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● 豊かなブルゴーニュの風景 新緑の5月、全面緑色の穏やかに波打つフランス・ブルゴーニュの丘陵地帯、小川オズラン Ozerain の清流が流れている。「フランスの最も美しい村」に認定された小さな村フラヴィニー・シュル・オズラン Flavigny sur Ozerain は、穏やかなオズラン渓谷に張り出した尾根状の形容の標高400mの丘の上に遠慮がちに佇んでいる。 フラヴィニーの村は城塞都市スミュール・アン・オーソワ(後述)〜東方へ18km、世界遺産・フォントネー修道院〜南東へ18km、ブルゴーニュ地方の中心都市ディジョンからは北西へ直線で約45kmの位置である。 現在、フランスには人口2,000人以下の「村」と言われる自治体が約32,000か所あるとされ、そのう ち「フランスの最も美しい村」に認定されているのはわずか172村だけ(2023年現在)である。 「フランスの最も美しい村」: http://www.les-plus-beaux-villages-de-france.org/ フラヴィニー・シュル・オズランは小さな村だが、どっしりとした二つの堅固な門と城壁に囲まれ、村の周囲は特徴的な白い牛がゆったりと過ごす緑の牧草地と広大な森林、そして時期が麗らかな春ならば、 真っ黄色のジュータンと化した菜の花畑が緩やかに広がっている。5月、爽やかな微風に菜の花が揺れ、土の匂い、春の陽光があまりに眩しい。 参考だが、フランスのテレビ局F2の調査、バカンスなどで滞在したいとする「フランス人の最も好きな村」では、美村フラヴィニー・シュル・オズランは2013年8位にランクされている。同年1位はアルザス・ワイン街道の美村エグイスハイムである。 「フランスの最も美しい村」 フラヴィニー・シュル・オズランの遠望/ブルゴーニュ地方 ● フラヴィニー・シュル・オズランの歴史/修道院と城砦都市 フラヴィニーの歴史は非常に古く、5世紀のローマ時代、後に皇帝となるカサエルのローマ軍がガリア(フランス)との戦いで勝利、カサエルが功績のあった兵士Fleniniecum に領地を与え、それが簡略化され地名の「フラヴィニー」となったとされる。その後、民族大移動の流れが始まり、ゲルマン・スカンジナビア系のブルゴンド族(ブルゴーニュ族)がこの一帯に侵入して定住を行い、城砦を築いたことでフラヴィニーという地名が知られるようになる。 しかし、間もなくして、ブルゴーニュ地方はフランク王国に併合され、5世紀から6世紀への転換期にフラヴィニーに最初の修道院が建てられた。その後、この最初の修道院は崩壊するが、8世紀に入りブルゴーニュ伯家の息子ウィドラルド Widerard により、「聖ベネディクトウスの戒律」を基本とするクリュニー修道会系ベネディクト修道院として再建される。 800年、フランク王国の領土拡大に大きく寄与したカールT世が西ローマ帝国の遺産を引き継ぐ皇帝に即位すると、文化の研究とルネッサンス(復興)に力が注がれ、ローマ・ケルト・ゲルマン・ビザンティン美術の融合とも言える「カロリング朝様式」、または「カロリング・ルネッサンス様式」と呼ばれる宮廷を中心とした質の高い美術様式が確立される。 この時代の最も顕著な遺産は、各地の修道院工房で行われた優美な彩飾写本の製作や金細工や象牙細工などの工芸分野であったが、フラヴィニーの修道院でも多くの写本が作られた。 まだ9世紀の初めであり、パリ近郊シャンティ城所蔵の「世界で最も美しい本」と称される15世紀制作の≪ベリー公のいとも豪華なる時祷書 Les Tres Riches Heures du Duc de Berry≫の圧倒される美しさには遠く及ばないにせよ、フラヴィニー修道院では、この時代においては相当美しい彩飾写本が作られたはずである。 また、9世紀の初めの813年、スペイン西北部でイエスの弟子であった聖ヤコブ St Jacob (スペイン=サンチィアゴ Santiago)の墓が発見されたことで、キリスト教徒の間には、この墓を詣でる「聖サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」が流行してくる。