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ヴェズレー修道院 聖マリー・マドレーヌ大聖堂・タンパン彫刻・「聖霊降臨」 12世紀ロマネスク様式/ブルゴーニュ地方 |
現在、フランスには人口2,000人以下の「村」と言われる自治体が約32,000か所あるとされ、そのう ち「フランスの最も美しい村」に認定されているのはわずか172村だけ(2023年現在)である。 「フランスの最も美しい村」: http://www.les-plus-beaux-villages-de-france.org/ ● 世界遺産/ロマネスク様式/フランスの最も美しい村/フランスの聖地 「フランスの最も美しい村」に認定され、標高300mの丘に細長い丘上集落を形成するブルゴーニュ地方ヴェズレー Vezelay の村、そして、丘の頂上に佇むヴェズレー修道院付属の聖マリー・マドレーヌ大聖堂(サント・マリー・マドレーヌ大聖堂 Basilique Sainte Marie Madeleine de Vezelay)は、UNESCO世界遺産に登録されている。 緩やかに波打つ丘陵が何処までも続くブルゴーニュ地方の自然豊かな風景を背景に、周囲360度を見渡せる地形的にも優美な丘にその地位を築いてきたヴェズレーは、今では公共交通のアクセスも無いに等しい住民500人が暮らす小さな村である。 しかし、信じられないことかもしれないが、ヴェズレー修道院付属聖マリー・マドレーヌ大聖堂に残る多くのロマネスク様式の建築要素と美術作品を確認するまでもなく、村と大聖堂の興隆とその波乱の歴史、そして宗教的な意味をもって繁栄を極めた中世12世紀のヴェズレーは、住民が今日の十倍の5,000人とも言われるほどの「大規模なな宗教都市」であった。 また、中世フランスにおける美術様式を語る時、「ロマネスク芸術の宝庫」と称される聖マドレーヌ大聖堂を抜きして論じられない。何故ならば、ここ聖マドレーヌ大聖堂には、ロマネスク様式の多くの美術遺産が凝縮され、800年以上の時間の経過があったにもかかわらず、その輝かしい繁栄の残り香を現代の私達へ正確に伝えているからである。 なおヴェズレーはUNESCO世界遺産と「フランスの最も美しい村」のほかに、モン・サン・ミッシェル修道院などと並び「フランスの聖地」にも指定されている。さらに、聖マドレーヌ大聖堂はフランスの「歴史的建造物」に指定されている。 「フランスの聖地(20か所)」: http://www.villes-sanctuaires.com/ |
● ヴェズレー修道院の創設/中世ヨーロッパの歴史 ヴェズレーの修道院 Abbey de Vezelay は、858年(または859年)、パリを治めた伯であり、「フォントノワの戦い(下コラム)」でも名を挙げる伯ジェラール・デュ・ルシヨン Girard de Roussillon により、先ず丘の麓のノートルダム教会堂の建つ現在のサン・ペール村 St Pere に建立されたベネディクト修道会の女子修道院(尼僧院)がその前身と理解されている。 その後20年の経過を待たずに、873年、女子修道院が北の海からノルマンディー地方〜ブルゴーニュ地方の奥深くまで侵攻して来たデンマーク系ノルマン人(ヴァイキング)により破壊されてしまう。時を置かずして、伯家が現在のヴェズレーの丘に、女子修道院ではなく、カロリング朝様式のベネディクト修道会・男子修道院を建立する。 今から1,100年以上前、878年、ヴァチカン教皇ヨハネ[世がヴェズレー修道院を正式に認可し献堂式が執り行われる。これをもってヴェズレーの本格的な発展の歴史が始まる。ただノルマン人(ヴァイキング)の再度の襲撃を考慮してか、当初の修道院は「砦」に近似する要塞修道院の形容であったとされる。 |
● ヴェズレー修道院の創建者・ジェラール・デュ・ルシヨン Girard de Roussillon パリ伯であり、ヴェズレー修道院の創建者でもある伯ジェラール・デュ・ルシヨンは、別名ではリヨン南方の町ヴィエンヌ領主を意味する「ジェラール・デュ・ヴィエンヌ Girard de Vienne」とも呼ばれ、841年、4万の犠牲者を出した「フォントノワの戦い Schlact von Fontenoy(下述)」で戦っている。当初、ルートヴィッヒT世の4男禿頭王シャルルU世軍に忠誠を誓ったが、戦いでは1男ロタールT世軍に従ったとされ、それでも「裏切られた」シャルルU世は恩赦を与えたとされる。 その後、843年にロタールT世の妻の妹と結婚することで、再びシャルルU世を裏切ることとなり、その「罪滅ぼし」という意味で、858年にサン・ペール村にヴェズレー修道院の前身となる女子修道院を建立、863年にはシャティヨン・シュル・セーヌ Chatillon-sur-Seine の北西8kmのポティエール村にベネディクト会の男子修道院 Abbaye de Pothieres を建立したとされる。 ジェラール・デュ・ルシヨンは、その後、ロタールT世が治めた中フランク王国から分離した「ロタリンギア王国 Lotharingia」を治めることになるT世の次男ロタールU世の家臣となり、プロヴァンス地方アヴィニオンで亡くなったとされる。なお、ロタリンギア王国とは、870年の「メルセン条約」で確定された西フランク王国と東フランク王国との境界線周辺で、北はオランダ・ベルギーから南はプロヴァンス地方に至る南北に細長い地域が該当する。 |
● 聖ヤコブの墓の発見/聖地・聖遺物の信仰 これより50年以上前、ヨーロッパ・キリスト教世界で大きな出来事が起こる。9世紀の初め、813年、スペイン西北部でイエスの弟子であった(聖)ヤコブ St Jacob (スペイン=サンティアゴ Santiago)の墓が発見されるのである。イエスの信頼が厚かった弟子(聖)ヨハネの兄である(聖)ヤコブは、エルサレムでイエスが処刑された後、ユダヤ教徒による迫害から一旦スペインへ逃れ、イエスの教え(原始キリスト教)の布教を行なう。 しかし、(聖)ヤコブは再びエルサレムへ戻った時、ユダヤ教徒により逮捕され処刑されてしまう。ヤコブの遺体は信徒の手で再びスペインへ運ばれ、「何処かに埋葬された」と伝わっていた。この墓が偶然に発見されたのである。聖ヤコブの墓の発見はヨーロッパ・キリスト教世界に大きな感動を与え、人々はこぞって聖ヤコブの墓を詣でる「サン・ティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」を行い、聖地巡礼ブームを巻き起こす切っ掛けとなる。 聖人の墓や由縁ある場所だけでなく、同時にヨーロッパでは聖人に関わる物品や遺骨など、聖遺物が重要視され始め、特に財力ある教会や修道院は、その期に乗じて、言うならばキリスト教世界の「アピール商品」の聖遺物の獲得に力を入れる傾向となる。この頃、多くの聖遺物が売買の対象となり、盗難事件も相次いだと言われている。 そんな時代、力を付けたヴェズレー修道院の修道士がプロヴァンス地方サン・マクシマン教会堂へ派遣される。目的は1,000年以上前にサン・マクシマン St Maximin の小さな教会堂に埋葬されたイエスのパートナー(妻・恋人)の「マグダラのマリア/マリー・マドレーヌ Marie de Magdala/Mary Magdalene」の遺骨をヴェズレーへ持ち帰ることであった。 掘り出された「マグダラのマリアの遺骨(と想定された遺骨)」は、聖遺物として9世紀に造られたヴェズレー修道院の教会堂の地下納骨堂クリプトへ納骨される。 ● 修道院とマグダラのマリア マグダラのマリアの聖遺物をもって、ヴェズレー修道院の教会堂は聖マリー・マドレーヌのための大聖堂となる。そうして聖地巡礼や聖遺物信仰が最高潮となる11世紀頃から、「多くの奇跡を起こす」というマグダラのマリアの聖遺物を収めるヴェズレー修道院の存在はヨーロッパ中に知れ渡り、信仰深いカトリック教の信仰者の間で「ヴェズレー参拝」が一大ブームになって来る。 こうして聖アマドール信仰のフランス・ミディピレネー地方の巡礼聖地ロカマドール(下描画)、あるいは「聖家」を祀るイタリア・ロレート村と同じように、キリスト教巡礼地としての「聖地ヴェズレー」が確立されて行く。 ロカマドール・「聖域」=聖マリア聖堂・聖ミカエル聖堂・聖アンア礼拝堂・聖アマドール礼拝堂など 「下の市街」=レストラン・カフェ・プチホテル・土産物ショップ・住宅など/ケルシー地方 ケルシー地方/描画=Web管理者legend ej 世界遺産/ミディピレネー・ケルシー地方のキリスト教巡礼聖地ロカマドール ----------------------------------------------------------------------- ● スペイン巡礼の出発地 聖マリー・マドレーヌの聖遺物信仰の高まりは、ヴェズレーが帆立貝をシンボルとするスペイン北西部にある聖ヤコブの墓を詣でる4つある、フランスからの「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」の出発地の一つになることで、なおも信仰の広がりを招き、結果ヴェズレーの宗教的な重要性が増幅されて行く。 怒とうの如く押し寄せる参拝者の増加に伴って住民も増え続け、最盛期のヴェズレー修道院には常時500人もの修道士が活動していた(村住民5,000人)と言われるほど、ヴェズレーは繁栄の上にさらなる発展をまるで漆塗りの漆器のように、何層にも上塗りして行くのである。 こうして宗教的な指導力を増したヴェズレー修道院だが、10世紀には2回の火災があり、さらに12世紀の大火で大きなダメージを被る。しかし修道院の豊かな財政力を背景にロマネスク様式を採用した大聖堂の内外の増改築を行い、参拝者が必ず目を留める大聖堂の入口、あるいは内部の装飾に力の限りを尽くすのである。今日見ることのできる大聖堂の基本構造は12世紀の増改築の時期に遡る。 ● 第二次十字軍/聖ベルナールの勧誘説教 ヴェズレーが繁栄の絶頂にあった頃の12世紀半ば、勢力を拡大してきた東方イスラム教徒が、中東につくられた十字軍国家エデッサ伯国 County of Edessa/Comte d'Edesse を襲撃し占領したことから、キリスト教ヨーロッパに心理的な緊張と危機感が高まった。 これに対応するため、かつてクレルヴォー修道院(Abbaye de Citeaux 大修道院)の院長の聖ベルナール(St Bernard 下写真)の弟子であり、ローマ南郊外のトレ・フォンターナTre-Fontane 修道院の院長であった「ピサのベルナール」、後のヴァチカン教皇エウゲニウスV世(在位1145年〜1153年)が、聖地エルサレム救援の「第二次十字軍」の派遣を呼びかけた。 その勧誘の提唱が、教皇の恩師であり、フォントネー修道院(下写真)などの創建者で、中世12世紀の最も優れた説教家でもあった聖ベルナール(下写真)により、ヨーロッパ各地で行われた。 「聖ベルナール」の画像 聖ベルナールの妹・「聖アンベリーヌ」の画像 Georg Andreas Wasshuber 1700年作 18世紀 「サロン・ド・パリ」 Adrian Richard 作 ウィーン南西25km・シトー修道会系譜 東フランス・ジュラ地方オルジュレ 昇天の聖母教会堂 所蔵 ハイリンゲンクロイツ聖十字架修道院 所蔵 フォントネー修道院・ロマネスク様式の回廊/ブルゴーニュ地方 回廊の床面に射し込む中庭からの明るい光とのコントラストが美しい 世界遺産/シトー修道会・ブルゴーニュ地方・フォントネー修道院 ----------------------------------------------------------------------- 12世紀半ば、1146年の復活祭の日(3月末日)、歴史に残る最も有名となった勧誘演説がここヴェズレーで行われた。ヴェズレー修道院の丘の斜面に集まった信仰深いおびただしい数のブルゴーニュの人々を前に、クレルヴォー修道院の有能な聖ベルナールが十字軍の提唱を力強く説き、感動した多くの人々が遠征に参加して中東へと赴くのである。 農民や商人、宿屋のオヤジやパン焼き職人など民衆のみならず、フランス軍の指揮官となるサン・ドニ修道院で育ち信仰心溢れるフランス王ルイZ世とその王妃アリエノール・ダキテーヌ、トゥールーズ伯アルフォンセZ世などを初め、その後にはドイツ軍の指揮官となるホーエンスタウフェン朝神聖ローマ帝国コンラートV世も加わり、そのほか有力貴族や司教までもが参加することになる。 「聖ベルナールの十字軍」と呼ばれたこの「第二次十字軍(1147年〜1148年)」に対する聖ベルナールの遠征勧誘の効果と影響は絶大なものとなり、キリスト教ヨーロッパは10万とも、14万人とも言われた軍勢を中東へ派遣することになる。 中世ヨーロッパのキリスト教・クリュニー修族・シトー修道会・聖ベルナールの生涯などの詳細: クリュニー修族とシトー修道会/聖ベルナールとクレルヴォー大修道院/「プロヴァンス三姉妹」 ● 聖マドレーヌ聖遺物の虚偽 11世紀中期以降、未曾有の繁栄を極めてたヴェズレー修道院であったが、歴史の営みは非常に冷酷であり、静かな眠りから醒めた運命の歯車が大きく動き始め、皮肉にもその激震の大津波が聖マリー・マドレーヌのヴェズレー修道院を突然襲うことになる。 13世紀後半の1279年、かつて400年前に修道士がヴェズレー修道院へ持ち帰ったとされた聖マリー・マドレーヌ(マグダラのマリア)の聖遺物(遺骨)は、実はプロヴァンス地方サン・マクシマン教会堂の地下納骨堂に「そのまま残されていた」ことが濃厚になった。 しばらくして13世紀が終わる直前の1295年に、ローマ・ヴァチカンから「聖マリー・マドレーヌはサン・マクシマン教会堂に葬られている」、とする正式な教皇判断が出されたことで、ヴェズレー聖マドレーヌ大聖堂の聖遺物信仰は一夜にしてその熱気を失ってしまう(後述 マグダラのマリア聖遺物の項 参照)。 当然の結果、お祭りの後のように、あれほどの輝きを放していたヴェズレーの村も修道院も寂れ始め、聖マドレーヌ大聖堂の建物とロマネスク様式の彫刻作品を残したまま、人々に支えられた修道院のマグダラのマリアの聖遺物信仰への関心は、大津波の引き潮に乗って一気に去って行ってしまった。 ● ヨーロッパ「宗教改革」の戦争/「フランス革命」の影響/「修道院解散令」 その後ヴェズレーの修道院は凋落の一途を辿ることになる。16世紀、諸侯・領主に反発した10万以上の農民が犠牲となる「ドイツ農民戦争(1524年〜1525年)」を初め、1525年には東フランス・アルザス地方の領主と農民の連合軍が強力なロレーヌ公の軍隊に対抗、たった1日の激しい戦いで農民連合軍の死者約6,000人を数えた「シェーヴィラーの農民戦争」などが起こる。 社会の混乱はさらに増幅、聖書信仰による救済に重点を置く神聖ローマ帝国の大学教授マルティン・ルターの「贖宥状批判」から始まり、ローマ・カトリック教会に対する体制批判である「宗教改革」の戦争が、ドイツやチェコなど中央〜東ヨーロッパ各地で勃発する。 東ヨーロッパの「宗教戦争」 世界遺産/チョコ首都プラハ城と美しい旧市街広場/「ヤン・フス戦争」 フランスではジュネーヴ大学の創設者であり、カリスマ的な神学者であったカルヴァンから影響を受けたプロテスタント教会(改革派ユグノー教会)が、カトリック教会に激しく対抗した「ユグノー戦争(1562年〜1598年)」の嵐が吹き荒れる。 背景に王族の複雑な権力闘争が絡むこのフランスの宗教戦争では、母親の影響を受け子供の時期からユグノー派に属し、後に「バラ王」と呼ばれるブルボン朝初代の王アンリW世(1553年〜1610年)が、10代の末の1572年、パリで遭遇することになる大勢のユグノー派が暗殺される事件・「聖バルテルミの大虐殺」が起こる。 この事件の影響はフランス全土へ拡大、粛清されたユグノー派の貴族と民衆の死者は3万人を数え、アンリW世は保身からカトリック教への改宗を宣言した。しかし激しく流動する政権と社会、直ぐ様アンリW世は再びプロテスタント教会派へ寝返り、安定化どころか、なおさらに貴族階級と宗教界と庶民の動揺と混乱を助長するばかり。 宗教紛争が王位継承問題も含め宮廷内の熾烈な戦いと深刻な政治的な混乱を招く中、1589年、ヴァロワ朝最後の王アンリV世が熱狂的なカトリック・ドミニコ修道会の修道士により暗殺されてしまう。この後、35歳でフランス王位を継承したアンリW世はやはり保身を含めカトリック教への再改宗を行い、ユグノー派の宗教的な権利も保障したことでようやく戦争の終息をみる。 おびただしい数の犠牲者を生んだ「ユグノー戦争」の嵐は歴史に残る激流の大渦を巻き、当時のフランスの社会と宗教界は大混乱となり、多くのユグノー派の人々はフランスを追われる一方で、ヴァチカン系譜のヴェズレー修道院も大きな被害を被る。この頃聖マドレーヌ大聖堂は参事会管理の教会堂となる。 18世紀の「フランス革命」の後、各地の修道院や教会堂などの宗教施設が、破壊の大波にもまれる悲しい歴史を経るのと同様に、1791年、革命政府の「修道院解散令」を受け、ヴェズレーの修道院も破壊と崩壊の運命を辿り、大聖堂は教区の教会となる。 ● ヴェズレー修道院の修復/現在のヴェズレー修道院 そうして、ようやく19世紀になり、フランス政府の予算投入で荒廃した修道院の大規模な修復が始まり、今日見ることのできる聖マドレーヌ大聖堂は、かつて繁栄した中世の姿を取り戻すのである。現在、ヴェズレーの修道院は「エルサレム修道会・ヴェズレー修道院」として活動が行われ、修道士/修道女が祈りと聖務に勤しんでいる。大聖堂と連結している通路からは、幾らかの修道士達が小礼拝堂で静かな祈りを奉げる姿を見ることができる。 なお、パリ市内で最も美しい建物の一つであるセーヌ川に近い市庁舎の裏手には、400年前のパリ最古のパイプオルガンを備え、初期の教会堂は6世紀建立とされる聖ジェルヴェ=聖プロテ教会 St Gervais = St Protais がある。このゴシック・ルネッサンス様式の歴史ある美しい教会堂を活動のベースにするエルサレム修道会は、キリスト教音楽との強い関わりを持つ。 |
● 中世フランスの歴史/カールT世(シャルルマーニュ)/「カロリング朝美術様式」の誕生 5世紀の初頭、勢力の弱体化が顕著となった西ローマ帝国の広大な領土へ、北方からゲルマン諸族が大量に侵入して「民族大移動」の時代の幕が上がる。現在の北フランス地方にあたる「ガリア Gallia/Gaule」と呼ばれた地域に定住した西ゲルマン系フランク族は、徐々に支配範囲を拡大させ、5世紀の終わりには、現在のフランス北部からベルギー・オランダ周辺をまとめ上げ、フランク王国最初のメロヴィング朝を成立させる。 7世紀前半になるとメロヴィング朝は支配権争いから国が分割され勢いが衰え始める。その機会に勢力を伸ばしたピピンT世(大ピピン)が始祖となり、メロヴィング朝を廃した三代目のピピンV世(小ピピン/短躯王)がローマ教皇の支持を得て、751年、フランク王に即位、フランク王国の第2番目となるカロリング朝を成立させる。 その後,、ピピンV世の子・カールT世(シャルルマーニュ)が、800年、滅亡した西ローマ帝国の流れを継いだ教皇レオV世から皇帝(大帝)を授けられたことで、カロリング朝の支配領土は現在のフランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグからドイツ西部とイタリア北部のミラノ周辺のロンバルディア地方まで一気に拡大された。 休むことのない遠征により、フランク王国の領土拡大に大きく寄与したカールT世が西ローマ帝国の遺産を引き継ぐ皇帝に即位すると、当然のことにカールT世の下には、ローマやビザンティンなどから多数の知識人や芸術家達が集まり、文化の研究とルネッサンス(復興)に力が注がれた。 こうして、首都を現ドイツ西部のアーヘンに置いたカールT世のカロリング王朝は、ローマ・ケルト・ゲルマン・ビザンティン美術の融合とも言える「カロリング朝様式」、あるいは「カロリング・ルネッサンス様式」と呼ばれる宮廷を中心とした質の高い美術様式を確立した。 