legend ej の心に刻む遥かなる「時」と「情景」

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キプロス島・コウリオン(クリオン)遺跡 Kourion

新石器文化・ソティーラ遺跡 Sotira/世界遺産・ローマ文明のパフォス遺跡 Paphos

南北分断・軍事緩衝地帯/国連軍/グリーンライン Green-line


コウリオン(クリオン)遺跡

コウリオン(クリオン)の発達
イギリス考古学チームを中心に発掘ミッションが行われ、今日のエピスコピ村周辺に「コウリオン/クリオン Kourion」と呼ばれる非常に広範囲な遺跡が確認されている。コウリオン(クリオン)遺跡の最も古い痕跡は、クレタ島のミノア文明のクノッソスに新たな宮殿が造営される「新宮殿時代」と同じ紀元前16世紀まで遡る。

宮殿時代 区分
●旧宮殿時代: 中期ミノア文明T期〜中期ミノア文明U期    紀元前1900年〜前1625年頃
●新宮殿時代: 中期ミノア文明V期〜後期ミノア文明VA1期  紀元前1625年〜前1375年頃
           現存クノッソス宮殿遺跡


          キプロス島・新石器文化〜青銅器文明遺跡/(C)legend ej
          キプロス島・新石器文化〜青銅器文明遺跡/作図=Web管理者legend ej

Ref.
キプロス島の銅インゴット
紀元前11世紀頃には、キプロス島は東地中海の交易の中継地として繁栄を始めた。青銅器時代、キプロス島は地中海で最大級の銅の産地であったことを考えると、キプロス島南海岸という地理的な優位性もさることながらまちがいなくこの銅の輸出供給で益を獲ていたと確信する。
キプロス島内陸部で精錬された銅は、日本の「座布団」ほどのサイズの平型インゴットとして、中東パレスチナやエジプト、さらにミノア文明のクレタ島やギリシア本土ミケーネ文明のセンターなどへも輸出されていたことが分かっている。これらの銅インゴットは、当時、「ケフテウKefteu インゴット」と呼ばれていた。

この頃からキプロス島に複数の小規模な王国が存在した、とされる。都市国家的な存在となったコウリオン(クリオン)は、紀元前7世紀頃からさらに発展を繰り返したが、その後エジプト、さらには大きく勢力を伸ばしてきたペルシアの支配を受けることになる。その結果、破壊と放棄が繰り返され、最終的には居住地が今日のエピスコピ村の周辺へ移された。

また、紀元前1490年〜前1436年の高官を埋葬したエジプト・テーベ墳墓の内部壁画から、クレタ島クノッソス宮殿からの使節団が、ミノア製の石製容器や陶器類、宝飾類を持参、そしてクレタ島からエジプトへ向かう途中に立ち寄り、献上用に確保したと推測できるキプロス産の「座布団」の形容の銅インゴットなどを携えて、エジプトを外交訪問したことが分かっている。

ローマ文化の発展/大型建造物/キリスト教の普及

ローマ時代の大型建造物/円形劇場
キプロス南部の海岸沿いのコウリオン(クリオン)遺跡は、東西に長い非常に広大な規模で展開されている。ローマ時代に属する多くのサイトでも標準的な大型施設となっている円形劇場を初め、ローマ・スタジアム、アポロンの神殿、神域などが良好な状態で確認され、現在でも発掘作業が継続されている。

遺跡の最も東端にあるのが比較的保存状態が良い円形劇場で、劇場からほぼ直線的に北西方向へ2,5km程、標高100mの尾根状の台地が伸びている。無数と言っても良い大型遺跡は、この間に点在したり、集合的に隣接したりして連なっている。
また台地に建つ円形劇場の南西から西方は、地中海の美しいビーチが広がっている。この浜辺の近くにも幾つかの小規模な古代ローマ遺跡が点在してる。