フランスからの出発地の一つであったヴェズレー修道院へ向かう巡礼者達の多くが、フラヴィニー修道院にも立ち寄り、修道院は巡礼者のための宿泊設備や病院まで備え始めたとされる(下写真)。 さらに9世紀後半の878年には、ヴェズレー聖マドレーヌ大聖堂とまったく同じく、ヴァチカン教皇聖ヨハネ[世により修道院付属の聖ピエール教会堂が厳かに献堂された。その後、ラヴィニー修道院もオータン大聖堂などと同様にロマネスク様式の彫刻で装飾された。13世紀にはフラヴィニー修道院はヴェズレー聖マドレーヌ大聖堂やクリュニー大修道院、モレーム大修道院などのロマネスク彫刻を担当した工芸師達の宿舎になったとされる。 そして、14世紀になると、王位継承問題がこじれ、活況のフランドル地方の領有権の奪い合いから、フランスとイングランドとの「百年戦争」が起り、フラヴィニー城砦はイングランド軍により6週間も包囲され、結局大きく破壊されてしまう。その後、この歴史の教訓が活かされさらに堅固な城壁を構築、村は完璧な城塞都市の姿になって行く。 ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂・西正面ファサード/澄み切った夜空に満月が輝く /ブルゴーニュ地方 世界遺産・「フランスの最も美しい村」のヴェズレー聖マリー・マドレーヌ大聖堂 ------------------------------------------------------------------------ ● 修道院の閉鎖/アニス・ボンボンは「愛の証」 18世紀後半、「フランス革命」が起り、かつて60名を数えた修道士は革命の後にはたった5名となり、修道院の施設は次々に崩壊され、1791年の「修道院解散令」に従って修道院は閉鎖された。その敷地は民間へ売却され、部分的にアニス・ボンボン製造の作業所として活用されてきた。 19世紀には修道士からアニス・ボンボンの製造技術を引き継いだ民間作業所は合計で8軒在ったとされたが、その後に吸収合併が繰り返され、最終的には旧修道院の敷地の中で1軒の作業所にまとめられ、アニス・ボンボンの製造が続けられた。そうしてフラヴィニー・アニス・ボンボンが今日まで残されたのである。 フラヴィニーは現在では人口350人とされ、村の産業は牛の牧畜と農業、レストランやカフェやペンションなどの観光業が中心、そして中世の時代から王族・貴族の女性達にも愛されてきた村唯一の製造業とも言える「アニス・ボンボン」が作られている。 真っ白で硬く、真ん丸できれい、ほのかな香りのアニス・ボンボンは、元々歴史ある修道院で作られた。現在でも旧修道院の敷地で稼動する小規模な民間工場で生産と販売(村のお土産店でも販売)が行われ、フランス国内だけでなく日本を含む世界中に輸出されている。 完成まで全工程2週間の手作業と言う、時間をかけて丁寧に作られるアニス・ボンボンの真っ白な砂糖の層は極めて硬く、薄味の甘さが特徴、一粒そっと頬張る時、アニス特有の芳香が口の中に静かにそっと広がってくる。一昔前にはこの清潔な色合いのボンボンは、男性が恋する女性へ贈る「愛の証」として用いられたと言う。 2,000年の歴史あるフラヴィニーであるが、現在ではこんな田舎、と言ったら失礼だが、アクセスの非常に難しいブルゴーニュの丘陵地で作られた甘い砂糖菓子をフランス中の男性達が買い求め、バラの花束と一緒に愛する相手へ贈る風景を、ふと想像してみた。何ともフランスらしい「恋の物語」であろうか・・・ なお現在、旧聖ピエール修道院の中で操業するボンボン加工所の製造過程(平日・午前中のみ見学可能/時間制限あり)、同じ建物の聖ピエール修道院の地下クリプトは無料見学(午前・午後)できる。 かつて重要な役目を果たしたフラヴィニー修道院の名残りは、南方から村へ続く城門を入った左側(西側)にはアニス・ボンボン作業所を含む、旧聖ピエールSt-Pierre 修道院、右側(東側)には聖ヨセフ修道院の建物が残る。 かつて村は堅固な城門と城壁に囲まれていた理由から。二つの円筒形の見張り塔に挟まれた要塞城門に匹敵するヴァール門(Val=谷間)が村の西側(谷間側)に、さらに城塞都市スミュール・アン・オーソワなど南方から村へ入る道路にブール門(Bourg=町の城門)が残されている。 双方の門は中世ヨーロッパの城砦都市に設けられた簡単に破れない頑丈な城門を連想させる。