また、カロリング朝の特徴の一つとも言える政治面では、カールT世は支配力を効率よく領土内へ行き渡らせるため、全国を州レベルに分割して地方長官にあたる「伯 comte」と呼ばれる有力諸侯が統治する封建領主制度を制定した。 この内、より有力者は後に「公」や「候」を名乗るようになった。この当時ヴェズレー地区は少し南方にあたる歴史あるオータンを本拠として、オータンとアヴァローン一帯を管理とするオータン伯 Comte d'Autun の統治を受けていた。 ● 「カロリング」とは? カロリング朝はフランク国王でもあり、西ローマ帝国の流れを継いだ皇帝でもあったカールT世(大帝/シャルルマーニュ)の家系の呼称である。「カロリング」とは家系そのものの名称ではなく、「カール家系の」という意味を持つ。 ● 「フォントノワの戦い」/フランク王国の分裂 カールT世以降、カロリング朝フランク王国はルートヴィッヒT世(ルイT世/敬虔王)へと続き、美術のカロリング朝様式はさらに発展し続けた。しかし840年にルートヴィッヒT世が亡くなり、カロリング朝フランク王国は政治的な大混乱を招くことになる。 841年、終には王位と領土を狙い互いに譲らないルートヴィッヒT世の三人の息子達、1男ロタールT世軍に対して、「ストラスブールの誓約」で結ばれた3男ルートヴィッヒU世と4男禿頭王シャルルU世の同盟軍により、オクセールの南西25km付近で「フォントノワの戦い Schlact von Fontenoy」に突入する。 4万人の犠牲者を出したとされる戦争の終結とその妥結である「ヴェルダン条約」を経て843年、カロリング朝フランク王国は禿頭王シャルルU世の西フランク王国、ロタールT世の中フランク王国、そしてルートヴィッヒU世の東フランク王国へと分裂してしまう。 フランク王国が3つの王国に分裂とした後、各王国はそれぞれ1〜1世紀半ほど継続するが、最終的には962年に東フランク王国はオットー大帝により神聖ローマ帝国へ引き継がれ、987年には西フランク王国がカペー朝のフランス王国へと発展してフランス王朝の基礎をつくる。 ● カロリング朝美術の発展 843年のフランク王国の分裂の後に至っても、美術としてのカロリング朝様式は、9世紀の後半、西フランク王国を引き継いだルートヴィッヒT世の息子の禿頭王シャルルU世で最盛期を迎える。カロリング朝様式は修道院や教会堂の建築、フレスコ画、モザイク画、ラテン文字の改良などにその特徴を残したが、中でも最も顕著な遺産は各地の修道院工房で行われた優美な彩飾写本の製作、そして金細工や象牙細工などの工芸分野であった。 カロリング朝様式の建築やフレスコ画の分野では、ブルゴーニュ地方オクセールの9世紀創建の聖ジェルマン修道院の地下納骨堂クリプトや放射状の小礼拝室のある周歩廊タイプの後陣の描画などに、その特徴が残るとされている。 群を抜く美しさを誇る写本分野では、シャンパーニュ地方ランス近郊の修道院の工房で製作された≪ユトレヒト詩篇≫、あるいはエペルネに残る≪エボの福音書≫、ブルゴーニュ地方の「フランスの最も美しい村」のフラヴィニー・シュル・オズランの聖ピエール修道院の写本などが知られている。 上品で優美さを誇ったカロリング朝様式であったが、元々宮廷や王族を中心として限定的に発展してきた美術様式であり、結局その拡大と発展にはおのずとリミットがあった。結果、カロリング朝様式は次の修道院と教会堂建築に広く採用されるロマネスク様式に取って代わられ、その短い美術生命を終えることになる。 ● 十字軍のエデッサ伯国/「聖ベルナールの第二次十字軍」の失敗 エデッサ伯国はヨーロッパからの「第一次十字軍(1096年〜1099年)」の遠征時、1098年にキリスト教騎士団により創設された中東における最初の十字軍の国家であった。 しかしその半世紀後の1145年、イスラム教徒勢力の盛り返しにより陥落した最初の十字軍国家となってしまう。エデッサ伯国の位置は現在のトルコ・シリア国境付近で、エルサレム王国やトリポリ伯領など十字軍が統治した他の国家に比べ領土的には最大級の十字軍国家であった。 聖ベルナールの呼び掛けで「聖ベルナールの十字軍」と呼ばれ、ブルゴーニュ地方を初めヨーロッパ各地のキリスト教徒が多数従軍した「第二次十字軍(1147年〜1148年)」は、10万とも14万人とも言われる参加者となり、規模的には非常に盛り上がった軍勢であった。 しかし、予想に反して目的意識の明確性に乏しく、指揮官同士の意見対立、指揮や組織統制の乱れや略奪を目的とした庶民参加者達の低い戦意などから、神聖ローマ帝国コンラートV世も指揮した「ダマスカス包囲戦」の失敗を初め、結果的にはキリスト教徒サイドの強調すべき歴史的な成果は挙がらなかった。 勝利に至らなかった「ダマスカス包囲戦」の後、「失敗」の烙印を押され、第二次十字軍は撤退・解散となり、十字軍を呼びかけたヴァチカン教皇エウゲニウスV世、そしてその勧誘説教を行った聖ベルナールの指導力と権威は急速に弱まって行く。 |
● スペイン巡礼への出発地/聖マドレーヌ大聖堂・広場/聖ヤコブの「帆立貝」 ヴェズレーは丘の尾根に細長い形容で発展してきた。この「フランスの最も美しい村」を貫くように延びる歴史を秘めた傾斜のメイン通りを500mほど上がり切ると、パーキングを兼ねた聖マドレーヌ大聖堂の正面広場となる。 正面の階段近くの広場の路面には、遠く1,700km の彼方にあるスペ イン西北部の聖地・「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」の出発点 を示す、青銅製の帆立貝の飾りプレート/道標が埋め込まれている。 飾りプレートは巡礼ルートとなった村のメイン通りにも点々と残されている。 なお、帆立貝は聖ヤコブ(スペイン=サンティアゴ)の「聖なるシンボル」 とされた。 路面に埋め込まれた帆立貝の巡礼飾り(道標) ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂・正面広場 描画=Web管理者legend ej 「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」では、スペインのみならずイギリスや中欧諸国も含め、ヨーロッパ各地からの主要巡礼路が決められた。特に中世キリスト教の信仰が高まっていたフランスでは、出発地パリからの「ツゥールの道」、ヴェズレー修道院からの「ヴェズレー(リモージュ)の道」、オーヴェルニュ地方ル・ピュイからの「ル・ピュイの道」、プロヴァンス地方アルル(下写真)からの「ツゥールーズの道」、合計4か所の出発地と巡礼ルートが確定された。 当時フランスの中心がブルゴーニュ地方であったこともあり、ヴェズレーはフランスから「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」へ向かう4か所の出発地の中で「最も重要な出発地」であった。 「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」の出発地の一つアルル・聖トロフィーム教会堂 世界遺産/西入口 タンパン図像・「最後の審判」/プロヴァンス地方 世界遺産/プロヴァンス地方アヴィニオン/アルル ヨーロッパ各地の貴族も、農民やパン焼きや鍛冶職人も含めた敬虔なカトリック教徒は、誰もが一生に一度、資財を投げ打つまでしても、胸に聖ヤコブのシンボルであった帆立貝を下げ、先ず4か所の出発地を目指した。巡礼者は途中の有名な修道院や教会堂、聖地などを巡りながらスペインの聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラを目指し、厳しい「巡礼の旅」を続けた。 巡礼路はフランスからピレネー山脈を越えて、スペイン北部プエンテ・ラ・レイナ Puente le Reina の「王妃の橋」で合流、巡礼者はさらに西方の果て最終目的地サンティアゴ・デ・コンポステーラまで、貴族は馬車で、庶民は徒歩で向かったのであった。 たとえキリスト教信仰とは言え、中部フランス、あるいは南部から往復3,000km以上を徒歩で旅する巡礼は、庶民にとっては非常に厳しく長い道のりであった。 ----------------------------------------------------------------------- ● 大聖堂・西正面ファサード 聖マドレーヌ大聖堂前の広場から見上げる正面ファサード(上述写真)中央入口の上部のタンパン彫刻・「最後の審判」は、19世紀に行われた大修復作業(1840年〜1859年)で作られたもので中世の作品ではない。 ただ、聖マドレーヌ大聖堂の図像の内容自体は、同じくクリュニー修道会系譜で聖ラザロ聖遺物信仰で名高い、オータンの聖ラザロ大聖堂のそれに極めて似ている、と判断されている(下写真/12世紀ロマネスク様式)。 なお、聖マドレーヌ大聖堂の正面部の複雑な造り高窓群は、中世13世紀に取り付けられた古い作品である。 オータン聖ラザール大聖堂/タンパン・「最後の審判」/12世紀ロマネスク様式 ブルゴーニュ地方・オータン聖ラザール大聖堂とロマネスク様式の柱頭彫刻 |
