ホームページ ⇒ フランス ⇒ フォントネー修道院 |
世界遺産/フォントネー修道院・付属教会堂・西正面部(西入口)/ブルゴーニュ地方 描画=Web管理者legend ej |
● フォントネー修道院の位置 パリ・リヨン駅発の「ディジョン方面行き」の新幹線TGVは、金属加工系の中規模な工場が稼動しているブルゴーニュ地方モンバール Montbard にも停車する。モンバールは人口約6,000人である。フォントネー修道院 Abbaye de Fontenay/Fontenay Abbay(大修道院)は、ブルゴーニュ地方の中心ディジョンから北西へ約60km、モンバールの街の北東約6kmの山間部に建てられている。 修道院の周囲には雑木を中心とした森が広がり、丘陵とも言える低い山に挟まれたフォントネーの谷間には清涼で豊かな水量のフォントネーの小川が流れている。フォントネー修道院への行き方、交通アクセスは若干難があるが、ブルゴーニュが誇る最も重要な観光スポットであり、無理してでもぜひとも訪れたい場所と言える。 ● フォントネー修道院の創建 フォントネー修道院の歴史を紐解くと、12世紀の1118年、修道院はシトー修道会の「四父修道院」の一つである南部シャンパーニュ地方クレルヴォー修道院(Clairvaux 大修道院)の聖ベルナール St Bernard により、クレルヴォー修道院の第6番目の「娘修道院」、シトー修道会全体の順番では第14番目の修道院として建立された。 中世ヨーロッパのキリスト教・クリュニー修族・シトー修道会・聖ベルナールや家族の生涯などの詳細 クリュニー修族とシトー修道会/聖ベルナールとクレルヴォー大修道院/「プロヴァンス三姉妹」 フォントネー修道院建立の下地、特に土地や資金面では聖ベルナールの母アレス Aleth の兄、モンバールを治めていた聖ベルナールの叔父のレイナール・デュ・モンバール Raynald de Monbard/Renaud(FR) の修道院の創建への期待と援助による所が多い。また、フォントネー修道院の創建後には、母アレスの弟、聖ベルナールの理解者であり、同時に創設間がないシトー修道会へ入会した叔父ギャウドリィ・デュ・トィヨン Gaudry de Touillon は、自身の所有地であったフォントネー修道院の北東5kmのトィヨン Touillon の領地をすべて修道院へ寄進している。 さらにイングランド・ノーリッジのエブラルド司教(後述)が資金提供を申し出ることで、フォントネー修道院は聖性な聖ベルナールの精神、資金力と土地、クレルヴォー修道院から派遣された修道士達の意気と技術ですべてを盤石にして、建立後20年が経過した1139年〜1140年教会堂(聖堂)などを除き、現在見ることのできる修道院施設をほぼ完成される。 ● 発展と閉鎖の波乱の歴史 フォントネー修道院は現存するシトー修道会系譜の修道院にあって、12世紀の創建当時のままの修道院建築様式を留める数少ない施設であり、特にその建築と構成は、聖ベルナール指導のシトー修道会の理想観であった簡素性とロマネスク様式を見事に融合させている。 フランス各地の修道院や教会堂などの多くの宗教施設がそうであったように、フォントネー修道院もまた激動する中世ヨーロッパの歴史の中で翻弄され続けてきた。シトー修道会とフォントネー修道院の最盛期であった12世紀の半ば、1153年に修道院の創建者であった絶大なる力を誇った聖ベルナールが亡くなり、その後13世紀の半ばには宮廷付の修道院となるが、しばらくするとシトー修道会とフォントネー修道院の繁栄と指導力にも徐々に陰りが見え始める。 