          コウリオン遺跡/(C)legend ej
          コウリオン(クリオン)遺跡・円形劇場/キプロス島 南海岸地方/1997年

コウリオン(クリオン)の円形劇場(上写真)は、紀元前2世紀に建造されたが、紀元1世紀の77年の大地震で相当なる被害を蒙っている。現在見ることのできる劇場は、その後の1世紀の終わりに再建されたとされる。
小高い岩の丘の斜面を削り、直径17m、半円形のオーケストラ・スペースを中心に、同じく直径62mの半円形の観客席が設けられ最大3,500人が着席できる。観客席が目の前の地中海に向かって開いているので、演じる者も、観る人々も、さぞかし気分が良かったと想像できる。特に夏の宵の公演では、乾いた清清しい地中海の微風を受けながらの最高のイベントとなったはずだ。

同じ野外劇場であっても、トルコ西海岸地方エフェソス遺跡に残る24,000席を誇る地中海ローマ時代の最大級の円形劇場、1万収容のベルガマ遺跡の円形劇場などに比べることはできないが(下写真)、コウリオン(クリオン)の円形劇場はキプロス島においては、大型の民衆娯楽施設の一つであった。

          エフェソス遺跡/(C)legend ej
             エフェソス都市遺跡・24,000席の円形劇場/エーゲ海沿岸地方
              エーゲ海域・最大級のエフェソス都市遺跡

          ベルガマ遺跡・円形劇場/(C)legend ej
            トルコ・ベルガマ遺跡・円形劇場/観客1万人収容/エーゲ海岸地方
            トルコ西海岸地方ベルガマ・ペルガモン遺跡

コウリオン(クリオン)遺跡周辺には新石器時代からローマ時代にかけての多くの遺跡が残され、訪ねた1997年には、主に歴史的にもキプロス島に関係が深いイギリスの考古学チームなどを中心に発掘ミッションが進行していた。
円形劇場などが集合的に残っているローマ時代の遺跡群のほかに、現在の高速道路・「エピスコピ・ランプ」から南東700m付近の新興住宅区には、訪ねた1997年の時点では、凝灰岩の岩盤に掘られた無数の横穴墓と住宅遺構などが発掘されていた。今日では遺跡の直ぐ近くに大型ホテル・Episkopiana Hotel が建っている。

なお、コウリオン(クリオン)地区からの出土品の多くは、円形劇場から直線で北東へ1.5kmのエピスコピ村の考古学博物館で展示公開されている。


カトリック教・聖ラザロ信仰
4世紀になるとローマだけでなく地中海沿岸に広まったキリスト教が伝わり、エピスコピ地区にキプロス島の最初の教会堂が建立された。
また、キプロス島のキリスト教に関わる伝承では、イエスとの関係が深かった「マグダラのマリア」の弟で、イエスの友人であった聖ラザロが、エルサレムから追放された後、キプロス南海岸のラルナカで生涯を送り、当地に葬られたとも信じられている。9世紀に入り、ラルナカの聖ラザロが埋葬されたとされる地下式墳墓の場所に、美しい鐘楼を付属し、聖画イコンで有名な聖ラザロ教会堂が建てられた。

なお、フランスの歴史では、埋葬されていたマルセイユから運ばれた聖ラザロの聖遺物が、ブルゴーニュ地方オータン聖ラザール大聖堂の地下納骨室クリプトに葬られたとされている。

フランス・ブルゴーニュ地方のロマネスク様式のオータン聖ラザール大聖堂

新石器文化/ソティーラ居住地遺跡

ソティーラ村/「テーベス」の丘
コウリオン(クリオン)遺跡から北西の山間部へ約10km進むと民家20軒、人口100人にも満たない小さなソティーラ Sotira の集落に至る。ソティーラの歴史は古く、現在の村の名称・「ソティーラ Sotira」は、ギリシア語の「救世主イエス Savior」から由来されているとされ、語源の意味からして東ローマ帝国(ビザンティン)の時代、おそらくは5世紀か6世紀頃、それほど遅くならない時代にわずかな人達が居住を始めたようだ。

住民の精神文化を支える村の古い教会は「Chrysosotira/黄金のSOTIRA=栄光のイエス」を祀ってある。記録では1880年代で60人ほどの村の人口は、過疎化の影響もあってか、現代でも100人に達していない。ソティーラの村ではキプロス島のほとんどの村と同様に、わずかに波打つ低い丘陵を利用してオリーブやピスタッチオナッツの栽培などが行われている。
村を流れる地元で言う「アドヴィセールの湧き水 Adviser」は、丘陵地を南方へ下り、コウリオン/クリオン遺跡の西方のリビア海へ注いでいる。