● タンパン彫刻 ヴェズレーの聖マドレーヌ大聖堂で最も重要な物の一つは、正面入口から大聖堂内部へ入り、直ぐにある12世紀の広い玄関間ナルテックスの中央部を飾る大型タンパン彫刻であろう。この図像はイエスが昇天した10日後に起きたという「聖霊降臨(トップ写真)」のシーンを表現している。 トップ写真・タンパン彫刻・「聖霊降臨」へ戻る タンパン彫刻中央には光背のイエスが少し膝を曲げた形容で佇み、ナチュラルで美しく流れるような衣で身を包んだイエスの広げた両手からは、「神」からの光(聖霊)が降り注ぎ、イエスの両脇に配置された聖ペトロや聖パウロなどの弟子達が、その「神」の啓示を受けている。 特に注目したいのは、右足が透けて見えるようなイエスの着ている柔らかそうな衣の襞(ひだ)の表現である。次の世代のゴシック様式の衣は、非常にリアリティで、現代の着物の襞ように立体的な加工で表現される。が、ここでは一定の幅をもった深さの浅い平行な線と渦巻模様のコンビネーションで表現されている。一見、京都の竜安寺の石庭の白砂に描かれた波模様に共通する美学を連想するような、石材の持つ質感と繊細な美しさを発揮したロマネスク様式の特徴的な技法と言える。 浮彫彫刻であるこの図像は全体的に非常に流動感に溢れ、威厳を与える「神」の存在を精緻な彫刻技法で表現した典型的なロマネスク様式のタンパン装飾と言われ、12世紀前半、1120年以降の最高傑作の一つとされる。また、タンパン彫刻の中のイエスの顔は身体全体に対してかなり小さく表現されているが、このような遠近法的な不均等な描写がロマネスク様式のタンパン彫刻の典型的な特徴であり、イエスの存在を強調していると言える タンパン彫刻の真下部分の中央の柱には、若干頭部の破損があるが、30歳の頃のイエスにヨルダン川で洗礼を授けた洗礼者ヨハネの立像である。ヨハネは山形の「花笠祭り」の笠に似た大きな水盤のような物を抱えているが、洗礼に使った桶とされている。洗礼者ヨハネの頭部付近から左右に延びているのが「リンテル Lintel」と呼ばれる梁で、ここには頭部が欠けているがローマ人とか、牛を引いたりする色々な国の人々が、あるいはタンパン部の外側を囲むようにアルメニア人やエチオピア人などが枠囲いで描かれている。 ● アーキヴォルト装飾/側廊扉口彫刻 豪華な装飾を限りなく排除したシトー修道会と異なり、ベネディクト派クリュニー修族(クリュニー会)系譜の教会堂では、過度と言って良いくらい限りなく装飾を施している点に特徴がある。クリュニー修族(クリュニー会)の系譜のヴェズレーの大聖堂では、タンパン部だけでなく、「アーキヴォルト」と呼ばれるタンパンの周囲の飾りアーチ部分にも、ブドウの手入れや干草の刈り取りなど、農作業に連動する占星術の「天秤宮」や「獅子宮」などの「黄道十二宮」が描かれている。 そのほか、リンテルの梁を左右で支えている側面柱には立ち話の聖ペテロと聖パウロが描かれ、扉口の周辺に至るまで あらゆる空間も聖なる物語の図像で隙間なく彫刻され、宗教的な教訓のアピールを行っている。 玄関間の「聖霊降臨」の左右の扉口の上部にも小型のタンパン彫刻がある。これらも12世紀前半のロマネスク様式の作品とされている。右側(南側)扉口のタンパンは上下二段に分けられ、上が「マギの拝礼」、下が「受胎告知」などイエスの 「誕生」にまつわるシーンである。また左側(北側)扉口のタンパンでは、イエスの「昇天」にまつわる彫刻が表現されている。 中世の頃には、洗礼を受けていない人の立ち入りはこの玄関間まで、「聖霊降臨」の図像を眺めることはできたが、この奥の身廊への立ち入りは洗礼を受けた信徒のみが許された、とされている。 |
● 身廊と側廊 大聖堂の内部、玄関間の扉口は3か所の構成である。タンパン彫刻・「聖霊降臨」を仰ぎ見る大型の堂々たる中央扉口は大聖堂の身廊へ、そして入口上部に小規模なタンパン彫刻が施されたやはり12世紀前半の左右の扉口からは各々南側廊(下写真)と北側廊へと至る。側廊壁面の窓や身廊の高窓から光が入り、堂内は比較的明るい印象を受ける。 ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂・横断アーチの縞模様が美しい南側廊/ブルゴーニュ地方 トンネルヴォールト構造の大聖堂の身廊は、もともと1120年〜1138年に造られ、その天井は約19mで非常に高く、 幅がそれほどないのでより高いという感覚である。身廊の壁面は構造的に見れば、大アーケードとその真上の高窓が一対となり、一つのベイを形成するバシリカ様式の身廊の壁面に類似している。 角柱と半円柱で構成される複合柱から天井へは横断アーチが美しく走っている。天井を補強する役目の半円アーチ部分は、アイヴォリー色と焦げ茶系の石材を交互に使った明暗の美しい縞模様の施工である。ただ身廊の天井は当初12世紀ゴシック様式の尖頭アーチ型であったが、現在見ることのできるロマネスク様式の半円アーチ型は、19世紀の大修理で再建されたものである。 これは建てられた時代と環境は異なるが、経験論で言えば、イスラム教とキリスト教文化の融合遺産の典型であるスペイン・コルドバ Cordoba のメスキータ寺院の内部を飾る、アーチ形の天井支柱に共通した技法を見ることができる(下写真)。メスキータ寺院より若干色彩が淡くなるが、ヴェズレー修道院のこの横断アーチの美しい縞模様は、南と北側の側廊の天井部分でも採用されている。 |
コルドバ・メスキータ寺院/アンダルシア地方 世界遺産/スペイン・グラナダのアルハンブラ宮殿/コルドバのメスキータ寺院 |
● 地下納骨堂クリプト 広い身廊からさらに奥へ歩み、高窓からの光で急に明るくなる内陣の周辺は、12世紀後半になって次の美術様式となるゴシック様式で改造された区画である。内陣の脇から狭い石段を下ると内陣の真下の空間となり、ここが聖マリー・マドレーヌ(マグダラのマリア)の聖遺物(遺骨)を納めたとされた地下納骨堂クリプトである(下写真)。 教会堂にとって最も重要な場所は聖人の遺骨を納める地下納骨堂で、宗教的には9世紀のままのこの部屋が、聖マリー・マドレーヌ大聖堂の「奥の院」ということができる。 ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂・「マグダラのマリア」の地下納骨堂クリプト/ブルゴーニュ地方 ● 静黙の列と祈りの世界 かつて中世の時代、僅かな灯りの暗い森厳なこの地下納骨堂で、何万、何十万という信仰深い人々が聖マリー・マドレーヌに救いを求めて、静黙の列を成し祈りを奉げたことであろう。 それから800年も過ぎた日、夜8時過ぎ、遠い東洋の国からの旅人として誰もいない納骨堂に独り佇む。天井が背の低い無装飾のロマネスク様式の円柱と交差ヴォールトで支えられた崇高な空間に身を溶け込ませ、漂う歴史の残した聖なる空気に触れる時、私は時空を越えた畏敬と言うか、そのあまりの厳かさに息を呑む想いがした ・・・ ● 満月の大聖堂 その後、私は聖マドレーヌ大聖堂から外に出た。偶然にもブルゴーニュの東の空に満月が輝き、月明かりの中、夜間照明された大聖堂の西正面ファサードが、静かに「何か」を私に語りかけているように感じ、しばらくの間広場に佇み大聖堂の荘厳なる姿を眺めるのであった(下写真)。 それは安全祈願を終えて、今まさに1,700kmの彼方にあるスペイン西北部の聖地・「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」へ旅立つ中世の巡礼者のように、限りなく澄み切った感覚に満たされて・・・ ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂・西正面ファサード/澄み切った夜空に満月が輝く /ブルゴーニュ地方 |
● イエスの誕生 ≪エデンの園≫の時代から多くの時間が経過、今から2,000年前、エルサレム近郊ベツレヘムのユダヤ教下級祭司の娘マリア(後の聖母マリア)は、母アンナの体内で宿された時、「禁断の果実」を食べ罪を犯したアダムとイヴ以来の人間の中で唯一「神」から認められ、罪から免れた特別な聖なる女性、「無原罪の人」とされた。 そして、生まれ、成人したマリアは家具や農工具を作るユダヤの職人ヨセフの婚約者となったが、「神」が選び認めた特別な女性であるが故に、性的営みを介せずに神の恩恵で「処女受胎」することを大天使ガブリエルから「受胎告知」される(下写真)。 後世の多くの絵画では、愛と信仰心を意味する深い紅色と紺藍色のローブを羽織ったマリアが告知を受け入れる。ガブリエルが携えているのは「アトリビュート(持ち物)」の、マリアの純潔・貞操を意味する白百合の花である。そうして、「無原罪の人」であるマリアの体内に宿り(=無原罪の御宿り)、生まれたイエスは「神の子」とされ、元々「神」により選ばれた聖なる女性であったマリアはイエスの母、「聖母」となる・・・ サンドロ・ボッティチェリ作・≪受胎告知≫/イタリア・フィレンツェ・ウフィツィ美術館所蔵/1481年作 2015年/東京・渋谷 ザ・ミュージアム・≪ボッティチェリとルネッサンス(フィレンツェの富と美)展≫ 当時のユダヤ王ヘロデの凶暴から逃れるために、幼 児イエスは養父ヨセフに連れられ、母マリアと共に「エ ジプトへの逃避(下写真)」を行い、運命の危機を 回避する。 ヘロデ王の死後、ローマの属州であったユダヤ王国は ヘロデ王の4人の息子達に分割統治された。イエス の家族はユダヤの国へ戻らず、父ヨセフの出身地であ る北イスラエルに位置するガリラヤ地方の渓谷に挟ま れた寒村ナザレに住み着いた。 母マリアの父親はユダヤ教の下級祭司、イエスの家族 はイエスを含めヤコブとユダ、サロメなど子供6人、家具 や農工具などを作る職人であった父ヨセフの稼ぎが家 計を支えていたとされる。 柱頭彫刻・「エジプトへの逃避」 「エジプトへの逃避」の柱頭彫刻のオータン聖ラザロ大聖堂 ● イエスの生誕は何時か? 6世紀以来、イエスの誕生年が「紀元0年/AD」として長い間考えられてきた。が、イエスはユダヤ王ヘロデの政権時代に、父ヨセフと母マリアとともに「エジプトへ逃避した」という記述から、現在では、ヘロデ大王が亡くなる紀元前4年より以前に既に「生まれていた」、と判断されている。 ● マグダラのマリアの追放 イエスの埋葬の後、イエスの弟子であり、「愛人・恋人」でもあり、教団組織の指導的な立場にあったとするマグダラのマリアは、ユダヤ教徒によりエルサレムから追放された。イエスの友人でもあった自分の弟ラザロらと共に地中海を渡りローマへ、そして小舟で漂流した後、ガリアのナルボネンシス(南フランス・プロヴァンス地方)のサント・マリー・ド・ラ・メール(別説ではマルセイユ付近)に上陸した。その後、マグダラのマリアは石灰岩の険しく荒々しい崖が東西に続く内陸のサント・ボーム St Baume 山地へと移る。 