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「フランスの最も美しい村」 サン・シル・ラポピー村 聖シル教会堂と「下の街」 の眺望/ミディピレネー地方 ・教会堂の右下: リニョール博物館(旧ガルレッツ城砦) ・右下端: アンリマルタン邸宅 木板・アクリル描画450mmx300mm=Web管理者legend ej |
位置: ボルドー⇒東南東190km/トゥールーズ⇒北北東110km 人口: 220人/標高: 210m/ロット渓谷 現在、フランスには人口2,000人以下の「村」と言われる自治体が約32,000か所あるとされ、その うち「フランスの最も美しい村」に認定されているのはわずか172村だけ(2023年現在)である。 「フランスの最も美しい村」: http://www.les-plus-beaux-villages-de-france.org/ 「TV局F2 フランス人の最も好きな村」: 2012年調査・1位 ● 「フランスの最も美しい村」/「ミディピレネー景勝地」/「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」の立ち寄りコース 人口220人、斜面に家屋が密集する本当に小さな村サン・シル・ラポピー(サン・シール・ラポピー)は、アルザス・ワイン街道のエグイスハイム村(Eguisheim 下写真)や聖マドレーヌ大聖堂のブルゴーニュ地方ヴェズレー Vezelay と並び、「フランスの最も美しい村」に認定されている。さらにオクシタニー/ラングドック・ルシヨン・ミディ・ピレネー地域圏の「コッス・デ・ケルシー地方自然公園 Causses de Quercy」に組み込まれている。 また、フランスのテレビ局F2の調査(2012年)では、サン・シル・ラポピーはバカンスなどで滞在したいとする「フランス人の最も好きな村」として最上位(1位)にランクされている。ちなみにアルザス・ワイン街道の美しい村エグイスハイムは、2013年の調査で最上位となっている(下写真)。 美しい村サン・シル・ラポピーへの行き方では、特に個人ツーリストの場合、鉄道路線もなく、経験論としても、交通アクセスは「非常に難がある」と言わざるを得ない。しかし、データから言える事実は、年間40万人を数えるツーリストに絶大人気のスポットであり、首都パリでの滞在時間を削るなどスケジュールを変更してでも、美しい村サン・シル・ラポピーを訪れる価値はある、と私は強調できる。 「フランスの最も美しい村」・アルザス・ワイン街道・エグイスハイム村 アルザス・ワイン街道・コルマール周辺 ----------------------------------------------------------------------- ● サン・シル・ラポピーの位置 サン・シル・ラポピーの位置は、フランス中央高地・セヴェンヌ山脈を源流として、南西フランス・ミディピレネー地域の北部、ケルシー地方の丘陵地帯を蛇行しながら西方へ流れるロット川 Lot の渓谷左岸(南側)、川から標高差80m〜100mの断崖絶壁の上、斜面に広がる村の中心付近で標高210m前後である(下地図)。 中世の時代には、村はカルダイヤック家を初めラポピー家など、複数の封建領主(騎士)の家系により治められていたことから、辺鄙な地方の小さな村でありながら、今日でも高貴な邸宅が複数残されている。なお村の名称である「サン・シル」は3歳の男児聖人シル(後述)から、「ラポピー」は中世の領主家系の一つの名残りである。 複数の領主により建造と改修が繰り返されたシャトー城砦は、イギリスとフランスとの「百年戦争」で完全に破壊され廃墟となっている。しかし、20世紀に起こった二度の世界大戦の影響を受けなかった幸運にも助けられ、村には伝統的な建築様式の邸宅、花の庭園やテラスを備えたコロンバージュ様式や無表層でむき出し石積み造りの民家などが建ち並ぶ。 それらは古くは13世紀〜16世紀のままの姿を留め、近代的な建物や電光掲示のデジタル看板、騒音でしかないショップの客寄せ音楽などは一切存在しない。コンビニや缶コーヒーの自動販売機などは論外、村にあるのはロット渓谷のフレッシュな空気、そして、数百年前の中世の風情と停まりそうな時間だけである。 19世紀〜20世紀にはポスト印象派アンリ・マルタンや思想家アンドレ・ブルトンなど多くの芸術家や知識人が、中世フランスの面影を色濃く残すサン・シル・ラポピーの美しい情景とロット渓谷の自然豊かな環境に魅了され、この小村へ移り住み、村はある意味で南西フランスの文化発信と芸術交流の拠点となっていた。坂道が多い村の路地にはかつての芸術家の住まいや博物館、あるいは現在のアーチストのアトリエや後援する芸術センターもあり、ツーリストの立ち寄りスポットとなっている。 また、丘上都市ゴルドなど陽光溢れる南フランス・リュベロン地方の片田舎の村々と同様に、サン・シル・ラポピーはその一昔前の懐かしい風情と言うか、「題材・モチーフ」には事欠かない。このためフランス国内は当然のこと、近隣のヨーロッパ諸国から、あるいは遠く日本からも、特に風景画を得意とする美術志向の個人やグループが選択する隠れた旅行先の一つでもある。 また、かつて中世の時代、世界遺産に登録された少し北方の渓谷に隠れたキリスト教の巡礼聖地ロカマドール(下描画)と並び、サン・シル・ラポピーは「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」の立ち寄りコースでもあった(下記コラム)。 ロカマドール/「聖域」=聖マリア聖堂・聖ミカエル聖堂・聖アンア礼拝堂・聖アマドール礼拝堂など 「下の市街」=レストラン・カフェ・プチホテル・土産物ショップ・住宅など ケルシー地方/描画=Web管理者legend ej 南西フランス・キリスト教巡礼聖地 ロカマドール ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂・西正面ファサード/澄み切った夜空に満月が輝く /ブルゴーニュ地方 世界遺産/ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂 |
● 「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」 2,000年前、ユダヤ教系譜でありながら「新たな宗教的な考え(後のキリスト教)」を唱えたイエスが、ユダヤ教徒とローマの兵隊によりエルサレムで処刑される。そしてイエスの弟子の一人であった(聖)ヤコブ(St Jacob/スペイン=サンティアゴ Santiago)はユダヤ教徒の迫害からスペインへ逃れた。当地でイエスの唱えた原始キリスト教の布教を行なった後、ユダヤの地へ戻った際、(聖)ヤコブは捕らえられ処刑されてしまう。 イエスの弟子の内で「最初の殉教者」となった(聖)ヤコブの遺体は、後に信徒達の手で再び「スペインへ運ばれ葬られた」と伝承されてきた。その後、9世紀初め、813年、スペイン西北部サンティアゴ・デ・コンポステーラの地でこの守護聖人ヤコブの墓が偶然に発見された。 後に聖ピエトロとなり、ローマ・ヴァチカンの聖(サン)ピエトロ大聖堂に埋葬されたイエスの一番弟子・シモン(ペトロ)のように三番弟子・聖ヤコブの墓を最終目的地とする「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」は、10世紀以降、フランスやドイツなどの王侯貴族も競って奨励するほど大流行となり、その最盛期となる12世紀には年間50万人のカトリック・キリスト教徒の巡礼参拝があったとされる。 「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」では、イギリスや中欧諸国も含めヨーロッパ各地からの主要巡礼路が決められた。特に中世キリスト教の信仰が高まっていたフランスでは、 ・出発地パリからの「ツゥールの道」 ・ブルゴーニュ地方ヴェズレー修道院からの「ヴェズレー(リモージュ)の道」 ・オーヴェルニュ地方ル・ピュイからの「ル・ピュイの道」 ・プロヴァンス地方アルルからの「ツゥールーズの道」 合計4か所の出発地と巡礼ルートが確定された。中でも最も重要であったのは、ヴェズレー修道院からの出発であった(上写真)。 ヨーロッパ各地の敬虔なカトリック教徒は、一生に一度、資財を投げ打つまでしても、胸に聖ヤコブのシンボルであった帆立貝を下げ、先ずこれらの4か所の出発地を目指した。巡礼者は途中の有名な修道院や教会堂、聖地などを巡りながらスペインの聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラを目指し、厳しい「巡礼の旅」を続けた。 巡礼路はフランスからピレネー山脈を越えて、スペイン北部プエンテ・ラ・レイナ Puente le Reina の「王妃の橋」で合流、巡礼者はさらに西方の果て最終目的地サンティアゴ・デ・コンポステーラまで歩いたのである。たとえキリスト教信仰とは言え中部フランス、あるいは南部から往復3,000km以上を徒歩で旅する庶民にとっては非常に厳しく長い道のりであった。 ロット渓谷を含むケルシー地方は、フランス中央高地・ノートルダム大聖堂の聖地ル・ピュイから出発する「ル・ピュイの道」にカバーされていた。巡礼路(本道)は先ず聖フォワを奉る聖地コンク修道院から歴史の街フィジャックを経由、その後、ロット河畔のカジャルク Cajarc 〜サン・シル・ラポピーの南方13km、大型の泉水と20人が並べる中世の共同洗濯場が残る小村ヴァレール(Varaire 人口300人)へ迂回して、ロマネスク様式の街カオールやモワサック修道院へ向かっていた。 サン・シル・ラポピーは「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路(本 道 )」から外れていたが、フィジャックからサン・シル・ラポピーで合流 するセーレ渓谷を経由する「寄り道」が村を通過して、ロット渓谷の 下流のカオールやモワサック修道院などへ通じいた。 左描画は路面に埋め込まれた帆立貝の巡礼飾り(道標) 帆立貝は「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」の聖ヤコブのシンボル ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂広場/ブルゴーニュ地方 描画=Web管理者legend ej ※自慢にも値しない個人的な経験論だが、「東京⇔関西 往復33日間=徒歩1,300kmの旅路」については下記・ブルゴーニュの「フランスの最も美しい村」&世界遺産ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂を参照。 世界遺産/ブルゴーニュ地方ヴェズレー修道院・聖マリー・マドレーヌ大聖堂 |