標高280m前後のソティーラ集落の西側には集落から標高差30mほど、地元で「テーペス Teppes」と呼ばれる、尾根が張り出したような形容の急斜面をもつ標高310mの丘(下写真)がある。
岩盤の露出したテーペスの丘では、紀元前3500年〜前3200年頃(新石器時代U期)に遡る集合的な住居地遺構が発見された。テーペス遺跡では、キロキティア遺跡を発掘した「キプロス考古学の父」であるポフィリオス・ディカイオス教授 Dr Pophyrios Dikaios とUSAペンシルバニア大学が中心となり、1947年以降、1956年まで断続的な発掘ミッションが続けられた。

ソティーラ遺跡/(C)legend ej テーペスの丘の頂上は広いスペースではないがほぼ
 平坦、居住地の遺構規模は40m x 30mほど、家
 屋のサイズは最大でも6m幅、円形や楕円形(オ
 ーバル)、円形に近い方形などが互いに接続したり
 1m〜2mの距離で離れていたり、丘の頂でお互い
 に寄り添うように密集的に建てられていた、と判断で
 きる。
 各家屋の位置と間口などはランダムで、現在見るこ
 とのできる最上層レイヤーの家屋遺構の下には、さ
 らに古い時代の家屋が存在したことも判明している。


ソティーラ遺跡テーペスの岩の丘/キプロス島中部地方
麓はピット墳墓が点在している/1997年


ソティーラ遺跡の出土品
キプロス島を代表する大規模な新石器時代の遺構が残るキロキティアの居住地に比べると、遥かに小さな考古学サイトだが、このソティーラ・テーペス遺跡からは、太目の直線と曲線が大胆に描かれた陶器類や石像などが出土している。

主な出土品例: いずれもニコシア・キプロス考古学博物館で展示公開
     ・水入れ容器: 登録番号284/高さ390mm
                イチジク型のズングリ器形、細い口部/白地に「8の字」状の赤線連鎖模様
     ・水入れ容器: 登録番号305/高さ165mm/口部・頚部なし/新石器文化・後期
               ほぼ円形の器形状/白地に赤色の幅のある縦線模様と「∬」状模様
     ・石製像:   登録番号106/高さ165mm/大理石製・「ヴァイオリン型」の女性像
               簡易的な頭部/腰と性器付近から脚部にかけて「Yの字」状の長く深い溝あり
     ・石製像:   石灰岩製・「座り姿勢」の女性像頭部〜脚部まで簡略的に彫刻/姿勢を正した
               女性が物に座っている状態を表している/紀元前4500〜前3750年


ソティーラ居住地の環境
テーペスの岩の丘からは全方向360度の素晴らしい展望が効く。塁壁は確認されていないが、水の確保は幾分容易でなかったかも知れないが、居住が丘の頂上であったということから、外からの敵の来襲を防ぐには好条件が備わっていたはずである。サイトの丘から東方へ約80m下った平地には、1m〜1.5m幅の10基以上の単純形式のピット墓も発掘されている。

また、丘の中腹部には比較的耕地に適する土壌部分があることから、新石器時代のソティーラの人々は、キロキティアやカラヴァソス・テンタ渓谷の居住地と同様に、農業を基本にして動物の捕獲、あるいはシンプルな陶器の製作などで生活していたと推測できる。

世界遺産/新石器文化のキロキティア居住地遺跡やカラヴァソス・テンタ遺跡


青銅器文化/カミノウディーア(カミノイティキア)居住地遺跡
新石器時代のテーペス遺跡の丘の麓、北東へ約200mでは紀元前2200年頃以降、青銅器文化の初期〜中期に属するソティーラ・カミノウディーア居住地遺跡(Kaminoudhia/Kaminoythkia 地元=カミノイティキア)が発見されている。
発掘ミッションは、1981年〜1986年、ロンドン大学・考古学研究室のスチュアート・スィニー教授 Ph D Stuart Swiny(1998年〜NY Albany 大学教授)が中心となり、キプロス・アメリカン考古学センターのバックアップで実施された。