そうして断崖にある洞窟(現在=聖マリー・マドレーヌ洞窟 La Grotte de St. Marie Madleine)での30年間の隠匿生活を送りながら、マグダラのマリアはイエスの説いた原始キリスト教の情熱的な布教に志をそそぎ最期をむかえた。聖マリー・マドレーヌとなったその遺骸は、弟子達によりサント・ボーム山地から北東へ20kmのサン・マクシマンへ運ばれ、当地の小さな教会堂の地下納骨堂に葬られたと言う。 ● マグダラのマリアの聖遺物 その後1,000年以上の年月の経過、時は中世10世紀、当時盛り上がってきたキリスト教の聖地巡礼・聖遺物信仰という宗教的な大きな流行から、勢力を増したヴェズレー修道院が派遣した修道士はこの聖マリー・マドレーヌ(マグダラのマリア)の聖遺物の引き取りのために、プロヴァンス地方サン・マクシマンへやって来たのであった。 当地の教会堂から引き取った遺骨が、聖マリー・マドレーヌの間違いのない「聖遺物」として、修道士はヴェズレーの修道院へ持ち帰るのである ・・・しかし、皮肉にも歴史は大きく動いたのである。13世紀後半の1279年になって、サン・マクシマン教会堂の地下を掘り返すと4基の美しい彫刻の施された大理石の石棺が見つかった。 石棺の中に残されていた羊皮紙には、8世紀の初め、それまでアラバスター(雪花石膏)の石棺に収められていた聖マリー・マドレーヌの遺骨が大理石の石棺に移され、別人の遺骨をアラバスター石棺に収めた。さらに異教徒の破壊から守るために、聖マリー・マドレーヌの大理石の石棺は土中に埋められた、と記述されていたと言う。 そして確認されたアラバスターの石棺は「空」であり、その意味はこれより200年前、ヴェズレー修道院からの修道士がマグダラのマリアの「聖遺物」として、アラバスター石棺に収められていた別人の遺骨を掘り出してヴェズレーへ持ち帰った、と判断された。聖マリー・マドレーヌは亡くなった直後からサン・マクシマン教会堂の地下に埋葬されていたのである。1295年、この歴史的とも言える教皇判断が出された結果、ヴェズレー修道院の聖マリー・マドレーヌ信仰は一気に崩れ去るのである。素晴らしいロマネスク様式の大聖堂と柱頭彫刻を残したまま・・・ ● ほかの伝承 マグダラのマリアに関する別の伝承では、イエスの母である聖母マリアは、イエスの死後、ユダヤ教徒からの迫害を逃れるためにエルサレムを離れ、イエスが最も信頼した弟子ヨハネに付き添われ、トルコ・エーゲ海沿岸の古代ギリシア・ローマの大都市エフェソスへ移り住み、余生を送ったとされている。 その時、マグダラのマリアも聖母マリアと一緒に 暮らしてエフェソスの地で没したと言う。また、 聖ヨハネもエフェソスで亡くなり、当地に埋葬さ れた(左写真)。 現在ギリシア〜ローマ文明の大規模な遺構 が残るエフェソスは、ヴァチカン教皇庁が認定 する聖母マリアの晩年に関する重要な場所と なっている。 エフェソス遺跡・聖ヨハネの墓/エーゲ海沿岸地方 トルコ・エーゲ海沿岸地方 古代都市エフェソス遺跡 また、マグダラのマリアの弟ラザロに関しては、生涯マルセイユで布教活動を行い司教に就き、亡くなった後、その遺骨はブルゴーニュ地方オータンにある聖ラザール大聖堂に葬られたとされた。 |
● ロマネスク様式の柱頭彫刻 「聖霊降臨」の図像、玄関間を飾るこの見事なタンパン彫刻のほかに、ヴェズレーの聖マドレーヌ大聖堂で最も重要な物は、大聖堂の天井を支える石灰岩支柱の上部を飾るロマネスク様式の柱頭彫刻であろう。柱頭だけに限らず、一部では支柱の柱礎部分に彫刻を施したものさえある。 聖マドレーヌ大聖堂の身廊と側廊に残されている柱頭彫刻の個別のシーンは約100を数えるとされる。それらの題材は多種多様で、聖パウロや聖ペテロなどキリスト教の聖人を初め、聖書から引用した物語場面、逸話、ギリシア神話のモチーフ、怖い空想上の怪物、果ては教会堂でありながら戦いや殺人、首吊り、同性愛や誘惑シーンなどにも及ぶ。これらは全て12世紀の作品であり、その数量と凝った内容、そして精緻な表現加工に誰しもが圧倒されずにはいられない。 数ある柱頭彫刻の中でより知られた作品群:
など、列挙には限りがない。何れの柱頭彫刻も中世12世紀ロマネスク様式の典型的な美術作品であり、他では見ることのできないその数とバラエティ溢れる表現シーンに圧倒されるほどの感動覚える。 例えば南側廊の中間付近にある柱頭彫刻・「神秘の粉挽き」の図像では、左側のモーゼが粉挽き器に麦を入れ、右側の聖パウロが粉袋を広げて出来た粉を集めるという聖なるシーン(左下写真)である。 旧約聖書≪出エジプト記≫に代表される預言者モーゼか ら、熱心なユダヤ教徒でありながら復活の「栄光のイエ ス」に出会い「パウロの回心」をする新約聖書の著者・聖 パウロへの信仰の移行を暗示させ、粉挽き器はイエスを 表すと理解されている。 これは柱頭という限られた非常に狭い場所に、作者が 意図を凝縮して、背景に流れるように延びる植物の葉 をあしらい、穏やかな彫刻表現ながらも宗教的な深い 意味と暗示や教えを伝えている。 ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂 柱頭彫刻・「神秘の粉挽き」 さらに内陣に近い柱頭にある図像・「神と戦うヤコブ」は、旧約聖書≪創世記≫のアブラハムの孫ヤコブが兄に会いに行く途中で神と戦うシーンを描き、戦いで神に勝利したヤコブは「勝利者」を意味する「イスラエル」という名を授け、これがイスラエル(ユダヤ)の語源とされている(左下写真)。 また、南側廊の良く知られた「ガニメドの誘惑」では、ゼウス神が鷹に変身してまで強引に羊飼いの美少年ガニメドを誘惑する≪ギリシア神話≫からのモチーフである(右下写真)。 ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂 ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂 柱頭彫刻・「神と戦うヤコブ」 柱頭彫刻・「ガニメドの誘惑」 |
● 大聖堂の見晴台/ブルゴーニュの眺め/丘下のサン・ペール村 大聖堂から外へ出て、建物の間の通路を修道院の裏手にあたる東方へと回り込むと、わずかに傾斜を示す広い芝生の開けた空間となる。ここはブルゴーニュの丘陵地帯を一望できる素晴らしい見晴台だ。ブルゴーニュの丘陵から吹く心地よい風を受け、そこ彼処に点在するトチの大木の葉枝がカサカサとささやき合っている。 ここから丘の直ぐ下方のサン・ペール村が手に取るように眺められる。住民400人ほどが暮す朱色の屋根が連なる素朴な村の西端には高い塔をもつゴシック様式のノートルダム教会堂がひと際印象的に佇んでいる。 こんな地図にも載らない田園風景が続くブルゴーニュ地方の小さなサン・ペール村だが、有名なミッシュランの「☆☆☆レストラン」を兼ねる小さなホテル・「L'Esperance レ・エスペランス」があり何か月も前から予約を行い、首都パリを初めヨーロッパ各地から大勢の人達が美味を求めてはるばるやって来る。 たった400人が住む田舎の村に「☆☆☆レストラン」があるということ自体、「フランスらしい」と言えば何の不思議でもないが、本物のフランスを知る多くの人は、「☆☆☆レストラン」がパリ市内より遥かに数多く認定されているブルゴーニュ地方をして、「食はパリではなく、ブルゴーニュにあり!」と静かに評価する。 食だけでなく、可能ならば「フランス国内の何処に住みたいか?」の問いに答えるフランス人の多くは、「当然、ブルゴーニュ!」と即答する。カニを食する時に会話がピタリと止まる日本人には知られていないが、人生において、フランスの人々の憧憬が華やかな大都会パリでもなく、見た目富裕な地中海ニースの海岸でもなく、歴史と文化に彩られたブルゴーニュ地方であっても疑う余地はない。このことは、ここヴェズレー聖マドレーヌ大聖堂の見晴台に立つ時、はっきりと納得できるような気がする。 サン・ペール村のさらに東方では、15km先のアヴァローン Avallon の町へと続く優雅に蛇行する並木の道路が緑豊かな牧草地の丘陵を越えて行く。まるで絵に描かれたような風景だ。もしツーリストがヴェズレー修道院を訪ねる機会に恵まれたなら、サン・ペール村〜中世街アヴァローンへ向かう際、この蛇行する地方道路からヴェズレーの丘を振り返ることを推奨したい。 ここからは見晴台で眺める雄大なブルゴーニュの平原と穏やかな丘陵の光景とは異なり、聖マドレーヌ大聖堂の建つ高いヴェズレーの丘だけが、神々しくも「聖なる場所」であるように強調された素晴らしいシーンとして眺めることができるから。特に夏の終わりから晩秋の季節、しかも無風の午前、朝霧が晴れ上がる直前の時間に振り返るチャンスに遭遇できたなら、それは感涙するほどの「人生の風景」となるであろう。 風景を眺めて感動・感激して感涙するチャンスは、東京や大阪など大都市で普通の忙しい日常生活を送っていたのでは、どう願望しても一生涯巡って来ることはない。無理を押してでもヴェズレー修道院を訪ね、この丘の見晴台に立つと良いであろう。 ● ブルゴーニュの朝霧の風景 宿泊した晩秋の日の翌朝、早めに聖マドレーヌ大聖堂を訪ね、風もなく密度を増した清清しい大気の中の見晴台で両腕を大きく広げ目を閉じてみる。何と気持ちが良いのであろうか。朝の広い見晴台には散歩する村の人も誰もいない。しかも修道院の建つこの丘の頂点を除き、周囲360度すべてが深い朝霧に包まれていた。まるでヴェズレーの修道院だけが、雲海の中に一人だけ背伸びした「島」のように朝霧の中に浮かんでいた。 しばらくして、弱々しい晩秋のブルゴーニュの朝の陽光が差し込み始め、名残を惜しむように濃い霧が分からないくらいゆっくりと東から西へ流れ始めた。直下のサン・ペール村を初め、遥か遠方に点在する小さな村や集落が徐々に顔を見せてくる時間、私は優美にうねる丘陵や曲がりくねった道、牧草地や雑木の森などの静かで余りに美し過ぎる風景の移り行く変化を独り占めしていた。 初秋の朝 ヴェズレー修道院から眺めるブルゴーニュの朝霧 こんな静寂にして雄大な風景の中に、私以外誰もいないという偶然のチャンスに胸が張り裂けるほどの感動を覚えた。この見晴台のある穏やかな傾斜の広い空間で、860年前、シトー修道会クレルヴォー修道院の聖ベルナールによる歴史に残る「第二次十字軍」の遠征の提唱が行なわれたのであろうか? 晩秋の早朝、その中世フランスの人々のほとばしる興奮と情熱で染まったヴェズレーの丘に独り立ち、墨絵のようにたなびく朝霧に見え隠れしながら、ゆっくりと変わり行く美しいブルゴーニュの朝の風景に溶け込んだ自身の「幸福な時間」を、私は生涯にわたって忘れることはないであろう ・・・ |