南西フランス・ミディピレネー地方/作図=Web管理者legend ej |
● サン・シル・ラポピーの歴史/10世紀〜村の興隆 サン・シル・ラポピーから北北西5kmほどの山腹には25,000年前の旧石器時代の洞窟岩絵(後述)が見つかっている。また、紀元前2世紀〜紀元5世紀頃、歴史家の言う「ガロ・ローマ時代」の遺跡がロット川左岸の崖上周辺で確認されている。 ただ、サン・シル・ラポピーが歴史に登場するのは、10世紀、地域を治めていたケルシー伯の命により、ロット川の舟の航行管理や防衛も含め、戦略上有利な崖上のサン・シル・ラポピーに、家臣の封建領主(騎士)オルドリック家 Oldoric が「最初の小砦」を築いてからである。 その後、11世紀後半になると当地を統括したトゥールーズ伯により、家臣の三つの封建領主(騎士)家系へサン・シル・ラポピーの領有と管理が委ねられた。その複数の家臣とは、交通の要衝フィジャックの北北西9km、「フランスの最も美しい村」に認定されたカルダイヤック Cardaillac を治めた騎士領主(騎士)カルダイヤック家 Cardaillac、サン・シル・ラポピー村の名称となるラポピー家 Lapopie、聖地ロカマドールの西方20kmのグールドン周辺を治めたグールドン家 Gourdon である(上地図)。 また、三つの家系のほかに一時的には同じくトゥールーズ伯の家臣であり、ケルシー地方最大級のカステルノー・ブルテナウ城砦があるドルドーニュ上流域カステルノー家 Castelnau も加わり、さらに少し遅れた時代には、後述の封建領主(騎士)エブラルド家 Hebrard も村に強い関わりを持って来る。サン・シル・ラポピーは非常に複雑な形態、複数の封建領主(騎士)家系による共同統治となった。 ただ、すべての家系がトゥルーズ伯の家臣であり、サン・シル・ラポピーの統治者同士は比較的友好な関係を保っていた。余裕スペースのない崖上というサン・シル・ラポピーの地形的な条件から、当初、三つの領主家系は同じ場所に隣り合わせで個別の家系シャトー城砦を建てることに決まった。露天のマーケット(市場)で仲の良い複数の家系が自分の屋台を並んで出すような感じであった。 その共同城砦の場所はサン・シル・ラポピーの直ぐ北側、現在の村の家並みから20m〜30mほど高い岩の崖尾根が利用された。尾根の規模はおおよそ東西100m 南北45mほど、北側はロット川を見下ろせる100mの断崖絶壁、西側が最も標高が高く、東方へ徐々に低くなり、城砦区画は強固な城壁でぐるりと囲まれた(後述・市街地図=点線囲み部分)。 先ず最初の家系シャトー城砦を建造したのは、1064年、カルダイヤック家ユーグT世で、尾根の標高が低くなる東端の聖シル教会堂の脇のスペースが割り当てられた。その後、西端の高い露岩の場所に石積みの基礎と堅固なラポピー家の城砦が建ち、少し下がった中間区域をグルドン家が占有した。ただ、ラポピー家の遠縁と考えられるグールドン家の城砦については、近世の調査結果から「塔」があった可能性を否定できないが、家系城砦全体がどのような配置プランであったのか明確に分かっていない。 その後、12世紀には尾根の東端にロマネスク様式の初期の聖シル教会堂(後述)が建立された(下写真)。 同じ時期、共同城砦の南側斜面に今日見られるサン・シル・ラポピーの「村」が形成され、村全体も東西の二つの城門と地形に合わせた城壁に囲まれ、村の人達の住宅や商店も保護された。現在、村には当時の繁栄を代弁するように、12世紀起源の幾らかの最古の建物が残っている。 夕闇に浮かび上がるサン・シル・ラポピー・聖シル教会堂/ミディピレネー地方 ----------------------------------------------------------------------- ● サン・シル・ラポピーの歴史/12世紀〜「百年戦争」 その後、サン・シル・ラポピーに直接関係の薄い中央王朝の出来事により、結果的に城砦と村は翻弄されることになる。フランス西部一帯の統治権を巡り、1188年、フランス王フィリップU世(尊厳王)とイングランド王ヘンリーU世との「戦争」が起った。イングランド生まれでフランス・アキテーヌ地方で育ったことから、後のイングランド王となるリチャードT世は、ヘンリーU世の息子でありながら父王に反発してフィリップU世に友好した。「第三次十字軍」に参加した英雄の一人であり、好戦的な生涯を送り、「武士道の鑑」とも言われたそのリチャードT世により、サン・シル・ラポピーの城砦は攻撃を受ける。 その140年後、1328年、フランスではカペー朝最後の王シャルルW世が直系の男子継承者のないまま亡くなり、W世王の妹イザベルとイングランド王エドワードU世の息子であるエドワードV世(1327年〜1377年)が、ヴァロワ朝初代のフランス王フィリップY世(1293年〜1350年)に対して「自らがフランス王の血を引く正当なる継承者」を主張した。 これ以降フランス王位継承と経済的な繁栄をしていたフランドル地方(ベルギー&オランダ)の領地獲得と利権を巡る、フランスとイングランドとの政略的な争いはますます過激化、とうとう中世ヨーロッパの歴史を刻む「百年戦争(1337年〜1453年)」が始まる。 勝ち負けが決まらない長〜い「百年戦争」では、カルダイヤック家ユーグW(1310年〜1353年)の活躍も目立ったが、一方、同僚のラポピー家では同世代のギー・ラポピー(Guy Lapopie 1320年〜?)がサン・シル・ラポピーの家系城砦を管理する時代、その息子ギーU世・ラポピー(Guy II de Lapopie 1350年〜?)が、ロカマドールの東方10km、「ハト小屋様式」の高床式納屋(15世紀・フランスの「歴史的建造物」)のあるラヴェルニュ家ジーン Jeanne de Lavergne と結婚、一人娘のマルゲリータ・ラポピー Marguerite de Lapopie(ラポピー家最後の継承者: 下記コラム)が生まれる。 戦争の混乱が続く中、1400年、マルゲリータはフィジャック方面からサン・シル・ラポピーの北方を流れ、ロット川へ合流するセーレ川流域サン・シュルピス St-Sulpice の有力封建領主(騎士)エブラルド家 Hebrard のアーノルド・エブラルドの許へ嫁ぐ。二人は次の家系を継承するフルタルド・エブラルド(1400年〜1469年)など7人の子息に恵まれた。この時点でラポピー家は男子断絶する。 なお、繁栄のサン・シュルピスのエブラルド家はサン・シル・ラポピーの共同城砦の内部ではなく、聖シル教会堂から東方50mの場所に家系シャトー城砦(Chateau de la Gardette 現在=博物館: 後述)を建造している。 一方、同僚のカルダイヤック家系では、ユーグW・カルダイヤック(1310年〜1353年)の息子でサン・シル・ラポピーを治めたベルトランY世・カルダイヤック(1330年〜1395年)が亡くなり、サン・シル・ラポピーの家系領地は弟ギョーム・カルダイヤック(1340年〜?)へ引き継がれ、間もなくしてその息子ベルトランZ世・カルダイヤック(1370年〜1423年)へ継承される。 なお、ベルトランZ世は最初の妻との間に二人の娘をもうけ、次女マルゲリータがラポピー家マルゲリータと夫アーノルド・エブラルドの息子フルタルド・エブラルドの妻となる。また、アーノルド・エブラルドの妹ジェーンはカルダイヤック家へ嫁ぎ、三番目の妹ソーヴェラインがサン・シル・ラポピーのベルトランZ世・カルダイヤックの二番目の妻となっている。 このように、「百年戦争」の真っ只中、この時代にはサン・シル・ラポピーに関わるカルダイヤック家とエブラルド家とラポピー家は、複雑で濃厚な血縁関係になって行く。そのベルトランZ世・カルダイヤックの時代、サン・シル・ラポピー城砦はイングランド軍の攻撃の的となり、徹底的に破壊される。 1453年、1世紀に及んだ「百年戦争」が終わり、この間、城砦は破壊されたが、幸いなことにサン・シル・ラポピーではほかのヨーロッパ諸国で猛威を振るった恐ろしいペスト病の蔓延もなく、農業の干ばつが発生したが、社会的な混乱と経済の衰退はわずかで済み、その後、財政力に余剰があった領主家系により破壊された城砦の再建と修復が行われた。 この頃、後述するロット河畔に水車小屋が建てられ、村には特にロット川を往来する交易商人やワイン樽の栓やドアーノブを作る木工職人が多く住み着いた。 間もなくして、繁栄のサン・シル・ラポピーに大きな出来事が起こる。「慎重王」とも呼ばれ外交の政治的な陰謀に長けたフランス王ルイXI世(1423年〜1483年)に対して、生涯反目した弟ベリー公ヴァロワ・シャルル(1446年〜1472年)に味方をしたという理由で、1471年ルイXI世はフルタルド・エブラルドの息子(ラポピー家マルゲリータの孫)のレイモンドU世・エブラルド(1424年〜1507年)に、サン・シル・ラポピー城砦の破壊を命じた。 しかし、1483年にルイXI世が亡くなり、次のフランス王シャルル[世(温厚王)はレイモンドU世に恩恵を与え、15世紀の末期、破壊された城砦が再建された。 |
● ラポピー家系 村の名称となっている「ラポピー家系 Lapopie」に関して、家系はロカマドールの西方20kmのグールドンやサン・シル・ラポピーの北北西25kmのラ・バスティド・ミュラ La Bastide-Murat の周辺を治めた有力封建領主グールドン家 Gourdon から分家したと推測できる。 家系の詳細系譜は不明だが、私の手持ちの歴史資料の範囲では、 13世紀の末にゲルハルド Gelhard とベルトランド Bertrand のラポピー兄弟騎士がサン・シル・ラポピーの家系城砦を治めていた。その後、家系は14世紀には先代のギー・ラポピー、さらにその息子ギーU世・ラポピー(1350年〜?)へと継承されたと考えられる。 「百年戦争」の最中、14世紀の後半、ギーU世・ラポピーとジーン・ラヴェルニュが結婚、一人娘マルゲリータが生まれた。しかし、領主ギーU世には男子継承者が生まれなかったことで、15世紀、事実上ラポピー家系は男子断絶となった。 上述のように、ラポピー家の最後の継承者となった娘マルゲリータが、サン・シュルピスの有力領主アーノルド・エブラルドの許へ嫁ぐことで、その後、サン・シル・ラポピーの家系城砦も含めラポピー家の領地はすべてエブラルド家系が継承することになった。マルゲリータはフルタルド・エブラルドなど7人の子息(息子二人・娘五人)に恵まれた。 また、マルゲリータの父、ラポピー家の最後の領主ギーU世の兄デオダット Deodat は聖職者となり、カオールなどロット渓谷の修道院に勤め、ギーU世は亡くなった時、遺言に従って聖職者の兄と一緒の墓に埋葬されたとされる。 |