多くのツーリストは南方から村へ入る時に通過する垂直な岩壁のようなブール門に注目して写真を撮っている。しかし歴史的な観点ではフランスの「歴史的建造物」に認定され、村の北西側を固めるヴァール門がより重要な施設と言える(下描画)。 フランスの「歴史的建造物」 フラヴィニー・シュル・オズランのヴァール門(谷間の門)/ブルゴーニュ地方 描画=Web管理者legend ej なお、フラヴィニー・シュル・オズランでは、小さい村ながらも密な歴史を秘めていることから、村の中心に建つ聖ジェネスト教会 Eglise St-Genest を初め、教会堂から西方へ伸びる狭い路地 Rue de L'Eglise で15世紀の「聖母子像」が残る三階建て邸宅、聖ピエール修道院、谷間側のヴァール門(上描画)など、合計8か所の施設がフランスの「歴史的建造物」に指定されている。 ----------------------------------------------------------------------- ● 「フランスの最も美しい村」 小さなフラヴィニーの村は、プロヴァンス地方の丘上の村ゴルドやミディ・ピレネー地方の崖上村サン・シル・ラポピー、あるいはアルザス・ワイン街道のエグイスハイムなどと並んで、「フランスの最も美しい村」の認定を受けている(下描画・下写真)。通りのみならず、狭い路地やさりげなく花を植えた家々の裏庭に至るまで、現代的な過剰な装飾や意図的な造作はまったくなく、「フランスの最も美しい村」に相応しい中世の雰囲気が漂う。 特にかつての金属加工や皮なめし、粉挽き、ガラス加工などの手工業者や職人達の住んだ住宅、小塔を備えたルネッサンス様式の旧侯爵邸を含む貴族階級の気品ある邸宅などが、そのまま現在でも使用され、まるで数世紀前の時代に戻ったような安らぎと心に沁みる風情が残る。 |
「フランスの最も美しい村」 サン・シル・ラポピー村 聖シル教会堂と「下の街」 の眺望/ミディピレネー地方 木板・アクリル描画450mmx300mm=Web管理者legend ej 「フランスの最も美しい村」サン・シル・ラポピー 「フランスの最も美しい村」・アルザス・ワイン街道・エグイスハイム村 アルザス・ワイン街道・コルマール〜エグイスハイム村 ------------------------------------------------------------------------ ● 村の風景と穏やかな人々 一面真っ黄色な菜の花が春の微風に揺れる日、村の通り、と言っても昔からの狭い通りだが、歩いていた私に60代の誠実そうな村の婦人から声がかかった。誘われるがままにお宅の中の通路を抜け、裏庭に案内された。遠慮勝ちにフランス語しか話さない笑顔の婦人が指し示す手の先には、蛇行するオズラン川の流れを挟み、対岸に広がるなだらかな斜面の草原と農耕地が織り成す見晴らしの絶景であった。 誰とも知らない東洋からの旅人を自宅へ引き入れても、この婦人が自慢したかったのは、自身の手入れされた清潔そうな栗色の髪と同様に緑一色に染まった春のブルゴーニュの美しく輝く雄大な草原風景であったのだ(下写真)。 私が感動を表しお礼を述べると、婦人は自慢そうに小さく微笑した。そして10枚ほどの写真を撮影している間に、当の婦人は何時の間にかすーと姿を消していた。 鉄道も路線バスのアクセスもない非常に不便なブルゴーニュの片田舎の丘陵地方にあって、何故かこのフラヴィニーの村と人々の生活には、映画・≪ショコラ≫のように、人の心を和ませる魔法のようなものが漂っている。その癒しにも似た魅力は、村の小高い丘から眺めた緑豊かな草原と丘陵のもつ、目に優しい雄大な風景がかもし出したものなのかもしれない。 パリやニースなど、フランスの大都市や高級リゾートでは絶対に経験できない本物の「静かな旅の時間」、こんな小さな村で偶然に巡り合うことができた。日常から解放された心の豊かさを覚えたこの美しい小さな村で過ごした数時間の経験は、私にとり、遠い未来までも脳裏に確実に残るであろう。 それは風情を残すフラヴィニー村の佇まいと周辺の緑一色の雄大な風景を含め、ずーと大切にしていたい私の「人生の時間」でもあるから・・・ 早春の頃 民家の裏から望む 明るい陽光に緑一色に染まったフラヴィニー村の丘陵草原/ブルゴーニュ地方 |