現在、フランスには人口2,000人以下の「村」と言われる自治体が約32,000か所あるとされる。 そのうち「フランスの最も美しい村」に認定されているのはわずか172村だけ(2023年現在)で ある。 「フランスの最も美しい村」: http://www.les-plus-beaux-villages-de-france.org/ |
● 古い地名・「男衾」/祖母の「お伊勢参り」の話 奈良時代、8世紀の初頭、701年、日本で最初の本格的な法体系である≪大宝律令≫が制定された。私が生まれたのは、その律令の地方官制にも記述された「男衾(おぶすま)」という、誰に問いても殆ど全ての人が首を傾げて難読する歴史的な地名が付けられた埼玉県北西部の田舎であった。 かつて万葉の時代、朝廷の神事・儀式に使われた麻の布地が「男衾から献上された」とも、国分寺の「瓦を焼いた」とも言われ、さらにこの古名・「男衾」は鎌倉時代の地方武士兄弟の生活を描いた国指定重要文化財の風俗絵巻≪男衾三郎絵詞(えことば)/国立博物館≫が伝えるように、関東の歴史研究では良く知られた古い地名である。 そんな中学校の歴史の教科書にも登場する誇りある「男衾」の赤浜地区で生まれ育った私は、小学生の頃に明治生まれの祖母から「昔の人は皆歩いて “お伊勢参り” をしたんだよ・・・」、という子供の想像力を遥かに越えた全国各地からの徒歩による「伊勢神宮参拝」という話を聞いたことがあった。 その頃の私は、100kmと離れていない「東京」という大きな都市へさえも行ったこともなく、何やら大人のイベントらしい “お伊勢参り” が一体何処まで行くことなのか知る由もなかった。時代はまだ日本中が貧しかった昭和30年代の初めである。 時代と田舎という環境から勉強や読書には関心もなく、私はもっぱら清流に水草がゆらゆらと揺れる荒川へ出かけ、石の下に棲む可笑しな顔付の魚カジカの手づかみ捕りに夢中になり、あるいは柿の木に登り枝が折れて落下しても悪運強く途中の大枝に引っ掛かったりするなど、自然が友達の日常生活を送っていた。 夏の夜、独特な臭いのするホタルを捕らえ吊った蚊帳(かや)の中に放して、ルシフェリン発光の不思議な光を一晩中眺め続け、毎晩カエルやスズムシやコオロギが騒々しく競う鳴き声を自然の協奏曲として極普通に聴いていた。 早起きする必要もない嬉しい夏休みがやってきて、宿題はそっち退け、日焼け顔で麦わら帽子をかぶり、少し黄ばんだランニングシャツと半ズボン姿、青空に夕立を予告するモクモクと湧き上がる入道雲を眩しく眺め、自転車で農道を澄ましながら通り過ぎる年上女子中学生の額やうなじの汗にドキーンとする、私はまさに「第二次大戦」の戦後を描いた小説に登場するような自然を相手に遊ぶことしか知らないまだ純な少年の一人であった。 そんな孫の私に少々の誇張を含めながらも、言い聞かせるように語る祖母の “お伊勢参り” の話は、泥だらけになって外で遊ぶ当時の私の思考範疇ではまったく捉えることのできない遠い大人の話であった。 ● 歩いて「東京・関西往復」 その後、既に50年ほど前になってしまったが、まだほとんどすべての庶民の「夢」であった海外旅行が、上品にも明治時代の名残りからか、「外国旅行」と呼ばれた1970年代の初め、20代の半ばになった私は、自分の全貯金をはたき、それでも足りず家族へ借金までして、1年以上の長期の滞在となったヨーロッパ・アフリカ・中東・アジアの厳しい旅を終えて帰国した。 その後しばらくしてから、私は遠い記憶の中で忘れえずに浮遊していた祖母の言葉から、意を決して、と言うよりかなり衝動的に “お伊勢参り” を含め、「東京⇒伊勢⇒奈良⇒京都⇒名古屋⇒東京」の全行程1,300kmを休まずに歩き通す、という途轍もない思い切ったプランを立てた。 その頃、1970年代の我が日本は、国際的にはまだ先進国の仲間入りができない経済三流国であり、日本の社会には経済的にも心の余裕さえもまったくなく、平和な現在のように「ウォーキング」などという明るく健康的な響きのウキウキ単語は見あたらなかった。 当時の社会状況からして、東京から歩いて関西を往復するのは、想像ならまだしも、実行となると例え極稀に居たとしても「変人」と思われる人以外に居るはずもなく、よくよく考えてみれば余りに突飛過ぎる発想であった。 しかし、笑いながらも呆れて物言わぬ母親の心情を他所に、若干の不安を抱えながら、「何日かかるか分からないけれど、やれば出来るかもしれない ・・・」とする単細胞的な思い込み、若さだけが先行したのん気な思考の私は、子供の頃に祖母から聞かされた徒歩での “お伊勢参り” の話を本当に実行したのであった。 ● 33日間徒歩の旅 それは陽炎(かげろう)が立ち、焼け付く道路からの照り返しで顔が真っ黒に日焼けした猛暑の真夏であった。東京から出発して間もなくして、富士山の裾野の御殿場付近で、偶然に通過した台風がもたらす経験したことのない時間40oの物凄い集中豪雨に打たれ、体力を極端に消耗させ、水浸しのスニーカーの中で足指はふやけ、足裏の破れたマメの中に再びマメができるほどの激しい歩行の連続・・・ あるいは快調さを良いことに日に65kmを歩いた過労が翌日に残り、難関である復路の静岡三島から登る、歴史にも出てくる「箱根峠越え」で右脚の脛(すね)が肉離れを発症してしまい、前日の強引な歩行に後悔と激痛に泣きながら膨れ上がった右脚を引きずり、何としても東京まで戻ろうとした意地とボロボロになった身体にムチ打つ涙の歩行 ・・・ そこには他愛のない明るい話題と会話をしながら、軽い足取りの日帰り歩行の代名詞となっている健康的な中高年の「ウォーキング」の話は存在せず、結果として磨り減り履きつぶしたニ足のスニーカーが、言葉にならないほどの苛酷さを極める33日間の徒歩による「東京・関西往復1,300km」の旅路を如実に代弁することになった。 この時、世の中の色々なことを教えてくれた祖母は既に他界していたが、少年の頃キラキラと瞳を輝かせて聞いた祖母の言葉を想い浮かべながら、毎日平均40kmずつひたすら1か月以上歩き続けた私は出発地の東京へ戻ってきた。 真夏の時期、この徒歩による「東京・関西往復1,300km」の苛酷な旅路を終えた時、私はかつて和装の似合う凛とした明治生まれの祖母が、“歩いてお伊勢参り” という話をすることで、私へ伝えようとしていた「人生の試練と厳しさ」の意味にわずかだが触れたような気がした ・・・ ● スペイン巡礼/「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」の旅路 今から1,000年ほど前、聖地ヴェズレーが繁栄したヨーロッパ中世の時代、現代ならアウトドアー・スポーツの標準装備である快適な超軽量トレッキング・シューズや足にフィットするスニーカー、GORE-TEX・テフロン仕様の汗を蒸発させる高性能レインウェアもなく、カットバンや大正漢方胃腸薬などに相当する満足な薬品も携帯せず、整備もままならない土と石畳のガタガタな道路事情、常に森の中や街道筋で待ち構える強盗や山賊(さんぞく)に怯えながらの不安全な道中 ・・・ たとえキリスト教信仰の絶対的な義務とは言え、聖マドレーヌ大聖堂の建つここヴェズレーの丘から遠くスペイン西北部までの往復3,400kmの徒歩での巡礼は、中世ブルゴーニュの人々にとって、正に命を掛けるほどの難行の旅路で、相当な健脚でなければ成し遂げれない旅であったはず。 そうであっても、「神」への信仰とイエスの弟子であった聖ヤコブによる救いを求め、資財を投げ打つまでして敬虔な人々は胸に巡礼のシンボルである帆立貝のネックレスを掛け、ヴェズレーの丘〜スペインの「聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラ」を目指したのであった。 中世の頃、スペイン国内とフランスやドイツなどから年間50万人以上の信仰深いカトリック教の人々が訪れたと言う「聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラ」への旅路。そのヴェズレーからの往復の巡礼の旅路、それは距離にして私の「東京・関西往復1,300km」の2倍半以上の長丁場を歩く、厳しい修行の旅路であったに違いない。 偉大なる「神」へすがる本物の巡礼とは、信仰を拠り所に命を掛けるほどの苛酷な苦難を経て得られる人間の信念と言うか、一人一人の心の奥まった所にある、生きるための価値観や平穏な精神を求める旅路なのかもしれない ・・・ |