カミノウディーア(カミノイティキア)遺跡からは厚さ1m〜2mの壁も含む方形の大型の家屋、階段状入口がある部屋や連続部屋、通路なども見つかり、家屋に囲まれた中庭の存在も確認されている。多くの家屋では床面が粘土で表層され、ベッドを兼ねたベンチが部屋壁に備えられていた。
家屋の構造面では、円形から方形に代わったが、新石器時代のテーペスの人々の建築技法と伝統を、青銅器時代のカミノウディーア(カミノイティキア)の人々が継承していると考えて良いだろう。

新石器時代にはテーペス丘の上での生活が行われたが、その後、青銅器文明になると、おそらく水の確保の容易性などからか、麓の平地へ降りて居住を確定したのかもしれない。カミノウディーア(カミノイティキア)遺跡からの出土品は豪華ではないが、金製のイアリングを初め、銅製の針、水入れなどの容器類、穀物を粉砕するための石材とその受け皿ブロック、そして幾らかの「ゲーム(遊び)」に使ったと推測できる石灰岩製の平板と対応する小石なども見つかっている。

ローマ文化・パフォス遺跡

                           UWH
ローマ時代のモザイクの館
地中海に面する丘にあるパフォス遺跡 Paphos は、コウリオン都市遺跡と同様に、広大な面積に展開され、古代ローマ円形劇場・闘技場・初期ビザンティン城塞・ラテン教会などが残されている。「モザイクの館」の床面には、破壊を免れた色鮮やかなローマ時代の見事なモザイク画が数多く残されている。

           世界遺産・パフォス遺跡モザイク画/(C)legend ej
              パフォス遺跡・「モザイク画」/キプロス島 南海岸地方/1997年

Ref. 南北分断緩衝地帯「グリーンライン」/国連軍の監視

1997年・夏/南北緩衝地帯
民族的には「ヨーロッパ」とされているが、地理的には中東シリアまでたった120kmの近距離である東地中海キプロスは、現在、南北を分断する緩衝地帯・「グリーンライン」が設定されている。
キプロスは1974年のクーデターにより、南北に分割され、南側にギリシア系、北側にはトルコ系の人々が別々の政治体制で生活するという状況である。面積的にはギリシア系が全体の2/3、そしてトルコ系が1/3を占有している。

グリーンラインの周辺では、かつて時折双方の銃撃戦があったと言うが、現在では安定している。たまたま乗車した中年タクシー・ドライバーは、内緒で農道を抜けて北側のトルコ側へ「1日観光で行くよ・・・」と誘うほど、住民レベルでは外から見るより南北分断の緊迫感は高くない、と感じた。

市街地から離れると、国連軍の国境監視所のない農道などを使って、南側のギリシア系占有地より物価の安い北側のトルコ系の街へ買物に行く人が結構いると言う。通常(1997年)、南側のギリシア系の住民のみならず、たとえツーリストであっても、グリーンラインを越えて北側のトルコ系占有地へ直接行くことはできない決まりになっていた。

このような場合、正式には先ずキプロス島から遠く離れた首都アテネやドデカネス諸島ロードス島などギリシア本国の領土へ一旦移動して、さらにトルコ本土のイズミールなどへ渡り、トルコの航空機や定期ルートの船舶でキプロスの北側のトルコ系占有地へ入国するという、非常に手間と時間のかかる手段を取らねばならない。

中年ドライバーはこのやっかいな正式ルートではなく、農道を走行してたった1kmの間隔でしかないグリーンラインを越境して、トルコ系の占有地へ「簡単に行ける」するという誘いをかけて来たのである。確かに、キプロス島からギリシア本土とトルコ本国を経由する最低でも2日以上を費やすルートより、たった10分で通過できる「グリーンライン越え」の方が、遥かに即効的である。ただ、これは明らかに入国管理に触れる「危険なアクション」である。


民間人の「不法越境」/国連軍の監視
実はキプロス島の東部地区では、南側のギリシア系占有地に幾らかのトルコ系の人々が生活している。1997年、ラルナカから北東15km、東部の村ピーラ Pyla を訪ねた時、ある家族から「家でコーヒーを・・・」と誘われ、家庭を訪ねて初めてこの穏やかな家族がトルコ系であることを知った。
このような状況からしても、早朝とか夕暮れ時とか、かなりの住民が「グリーンライン」を越境して、買物や親戚への訪問などを行っているのは想像に難くない。