● 映画の舞台の村 2000年作品、アメリカ・ミラマックス社配給の映画≪ショコラ Chocolat≫は、「フランスの最も美しい村」フラヴィニー・シュル・オズランでロケ撮影されたものである。 日本ではあまり知られていないが、特に1970年代〜80年代に生まれたヨーロッパのオシャレな女性達、多くはすでに母親と成人したその娘たちにとっては、映画の主人公ヴィアンス(ジュリエット・ビノシェ 1964年生)と娘アヌーク(ヴィクトワール・ティヴィソル 1991年生)は同世代にあたる。 結果、現代の母と娘たちは首都パリや地中海ニースを素通りしても、小さな村フラヴィニーはまさに憧憬を求めセンスを磨く「心の聖地」にも等しく、ブルゴーニュ地方を旅する時に「絶対に訪れたい場所」、言わば「映画の聖地」となっている。 ---- 第二次大戦の後、ある日、寒い北風に乗って、30代の美人の母ヴィアンス(ジュリエット・ビノシュ)と感受性の高いその娘アヌーク(ヴィクトワール・ティヴィソル)という不思議な母娘が「ある村」へやって来る。南米の「秘薬」とされたトウガラシ入りのチョコレートを初め、濃厚でとろける甘さのチョコレート菓子を店頭に並べたスウィート・ショップを開店する。 古い因習に縛られた「ある村」の村長である敬虔なカトリック教徒の伯爵や村人達は、チョコレートを売るこの不思議な女性のショップを遠巻きして近付く人は誰も居ない。しかし、家族から理解されない老女が、母親の考えに沿えない聡明な少年が、夫の暴力に打ちひしがれた妻が・・・心悩む村人達が何事に対しても寛容と天性の明快さ、思いやりと人の心理を読み取る才能に長けた不思議な女性ヴィアンスに惹かれて、次々とドアーを押し、「駆け込み寺」のチョコレート・ショップへやって来る・・・ 結局、最後には伝統と仕来りにどっぷりと染まっていた全ての村人達が、魔法にかかったように、不思議な女性ヴィアンスの作る甘いチョコレートに魅せられてしまう ・・・ 映画は、背景に潜むカトリック教の古い仕来り、放浪する民ロマ(旧ジプシー)を含めた余所者に対する根深く隠し難い偏見を柔らかく批判しながら、チョコレートの甘味に象徴される他人を理解し尊重する人の心の大切さを暗示させ啓蒙している 映画の中の「ある村」が、ここ「フランスの最も美しい村」のフラヴィニー・シュル・オズランであり、風情ある現実のフラヴィニーの村は、この映画にピッタリの雰囲気と条件、そして相応しい長い歴史を秘めている。 なお、映画の舞台・「チョコレート菓子の店」は、村の中心に建つ聖ジェネスト教会 Eglise St-Genest 前の狭い広場の直ぐ脇、南北に走る狭い路地 Rue de Four の建物である。おそらくは現実は「倉庫」であった感じの古風な建物、長方形のドアーとアーチ型の古いガラス窓が特徴で、撮影では徹底的に整備して見事な照明の下で撮影されたことで、非常に見栄えの良い古風な趣きの外観と内装であったが・・・ ツーリストが世界遺産フォントネー修道院や城塞都市スミュール・アン・オーソワを訪ねたなら、同時に美しい村フラヴィニー・シュル・オズランへも脚を運ばねば、拾い集めた蘊蓄(うんちく)でどれほど有名ワイン銘柄を知っていても、ブルゴーニュ地方の「美しさと魅力」を語る資格はないだろう、と私は強調したい。 |
「フランス 花咲く町と村」: http://www.villes-et-villages-fleuris.com/ ● 美しいスミュール旧市街 ブルゴーニュ地方の中心都市ディジョン〜北西へ約70km、世界遺産・フォントネー修道院(下描画)〜南方へ18km、スミュール・アン・オーソワ Semur en Auxois の町は、ゆったりと流れるアルマンソン川 Armancon がヒョウタンの「くびれ」のように大きく湾曲する特異な場所である。 現在、人口5,000、スミュールの市街は自然にできた渓谷の崖上という、防衛上極めて良好な場所に発展してきた(下写真)。 町の歴史はたいへん古く、早くも4世紀初頭には町の名前が存在したとする記録が残っていると言う。スミュール・アン・オーソワの旧市街地は、三角形の広場の正面に建つ13世紀のノートルダム聖堂参事会教会を中心に、赤色の硬い花崗岩質の岩盤が露出する崖の上に広がりを見せる。この教会堂の前身は11世紀ロマネスク様式で造られていた。 