続く14世紀になると、フランス・カペー朝シャルルW世の妹、ヨーロッパ貴族社会で「絶世の美女」と言われたイザベルが、イングランド王エドワードU世の王妃となってフランスからイングランドへ嫁いで行く。そして本国フランスでは350年近く続いたカペー朝の最後の王となる兄シャルルW世が亡くなり、王に男子継承者の無かったため、従弟のヴァロワ家フィリップY世がフランス王に就く。 シャルルW世亡き後、W世王の妹イザベルの息子イングランド王エドワードV世が、「自らがフランス王の血を引く正当なる継承者」を唱えたことで、1337年(or 1339年)〜15世紀・1453年まで、フランス王位継承と毛織物産業で経済的な繁栄をしていたフランドル地方などの領地の獲得と利権を巡って、フランスとイングランドは長い「百年戦争」を続けることになる。 この数世代に引き継がれた「勝ったり負けたり」の止むことのない戦争を通じて、フォントネー修道院もイングランド軍の激しい攻撃や一時的な占拠さえも受けた(下記コラム)。 16世紀、神聖ローマ帝国(ドイツ)の大学教授マルティン・ルターの聖書信仰による救済の主張から始まり、10万の農民が殺される「ドイツ農民戦争」を初め、「宗教改革」の戦争がヨーロッパ各地で勃発する。フランスでは神学者カルヴァンの思想の影響を受けたプロテスタント教会(改革派/ユグノー教会)が、カトリック教会に激しく対抗した1562年〜1598年の「ユグノー戦争」が起こる。 ユグノー派であったブルボン朝初代のアンリW世(バラ王)がカトリック教への改宗を行い、同時にユグノー派の権利も保障したことでようやく戦いの終息をみるが、その被害と影響は計り知れなかった。各地のカトリック教系の修道院や教会堂は激しい破壊行為を受け、シトー修道会全体も統率力を失い、複数の地域活動グループが生まれるなど、教団の組織力は極端に低下して来る。 最後には、18世紀の「フランス革命」の激しい嵐がフォントネー修道院にも襲いかかる。その結果、革命の余波が静まった数年後の1791年革命政府から強制的な「修道院解散令」が発令され、フォントネー修道院は閉鎖され、最後にわずかに残ったシトー修道士8人は修道院を去って行く。 その後、フォントネー修道院の広い敷地と施設は競売(15万ポンドとされる)で個人財産となり、小規模な製紙工場となり、19世紀に入ってさらに転売され陶器を焼く工場となった。 そして、1860年代にイングランドで始まった「産業革命」の流れから、シトー修道会クレルヴォー修道院やチェコ南ボヘミアのズラター・コルナ修道院(下描画)などと同様に、20世紀の初頭にはフォントネー修道院も神聖な宗教施設から需要が延びていた産業の担い手の紙を生産する本格的な工場へと姿を変える。 現在、UNESCO世界遺産であり、同時にフォントネー修道院はフランスの「歴史的建造物」に指定されている。 ズラター・コルナ修道院/チェコ共和国 重要文化財/ボヘミア地方 初秋の頃 入口には巨大なシナノキの紅葉した枝葉が垂れ下がる/ 描画=Web管理者legend ej 世界遺産/チェコ南ボヘミア地方チェスキー・クルムロフとズラター・コルナ修道院 |
● 中世ヨーロッパの混乱 フランスとイングランドとの「百年戦争」の仕掛け人であるイングランド王エドワードV世の妻・王妃は、「下記コラム」に示すとおり、遠く200年以上遡れば、聖ベルナールの妹・聖アンベリーヌと貴族アンセリックU世の一人娘の6代後の子孫となる高貴なアヴェーヌ家に生まれたフィリッパ・アヴェーヌであった。 逆に言えば、イングランド王の妻・王妃フィリッパの7代前の祖先は聖アンベリーヌであり、その兄は中世キリスト教世界の最も偉大なる聖ベルナールである。故に王妃フィリッパの夫である王エドワードV世のイングランド軍は、フィリッパのブロードライン(家系・祖先)にあたる聖ベルナールの建てたフォントネー修道院を襲撃したことになる。このことを王エドワードV世が意識したか否か分からないが、歴史の皮肉と言うか、因果な巡り合わせと言うか、中世の混乱する政治と国家権力争いの現実的な出来事でもあった。 |