● サン・シル・ラポピーの歴史/16世紀〜「ユグノー戦争」の時代 戦いと混乱の時代は続き、中世の平和や安定が到来することはなかった。16世紀に入り、諸侯・領主に反発した10万以上の農民が殺された「ドイツ農民戦争(1524年〜1525年)」を初め、1525年にはアルザス地方の領主と農民の連合軍が強力なロレーヌ公の軍隊に対抗して、1日の激しい戦いで農民連合軍の死者約6,000人を数えた「シェーヴィラーの農民戦争」などが起こる。 社会の混乱はさらに増幅、聖書信仰による救済に重点を置く神聖ローマ帝国の大学教授マルティン・ルターの「贖宥状批判」から始まり、ローマ・カトリック教会に対する体制批判である「宗教改革」の戦争が、ドイツやチェコなど中央〜東ヨーロッパ各地で勃発する。 「ドイツ農民戦争」や「シェーヴィラー農民戦争」: アルザス・ワイン街道(北部)オベルネ周辺/コロンバージュ様式の村々 フランスでは、ジュネーヴ大学の創設者であり、カリスマ的な神学者カルヴァンから影響を受けたプロテスタント教会(改革派ユグノー教会)が、カトリック教会に激しく対抗した「ユグノー戦争(1562年〜1598年)」の嵐が吹き荒れる。 背景に王族の複雑な権力闘争が絡むこのフランスの宗教戦争では、カトリック教会派のヴァロワ朝フランス王アンリU世の王妃であり、イタリア・メディチ家出身のカトリーヌと激しく対立した、ユグノー派の極を担う母親・ナバラ女王ジャンヌ・ダルブレの影響を受け、15歳でユグノー派の盟主となり、後にブルボン朝初代のフランス王アンリW世となるナバラのアンリ(1553年〜1610年)が居た。 ヴァロワ朝フランス王家はアンリU世が馬上槍試合の不慮の事故で亡くなり、短命の息子フランソワU世の後、その弟シャルル\世が即位して、母カトリーヌが摂政となりユグノー派との戦いの先頭に立つ。ユグノー派との和解を図るため、太后カトリーヌは娘マルグリットとナバラのアンリとの政略結婚を提唱、その直後、母ジャンヌが急死(カトリーヌの暗殺?)したことでアンリがナバラ王位を継承する。 そうして敵対する新旧の宗派ながら、ユグノー派の18歳のナバラ王アンリと「絶世の美女」と言われたカトリック教会派の19歳のマルグリットは、1572年8月、パリ・ノートルダム大聖堂で結婚式を挙げた。しかし、その6日後、婚儀の祝いに集合した大勢のユグノー派の人々が暗殺される「聖バルテルミの大虐殺」が起こる。 この事件の影響はフランス全土へ拡大、粛清されたユグノー派の貴族と民衆の死者は3万人を数え、ユグノー派の盟主であるナバラ王アンリは保身からカトリック教への改宗を宣言した。しかし、激しく流動する政権と社会、直ぐ様に王アンリは再びプロテスタント教会派へ寝返り、社会の安定化どころか、なおさらに貴族階級と宗教界と庶民の動揺と混乱を助長するばかり。 宗教紛争が王位継承問題も含め宮廷内の熾烈な戦いと深刻な政治的な混乱を招く中、1589年、太后カロリーヌの息子でありヴァロワ朝最後のフランス王となるアンリV世(38歳)が、指導力の欠如を理由に熱狂的なカトリック・ドミニコ修道会の修道士により暗殺されてしまう。この後、ナバラ王アンリから35歳でフランス王となったアンリW世が、事態打開と保身を含めカトリック教への再改宗を行い、ユグノー派の宗教的な権利も保障したことでようやく戦争の終息をみる。 多くの犠牲者を生んだ「ユグノー戦争」の嵐は歴史に残る激流の大渦を巻き、当時のフランスの社会と宗教界は大混乱となった。この時代のサン・シル・ラポピーでは、家族がカオールの司教に就任したことからエブラルド家が実権を握り、さらにカルダイヤック家がユグノー派となったことから、1580年代、カトリック教会派の時期のアンリWは城砦の完全破壊を発令した。この後、サン・シル・ラポピー城砦が再建されることはなく、封建領主(騎士)家系は城砦を放棄せざるを得なかった。 ただし、サン・シル・ラポピーは木工加工と皮革加工を中心に活況を帯び、住宅の建設を初め12世紀起源の聖シル教会堂が16世紀ゴシック様式で再建されるなど、村は繁栄を享受する。さらに17世紀になると、ロット川の航行の開発に力が注がれ、河畔にはトウパス(曳き舟道:後述)や水路が整備され、船を使った大規模な交易と農産物の増産が促進された。 19世紀の末には石炭や木材の運搬を目的に、上流の城塞都市カプドナック〜下流の県庁カオールまで「ケルシー鉄道(後述)」が敷設された。 100年以上前まで物流関係者を初め、40軒が稼働していたワイン樽の木製栓やドアーノブを作る旋盤加工の工房、皮革加工の熟練職人などを中心に繁栄を極めたサン・シル・ラポピーであったが、1861年の1,460人をピークに1905年以降人口は急減、現在はわずか220人の小村となった。今日、サン・シル・ラポピーで唯一残った木工旋盤工房があり、ツーリストのお土産品などの木工製品が作られている。 |
現在、フランスには人口2,000人以下の「村」と言われる自治体が約32,000か所あるとされ、その うち「フランスの 最も美しい村」に認定されているのはわずか172村だけ(2023年現在)である。 「フランスの最も美しい村」: http://www.les-plus-beaux-villages-de-france.org/ ● 村は軟体魚類・「エイ」の形容/「生きた民俗博物館」 「フランスの最も美しい村」サン・シル・ラポピーでは、聖シル教会堂を初め、フランスの「歴史的建造物」に指定されている建造物&施設が13か所を数える。人口220人の小村で、これほど多くの貴重な文化財としての対象物を所有する自治体は稀である。 指定を受けた対象物以外、村の建物はほとんどすべて中世〜近世に起源を遡り、村全体が年月の経過である長い歴史、二十〜二十五世代を越える家族系譜と各時代に起こった歓喜と涙の出来事を見て来た、言わば「生きた民俗博物館」とも言えるだろう。 サン・シル・ラポピーの村を鳥になって上空から眺めたなら、表現が適当かどうか?だが、ロット渓谷の南岸の崖上、不規則なゴツゴツした露岩の斜面に少し身体をよじった扁平体型の軟骨魚類・「エイ」の形容で家並みが密集している(下地図)。 山の手駐車場がある標高の高い西地区の方角がエイの「頭部」として、東西250m 南北130mほどの「胸びれ&胴部」は東方へ向かうに従って徐々に低くなり、平坦になった位置から一本道の「尾」が東方へ100mほど緩やかなカーブを描き延びている、という感じであろう。 サン・シル・ラポピーの村内は中世からの細い坂道だらけ、平らな道は少ない。それがエイの「胸びれ&胴部」となる市街でランダムに交差して、年季の入ったさらに狭い無数の路地やトンネル通路、石畳の細道や急石段などに複雑怪奇に連結している。 エイの「尾」の先端に相当する村の東端〜西地区の「頭部」へ向かって、幅は狭いが900年以上の歴史を秘めたメインとなる道路が、丁度エイの「尾骨&背骨」のように、柔らかく湾曲しながら密集する家屋群の「胸びれ&胴部」を貫通している。 サン・シル・ラポピー周辺/作図=Web管理者legend ej ロット川の橋を渡り、キャンプ場がある東方から地方道D8号(ポルトロック通り Porte Roques)を徒歩で村へ昇って来るツーリストは、エイの「尾」の先端となる村の東端の城門・ペリサリア門(Porte de la Pelissaria 上地図)付近で、突然と視界が開け、眼に飛び込んで来るサン・シル・ラポピーの全姿に感動の声を上げる。 誰もが皆揃って、「ワアア〜〜、キレ〜〜イ!」、お決まりの絶叫がロット渓谷に木霊(こだま)する。そうして、私もそうであったが、ネット画像やガイドブックで見た「定番写真」を撮ることになる(下写真)。 サン・シル・ラポピー村/高くそびえる聖シル教会堂/ミディ・ピレネー地方 その後、「フランスの最も美しい村」と対面した興奮で急上昇してしまった血圧値も気にせず、期待で胸踊る気分を押さえながら、門をくぐり、右手前方の斜面に密集する「胸びれ&胴部」の家並みを目指して、100m余りの「尾」を描くペリサリア通り Rue de la Pelessaria を教会堂の方角へ向かう。 この中世からの通りにも15〜17世紀の皮革職人達が住んだ風情ある住宅が建ち並んでいる。 あるいは車を使って、村の南側の山腹を通る迂回アスファルト道路D8号で西方の山の手駐車場へ向ったなら、駐車後にアスファルト道路D8号の脇、エイの「頭部」にある郵便局脇のペヨルリー路地 Rue de la Peyrolerie へ下りることになる。 かつて銅細工職人達が住んだこの路地は、観光案内所とツーリストで賑わうソンブラル広場(Place du Sombral 上地図)、そして村で最も高い城砦跡の岩山へ向かって延びている。 また、風情あるペヨルリー路地の入口付近には、かつて城壁に囲まれていたサン・シル・ラポピーの西端の城門・ペヨルリー門 Porte de la Peyrolierie が存在した。今でもその痕跡が迂回アスファルト道路D8号の土手側に残されている。 東西の城門、どちらからアクセスしようが、サン・シル・ラポピーの村は小さく、密集家屋と迷路のようなエイの「胸びれ&胴部」の中で自分の位置を見失うことはない。ただ、サン・シル・ラポピーの家並みと風情を眼の辺りにした時、ツーリストが心の準備をしていないと、数百年前の中世の時間へ一気にタイムスリップさせられる衝撃に対応できるかどうか? ------------------------------------------------------------------------ ● 共同城砦の廃墟 歴史の中でサン・シル・ラポピーの興隆と発展を築き上げた封建領主(騎士)家系の共同城砦は、上空から見たエイで言えば「右胸びれ」付近に相当(上地図=点線囲み・ベージュ色付)、垂直に落ち込むロット渓谷の崖上、村で最も標高の高いゴツゴツ露岩の岩山に在った。 尾根の最も高い西側にラポピー家、中間がグールドン家、比較的高い石積み城壁が残る聖シル教会堂に近い場所にカルダイヤック家の城砦が建っていた。 共同城砦はイギリスとフランスとの「百年戦争」で大きく破壊され、16世紀の後半には放棄された。現在、建物の基礎部と城壁を部分的に残しているが、全体は廃墟となっている。城砦跡のより西側の岩盤は結構な急斜面である。 