● 2007年晩秋/ヴェズレーを訪ねて 魅力溢れるブルゴーニュ地方への旅行時に、運悪くフランス国鉄SNCFが10日間にも及ぶストライキを実施して列車は通常の10%程度の運行となり、結果広いブルゴーニュ地方の移動は難を極めた。それでも辛うじて運行されていたローカルバスやタクシーを使い、それなりに自分らしいプランに沿った旅行を強行したのは間違っていなかった。 ヴェズレーへは、シトー修道会の二番目の「四父修道院」であり、12世紀以降繁栄を極めたポンティニー修道院(後述)を訪ねた後、シャブリ白ワインで知られた北部ブルゴーニュ地方オクセール/オーセールから列車の代行である国鉄バスを使った。そして、素朴な村々が点在するヨンヌ川の渓谷を南下して、バスの終点である12世紀建立の聖ラザール教会や中世の城壁が残る町アヴァローンまで進み、下車後タクシーで15km離れたヴェズレーへ向かうかなり遠回りのプランである。 ● 修道院聖職者との出会い/ヴェズレー村へ向かう バスが終点のアヴァローンの10kmほど手前にあたる小さな村セルミゼール・ヴェズレーの無人駅に停車した時、 明らかに聖職者と分かる僧衣に身を包んだ二人の乗客が下車した。 その時、バスの乗客の30歳前後の男性が基礎英語で、「あなたは何処まで行かれるのですか?」と、フランス語が得意でないツーリストである私に問いてきた。私はバスの終点アヴァローンまで乗車して、そこからタクシーを見つけて最終目的地のヴェズレー修道院へ行く旨を伝えた。 その乗客とバスのドライバーがフランス語で何事か会話を行い、そしてドライバーが窓を開けて既に下車した二人の聖職者へ何か「お願い」する場面があり、聖職者がその内容に了解したことが彼らの笑顔で分かった。そして基礎英語の男性乗客は私に向かって、 「あの二人はヴェズレーの聖職者で、修道院からの迎えの車を待っている。あなたをその車に乗せてヴェズレーまで行くと言っています。ここからヴェズレーへは近道だから・・・」 と告げ、偶然に遭遇した幸運を私が否定しないように、ドライバーも私にバスからの下車を勧めた。バスの男性乗客もドライバーもそして聖職者の二人も、ブルゴーニュの深い丘陵地帯の奥に位置する公共交通手段が無いに等しいヴェズレー修道院へのアクセスが、個人ツーリストにとってかなり難しいことを知っていたのである。 バスから下車した私を迎えたのは、正しくヴェズレーの現エルサレム修道会の修道士であり、しかも70歳を越えたと思しき年長の方は、その高貴な色合いの僧衣と手に持った格式あるカバン、青く澄んだ瞳、背を伸ばした正しき姿勢や穏やかにして修道で鍛えた厳しい顔の骨格などからして、(間違いなければ)修道院長、あるいはそれに相当する高位の要職にある聖職者であった。 50歳代のお付の方を伴い、おそらくは国鉄のストライキの影響を受け、列車の運行が間引きされた不自由な状況下でパリの本部などへ赴き、やっと運行された代行バスでの帰還であったのかもしれない。 聖職者は二人とも英語での詳しい会話ができなかったが、車内ではヴェズレーの地形の美しさや変化ある自然など、柔らかな口調と内からかもし出される笑顔を伴った雰囲気の良い会話と温かい時間が過ぎていった。 10kmほど走り、かつて中世の頃には「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」の集合場所の一つでもあり、13世紀のフレスコ画などが残る聖ジャック教会のアスカン Asquins 村(ヴェズレー南方2km)を過ぎた頃、二人は私が宿泊するホテルについて問いてきた。私は事前の手持ちの情報から、「予約はないですが、ヴェズレーのシャン・ド・フォワール広場にあるホテル・コンポステーラを希望しています」と伝えた。 車がヴェズレーの村へ入り、広場に建つ希望するホテル前に到着した時、二人の聖職者も下車して澄んだ瞳で柔らかな眼差しをつくる高位な聖職者はホテルを指差し、「あなたの宿泊するホテルはここです。まだ時間が早いので、これから私の修道院をぜひ訪ねて下さい」と、優しく述べ別れの握手を求めてきた。 丁重に乗車のお礼を述べた私は、聖職者の車が800年以上前には押し寄せる聖地参拝者で溢れ返っていたはずの村のバール門を抜け、メイン通りをゆっくりと修道院の方角へ上がって行くのを見送り、ホテルのドアーに向かって歩き出した。 ● 大聖堂身廊/長い時間を過ごす 親切で礼儀をもったご主人を初め、家族で経営する小さな「☆☆ホテル・コンポステーラ」でのチェックインの後、十分時間のあった私は、「フランスの最も美しい村」のメイン通りを登り修道院へ向かう。 偶然にも晩秋のブルゴーニュには雲一つない快晴の空が広がり、聖マリー・マドレーヌ大聖堂の正面ファサードは弱い夕焼けを伴い傾き始めた陽光に反射して、神々しくも黄金のごとく光輝いていた。 私は持参した中型カメラ2台、ストロボと大型三脚をフル活用して大聖堂の外観を撮り、さらに日が暮れ暗くなった身廊の柱頭彫刻にピント合わせができなくなるまでシャッターを切り続け、ロマネスク様式の見事な美術作品を鑑賞し続けた。 満足できる撮影を終え装備を整理した後、私は大聖堂の広い身廊に並べられた木製の数百の椅子の一つに座り長い時間を過ごした。何か所かにあるロウソクの灯りだけの夜の暗い大聖堂には物音もなく、私以外に祈りの人も誰もいない。ただひたすらに静謐で静寂な空気と時間が流れていた。 私は昔から祭りや民間信仰などが比較的根強く残っていた、歴史ある「男衾(おぶすま)」という埼玉県の田舎で育ったにもかかわらず、子供の頃から亡くなった父に「お前は信心が足りないな ・・・」と言われていた通り、信仰心溢れる宗教家ではない。 宗教など精神文化の重要性を認識した上で、業務が技術系であり日常生活も、あるいは人生も遠い将来に対しても、宇宙物理を初めサイエンス理論と過去の歴史を基本とする考えで現在と未来へ向かう思考に傾倒する。ヨーロッパにおいても宗教を歴史や文化、あるいは芸術と捉えて旅する遠い国からの旅人である。 しかし1972年以来、世界47か国1,250か所以上の町や村を回った自分の旅行経験から言えば、ヨーロッパのキリスト教であろうと、中東のイスラム教、アジアの仏教であっても、さらにユダヤ教を初めヒンズー教や神道などの民族宗教や自然の萬の神・万物信仰に至るまでも、長い歴史の中で人々から敬われ、崇高なる「神」の存在に畏敬の念を抱き、数え切れない沢山の人々が信仰と祈りを奉げてきた全ての場所には、神秘的と言って良いだろう「何かが存在する」ようにも感じる。 誰もいない夜、歴史あるヴェズレーの聖マリー・マドレーヌ大聖堂に独り身を置き、850年も以前に作られた本物のロマネスク様式の内装や彫刻作品に囲まれ、尊厳でおかし難い聖なる空間に静かに佇む時、私は自身の過ぎ去った過去や人生、そして美しきマグダラのマリアの数奇な運命などについて考えた穏やかな時間が、このまま永遠に続いていくような錯覚に似た連綿とした陶酔感を覚えた。 |
ポンティニー修道院 付属教会堂/簡素な装飾の南側廊-身廊/ブルゴーニュ地方 ● ポンティニー村 「ポンティニー Pontigny」とは “巣くった橋” を意味すると言う。住民800人、北部ブルゴーニュ地方ポンティニーの村は、中世の面影を色濃く残す魅力的な街オクセール/オーセール Auxerre とルネッサンス様式の美しい教会堂を囲む高台の街サン・フロランタン St Florentin との丁度中間に位置している。パリからなら南東へ約150kmの距離である。 周囲は森と農耕地だが、数Km離れると僅かな起伏の丘陵地帯となり、一帯は世界に知られた辛口白ワインの「シャブリ・ワイン」の原料となるシャルドネ種が植えられた広大なブドウ畑である。シトー修道会ポンティニー修道院(Abbaye de Pontigny 大修道院)の北側には、蛇行する穏やかなセラン川が流れ、この地方は白ワインの生産のみならず、肥沃な土地を利用しての豊かな農業生産地でもある。 広いブルゴーニュの北部地域であるこの周辺でワイン生産が盛んになったのは、歴史的に見てポンティニー修道院とクレルヴォー修道院やオクセール修道院の果たした役割が大きいとされる。これらの修道院は1億5,000万年前のジュラ紀後期の、地質学で言うキンメリッジ層と呼ばれる化石を含むグレーホワイトの石灰質土壌の広大な斜面を早くから所有してワインの生産に勤しんでいた。 今日、シャブリ・ワインの特級畑である「シャブリ・グラン・クリュ Grand Cru」を初め、ほとんどの銘柄ワインを産出するドメーヌ・ビヨー・シモン Domaine Billaud Simon に代表されるシャブリ村の伝統あるドメーヌ(醸造所/ボルドーではシャトー)は、ブルゴーニュ地方マコン周辺やアルザス・ワイン街道(下描画)と同様に、歴史的にはかつて修道院が所有したワイン畑からスタートした、とされている。 アルザス・ワイン街道 「花咲く美しい村」 アンドー村/描画=Web管理者legend ej 秋の頃 黄金色に染まるワイン用ブドウ畑に囲まれた聖アンドー礼拝堂とブドウ栽培の農家 アルザス・ワイン街道・ユナヴィール村/秋 聖ヤコブ教会堂の周辺 黄金色に染まるブドウ畑 アルザス地方/描画=Web管理者legend ej アルザス・ワイン街道・コルマール周辺 ----------------------------------------------------------------------- ポンティニー修道院の「創建〜繁栄〜閉鎖」● ポンティニー修道院の創建12世紀の初め1113年、シトー修道会クレルヴォー修道院の創建者の聖ベルナール St Bernard の友人でもあり、トロワ伯とシャンパーニュ伯でもあったユーグT世(ユーゴ Huges I de Cahmpagne 1074年〜1125年)が、シトー修道会の有力パトロンとなり、伯家から修道会へポンティニーの森が寄進された。 翌1114年、ディジョン近郊のシトー修道会の本院・シトー大修道院からポンティニーの森へ派遣された12人の修道士達が、修道会の第二番目の「四父修道院」となるポンティニー修道院の基礎をつくるのである。当初、修道士達は木造の仮の建物で寝起きをしながら、厳しい修道活動と修道院の拡張建設を行なっていたと言う。