● 「娘修道院」の建立 フォントネー修道院は、1118年の創建後、しばらくして指導力を発揮し始め、多くの修道士を育て、フランス国内で少なくとも4か所の「娘修道院」の建立に直接的に関わっている。 それらはわずかに往時の建物施設が残るオクセールの北西35kmのレ・ゼシャリ修道院(les Echarlis 創建1131年)、オータンの南西65kmのセプ・フォロン修道院(Sept-Forens 創建1132年)、ローヌ・アルプ地方/ジュネーブの西方20kmの標高600mの谷間に造られ「フランス革命」で破壊されたシェズリィ・フォロン修道院(Chezery Forens 創建1140年)、そしてヴェズレー修道院近郊のアヴァローンの北方7kmに一部の建物が残るマルシリィ修道院(Marcilly 創建1460年)などである。 うち、「ロワール・ラテラル(平行)運河 Canal Lateral a la Loire」の岸辺、修道院の建物だけでも南北270m 東西150mの大規模なセプ・フォロン修道院は、現在、「フランス革命」の後に創設された厳律シトー修道会(トラピスト会)が活動している。 ● 世界遺産への登録 波乱の歴史を経て、その後、1906年になり、製紙の生産が停止され、ようやくフォントネー修道院の歴史的・建築学的な価値が認められ修復工事が行われた。現在も歴史と文化に有識ある個人の所有財産であるが、1981年、UNESCOは世界遺産に登録をしている。 個人財産の世界遺産登録は非常に珍しい例だが、中世の姿へ修復された修道院施設は、12世紀ロマネスク様式の修道院建築を最も見事に保ち、一般公開が行われている。900年の歴史を秘め、中世キリスト教世界で最も有能でヒューマニストであったとされる聖ベルナールの建立したシトー修道会フォントネー修道院は、聖マリー・マドレーヌ大聖堂のヴェズレー修道院と並んで、今や北部ブルゴーニュ地方の最も重要で最も人気の高いツーリスト・スポットとなっている。 |
聖ベルナールの妹聖アンベリーヌの娘ペトロニール(エリザベス)とその子孫の系譜 聖ベルナールの妹アンベリーヌは貴族アンセリックU世と結婚をする。アンベリーヌは23歳になった1115年頃一人娘となるペトロニール(エリザベス Petronille-Elizabeth)を生んでいる。その後、アンベリーヌは聖ベルナールと同じ信仰の道を選ぶ。そして、娘ペトロニールはバール・シュル・セーヌを治めていた貴族ギー Guy と結婚をして、その子孫の系譜はフランスやベルギー、イングランドの国王〜貴族家系にまで広がり拡大して行く。 「聖ベルナール」の画像 聖ベルナールの妹・「聖アンベリーヌ」の画像 Georg Andreas Wasshuber 1700年作 18世紀 「サロン・ド・パリ」 Adrian Richard 作 ウィーン南西25km ハイリンゲンクロイツ聖十字架修道院 東フランス・ジュラ地方オルジュレ 昇天の聖母教会堂 「聖ベルナール」の画像を所蔵するオーストリア・ハイリンゲンクロイツ聖十字架修道院 Heilingenkreuz Abbey は、シトー修道会の「四父修道院」の一つ、モリモン大修道院が建立した「娘修道院」の一つであった。修道院には10世紀の辺境伯レオポルトW世を初め、フリ−ドリヒT世やフリードリヒU世(闘争公)など、13世紀までオーストリア公国を統治したバーベンベルク家の継承者が埋葬されている。 