城砦跡は周囲に遮る物がなく、「定番写真」を撮るベスト展望台でもあり、ここから眺める斜面の村サン・シル・ラポピーと眼下に蛇行するロット渓谷、さらにパッチワーク模様の河畔の耕作地〜遠くケルシー丘陵地帯の雄大な光景は絵のように美しい。また、村から北西350mほどの位置に、城砦跡と標高がほぼ同じ(標高220m)のパーキング場付き展望台がある(上地図)。 ● サン・シル・ラポピーのシンボルの聖シル教会堂 城砦跡の東隣、上地図で言えばエイの「右胸びれ」の先端付近、サン・シル・ラポピーのシンボルとなっている聖シル(下記コラム)を奉る聖シル教会堂 Eglise de St-Cirq は、フランスの「歴史的建造物」に指定され、村内で中世の名残りを最も顕著に伝えている大型建造物である(トップ描画)。 聖シル教会堂: 12世紀ロマネスク様式・創建 GPS 聖シル教会堂・広場: 44°27′53.25″N 1°40′12″E/標高205m 聖シル教会堂は12世紀にロマネスク様式で創建、その後13世紀〜15世紀に改修が行われ、今日の形容は1522年〜1540年の再建時、名匠建築家とされるギョーム・カペル Guillaume Capelle が設計した南方ラングドック的なゴシック様式である。塔を付属する南入口正面ファサードは、教会堂前の狭い広場から見るとそそり立つ様に圧倒されるほど高い。 スペースの関係から南方へ向く珍しい扉口、その中央のタンパン部の装飾は非常に簡素、見上げるファサードの鐘楼壁面には細棒とローマ数字(T・U・・・XII)の中世から日時計がある。 屏風のように立ち上がり、厚い柱状壁(バットレス/控え壁)で強化された窓の少ない教会堂の堅牢な外壁面は特徴的で、東方から眺めるなら、ここが中世には要塞教会堂であったことを理解できる。 教会堂内部は三廊式、全体は明るいクリーム色の表装、交差ヴォールト型の天井も高く、田舎風の比較的シンプルな祭壇を備える内陣は半円形である。ステンドグラスにはイエスと会う聖シル・聖ユリッタが描かれている。 左側廊の礼拝堂の壁面に赤紫色の衣装の聖ユリッタと手をつなぐ白い衣装の聖シルの像が飾られている。教会堂にはわずかだが12世紀起源の渦巻きのように揺れるアカンサス葉装飾や13世紀の古い壁画の断片も確認できる。 また、右側廊の外側にはかつて村の繁栄を支えた木工職人の守護聖人、≪カタリナの車輪≫のアレキサンドリアのカタリナを奉る、半円形スペースの石積み構造、19世紀に再建された無装飾のロマネスク様式の礼拝堂が付属されている(上描画・教会堂の最後右端)。崖側の後陣の外へ廻り込むと、ロット渓谷の絶景が期待できる展望テラスである。 |
● 聖シル(キュリアクス)の物語 村の名称の由来となっている「サン・シル(聖シル St-Cirq)」とは、キリスト教世界で最も年齢の若い殉教者、3歳の「男児聖人キュリアクス Cyriacus/フランス=シル Cirq」のことである。 かつて地中海全域〜ヨーロッパ内陸部まで支配した古代ローマ帝国、3世紀〜4世紀の初めの時代、皇帝の権力強化と官僚制度の確立、専制政治と増税政策を強要、さらに普及してきたキリスト教への徹底的な弾圧と聖職者の投獄や粛清など、歴史に残る強権施策を推し進めたのがローマ皇帝ディオクレティアヌスであった。 伝承では、4世紀の初め、現在のトルコ中南部の古い街コンヤ(ローマ時代の古名=イコニウム)に住み、若くして未亡人となったキリスト教徒ユリッタ Julitta は、3歳の息子キュリアクスと慎ましやかな生活を送っていた。が、皇帝ディオクレティアヌスのキリスト教徒への「最後の大迫害」が始まり、聖パウロの生誕の地である地中海沿岸の大都市タルソス(現在=タルスス Tarsus)へ避難した。 しかし、母子はタルソスのローマ帝国の強権な駐在代官アレキサンダーに捕まり、拷問を受け、母ユリッタは「キリスト教徒である」ことを告白した。代官は息子キュリアクスに拷問で苦しむ母親の姿をあえて見せつけたが、幼い息子は動じることなく、母親と同じように「キリスト教徒である」と答えたことから、怒りの代官はキュリアクスを裁判所の高い石段から投げ飛ばした。キュリアクスは石段を転げ落ち、鋭い角で頭部を強打してそのまま絶命してしまう。 神の許へ昇天した殉教の息子キュリアクスを労わり、なおも続く残酷な拷問の間にも神への感謝を奉げた母ユリッタは、その後、剣で首斬りとなり殉教した。母子共に殺害され、3歳のキュリアクスはキリスト教徒で最も幼い殉教者となった。その数年後、キリスト教を公認したローマ帝国はコンスタンティヌスT世(大帝)の時代となり、母ユリッタと息子キュリアクスの遺骸はコンスタンティノーブル(イスタンブール)近郊に建てられた教会堂へ移され埋葬された。 また、聖シルと母・聖ユリッタに関わる宗教施設では、ブルゴーニュ地方のロワール河畔ヌベールの聖シル&聖ユリッタ大聖堂が最も有名で、そのほかフランス国内25か所前後の町と村々の教会堂でも聖母子が奉られている。さらにロワール河畔ツゥールの対岸St-Cyr sur Loire、ブルゴーニュ地方のワイン産地シャブリの南方のSt-Cyr les Colons村など、聖シルを都市名としている町や村も少なくない。 |
● サン・シル・ラポピーの中世の佇まい/フランスの「歴史的建造物」など 聖シル教会堂前から南東へ50mほど、「エイ」の形容で言えば「胸びら&胴部」の東外れ、「尾の付け根」付近に広いスペースではないがコルラール(キャロル)広場 Place du Corral がある。 広場の周りは中世の「住宅展示会場」も言えるほど、古い家屋が建て込んでいる。特に広場の北側、高い方形塔を付属した四階建ての変形建物は、13世紀に起源を遡る村で最古の建物の一つ、現在、フランスの「歴史的建造物」に指定されている。 西側の平石を敷き詰めたテラス側がフロント切妻屋根の本館入口ファサードで、一見すると三階建てに見えるが、一段レベルが低いコルラール広場(駐車場)へ降りると、建物の全体が四階建てであることが分かる。 一階から広場への出入りは建物の風格をかもし出す重厚なアーチ型木製ドアーの開閉、片流れ屋根で五階建てに相当する12世紀起源の高い塔は、本館の北東角部に組み込まれたように連結している。 中世にはサン・シル・ラポピーの騎士達が居住したとされ、その後、建物の所有者は次々と替わり、村が繁栄した時代には「船乗りの宿屋 L'Auberge des Mariniers」と呼ばれたオーベルジェ(食事&宿泊)の時期もあった。 1920年代になり、トゥールーズ生まれのポスト印象派アンリ・マルタン(Hanri-Jean-Guillaume Martin 1860年〜1943年)が購入、後述の画商・資産家のヨセフ・リニョールなどと共にサン・シル・ラポピーへ移り住んだ。これ以降建物は「アンリ・マルタンの邸宅」と呼ばれた(上地図&上描画)。 なお、ポスト印象派の特徴、自然の穏やかな光、点描技法で身近な風景や人物を描いたアンリ・マルタンの作品は首都パリを初め、県庁カオールなどミディピレネー地方の美術館に多数展示され、点数は多くはないが国立西洋美術館や東京富士美術館など日本の美術館でも所蔵されている。 1943年にアンリ・マルタンが亡くなり、1950年以降、邸宅を思想家アンドレ・ブルトン Andre Breton が「夏の別荘」として購入した。アンドレ・ブルトンは、1896年、ノルマンディー地方ティシュブレ Tinchebry で生まれ、「ダダイスム運動」に参加、共産主義へ走りトロツキーに接近など過激な言動で知られ、無数の書籍を出版した作家で詩人でもあり、1924年の出版の後、スペインのサルバドール・ダリを含む、芸術運動・「シュールレアリスム・超現実主義」のリーダーとして知られている。 邸宅の内部にはアンドレ・ブルトンが使ったバスルームやキッチン、真ん中に垂直柱(マリオン)を置く装飾窓の大広間、暖炉や横長で分厚い板を磨き上げたテーブルなど、家具調度品が残されている。 旧アンリ・マルタンの邸宅であり、1966年に亡くなるまでアンドレ・ブルトンの夏の別荘であった建物の北西側、邸宅入口前のテラスの擁壁面よりさらに一段上方レベル、アーチ型入口の三階建ての建物の屋根角には非常に特徴的な仕様、出窓の一種の出っ張ったゴシック様式の「小型の塔」が施工されている。 建物は20世紀初頭の資産家であり有力者エミール・ヨセフ・リニョール(Emile-Joseph Rignault 1874年〜1962年)に名前を由来したリニョール博物館(Musee Rignault 上地図&上描画)である。 かつて建物はセーレ川流域サン・シュルピスの封建領主(騎士)エブラルド家が、13世紀に岩山の狭いほかの三家系領主の共同城砦とは別に建てたシャトー・ガルレッツ城砦 Chateau de la Garlette であった。 当初は、三つの建物で構成された城砦様式で騎士や兵士が居住して、中世以降、「百年戦争」も含め破壊される度に修復が行われ、さらに20世紀になって所有者となったヨセフ・リニョールが、幾分上品な城館様式へ改造したとされる。 ヨセフ・リニョールは、1874年、ブルゴーニュ地方ヴェズレー修道院の南西30kmの城壁村ヴェルジー Verzy で生まれ、ロワール川中流のベネディクト派修道院で有名なラ・シャリテ・シュル・ロワールやパリで美術を学んだ絵画コレクター、画商となった資産家である。 ヨセフ・リニョールは、1920年代の前半、同じく画商の友人エミール・ヴィノ Emile Vinot を初め、後述のピエール・ドーラ Pierre Daura や上述のポスト印象派アンリ・マルタンなど芸術家と共にサン・シル・ラポピーへ移り住み、ビジネスと文化交流を深化させ、地域遺産の保護に尽力して来た。 リニョール博物館の所蔵品はケルシー地方の工芸品、近代絵画、宝飾品、室内調度品など、常設のミックス展示が行われている。また、博物館の敷地には旧シャトー城館の中庭が残され、ここから眼下にロット渓谷を眺望できる。なお、1962年に亡くなったヨセフ・リニョールは、サン・シル・ラポピーの崖下の墓地に埋葬されている。 なお、ヨセフ・リニョールなど美術に精通した関係者、あるいは芸術運動・「シュルレアリスム・超現実主義」のアンドレ・ブルトンなど、文学や思想家などの村への移住や別荘で夏を過ごすなど、1900年代の前半から、サン・シル・ラポピーの文化的な価値と魅力や人々の関心が加速的にフランス中に広まったと理解されている。 さらに、ヨセフ・リニュールとその家族の資金と最大限の努力により、今日ツーリストが見ることができる村の最大の経済資源、観光の目玉である歴史的な建造物の修復や城砦跡の保全が行われたとされる。 