロードス山地
シロウロカンボス居住地の北西15km前後、南岸のリゾート・リマソールの北方15km〜20km付近、標高400m〜900mのトロードス山地のコマンダリア地域に点在する、小さな村アギオス・ママス Ag Mamas など合計14の村で限定的に栽培される、ジニステリ種白ブドウから醸造される有名な甘口ワインがコマンダリア・ワインである。
古くから「キプロスの宝」とも呼ばれたコマンダリア白ワインは、かの古代エジプトの女王クレオパトラも愛飲したとされる極甘口ワインで、完熟のブドウを収穫した後、さらに糖度を上げるためにブドウ房を天日干ししてから果皮の破砕作業を行い醸造される。
生産量も少なく、普通のワイン(10〜15%)に比べアルコール分は若干高めで度数15%、伝統的な醸造法で造られるコマンダリア・ワインの歴史は古く、その起源は紀元前8世紀頃とされる。東欧ハンガリー産の黄金色を発するトカイ貴腐ワイン、ボルドー・ソーテルヌ産の白ワイン、あるいはドイツが誇るトロッケンベーレンアウスレーゼ貴腐ワインなどと並び、コマンダリア白ワインは世界に知られた極甘口ワインの最高位に評価されている。

                 4) マローニ渓谷と扇状地の青銅器文化の遺跡群

マローニ・ヴォルネス遺跡
キロキティア居住地遺跡の脇を流れるマローニ川を5kmほど下ると、川の名を取ったマローニ村 Maroni があり、この周辺はリビア海へ流れ出るマローニ川が造り出した広い扇状耕地となっている。農業とオリーブ油生産などが特徴のマローニ村の人口は約550人とされる。
マローニ村とその周辺は、19世紀の後半、1885年にはドイツ考古学協会により古代遺跡の調査が行われ、1880年代の末期にはイギリス大英博物館の研究チームの調査が実施された。その後1990年代になると、マレーシア・リーデイング大学 Reading Uni のスタルト・マニング教授 Dr Sturt Manning をリーダーとする「マローニ渓谷考古学調査プロジェクト Maroni Valley Archaelogical Servey Project」が組織され今日も含め本格的な遺跡調査が行われている。
この地区の遺跡はほとんどすべてが紀元前17世紀〜前12世紀頃のキプロス後期青銅器文化に遡り、特にクレタ島ミノア文明とギリシア本土ミケーネ文明から大きく影響を受けていたことが分かっている。

マローニ村から南東へ約2,5km、リビア海の波打ち際から500m内陸、標高20mの耕作地から、紀元前17世紀〜前12世紀頃に居住されたマローニ・ヴォルネス遺跡 Maroni Vournes が発見された。マローニ・ヴォルネス遺跡はキロキティアで繁栄した新石器文化よりかなり遅れたキプロス後期青銅器文化に属し、発掘ミッションは1993年にイギリス人の考古学者カドガン教授が中心となり実行された。大型の建物遺構のほか、無数の陶器類などが確認されている。

マローニ・ヴォルネス遺跡の発掘者であるイギリス人カドガン教授は、クレタ島ミノア文明遺跡の発掘ミッションも数多く手掛けてきたエーゲ海文明の著名な考古学者の一人で、リビア海に面するクレタ島南岸のミルトス・ピルゴス邸宅遺跡やフォウルノウ・コリフィ居住地遺跡なども発掘している。

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マローニ地区の他の遺跡
ツロウッカス遺跡/アスペレス遺跡/カリオクレモス遺跡/ツレロウッカス遺跡
カラギアニデェス遺跡/カプサロウディア遺跡/コロネス遺跡