街は15世紀には地の利を生かした城壁に囲まれ、18か所のルネッサンス様式の尖がり屋根の高い塔や複数の堅固な城門も造られ、中世の戦いの時代から堅固な城塞都市として名をはせて来た。三角帽子の高い塔は現在4か所に残されている。 美しい風景/城塞都市スミュール・アン・オーソワ旧市街とアルマソン川の「めがね橋」/ブルゴーニュ地方 世界遺産/フォントネー修道院・付属教会堂・西正面部(西入口)/ブルゴーニュ地方 描画=Web管理者legend ej 世界遺産/シトー修道会・フォントネー修道院 ● 中世の街の夕暮れ 蛇行してゆったりと流れるアルマンソン河畔から眺めるスミュール旧市街は、どの方角からの視界でもまるで絵画のように美しい佇まいである。大げさに言えば、それは何時間もその場に佇んでいても決して飽きない無類の感動に近い。 特に街の南側にかかる「めがね橋」のピナール橋 Pont Pinard を視界に入れた河畔からの眺望は、見る者を中世の時間へと一気に誘ってくれるような雰囲気がある。これは絵に描きたい美しい眺めと強調できる(上写真)。 私が訪ねた5月初めの夕暮れ時、と言っても「白夜」の夏時間の影響から夕刻は午後9時過ぎだが、古風な橋と高い塔が淡く照明され、西の彼方の残光を正面に受けたノートルダム教会の高い塔が輝き、崖に寄り添うように建てられた旧市街の家並みが印象的な青紫色のベールに包まれ始める。 夏が始まろうとしているこの時期の黄昏、中世を今に伝えるスミュール・アン・オーソワの静か過ぎる旧市街の家々の窓に徐々に橙色の明かりが灯り始める。何と穏やかで平和な時間なのであろうか。もったいない程の心豊かな時間がゆっくりと過ぎてゆく。独りでこの街を訪ねた孤独感を打ち消す幸福感を静かにしみじみと感じる。 城塞都市スミュール・アン・オーソワへの行き方、交通アクセスはかなり難があると言える。しかし、地元フランスのみならず、日本からも特に風景画を得意とする多くの美術志向の人達が目的地とするほど、後述の「フランスの最も美しい村」フラヴィニー・シュル・オズランと並び、ブルゴーニュ地方を旅する時、無理してでも訪れたい街の一つと言える。 城壁に囲まれた城塞都市のスミュール・アン・オーソワの旧市街には、街の門、住民の住む家々と古くからある砦にも似た厚い壁の建物などが密集的に建ち並び、狭い路地や石畳の通りなど、何処を見回しても如何にも中世の戦いと防御の歴史を連想する雰囲気が漂う。この感覚は、参考だが、ミディ・ピレネー地方の小高い丘の斜面と頂点に家々が建ち並ぶ、「天空の城塞都市」のコルド・シュル・スィエル Cordes sur Cielに共通した感じかもしれない(下写真)。 ただスミュールに有ってコルドに無いものは、岩崖が高く蛇行する川を使っての城塞化であろうか。コルドでは穏やかな丘陵の尾根と頂上を城壁で囲んでいる。なお、フランスのテレビ局F2の調査、バカンスなどで滞在したいとする「フランス人の最も好きな村」では、城塞都市コルドは2014年1位にランクされている。 「天空の城塞都市」 コルド・シュル・スィエル/ミディ・ピレネー地方 ミディ・ピレネー地方の「フランスの最も美しい村」サン・シル・ラポピー/「天空の城塞都市」コルド |
● 紀元前・ローマ時代遺跡/「アリシアの戦い」の跡/指揮官ウェルキンベトリクス 古代ガリア(現在のフランス付近)のローマ帝国に対する最大の戦いと攻防戦、「アリシアの戦い」が行われたのは、色々な説がある中でほぼ間違いないのが、フラヴィニー・シュル・オズランの北西へ4km、人口650人の小さな村アリーズ・サン・レーヌ Alise Ste Reine のアクスァの丘 Auxois と言われている。 ガリア(フランス)軍の指揮官ウェルキンベトリクス Vercingetoix は、紀元前52年に行われた「アリシアの戦い」でローマ帝国の終身独裁官ガイウス・ユリウス・カエサル(シーザー)軍に対抗、戦果はローマ・シーザー軍が勝ち取るが、ウェルキンベトリクスはその反撃の功績をもってフランスの「最初の英雄」となっている。 現在、アリーズ・サン・レーヌ村には、1865年建造、「アリシアの戦い」のガリア軍指揮官ウェルキンベトリクスを称える10m以上もある巨大な像が建っている。また、村の東の外れ500mのアクスァの丘は、発掘調査で明らかになったガリア軍の城砦陣地や古代ローマ時代の建物の遺構、戦場跡が広い芝生の記念公園となっている。 |