リニュール博物館から教会堂へ昇らずに、東方から延びるエイの「尾」のペリサリア通り Rue de la Pelessaria から名称が変わるメイン通り(正式=右の通り Rue Droite)へ向かうと、南方の迂回アスファルト道路D8号脇の「レストラン L'Atelier」から下って来る細い路地に合流する。 この小さな交差点の南側にクラフトショップがあり、急階段と階上の屋根付きベランダに花を飾る古風な民家がある。この花とベランダもサン・シル・ラポピーを訪れるツーリストの「定番写真」のスポットである。 サン・シル・ラポピー村/花を飾る古風な民家 なお、家の窓辺や手摺りや階段に花を飾る習慣は、東フランスの「アルザス・ワイン街道」の村々を初め、スイスやオーストリア、北イタリアなど中央ヨーロッパ全体に共通するお馴染みの風景である(下写真)。ただ、経験論的にはサン・シル・ラポピーの民家では、アルザス・ワイン街道などに比べ、極端に沢山の花を飾っているとは思えない。 アルザス・ワイン街道・イッタースヴィラー村/キレイな花を飾る家 アルザス・ワイン街道・オベルネ周辺 ----------------------------------------------------------------------- また、フランスの「歴史的建造物」に指定されているが、この交差点の西側、メイン通り(右の通り Rue Droite)に面するアーチ型入口の三階建ての建物は、1721年からサン・シル・ラポピーの執政官が管理した旧病院であった。三階の部屋には13世紀の支柱の間があり、梁には彫刻が施されている。建物の表に面する窓は真ん中に垂直柱(マリオン)を置き、上部が三つ葉装飾の美しいゴシック様式仕様である。 20世紀になり建物はスペイン生まれの画家ピエール・ドーラ Pierre Daura の住居となり、1930年〜1939年、画家は妻ルイーズブレアと娘マーサと一緒に住み、1976年に亡くなるまでは毎年夏に滞在した。その後、建物は娘マーサによりサン・シル・ラポピー村へ寄贈され、現在、ミディピレネー地方評議会が管理する国際的なアーティストのための施設となっている。 聖シル教会堂前から西地区のソンブラル広場へ通じるメイン通り(右の通り Rue Droite)を昇って行き、サン・シル・ラポピー観光案内所の手前の左側(南側)に連続して寄棟屋根の古い建物が並んでいる。「ベサックの邸宅 Maison Bessac」と呼ばれ、フランスの「歴史的建造物」に指定されている、このコロンバージュ様式の二階建てと三階建ての建物の起源は14世紀に遡る。かつて商店として使われた通りに面する一階正面ファサードは、石積みと木材の古風なコンビネーション建築である。 また、村の西方の上地区、観光案内所とオーベルジェ(レストラン&宿泊)やカフェなどで賑わうソンブラル広場は、13世紀からマーケットが開かれたとされ、フランスの「歴史的建造物」に指定されている古い家屋が建ち並んでいる。特に広場の南側に建つコロンバージュ様式の数軒は、13世紀〜14世紀に遡る建物で15世紀に改修された。 |
● ロット渓谷と河畔の散策/トウパス(曳き舟道) サン・シル・ラポピーで最も高い岩山の共同城砦跡やリニュール博物館の中庭などから眼下に広がるロット渓谷を眺望する時、右手下方350mほど離れてロット河畔に木々で囲まれた人工の水路のような施設が見える。 これは15世紀に起源を遡り、18世紀に再建された水車と製粉工場、水路を堰き止めて水位調整する閘門(こうもん)施設(上地図)で、現在、フランスの「歴史的建造物」に指定されている。水車の回転駆動による製粉の実作業は1966年に終止されたが、1999年に復元された挽き臼装置はデモ稼働のために機能している。 GPS 水車&製粉工場/閘門施設: 44°28′00″N 1°40′30″E/135m 水車と閘門施設を見学するルートでは、サン・シル・ラポピーから東方1.5km、ロット川に沿って走る地方道D662号のツゥール・ド・フォール村 Tour de Faure からロット川の橋を渡り、地方道D8号でサン・シル・ラポピーへ向かう時、河畔のキャンプ場 Camping de la Plage(上地図)を右側に見て間もなくすると、ロット渓谷と水車施設へ通じる分岐道路がある。あるいはサン・シル・ラポピーの「アンリ・マルタンの邸宅」のコルラール広場周辺から渓谷へ下る細い路地もあるので利用できる。 16世紀の混乱の「ユグノー戦争」が終わり、サン・シル・ラポピーは安定と繁栄を取り戻した。後の19世紀の末に石炭や木材の運搬を目的に、ロット川上流の城塞都市カプドナック〜下流のカオールまで「ケルシー鉄道(後述)」が敷設される。しかし、それまで何世紀もの間、ケルシー地方はロット川を航行するせいぜい35トンまで積載重量の艀舟(はしけ)と25m以下の平底船など、小型船を使った交易と物流が主流であった。 17世紀になるとロット川のさらなる活用開発に力が注がれ、水路&閘門が整備され、より大型船を使った食料や日用品を初め木材資源と加工品など大量物流が盛んになって来た。このため重い荷物を積載した大型船が上流へ向かう際、河畔からロープで船を牽引して航行補助するトウパス(曳き舟道 Chemin de Halage)が造られた。当初、男達による人力に頼り、後に馬を使った曳き舟作業へ発展して行く。 水車と閘門施設を経由して下流のブジー地区 Bouzies まで約3.5kmほど、蛇行する川に沿ってハイクできる「ロット渓谷散策ルート」はアウトドアー・ツーリストに人気の高いトレッキング・コースとなっているが、この時代のトウパスの一部である。 サン・シル・ラポピー周辺のロット渓谷は川幅が狭く断崖絶壁が続き、河畔に通常の土のトウパスを造ることができない最大の難所であった。この問題解決のため、1845年、水面から少し上がった石灰岩の崖壁面を半トンネル状に掘削して曳き舟道としたオーバーハング状トウパスが完成した。 現在、サン・シル・ラポピーから下流のブジー地区との間、ロット川左岸で水位調整する「ガニル閘門(こうもん)Ganil-Lock」近くには高さ2m以上、距離300mの半トンネル状の崖壁掘削トウパスが残っている。この人の手により掘削された崖壁面のトウパスは、徒歩のトレッキング愛好者だけでなく、ロット渓谷で盛んなボート・クルージングの人達も注目する必見スポットとなっている。 ----------------------------------------------------------------------- ● ペッシュメルル洞窟 La Grottes de Pech Merle 歴史の街フィジャックから流れ下るセーレ川 Cele は、サン・シル・ラポピーの下流2.5km付近、崖壁面トウパス付近でロット川と合流する。サン・シル・ラポピーから北北西5km、セーレ渓谷の村カブルレ Cabrerets の西方1km、標高300mのなだらかな山腹の地下から、1922年、二人の少年により25,000年前の岩絵を残すペッシュメルル洞窟が発見された。 GPS ペッシュメルル洞窟: 44°30′27″N 1°38′39″E/290m 直後からカブルレ村の神父 Lenozi が調査と研究を行い、洞窟は後期旧石器時代の人々が住んだ総延長2kmの巨大な鍾乳洞であることが判明、最古25,000年前に遡る「点紋様の馬」を初め、10,000年前までに赤色・朱色・黒色などの顔料を使って描かれた人間の姿や手形、マンモスやバイソン、ヤギやシカや牛など無数の岩絵や子供の足跡も残されていた。 1926年、洞窟内部の一般公開が始まり、博物館も併設され、ギャラリーと呼ばれる大きく三区分された大空間や凹み空洞が連続する洞窟内では、個人ツーリストの見学のみならず、学校の生徒達やグループなどの洞窟スクーリングも行われている。なお、ペッシュメルル洞窟はフランスの「歴史的建造物」に指定されている。 なお、セーレ渓谷とロット渓谷では、カブルレ村を基点する半径5kmの範囲だけでも、合計10か所、多くの洞窟は長さ25m〜150m前後、後期旧石器時代の人類の痕跡を確認できる鍾乳洞が見つかっている。このエリアではペッシュメルル洞窟が最大規模の鍾乳洞で一般公開されているが、ほかは非公開となっている。 また、サン・シル・ラポピー地区では村の北西2km付近で、1978年、旧石器時代に遡るバイソンの岩絵が見つかった、長さ40mの小規模なムーラン洞窟 La Grotte du Moulin がフランスの「歴史的建造物」に指定されている。ただし、洞窟は個人所有地にあり非公開となっている。 |
● セーレ渓谷・カブルレ村 Cabrerets サン・シル・ラポピーから北北西5km、標高150m、セーレ渓谷のカブルレは人口200人、サン・シル・ラポピーよりさらに小さな村である。村の名称・「カブルレ」はオクシタン語 Occitan の「ヤギ・山羊」を意味する「cabre」から由来されたとされる。 ※オクシタン語(オック語): 俗ラテン語から派生した「ロマンス語」の一種 フランス南部〜プロヴァンス地方、イタリア北西地方、スペイン・カタルーニャ地方などで「第一言語」として話されている。日常的なオクシタン語の話者数は約80万人とされる。 カブレル村の直ぐ北背後に標高差100mの石灰岩の高い崖が屏風のようにそそり立つ渓谷の中、セーレ河畔にできた三角形の平地に村の家並みが形成されてきた。 ロット渓谷から地方道D41号でセーレ渓谷を北上すると、村の最も南側の崖上にフランスの「歴史的建造物」に指定されているカブルレ城砦・「悪魔の砦」が待ち構える。かつて12世紀の終わり、イングランド・ヘンリーU世の息子であり、好戦的なリチャードT世がサン・シル・ラポピーの城砦を攻撃した後、遅くとも1259年、ボルドー南東の白ワインの名産地バルザックの領主が、セーレ渓谷の「関所」となるカブルレの崖上に初期の城砦を建造した。その後、14世紀になると「百年戦争」が始まり、1380年、イングランド配下のアキテーヌ軍がカブルレ城砦を占拠した。 さらに10年後の1390年、ラポピー家の最後の継承者マルゲリータの夫アーノルド・エブラルドの父、セーレ渓谷サン・シュルピスの有力封建領主(騎士)ジョンT世・エブラルド(?〜1417年)が城砦を攻撃して破壊する。 地方道から20m以上高い崖上、直径15m弱の巨大な円形砲塔が二棟、城壁のような現在の「L字形容」の要塞様式の堅牢なカブルレ城砦は、16世紀の初期、「ユグノー戦争」の直前に再建され、17世紀に改造されたものである。 また城砦の足元のセーレ河畔には、三階建ての大型水車小屋があり、その道路脇には大型石臼(いしうす)を目印に置き、かつてこの水車で挽いた小麦粉を使ってパンを焼いていたパン屋が今でも営業をしている。 |