民間レベルの個別の越境や民族問題とは別に、首都ニコシアのギリシア側のグリーンラインの軍事監視所では、北の敵対するトルコ側を眺められる「見学用ステージ」もある。訪ねた1997年には、結構、市民やツーリストが入れ替わりステージに立ち、100mほどの緩衝地帯を隔てた北側を眺めていた。監視の若い軍兵士達もなかなかのイケメン笑顔という感じで、厳しい表情はなく、最前線の緊迫感を覚えることはなかった。

※2003年以降、この監視所は自由越境のパスポート・コントロールとなり、住民・ツーリストは徒歩にて北キプロス側へ限定越境できるようになった(下述=越境情報 参照)。


南北暫定境界線/緩衝地帯/国連軍の標識
東部キプロス地方でも特定の区域では、グリーンラインに国連軍の標識(下写真)が立ち、緊迫感は低いが、緩衝地帯への立ち入りを警戒している。私の経験論となるが、東部地区の小村ピーラ Pyla から南東1.2kmに非常に精巧に造られた古代ギリシア時代の地下墳墓があり、1997年の夏、この墳墓を訪ねようと村人から聞き出したそのピンポイント位置へ歩いて向かった。

目当ての墳墓はなだらかな斜面の農耕地の地下深くにあり、しかも緩衝地帯のグリーンライン、左写真の標識から150mほどの近距離である。場所が場所だけに、さらに悪いことに「地下に降りる」という状況では、どう見ても映画に良くあるトンネルを使った「密出国」のシーンが現実化しそうな警戒区域、神経質かも知れないが「もしや・・・」という不安がちらりとよぎった。

キプロス・国連軍グリーンライン標識/(C)legend ej 結局、予想通り、30分以上滞在した地下墳墓から地上へ出てきた時、
 丘から24時間監視を続けている国連軍所属のイギリス軍の迷彩色ジープ
 が接近して来た。
 パスポート提示と考古学遺跡のチェックのためとする個人的な事情を説明
 して、「日の丸・日本」の身分証明を行った。
 結果的に拘留こそなかったが、自動小銃を携えた礼儀正しきイギリス軍の
 担当兵士2名から、グリーンラインの説明と立入禁止の警告を受ける羽目
 になった。
 軍事境界線から距離150mの場所の地下へ消えて30分以上も出てこな
 いことから、高性能の望遠鏡を覗いていたはずの軍の監視所からすれば、
 警戒兵士の役目としてジープで「不審者の確認」にやって来て当然と言え
 ば当然の任務なのだが・・・

 南北境界線・「グリーンライン」の国連軍の標識
 標識の向う側が南北キプロス緩衝地帯
 東部キプロス地方ギリシア系占有地/1997年


イエメン・ジャンビア・ナイフ/(C)legend ej この国連軍の尋問を受けた時、かつて1970年代の初め、若かっ
 た私はアルジェリアのサハラ砂漠を独りで歩いて旅している時、自
 動小銃を構えたアルジェリア軍の警戒MPジープに拘束され、「スパ
 イ容疑」で砂漠の軍事基地へ連行され、半日、厳しい尋問を受
 けた苦い経験が鮮明に蘇ってきた。

 何れの場所でも、こちらは戦争とは無関係の「誠実」な平常行動
 をしているにも関らず、軍兵士からすれば、ツーリストとて常に「戦
 い」や「疑い」の対象者でしかないようである。
 まあ、平然とワイロを求めたイエメンの若い検問将校より、キプロス
 駐屯の国連軍所属イギリス兵士の方が、お国柄、遥かに紳士的
 な対応であったことは事実だが・・・


 1998年/山岳と砂漠のアラビア半島イエメンへの旅(左写真)

 アラビア半島イエメンであったジャンビアナイフを差す精悍な青年
 この青年を含めイエメンの人々は中東で最も「誠実で誇り高い民
 族」である
 イエメン首都サナア旧市街/1998年

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