一方、「聖アンベリーヌ」の画像を所蔵するオルジュレ Orgelet は、ブルゴーニュ地方マコンから北東65km、人口1,600人、ジュラ地方の小さな村である。オルジュレの昇天の聖母教会堂は13世紀初めからの由緒ある建物だったが、17世紀初期・1606年の火災、その後の戦争でほとんどの区画を破壊、その後に再建された。「聖アンベリーヌ」の画像は18世紀に再建された教会堂・「聖アンナ礼拝堂」の壁面に飾られている。 中世ヨーロッパのキリスト教・修道院と修道会・聖ベルナールや妹聖アンベリーヌの生涯などの詳細: クリュニー修族とシトー修道会/聖ベルナールとクレルヴォー大修道院/「プロヴァンス三姉妹」 娘ペトロニール(エリザベス)を聖アンベリーヌの「1代目」の子孫とすれば、ルクセンブルグ王家を経て、「6代目」の子孫に現在のフランス北部アヴェーヌ・シュル・エルプを治めたギョームIII世(ベルギー南部エノー伯T世)が生まれる。ギョームV世(エノー伯T世)とその妻は8人の子供に恵まれ、5人いた娘の二番目が、1328年、イングランド王エドワードV世と結婚をして、王の妻・王妃となるフィリッパ・アヴェーヌ Philipa d'Avesnes/Hainault である。 高貴な家系であったアヴェーヌ家では、イングランド王妃となったフィリッパのみならず、彼女の年長の姉マルグリットは神聖ローマ帝国(バイエルン)皇帝ルートヴィッヒW世の妻・王妃となる。この二人の姉妹の結婚で、イングランド王エドワードV世と神聖ローマ帝国ルートヴィッヒW世は義理の兄弟となった。 |
● 付属教会堂(聖堂)/教会堂・西入口 フォントネー修道院の建物のほとんど全ては、12世紀ロマネスク様式で建てられている。広大な敷地のフォントネーの修道院、その北側を占める施設で最も大きな建物が、1139年に工事が始まり、1147年に完成を見た修道院の付属教会堂(聖堂)である(トップ描画)。 付属教会堂は「教会」ではなく、修道士達が祈りを奉げ、儀式を執り行う修道院付属の厳粛な聖堂である。教会堂の西入口の両側柱の柱頭にわずかな幾何学紋様の装飾が施されているが、入口タンパン部とそれを取り囲む半円の飾りアーチ/アーキヴォルト部にはまったく装飾がない。単純な紋様さえも許さない徹底した簡素性を貫き、無駄を完璧に省くシトー修道会、その指導者である聖ベルナールの拘った修道院建築様式の典型がここにある。 フォントネー修道院・付属教会堂は、全長66m、平面視野ではロマネスク様式以前のバシリカ様式の教会堂に似ているが、立面視野では高窓を付けるバシリカ様式と異なり、窓のない大アーケードのみの暗いトンネルヴォールト天井である。教会堂の身廊と左右の側廊は一つの大屋根に覆われ、内陣の形状や納骨クリプトの配置など、すべてが純然たる12世紀ロマネスク様式の建築である。 ● 教会堂・身廊 教会堂の身廊の幅は約8m、力強い淡赤茶色砂岩の尖頭アーチが走り、高さ17m近いトンネルヴォールト天井を補強している。側廊ベイの窓からの光が唯一の光源となって、ほとんど飾り彫刻のない身廊の大アーケードの強固な複合柱(円柱と角柱の接合柱)をわずかに照らしている。 尖頭アーチで補強された身廊のトンネルヴォールト天井、それを支える複合柱とその側廊側の力強い厚めの控え壁、そして漂う厳粛なる空気、簡素にして静寂な暗い空間・・・ 壮麗さを否定し限りなく無装飾を基本としたシトー修道会の建築様式で仕上げられたこの付属教会堂の内部こそが、聖ベルナールが拘り続けた12世紀ロマネスク様式の最もたる建築仕様を残す場所と言える。 フォントネー修道院・付属教会堂/身廊から内陣/ブルゴーニュ地方 また、教会堂の左右の側廊は、ずんぐりした無装飾の側柱や石材の積層がむき出し状態の厚い控え壁、そして壁面から受ける圧迫感も働き、視覚的には比較的狭い空間に感じる。 ● 教会堂・内陣 教会堂の内陣は多くの教会堂で採用されている半円形ではなく、プロヴァンス地方のシトー修道会のシルヴァカーヌ修道院(下写真)と同様なフラットな方形で、祭壇には横手方向に長い「イエスの磔刑(たっけい)」の大型の図像がある。複雑な幾何学紋様が施された床面は、イングランド・ノーリッジのエブラルド司教の納骨クリプトである。エブラルド司教は創建から約20年ほど経過した1139年に始まるフォントネー修道院の本格工事の費用提供を申し出た人である。 なお、多くのツーリストが話題にする内陣のステンドグラスは1977年に装着されたもので、12世紀ロマネスク様式の建築ではなく、個人的には簡素性を貫いて来たシトー修道会の修道院であるフォントネー修道院に相応しいか否か、幾分考えてしまう造作ではあるが・・・ シルヴァカーヌ修道院/付属教会堂身廊〜内陣とバラ窓/プロヴァンス地方 内部装飾は無く 全体が直線とシンプルな曲線で構成/描画=Web管理者legend ej シトー修道会・「プロヴァンス三姉妹」のシルヴァカーヌ修道院 |
● 明るい中庭と美しい回廊 厳粛な付属教会堂の南側には芝生と幾らかの植え込みが眩しい中庭に配置されている。その中庭を囲み、バランスのとれた無数の支柱が整然と連なる「36m x 38m」の美しい回廊が広がっている。個人的には、フォントネー修道院の中で特に胸打たれ感動する場所は、明るい中庭からの光とやや暗いコントラストを描くこの静かな回廊ではないかと思う(下写真)。 フォントネー修道院・ロマネスク様式の回廊/ブルゴーニュ地方 回廊の床面に射し込む中庭からの明るい光とのコントラストが美しい シトー修道会の基本精神を完璧に表現している12世紀ロマネスク様式の無装飾の教会堂とは異なり、陽の光を受ける中庭という理由なのか、無装飾と簡素性を貫く厳格な精神が少しだけ緩和され、尖頭アーチ型天井の回廊を支える比較的短い複合柱と柱頭部には、植物を模したわずかな装飾が施されている。 直線と半円アーチをデザインした支柱間に差し込む中庭からの明るい光が、縞模様の美しいコントラストとなって石板で舗装された回廊の床面に描かれる。修道院にあって、この回廊は正に計算尽くされた調和美を主張する場所であり、幾何学的な回廊がつくり出す整然たる空間を構想し設計した修道士達の見事なバランス感覚を称賛せずにはいられない。 フォントネー修道院・ロマネスク様式の回廊/ブルゴーニュ地方 中庭からの明るい光で複合柱(円柱と角柱の接合柱の立体構造が浮かび上がる ラベンダーの花咲くプロヴァンス地方セナンク修道院の回廊(下写真)に似て、この穏やかにして均整のとれたフォントネー修道院の美しい回廊は、正に心に刻む遥かなる「時」。私はこの回廊の放す安定美に感動し、圧倒されそうなその見事な配置空間を脳裏に鮮明に刻み込む。 「プロヴァンス三姉妹」のセナンク修道院・美しい回廊/プロヴァンス地方 ラベンダーの花咲くシトー修道会・「プロヴァンス三姉妹」のセナンク修道院 |
● 修道士寝室/写本工房/鍛冶工房 付属教会堂のクロス型トランセプトの南西端から30段ほどの階段を上ると回廊の東側の階上区画となり、木造船の底と同じ建築様式を見せる木造アーチ天井の広い修道士共同寝室に入る。中世の時代、ほかの全ての修道院と同様に修道士達はワラを敷いたこの冷たい床面で就寝していたのである。ワラを敷いた修道士寝室ではラベンダーのセナンク修道院でも一般公開されている。 フォントネー修道院のそのほかの見学では、円形アーチと交差ヴォールト天井の写本工房、修道士達の集会部屋、農耕具などの金属加工が行われていたレンガ造りの大型倉庫を連想させる全長53mの鍛冶工房、広く美しい幾何学庭園や噴水、パン焼きの部屋や大型カマドなども必見の価値がある。 