なお、ユーグT世は「第一次十字軍(1096年〜1099年)」の遠征には参加をしていないが、その後、1104年〜1107年、さらに1114年〜1116年に聖地エルサレムに滞在した。 また、イスラム教徒の攻撃からの聖地守護を目的として、ユーグT世の臣下であったユーグ・デュ・ペイヤン Hugh de Payens が中心となって組織された「テンプル騎士団」の最大の理解者でもあったユーゴT世自身も騎士団に加わった。 中世ヨーロッパのキリスト教・クリュニー修族・シトー修道会・聖ベルナールの生涯などの詳細 クリュニー修族とシトー修道会/聖ベルナールとクレルヴォー大修道院/「プロヴァンス三姉妹」 ● 付属教会堂の建立 その後、ポンティニー修道院では修道士達の手により、長さ190m近い巨大過ぎるクリュニー修道院・「第三教会堂」には及ばないが外観全長119m/内部全長108mの大規模な教会堂を初め、修道院の付属施設の本格的な建設が始まる(下描画)。 教会堂の建設では、先ず1137年〜1155年、ロマネスク様式の身廊(上述写真)と外幅58mのトランセプトが建てられた。続いて1185年〜1205年までには、丁度この時期が美術様式の転換期であったことから、次世代の初期ゴシック様式の標準となるフライング・バットレスを屋根構造に採用した内陣部分が完成する。さらに遅れずして、回廊や修道士室などの修道院施設も次々と整備されていった。 ポンティニー修道院 回廊/ブルゴーニュ地方 描画=Web管理者legend ej ● ポンティニー修道院/繁栄と崩壊の歴史 シトー修道会の発展と中世ヨーロッパの宗教的な役割に大きく寄与しながらも、平原の彼方から眺めるその姿をして人々に「白い船」と呼ばれたポンティニー修道院が本当に繁栄した時期は、12世紀〜13世紀で決して長期間とは言えない。 その後、フランスの王朝の継承問題から起こる14世紀〜15世紀のイングランドとの「百年戦争」で被害を受け、ほかの修道院と同様にポンティニー修道院も急速にその力を弱めていった。さらに16世紀になり、聖書信仰による救済に重点を置く神聖ローマ帝国(ドイツ)の大学教授ルターの主張から始まった「ドイツ農民戦争」を初め、「宗教改革」の戦争がヨーロッパ各地で勃発する。 フランスでは神学者カルヴァンの思想の影響を受けたプロテスタント教会(改革派/ユグノー教会)が、カトリック教会に激しく対抗した1562年〜1598年の「ユグノー戦争」が起こる。背景に王族の権力闘争が絡むこのフランスの宗教戦争が、キリスト教修道院と教団に与えた影響とその被害は計り知れなかった。 各地の修道院や教会堂への破壊行為と同じく、ポンティニー修道院の施設の多くが破壊されてしまい、同時にシトー修道会全体も統率力を失い、複数の地域活動グループが生まれるなど、教団の組織力は極端に低下して来る。さらに、18世紀の「フランス革命」の後、革命政府から「修道院解散令」が発令され、1791年、修道院は閉鎖され崩壊、今日見ることのできる教会堂と一部の修道院施設だけになってしまった。 「白い船」と呼ばれるポンティニー修道院 付属教会堂/ ブルゴーニュ地方 描画=Web管理者legend ej ● 「白い船」の美しい雄姿 修道院から南東へ200mほど離れた農耕地の脇には、木製のベンチの置かれたポプラ並木の農道があり、ここから望むポンティニーの大教会堂の堂々たる姿は絵のように美しい(上描画)。 ベンチに座り、中世のシトー修道会の修道士達の禁欲的な祈祷と厳しい生活を想像しながら、しばらくの時間を過ごした。ただ黙って眺める人々に「白い船」と呼ばれた付属教会堂の姿を静かに、そして確実に自分の脳裏に刻み込む ・・・ ポンティニー修道院は、聖ベルナールが本拠としたクレルヴォー修道院の建立した350か所に及ぶ数ではなかったが、フランス国内19か所の「娘修道院」の建立にその役目を果たしている(下記・参考・関連)。 なお、現在のポンティニー修道院の教会堂と施設は、教区に所属し管理が行われている。またポンティニー修道院はフランスの「歴史的建造物」に指定されている。 |
● 教会堂建築 フライング・バットレス構造 ロマネスク様式では内陣の天井は、内部ヴォールトで支えられていたが、次の初期ゴシック様式になると天井を保持するアーチ部分を建物外部に掛ける構造となり、この屋根を外で補強する保護骨組み、あるいは支えリブのような役目を果たす強化部分を「フライング・バットレス/飛梁とびばり)」と呼ぶ。この建築施工の発達により、より大型の内陣と屋根の造りが可能となった。 ロマネスク様式の次のゴシック様式の時代になると、例えばパリのノートル・ダム大聖堂などに見ることができるが、薄く高さのある壁や大型ステンドグラスの窓の設置などで弱くなった壁面の保護のために、このフライング・バットレス構造は教会堂や大聖堂建築の基本要素となって行く。また外壁を柱状壁で強化する部分は「バットレス/控え壁」と呼ぶ。 ● ポンティニー修道院の「娘修道院」 ポンティニー修道院は主に修道院周辺の北部ブルゴーニュ地方と北フランスなどを中心に、1113年の創建後70年ほどの間に19か所の「娘修道院」を建てている。 主な修道院では、ポンティニー修道院の直ぐ近く南西5kmの森の中のボーヴァイ修道院 Boauvais、北西へ10kmのヨンヌ河畔のクレーシ修道院 Crecy、南東12kmのシャブリ市内にも、パリの北東45kmの「エルメノンヴィルの森」の王立シャーリ修道院(Chaalis Royal Abbaye 創建1137年)、アミアン近郊のセルカン修道院(Cercamp 創建1141年)、リモージュの南方65kmのアキテーヌ地方のダロン修道院(Dalon 創建1162年)などである。 |
● ポンティニー修道院の遺産/修道士達の活躍と生活 しかし奇跡というか、ほとんど無傷な状態で残されたポンティニー修道院・大教会堂は、簡素性を主張するシトー修道会の思想を完璧に反映させ、装飾がほとんど無いに等しいシンプルな造りである。そして、この教会堂は見るほどに神秘的とも言える美しさを湛えるロマネスク様式と初期ゴシック様式が混在する、中世12世紀のオリジナルな姿を今に伝える貴重な歴史的建造物の一つと言える。 かつて12世紀の初め頃、シトー修道会の修道士達は自らの力と技能をもって、当時のロマネスクと初期ゴシック様式を最大限に取り入れ、この巨大と言える付属教会堂を建てたのである。修道士達のその努力と時間、そして精神に敬意と称賛を示さねば、このポンティニー修道院を訪れた意味はない。 現在でも修道院の敷地は広く、教会堂の内陣の南側は現在も使われている村の墓地であるが、施設の周りは美しい芝生や付属の広い耕作地も広がっている。 修道院の周囲は北ブルゴーニュ地方の典型的な風景である平坦な農耕地になっているが、12世紀の修道院創設の時代には、今日ブルゴーニュ地方一帯で見られるのと同様に、ナラの木などに代表される雑木の深い森であったはず。それを修道士達は自ら開墾して広大な敷地を確保したのであった。 修道院の北側にはセラン川がゆったりと流れている。聖ベルナールのクレルヴォー修道院やシトー修道会系譜の世界遺産フォントネー修道院(下描画)と同様に、おそらくはポンティニーの修道士達もセラン川の水を何らかの目的で、例えば水鳥の飼育や魚の養殖、野菜畑の灌漑、あるいは水量が豊かな季節には舟を使った荷物の運搬にも活用していたと想像できる。 フォントネー修道院・付属教会堂・西正面部(西入口)/ブルゴーニュ地方 描画=Web管理者legend ej 世界遺産/シトー修道会・フォントネー修道院 |
● 村のペンション・レストラン 北方10kmの交通の要衝、美しいゴシック教会堂の建つサン・フロランタンから朝早くポンティニーに到着した時には、今にも降り出しそうであった晩秋のブルゴーニュのどんよりとした曇り空が、昼近くになり、かすかに切れて、地平には晴れ間さえも覗いて来た。 この後、セラン川に架かる橋の北側に大型トラック用の広いパーキングを備え、トラックドライバーや地元農家の人達にお気に入りの「ペンション・レストラン Le Relais de Pontigny」でランチを取ろう。そして天候が崩れない内に20km南方の古い街オクセールに立ち寄り、古い小さな村々が続くヨンヌ渓谷を南下してブルゴーニュの丘陵にある世界遺産/ヴェズレーの聖マドレーヌ大聖堂へ向かおう。 フランス国鉄SNCFがストライキを続けているので、交通不便なヴェズレーまでのアクセス方法が気にかかる所だが、代行バスは運行されているという情報があるので何とかなるだろう 、そう急ぐ旅でもないし・・・ |
※現地では、シャブリ・ワインの街オーセール Auxerre を「オクセール」と発音する人が多い。 ● オクセールの街/大聖堂と修道院 晩秋のある日、中世ロマネスクの遺産であるシトー修道会ポンティニー修道院からヴェズレー聖マドレーヌ大聖堂へ向かう途中、オクセール/オーセールに立ち寄った。 中部ブルゴーニュ地方から北へ向かって流れ下りるヨンヌ川は、パリの南東60km付近でセーヌ川と合流する。北部ブルゴーニュ地方の交通の要衝でもあるオクセールは、古くからヨンヌ川の中流域に開け、その地政学的な優位性から文化面でも宗教的にも、あるいは産業面ではシャブリ・ワインの集散地としても重要な役目を果たして来た。 フランスの河川の多くがそうであるように、ゆったりと流れるヨンヌ川にかかる1857年建造のポール・ベール橋からのオクセール旧市街の眺めは、周囲に遮る物のない見事な光景を提供してくれる。厚雲が切れ、晩秋の弱い陽光が歴史を秘めたオクセール旧市街を照らし、川面に映る中世の街の美しい風景が微風で揺れている。 高い塔と朱色の屋根の聖エティエンヌ大聖堂と9世紀創建の聖ジェルマン修道院がお互いに競うかの如く、寒い冬がやって来る11月というのに真夏のような青空にひと際高くそびえ立つ。 オクセールの街は11世紀の初めに起こった2回の大火に見舞われた。繁栄していた市街を焼き尽くした大火災から免れた聖エティエンヌ大聖堂の最も古い個所は、11世紀初頭の起源とされるロマネスク様式の地下納骨堂クリプトである。 その後13世紀になり、大聖堂の地下納骨堂の上にロマネスク様式の身廊や小さな礼拝室を設けた放射状遊歩廊タイプの後陣などが造られ、さらにゴシック様式による幾多の大規模な外観部分の増改築が継続的に行なわれ、最終的には西塔の螺旋階段が16世紀ルネッサンス様式で増築され、現在見ることのできる姿となった。 聖エティエンヌ大聖堂の地下納骨堂クリプトは、ロマネスク様式の半円アーチ型の天井で支えられ、その天井に残されたフレスコ画の中で最も有名な作品は「馬に乗るキリスト」である。その他古風な趣が漂う小奇麗な旧市街には、15世紀の時計塔など中世からの歴史的な遺産がたくさん残されている。 |