● ☆☆☆ホテルの印象/グラス・ワインの酔いと霧雨 夏の日、サン・シル・ラポピーを訪ね、予約もなく宿泊を願い出た時、快く対応してくれたのは、当時、村で唯一のホテル・「☆☆☆ホテル・ペリサリア Hotel de La Pelissaria 上地図」の上品な雰囲気のきれいなマダムであった。部屋数こそ5室(宿泊8名)と少ないが、ホテルの外観は村の典型的な家々と同様、16世紀に起源を遡る堅固なシャトー様式である。 ホテルの内装を見ると、大型の石材を使った厚さのある壁のニッチ(凹み部)に鮮やかな花を飾り、シックな色のタイルの床面、広く清潔なバスルーム、粗削りの太い梁がむき出しの天井、ピアノが備えられた過度に飾らない部屋の装飾など、モダンながら随所に豊かな地方色と数百年も続く伝統が活かされ、本当に小さな村にあって落ち着きと気品を感じる建築であった。 夕刻、昼間に確認しておいた迂回道路D8号脇の見晴らしの効く「レストラン・ラレリエ L'Alelier」で席を取り、アルコールに弱いながらもかろうじてグラス・ワインを空け、ホテルのマダムお薦めの地元の鴨(アヒル=カナール)料理を堪能した。 最後のコーヒーを味わってレストランを出た時、外は霧雨が降り始め、カンテラの燈る村は神秘的なベールで煙っていた。ホテルに戻り、寛いでいる頃には窓の外は霧雨から小雨へと変わったようだ。 丁度ピアノの詩人ショパンの有名な前奏曲第15番・変ニ長調≪雨だれ≫に似て、小雨は恥ずかしそうなかすかなリズムを作り、静かなサン・シル・ラポピー村を濡らしている。そうして意識が薄れ行き、アルコールに弱い私は心地よいグラス・ワインの名残りのお陰で深い眠りの世界へ誘惑されて行った・・・ 夜明けとともに夜半からの≪雨だれ≫の調べも去って行き、雑音一つない石造りのホテルの静かなモーニングテーブルで朝食を取りながら、雨上がりの優しい色合いにしっとりと染まったサン・シル・ラポピーの村を窓越しに眺める。絵に描いたような美しさである。「これだ!この時間が自分流の旅なのだ!」、しかも、16世紀からの歴史ある高貴なホテルに宿泊できたことを納得するであった・・・ ● ホテルのモーニング・テーブル/窓越しに眺める朝の静かな風景 交通不便な南西フランスの辺鄙な場所だからこそ、世界的な観光ブームの中でも伝統と文化をかたくなに守り、幸いにも村は今日まで俗化を免れてきたのかも知れない、などと考えながら・・・窓越しにあまりに静かなラポピー村(下写真)を眺めていると、マダム特製の焼きたての美味しいパンをちぎり、無意識の中で香り高い朝のコーヒーカップを口元へ運ぶ速度が遅くなっていることを、自身で気付くまでかなりの時間が必要であった。 この時、ふらりと立ち寄り偶然に宿泊できた美しい村が、快晴の天候ではなく、小雨と霧で包まれていたことに、むしろ心癒されたと感じた。あえて翌日のスケジュールの変更をしてまでも、サン・シル・ラポピーに宿泊した判断は間違っていなかったと、自身に語りかける。 フランスに限らずヨーロッパの多くの国では、築以来数百年も経過した伝統的な古風な造りの住宅を壊すことなく改築を重ね、住み続ける文化的な習慣が残されている。そういう古い家屋が連なる小さな村、フランスではこのサン・シル・ラポピーのような殊更に歴史的で美観溢れる村が「フランスの最も美しい村」に認定されている。 「ホテル・ペリサリア Hotel de La Pelissaria」のモーニングテーブル/サン・シル・ラポピーの村を眺める ● 「☆☆☆ホテル・ペリサリア Hotel de La Pelissaria」の情報 16世紀に遡る伝統、素晴らしい「ホテル・ペリサリア」は、残念なことに2009年10月を以ってホテル30年の歴史に幕を閉じ、通年ホテルとしての営業を止めてしまった。ただWeb情報によれば、6月〜9月の4か月間限定で、5室=8名のみ、1週間単位の「レンタルルーム方式」での宿泊は可能となっている。 2019年の料金は「1週間=E2,500=約¥30万」である。宿泊料金の高低ではなく、ホテルの価値はツーリストが宿泊して、そのサービスと居心地の良否で初めて納得ができるものである。料金だけに拘っているようでは、このような16世紀起源の高貴なシャトー様式のホテルに宿泊する前に、ツーリストの「心の資格」が疑われるだろう。 「ホテル・ペリサリア Hotel de La Pelissaria」なお、フランスから離れるが、文化や風土や歴史が異なる日本でも、経験論の話となるが、特に長野や岐阜などの山深い地方では古い民家の外観を残し内部を改造した良質な宿泊施設を時折見ることができる。私の知っている範疇では、長野県の蓼科高原の美しい横谷峡に佇む「豪族の館・大東園」などもその典型例であろう。 築百年余りの古民家を改築し伝統を生かした造作の「豪族の館・大東園」は、古い囲炉裏(いろり)と炭火を囲み、戴く牡丹鍋や岩魚姿造りなど自慢の山渓郷土料理を提供する旅館。溢れる天然温泉、風情をかもす木曽檜造り風呂と八ヶ岳の自然岩を使った岩風呂など、山深い長野蓼科高原ならではの贅沢な時間を過ごせる隠れた小さな割烹旅館である。 日本最大の旅行雑誌、リクルート社・「じゃらやん」の利用者の口コミランキング発表では、関東・甲信越地区の「夕食の美味しい旅館」部門で、「大東園」が「年間ランキング1位」となっている。大げさなコマーシャルをしない、TVや雑誌の取材を受けない静かな姿勢ながら、「ランキング 1位」は素晴らしい。 ●期間 2017年8月〜2018年7月(1年間) ●「夕食の美味しい旅館」・関東・甲信越地区 ●「大東園」 ランキング 1位 あるいは岐阜・高山の玄関口・下呂市にある明治2年に建てられた奥飛騨の古民家を移築改造して、1982年にオープンした「和風民宿・赤かぶ」も情緒ある宿泊施設である。 落語の世界にも精通、紙切り演芸や手打ちソバの名手であるオーナーと気さくな女将は青少年教育にも熱心で「南飛騨自然塾」というキャンプ形式の集いは超人気となっている。歴史ある囲炉裏(いろり)を囲み、しゃぶしゃぶ料理と飛騨の地酒とドイツワインの酔いは高山観光を一層盛り立てる。 「豪族の館・割烹旅館・大東園」/長野県蓼科高原・横谷峡 https://daitouen.info/index.html 「古民家造り・民宿・赤かぶ」/岐阜県下呂市萩原町 http://www.akakabu-wa.com/ サン・シル・ラポピーより少し北方の聖地ロカマドール方面の雲が切れ、青空が覗き始めてきた。次に訪れる南方の朱色の街アルビやトゥールーズでは、間違いなく明るい南フランスの夏の陽光が輝いていることだろう。世界遺産アルビの司教館を改装したトゥールーズ・「ロートレック美術館」に立ち寄っても十分時間はあるだろう。 その後、ラベンダーの花の満開に合わせてプロヴァンス地方へ移れば良い。夏の南フランスは雨は降らないし、昼は長い。焦らず目を閉じて、無心となって流されるままに「まどろみの時間」を過ごすのだ。 だとしたら、次なる目的地は「フランスの最も美しい村」に認定されたリュベロン平原の丘上都市ゴルドやルールマラン(ルールマルン)が良いだろう(下写真&下描画)。焦らず、緩やかに、「心に刻む遥かなる時」を感じる旅なのだから・・・ 現在、フランスには人口2,000人以下の「村」と言われる自治体が約32,000か所あるとされ、 そのうち「フランスの最も美しい村」に認定されているのはわずか172村だけ(2023年現在) である。 「フランスの最も美しい村」: http://www.les-plus-beaux-villages-de-france.org/ 「フランスの最も美しい村」 プロヴァンス地方の丘上都市・ゴルド 「フランスの最も美しい村」ゴルド シャトー城館から眺める「フランスの最も美しい村」 ルールマラン(ルールマルン)市街 リュベロン地方/描画=Web管理者legend ej プロヴァンス地方・「フランスの最も美しい村」ゴルド&郷愁を誘小さな村々 |
● 鴨(アヒル=カナール)料理 ロット渓谷周辺では鴨(アヒル=カナール)の飼育が盛んで、美味な地方料理の食材としてたくさん使われる。サン・シル・ラポピー村で食事のチャンスがあるならば、鴨(カナール)を使った料理をオーダーすることを推奨したい。 同じケルシー地方の聖地ロカマドール周辺(下写真)の有名な仔羊料理に勝るとも劣らない鴨料理の味わいは、「フランスの最も美しい村」に相応しい忘れ難い経験となるでしょう。できれば村がカンテラと橙色の夜間照明で淡く輝く夕刻の頃、村の全容を眺められるレストランの席を早めに確保するなら、それこそが「一生もの」の美しい映像記憶と感動物語となるはずだ。 眼も開けられない猛烈な砂嵐が吹き荒ぶサハラ砂漠のオアシスでも、朦朧とする灼熱の気温60℃、真夏の中東イエメンの砂漠地方でも小麦粉と塩味だけで焼いた、膨れていないパンを食した経験もある私は、絵日記ブログに見かけるパリ・16区の白いテーブルクロスの高級レストランで小指を立てて食べたと推測できる、写真付き豪華なグルメ・メニューの知ったかぶりの自慢話はできない。 しかし日本が東洋の三流国と呼ばれ、白黒テレビはあったが、まだ「海外旅行」という単語が存在しなかった1972年以来、世界47か国、1,250か所の町や村々を旅して来た狭い経験論で言えば、ヨーロッパやアフリカ、中東やアジアなど人が生活さえして居れば、砂漠や山岳地帯でも熱帯地域でも何処でも、見た目の美観の良し悪しを問わなければ、必ず「美味な地元料理が存在する」という普遍の地球哲学を知っている。 ロカマドールの「下の市街」・クロンヌリー通りの黄昏時/小奇麗なレストランの明かりがツーリストを誘う ケルシー地方 世界遺産/「聖アマドール伝説」と「黒い聖母子像」のキリスト教巡礼聖地ロカマドール ------------------------------------------------------------------------ 比較的キレイな食の話をするならば、フランスの国内に在ってドイツ文化を継承する東フランス・アルザス地方にも伝統料理がある。 例えば、夏のワイン祭りのお決まり料理となれば、お馴染みの「シュークルト」、あるいは挽肉をパスタ生地でロール状に巻き、ブイヨンで煮込んだ渦巻き形状の「ドイツ語=肉&カタツムリ」を意味する「フレッシュシュナッカ」、「タルト・フランべ」、その上で飲まれるのは濃厚な香りとこくに特徴されるアルザス特級ワイン・グラン・クリュである(下写真)。 豪華なグルメ・メニューに慣れている人は見向きもしない、マナーも遠慮も要らない何れも「B〜Cクラス」の一品料理であるが、庶民が日常的に食するメニューこそが、正統なる食文化としての「地元料理」と言える。 ワイン祭りのファーム・レストラン料理・「シュークルト」 ワイン祭りの定番おつまみ・「タルト・フランべ」&白ワイン また、南部アルザス・サングオ地方では腐葉土がもたらす 栄養豊かな雪解け水を溜めた池を利用して、淡水魚・ コイ(鯉)の養殖が伝統的に盛んに行われてきた。 「肉の国」にあって、淡水魚の料理もバラエティに富むが、 鯉を使った最も人気のある料理は、何をさて置いてもフ ライに揚げた鯉の切り身、「鯉フライ」である。この「鯉フラ イ」も個人的には絶品の味である(左写真)。 その「鯉フライ」をメニューにしている地元レストランの点在 をして、東フランスの人々はサングオ地方の「鯉フライ街 道」と呼ぶ。 東フランスの名物料理・「鯉フライ」/サングオ地方 |