フォントネー修道院・正面ガーデン・噴水〜修道士食堂&暖房室/ブルゴーニュ地方 描画=Web管理者legend ej ● 豊富な水の活用/共同生活・農耕具の生産農地の開墾・ワイン生産 フォントネー修道院の名称の元になっているラテン語の「泉 fons」の言葉通り、修道院敷地内には豊富な水量の泉や大型噴水も設けられている。また修道院脇のフォントネー川には創建時から変わることのないコンコンと湧き出した清涼な水が流れている。特に川の水はかつて厳しい修行を続けた修道士達の生活用水であり、鍛冶工房や穀物粉砕の回転水車の動力として、あるいは農耕のための給水にも使われ、また養魚用にも活用されたに違いない。 シトー修道会は労働と祈りを重要視して、修道士達は粗末な食事の厳しい共同生活を続けていた。彼らは自分達が山や森から切り出した石材や木材で造る修道院の建物のみならず、美しい庭園や噴水装置を設計し、農耕具の生産と改良、自給自足のための農耕地を開墾していたのであった。 また、北部ブルゴーニュ地方のポンティニー修道院(下描画)と同じく、フォントネー修道院が今日のブルゴーニュ・シャブリ辛口白ワインの生産と改良に大きく貢献したことも間違いない。 「白い船」と呼ばれるポンティニー修道院 付属教会堂/ ブルゴーニュ地方 描画=Web管理者legend ej 世界遺産/ヴェズレー修道院/シトー修道会・「四父修道院」ポンティニー修道院 ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂・西正面ファサード/澄み切った夜空に満月が輝く /ブルゴーニュ地方 世界遺産/「フランスの最も美しい村」 ヴェズレー修道院 聖マリー・マドレーヌ大聖堂 |
● 中世美術・ロマネスク様式 フォントネー修道院に代表されるシトー修道会の修道院の建築工法の基本はロマネスク様式である。聖ベルナールの指導下のシトー修道会の修道士達は簡素なデザインを堅持しながら、その建築工法や石材の加工の精度、配置と感覚的要素など、あらゆる部分と構成に関して極めて高い技法を確立していた。それは無装飾であっても、手を抜いたアマチュア的な単純で簡易的な建築様式ではなかった。 ロマネスク様式の後、ヨーロッパの中世美術はゴシック様式へ移行して行く。初期ゴシック様式の導入において、シトー修道会の修道院建築様式は、特にフランスやスペインのそれに大きな影響を与え、建築と美術の歴史の中で重要な役割を果たしたと言える。 フォントネー修道院から南西の方角にあたる中部ブルゴーニュ地方には「ロマネスクの宝庫」とされる11世紀〜13世紀に栄華を極めた世界遺産ヴェズレー修道院(上写真)、さらに少し南方の聖ラザロを祀るオータンにもロマネスク様式の重要な大聖堂がある。 これらクリュニー修族(クリュニー会)系譜の大聖堂の入口ファサードや内部の「過度」とも言える彫刻作品に比べ、無装飾を基本とする フォントネー修道院やポンティニー修道院など、シトー修道会系の建築様式は、見た目の華やかさが弱く、それほど印象的ではないと感じ る人も少なくない。 しかし、祈祷と清貧、倹約と労働、そして何処までも妥協を許さない厳格で禁欲的な規範を守り通したシトー修道会の歴史と修道士達の理念を想う時、ロマネスク美術の一方の主流である簡素性と無装飾の美意識を完璧に貫いた、シトー修道院建築の深く静かに訴える魅力は、正に感動的とも言える心に刻む遥かなる「時」。独り静かに心で旅する私には堪らない。 マグダラのマリアの弟のラザロを祀るブルゴーニュ地方・オータン聖ラザール大聖堂 |