マローニ・ヴォルネス遺跡の南方には、耕作地が500mほどの距離でリビア海まで続いている。より海岸に近づくと、波打ち際から100m〜150m内陸に海岸線に平行するように地方道が走り、この道路とリビア海に挟まれた海岸区域も今日では耕作地となっている。
1890年代に実行された発掘ミッションでは、この海岸沿いの耕作地からツロウッカス遺跡 Tsuroukkas が発見された。紀元前13世紀に遡る幾分大型の建物遺構が確認され、水入れ容器を初め多種の陶器類、織り機に使った錘(おもり)や複数の埋葬墳墓が見つかっている。さらに、マローニ・ヴォルネス遺跡からマローニ村方面へ延びる地方道を約500m戻った農耕地では、アスペレス遺跡 Asperes が確認され、やはり居住の建物遺構が見つかっている。
上記以外のマローニ村周辺に点在するキプロス後期青銅器文化の遺跡では、マローニ村の北西1kmのマローニ河畔からカリオクレモス遺跡 Kaliokremmos が発掘され、村の西北西500mからツレロウッカス遺跡 Trelloukkas、村の南東300mからカラギアニデェス遺跡 Karayiannidhes、アスペレス遺跡の西北西500m(マローニ・ヴォルネス遺跡の西北西1km)からカプサロウディア遺跡 Kapsaloudhia、さらにマローニ・ヴォルネス遺跡の北東800mからコロネス遺跡 Kolones などが発掘されている。


マローニ遺跡群の出土品
マローニ村周辺の後期青銅器文化の遺跡群を「マローニ渓谷遺跡」として捉えた場合、特徴的な出土品を挙げるなら、先ず「キプロス・ミノア文字」に系統する象形文字が刻まれた4個の陶器がある。
この内の一つ、高さ345mm 口縁直径100mmの細い円錐型リュトン容器(紀元前1300年頃・キプロス考古学博物館・登録番号A-1733)の側面には、合計80本ほどの赤茶色の細線が横縞紋様として隙間なく描かれ、口縁部から上に大きくループするリング・ハンドルが一つ付いていた。洗練されたミケーネ陶器の影響を強く受けた典型的な器形と絵柄であり、ミケーネからの輸入品かもしれない。

高さ89mmの少々小型だが、口縁部が大きく、三つのハンドルを付けた「逆さ西洋ナシ形」のアンフォラ型水入れ(紀元前1400年頃・キプロス考古学博物館・登録番号A-1651a)には、全体の装飾は少ないが、ミケーネ陶器風の抽象化された海草か草の目立つモチーフが描かれていた。

紀元前1350年頃の写実様式(ピクトリアル)の美しい絵柄のクラテール型容器(大英博物館/番号1911-0428-1)も見つかっている。青銅器文明の写実様式(ピクトリアル)陶器の典型例にもなっているこの容器は、ほとんど間違いなくギリシア・アルゴス地方ミケーネ宮殿からほど近いベルバチ居住地の「陶工作業所」の陶器窯で焼かれ、キプロスへ輸出されたものと推測できる。

さらに宝飾品も数多く出土しているが、微細な金のブツブツ粒子で装飾する「黄金の微粒加工」の典型的な作品では、紀元前15世紀頃と推測される墳墓から対で見つかった雄牛の頭部と角をデザインしたイヤリング(高さ27mm/ロンドン大英博物館/番号1898-1201-2)がある。

南北キプロスの越境

キプロス・国連軍グリーンライン標識/(C)legend ej ● 北キプロスへの越境方法/国連軍の尋問
 北キプロスへの「越境方法」では、現在、下記5か所(徒歩1か所/車両
 4か所)の越境ポイントから可能となっている。
 1997年、未だ越境ができない時期、私はグリーンライン地帯での国連軍
 兵士に尋問を受けた経験がある。 ブルブル震えるほどの極端な緊張感は
 ないが、地上面に設定された「国境線」がない「平和ボケ」した日本の社会
 と比較する時、何か馴染めない違和感を覚える。



 南北境界線・「グリーンライン」の国連軍の標識
 東部キプロス地方/1997年





ローマ文化コウリオン遺跡/新石器文化ソティーラ遺跡/世界遺産パフォス遺跡

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