● 廃線となった鉄道線路 ロット渓谷ではフランス国鉄SNCFの路線はなく、かつてヨーロッパ産業革命で需要が高まった石炭や木材を内陸部から運搬するためなどから、1880年代に複雑に蛇行する渓谷に沿って狭軌道の「ケルシー鉄道 Quercy-Rail」が敷かれた。その後、時代と共に活況を呈して来たケルシー鉄道は、ロット川に架かる世界遺産のロマネスク様式ヴァラントレ橋に代表される中世都市のカオール Cahors と上流の「フランスの最も美しい村」に認定されている城塞都市カプドナック Capdenac の間、蛇行しながら71kmを旧式のディーゼル駆動の客車を運行していた。 また、夏の観光シーズンには古いタイプの客車を連結した蒸気機関車SLが、人気の観光用として週に3便ほど、カオールと中流のカジャルク Cajarc との間46kmを低速走行で運行されていた。しかし、その後、ケルシー鉄道は自動式踏切がないこと、建設当時のままの古い設備とメンテナンスの課題、直線がほとんどなくカーブが続く渓谷線路であること、130年前からの鉄橋や数多くのトンネルの安全性などを巡って、フランス運輸省当局からの営業路線の運行許可が取り消され、2003年の年末の運行を最後に全面運休となり、事実上の「廃線」となった。 ● ロット渓谷とセーレ渓谷の魅力 南西フランス地域で私の好きな中世の街の一つが、サン・シル・ラポピーから北東35km(直線)のフィジャック Figeac である。市内はアウトドアー・スポーツのメッカ、フランス中央高地の標高700mを源流として下流でロット川へ合流する清流セーレ川が流れている。 北河畔に広がるフィジャック旧市街は、中世に引き戻されたような雰囲気が漂う狭く曲がりくねった古風な石畳通り、坂道と複雑に密集し連結する家屋、時折出くわす豪奢な造りの邸宅など、さながらサン・シル・ラポピー村を五倍くらい拡大したような感じである。 旧市街には12世紀の起源のピュイ聖母教会堂や14世紀の聖トーマス教会堂、複雑で豪奢な建築の邸宅群など数多くのフランスの「歴史的建造物」に指定されている建物と施設があり、観光ルートや標識なども整備されてる。私が訪ねた夏の時期に限れば、旧市街はツーリストで賑わっていた。 また、サン・シル・ラポピーからロット川を25kmほど遡った人口1,150人のカジャルクは、映画≪シャーロット・グレイ≫の撮影ロケ地となり、フランスの「歴史的建造物」に指定されているケルシー鉄道の駅舎など古風な雰囲気が漂う村で、経験論で言えば、のんびり散策するのにぴったりのスポットと言える。 「フランス 美しい町100選」: http://www.plusbeauxdetours.com/ |
● 「フランスの最も美しい村」 現在、フランスには人口2,000人以下の「村」と言われる自治体が約32,000か所あるとされ、そ のうち「フランスの最も美しい村」に認定されているのは172村だけ(2023年現在)である。 「フランスの最も美しい村」: http://www.les-plus-beaux-villages-de-france.org/ ● サン・シル・ラポピーへの行き方・交通アクセス/バス/徒歩 レンタカーと時間の余裕があれば、サン・シル・ラポピーへのアクセスは大きな問題はないが、忙しい個人ツーリストがこの村を訪ねようとする場合「結構難しい」と言えるだろう。地元の移動手段として、上流の古い街フィジャック Figeac 〜下流のロット県庁カオール Cahors の区間、渓谷沿いを蛇行する地方道で約80km、1日5本程度の路線バスが運行されている。 ミディピレネー地方観光局の推奨する「ベスト景勝地 Grands Sites(25か所)」でもあるカオール、またはフィジャック駅前から路線バスに乗車して、途中の人口380人のツゥール・ド・フォール村 Tour de Faure で降車する。 GPS ツゥール・ド・フォール村バス停: 44°28′08″N 1°41′22″E バス停からカオール方向(北西)へ300m進み、T字路を左折、地方道D8号で「☆☆Hotel les Gabarres」の前を通り、250m先のロット川に架かる幅の狭い橋(交互通行1車線)を渡る。橋を渡った右側にキャンプ場がある。 その後、地方道D8号を道なりに1km進めば迷うことなくサン・シル・ラポピー村の東城門・ペリサリア門へ到着できる。この門周辺で最初の「定番写真」が撮れる。徒歩ならバス停から村までおおよそ30分〜40分程度である。 また、村への途中、橋を渡りしばらくすると「ロット渓谷散策コース&トウパス」とフランスの「歴史的建造物」に指定されている水車小屋と閘門施設のある河畔への右折道路がある。 |
位置: アルビ⇒北西22km/GPS: 44°03′49″N 1°57′06″E 人口: 1,000人/標高: 290m 「TV局F2 フランス人の最も好きな村」: 2014年調査・1位 ● 「ミディピレネー景勝地」のコルド旧市街 「天空の城塞都市」と呼ばれるコルド・シュル・スィエルの街は、画家ロートレックの生まれ故郷の世界遺産アルビ Albi の北西22km、南西フランス特有のなだらかな丘陵の頂点と斜面に沿い細長く密集するように佇んでいる(下写真)。 美しい街並みコルド旧市街は、フランスのテレビ局F2の調査ではサン・シル・ラポピー(2012年)と並び、2014年の「フランス人の最も好きな村」として最上位ランクされている。ちなみに、コルドが「フランス人の最も好きな村」で1位にランクされた年の2位は、アルザス・ワイン街道の「花咲く美しい村」 アンドー村が選ばれている(下描画)。 「天空の城塞都市」 コルド・シュル・スィエル/ミディ・ピレネー地方 アルザス・ワイン街道 「花咲く美しい村」 アンドー村/描画=Web管理者legend ej 秋の頃 黄金色に染まるワイン用ブドウ畑に囲まれた聖アンドー礼拝堂とブドウ栽培の農家 「アルザス・ワイン街道」(北部)オベルネ周辺/コロンバージュ様式の美しい村々 ● コルドの波乱の歴史 中世12世紀〜13世紀、コルドを含むミディ・ピレネー地方は中心地トゥールーズの領主・トゥールーズ伯家の統治範囲であり、まだフランス王国の勢力が及ばない地域であった。 中世13世紀の初め、コルドの町はトゥールーズ伯レイモンドZ世により、街を囲む強固な防御城壁が築かれたことにより急速に発展、当時の人口は5,500人を越えていたと言う。トゥールーズ伯がスペイン・コルドバ (Cordoba 下写真)から名を取り、町の名称を「コルド Cordes」と令名した、と伝承されている。 コルドバ・メスキータ寺院/アンダルシア地方 世界遺産/スペイン・グラナダのアルハンブラ宮殿/コルドバのメスキータ寺院 一方、宗教世界を見た場合、12世紀頃まで南部フランス一帯は比較的安泰な状態が続いていた。しかし、ローマ・カトリック教会の唱えるキリストの復活や三位一体論とかなり「異なるキリスト教思想」を主張する民衆運動が起こり、その勢力は徐々に拡大傾向となって来た。 聖書を拠り所としながら、神の力より民衆の精神と隣人愛に重きをおくこの宗教思想こそが、ローマ・ヴァチカン教皇庁の最も恐れた「アルビジョワ派(カタリ派=アルビ派)」の主張であった。 ヴァチカン・カトリック教会から反動的で「異端」と呼ばれながも南部フランスに拡大した、この異質なキリスト教徒勢力の征伐を大義にヴァチカン教皇インノケンティウスV世の令を受けてアルビジョワ十字軍 (1209年〜1229年)が結成された。当初十字軍の指揮はノルマンディー出身でイングランドの第5代レスター伯シモン・デュ・モンフォールW世が担当したが、1218年に戦場で戦死した。 最終的には自らも南部への領土拡大の野望を抱くフランス王ルイ[世(獅子王 1187年〜1226年)、さらにその息子ルイ\世(聖ルイ1214年〜1270年)が指揮権を把握して領土紛争へ発展する。そうして、幾多の戦いの後、トゥールーズ伯レーモンY世(Raymond VI 1156年〜1222年)とそれを引き継いだ伯レーモンZ世との和約(レーモンZ世の一人娘ジョアンナとルイ\世の弟アルフォンスU世の政略結婚など)で、1229年、20年に及んだ「アルビジョワ十字軍」は終結する。その後、暗い歴史に刻まれた異端審問が開かれ、さらにヴァチカン教皇庁への再反抗の勢力も組まれたがことごとく殲滅されて行く。 結果、トゥールーズ伯の治める民衆運動の拠点であった大都市トゥールーズを初め、赤色レンガの街アルビ、大要塞のカルカッソンヌ、プロヴァンス地方アヴィニョン(アヴィニオン)、そして、ピレネー山地の村々などと同じく、コルドの町も十字軍の襲撃を受け、火刑などにより多くの聖職者や民衆は歴史的とも言える犠牲を支払うことになる。その後、和約通りの結婚が行われ、戦乱によって荒廃した南部フランス一帯は、ルイ[世(獅子王)が目論んだ通り、フランス王国領に組み入れられてしまう。 続く14世紀になり、フランス・カペー朝シャルルW世の妹、ヨーロッパ貴族社会で「絶世の美女」と言われたイザベルが、イングランド王エドワードU世の王妃となってフランスからイングランドへ嫁いで行く。一方、1328年、イザベルの故郷、本国フランスでは350年近く続いたカペー朝最後の王、イザベルの兄シャルルW世が亡くなった。 シャルルW世王に男子継承者の無かったため、妹イザベルとイングランド王エドワードU世の息子エドワードV世が、ヴァロワ朝初代のフランス王フィリップY世に対して「自らが正当なる王の継承者」を唱えた。これ以降、フランスとイングランドとの政略的な争いはエスカレートをさらに上塗りして、中世ヨーロッパの歴史を染める「百年戦争(1337年〜1453年)」へと進んでしまう。 数世代の王国統治者に引き継がれた「勝ったり負けたり」の止むことのない「百年戦争」を通じて、上述のサン・シル・ラポピーなどミディピレネー地方の多くの町がそうであったように、1436年、城塞都市コルドの町はスペイン生まれの略奪傭兵団のロドリゴ・デ・ヴィリャドランドの率いる部隊の攻撃を受け、大きな被害も被ることになる。 18世紀に入ると、コルドは13世紀以来の長い間、それまで優位にあった経済と金融と交易の中継地としての位置と力を徐々に失ってしまう。しかし、その後になって、サン・シル・ラポピーと同様に、中世の面影を色濃く残す街の美しさに魅了された多くの芸術家達が移り住むことで、現在では「芸術家の街」としてその名が知られるようになった。 ------------------------------------------------------------------------ ● コルド旧市街の景観/「歴史的建造物」がずらりと並ぶ コルド・シュル・スィエルの街は、今でこそ家並みが長さ1km近くに延びているが、中世からの旧市街に限れば、地質的に白色石灰岩質の固い岩盤の上、東西650m 南北150mほど、「馬の背」のような細長い丘の頂点と傾斜面に発達して来た。かつてコルドが発展するに追随して市街区域も拡張されて来たことから、丘を取り巻く通りと市街を防御する分厚い城壁は、特に旧市街の東側では二重〜三重〜四重と追加建造が行われた。 旧市街では、現在、合計23か所を数えるフランスの「歴史的建造物」に指定されている中世の建物や施設が残されている。コルドにおいては、特に堅固な城門と高貴な邸宅の数に顕著な特徴がある。東側の斜面を守る砂岩と石灰岩を積み上げ、頂上に円形の装飾小塔を載せた第四次城壁の時計の門(Port de l'Horloge 16世紀)を初め、最初の城壁(第一次城壁)で街の西方を固めるジャン門(Porte de la Jane 13世紀)とオルモー門(Porte des Ormeaux 13世紀)、北入口の役目を果すポルタネル門(La Portanel 14世紀)など5か所の要塞城門は、今でも建造当時の600年〜700年前のままの姿を残している。 そのほか、時計の門からさらに旧市街へ登って行くと、通りは急坂で極端な狭いカーブとなり、城門ではないが、左側と右側に分厚い第三次城壁に組み込まれた、13世紀起源の望楼(物見やぐら Tour de la Barbacane)と呼ばれる角部が円形の巨大な住宅兼建物となる。左右双方の建物の外壁は小さな覗き窓以外に細工の乏しい稜堡のような形容、中世の時代、両側から狭い通りを挟み、敵や不審者を見張っていたのかもしれない。 「定番写真」でもある時計の門〜第三次城壁の望楼(物見やぐら)まで200mほどの望楼(物見やぐら)大通り Grand Rue de la Barbacane の区間が、16世紀に拡張された言わば「下の旧市街」となり、望楼(物見やぐら)を過ぎると直ぐに第二次城壁の勝者の門 Porte du Vainqueur、さらにわずか50mの距離で13世紀の第一次城壁のアーチ型の画家の門 Portail Peint となり、この城門の内側がコルド発祥の旧市街エリア、言わば「上の旧市街」となる。 コルドの街は「馬の背」のような場所で最初の城壁に囲まれた「上の旧市街」が中心となり、標高290mのブリド(頭絡=革ひもと金具の組合せ馬具)広場 Place de la Bride を頂点として、東西400m、南北は幅が狭く150mほどの急斜面となっている。 「上の旧市街」には西端のオルモー門へ下るレイモンドZ世大通り Grand Rue Raimond VII をメイン軸にして、これに平行する感じで東西方向に延びる別の四本の石畳の通りが走っている。旧市街の通りは何処でも狭い坂道となり、中世から続く全ての敷き石が見事に磨り減り、ツルツルで滑りやすい。この急坂の石畳の道を歩むツーリストに対して(少なくとも私は)、下の観光案内所の美人スタッフは「滑るので足元に注意して!」と、微笑しながら自慢と誇り、恥ずかしさと少しの警告を込めてアドバイスをしているほど。 ----------------------------------------------------------------------- 東西に走る石畳の通りには、ブリド(頭絡)広場の西方の聖ミカエル(ミッシェル)教会堂を初め、コルドの繁栄を今に伝える、古くは13世紀ゴシック様式〜16世紀ルネッサンス様式の邸宅、地元産のベージュ色と淡い赤茶色の砂岩を使った古い造りの建物が数多くびっしりと建ち並んでいる。それらは現在でも市民の住居であり、ホテルやレストランやショップ、町役所や銀行や郵便局、さらにオフフィスや芸術家のアトリエや工房などである。 例えば、「上の旧市街」の頂点のブリド(頭絡)広場の南側、レイモンドZ世大通りには二階〜三階に垂直円柱(マリオン)と教会堂で見かけるようなバラ窓様式の非常に豪華な三連窓を施工した美しい邸宅 Grand Fauconnier(14世紀)、そして、1世紀ほど古風なファサードの邸宅 Pruneto(13世紀)が連結して並んでいる。現在、ここは複数のアーチスト達の作品を展示するモダン&コンテンポラリー美術館として使われている。 レイモンドZ世大通りを西端のオルモー門へ向かって少し下がると聖ミカエル(ミッシェル)広場 Place St-Michel となるが、小さな広場の脇は旧フォンペヤローズ邸宅 Fonpeyrouse で、現在、町役場が入居している。聖ミカエル広場の北側が13世紀の起源の聖ミカエル教会堂で、14世紀後半に再建された鐘楼、15世紀には身廊の再建と拡張が行われ、混乱の16世紀の「ユグノー戦争」の後に屋根が修復されている。 町役場よりさらに下ると、南側に邸宅 Ladeveze が、北側に邸宅 Gaugiran がレイモンドZ世大通りを挟み対面するようにほとんど同じ建築仕様で建っている。双方共に13世紀起源、砂岩のファサードの一階は細かな格子枠のアーチ型窓、二階と三階は真ん中に精巧な柱頭彫刻の垂直円柱(マリオン)の美しい窓に特徴がある。これらはすべてフランスの「歴史的建造物」に指定されている。 コルドの「上の旧市街」の頂点であり、石のベンチが備えられ、トチの大木が立ち並び涼しい木陰をつくるブリド(頭絡)広場は、コルドの展望台でもあり、北方への雄大な眺望が開け、レストランとカフェも営業している。街の人々の憩いの場所で、私が訪ねた時には風景画を描く幾らかの人達が居た。 ブリド広場から急石段で西方(聖ミッシェル通り Rue St-Michel)へ下がると、14世紀に建造された屋根付きのアル(Halle 市場)がある。古くからコルドは頭絡(馬具)など皮革製品と繊維織物の生産の拠点であり、アル(市場)はこれらの製品の販売所として造られたとされ、複雑な木梁の構造天井と大屋根は24本の砂岩の八角柱で支えられている。 支柱の一本に16世紀起源の錬鉄(鍛冶)の細身の十字架が掛けられている。十字架も含めアル(市場)はフランスの「歴史的建造物」に指定されている。なお、この種の屋根付きの建物施設はミディ・ピレネー地方に点在する古い街でしばしば見ることができ、セーラ河畔の歴史の街フィジャック旧市街、コルドから北西20kmのサン・アントニ St. Antonin Noble Val の旧市街などでも見ることができる。 また、美術館・博物館では、旧市街の西方を固めるオルモー門の直ぐ内側、聖ミッシェル通りに先史時代の発掘品や生活用品などコルドの歴史的な資料を展示する建築家で歴史学者・シャルル・ポータルの名を付けた博物館 Charles Portal Museum が、そのほか砂糖を使ったちょっとユニークな造形作品のシュガー美術館、色々な中世の衣装を着けた80体の樹脂製人形が展示されたイストラマ博物館なども公開されている。 ----------------------------------------------------------------------- ● 東方の丘から旧市街展望 「下の旧市街」の時計の門より下がる時計通り Grand Rue de l'Hortoge は麓の観光案内所まで延びている。さらに東方のボルティレーリ広場 Place de la Boulteillerie では毎週土曜日、オープン・マーケットが開かれる。また、夏7月〜8月には「夜間マーケット」と呼ばれる有名な出店市が開かれ、コルドで活動する工芸家や腕に自信のある市民の木工製品やオリジナル衣類やアクセサリーなどの即売が行われる。 ボルティレーリ広場からさらに東方へ穏やかに延びる潅木と草地の丘の稜線へ登ると、丁度良い距離から城塞都市コルド旧市街の全容を眺めることができる。草木の少ないこの丘は旧市街を眺望する「定番写真(上写真)」の撮影ポイントとなっている。 夏の時期、夕陽が西方に連なる丘陵地帯へ沈む頃、茜色に染まった空に反射して、中世から旧市街の家々の壁や城壁、そして朱色の屋根がさらに赤紫色の輝きを増す。そんな時、お世辞にも交通アクセスが良いとは言えないコルドの街を訪れた苦労は消え去り、満足感に自身で納得できる。 GPS 旧市街・展望・「定番スポット」の丘: 44°03′45″N 1°57′52″E/標高250m |
現在、フランスには人口2,000人以下の「村」と言われる自治体が約32,000か所あるとされ、そのう ち「フランスの最も美しい村」に認定されているのはわずか172村だけ(2023年現在)である。 「フランスの最も美しい村」: http://www.les-plus-beaux-villages-de-france.org/ ● アルビ/ガヤック旧市街/リスル・シュル・タルヌ村/美村ピュイセルシ/城砦跡のペンヌ村/美村モネスティエ 2010年8月、コルドの南東25kmの画家ロートレックの生まれ故郷であるアルビの司教都市(旧市街)がUNESCO世界遺産に登録された。 城塞都市コルドを含むミディ・ピレネー地方タルン県(県庁=アルビ Albi)には、中世の香りを漂わす美しい町や村々が数多く点在している。 アルビの西方20kmのガヤック Gaillac 旧市街には、この地方特有の赤レンガ造りや木骨造り様式の古い家々が建ち並び、ガヤックの町からタルン川を南西に10km下ったブドウ畑の平原には、美しい赤レンガ・アーチのアーケード広場や古い住宅が連なる魅力的な村リスル・シュル・タルヌ Lisle sur Tarn がある。 コルドの南西20kmのピュイセルシ Puycelci は、標高差150mの三角山の頂上に佇む城壁に囲まれた小さな村で「フランスの最も美しい村」に認定されている。 また、コルドの西方20kmのアヴェロン渓谷の崖上に城砦跡が残るペンヌ村 Penne、あるいはコルドからセルー川を東方へ15kmほど遡った河畔に円形の形容を見せる「フランスの最も美しい村」のモネスティエ Monesties なども見逃せないスポットである。 ミディピレネー地域は「フランスの最も美しい村」に認定された村々が最も数多いエリアである。 |