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マルレンヘイム Marlenheim〜モルスアイム Molsheim〜ロスハイム Rosheim〜オベルネ Oberna モン・サントディール修道院 Mont St-Odile〜バール Barr〜美村ミッテルベルカイム Mittelbergheim アンドー Andlau〜イッタースヴィラー Itterswiller〜エプフィ Epfig〜エベルスマンステ修道院 Ebersmunster |
アルザス・ワイン街道の「中部」コルマール周辺から南方へ向かって、比較的多くのツーリストが訪れる代表的なワイン産地の街と村々を訪ねてみよう! Webページ・「アルザス・ワイン街道」は「北部」〜「中部」〜「南部」の三部構成(個別ページ)となっています;
また、「アルザス・ワイン街道」とは別に「南部アルザス地方」〜「スイス国境地方」の村々の情報を下記ページで参照できます;
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東フランス・「アルザス地方」 Alsace 「アルザス地方」の歴史/「アルザス人」の民族系譜/「アルザス語」 「アルザス地方」の気候と地質 「アルザス・ワイン」とは 以上の詳細は、 「アルザス・ワイン街道」(中部)コルマール周辺/花を飾るコロンバージュ様式の美しい村々 を参照してください! 「フランスの最も美しい村」・アルザス・ワイン街道・エグイスハイム村 「アルザス・ワイン街道」(中部)コルマール周辺/花を飾るコロンバージュ様式の美しい村々 |
位置: ストラスブール⇒南西24km/ストラスブール⇒ローカル列車30分/バス1時間 人口: 11,000人/標高: 190m 「フランス 花咲く町と村」: http://www.villes-et-villages-fleuris.com/ 「フランス 美しい町100選」: http://www.plusbeauxdetours.com/ ● オベルネの歴史 7世紀前半、640年頃、アルザス地方は初めて「公国」として登場してくる。アルザス公国はオベレンヘイム(現在=オベルネ)に居城を置いた三代目の有力者アーダルリヒT世公(Adalric 別名=エティション Etichon)の時代、特に勢力拡大が行われ、アルザス・ロレーヌ地方に繁栄をもたらした。アーダルリヒT世はオベルネのほかに、聖(女)オディールが初代修道院長を務めた女子修道院(後述)の建つヴォージェ山地ホーエンブルグ山頂にも城砦を築いていた。 10世紀後半、繁栄のフランク王国は分割、アルザス・ロネーヌ地方は神聖ローマ帝国の支配となる。その後、14世紀のカールW世の時代、13世紀の中盤〜16世紀、アルザス・ワイン街道の町コルマールやテュルクアイム、オベルネ、ケゼルスベルグ、ミュールーズなどは、自立して特に経済活動で力を発揮した強い結び付きの「十都市同盟」に加盟する。 この間、アルザス地方は早くも一部にローマ時代から、多くは7世紀頃から修道院で作られていたワイン醸造を学び産業化、ライン川の交易、農産物の増産、商業取引が飛躍的に発展する。周辺の多くの街や村と同様に、13世紀にはオベルネの街は城壁に囲まれ要塞化され、その後16世紀がオベルネの「黄金時代」となった。街の中心に建つ町役場はこの頃に建造された。 16世紀、中央ヨーロッパに共通したことだが、カトリック教徒からプロテスタント派へ改宗する人々が続出、17世紀になるとカトリック教会とプロテスタント派との宗教戦争・「三十年戦争」が勃発、オベルネは神聖ローマ帝国からフランス王国の支配下に入る。 17世紀後半のフランス王ルイ]W世による「オランダ侵略戦争」、その後、18世紀初頭の「スペイン継承戦争」の結果、アルザス・ロレーヌ地方はドイツ・プロセイン王国の支配となるが、多くの工芸職人が住んだオベルネの手工業は発達した。「フランス革命」の後、19世紀になり、街の城門や塔を含む城壁は一部を残して撤去され、ストラスブールからの鉄道や道路などインフラが整備された。 ● 中世の佇まいオベルネ旧市街/教会堂/コロンバージュ様式の家々/ワインブドウ畑 フランス国鉄SNCFの小さな駅から北方の線路の両側、特に東側は南北2kmにわたって「Twinner Sports」や「クローネンブルグ・ビール工場」などが入る大型産業団地と新興住宅区を形成している。アルザス・ワイン街道を代表する小さな町オベルネは観光だけでなく、労働者の雇用面でもこの地域への貢献度は高い。 駅から西方300mほど、19世紀に大部分が撤去されてしまったが、かつて城壁に囲まれていたオベルネ旧市街は、東西500m 南北350mほどである。 旧市街の北側には二つの高い塔を抱き、1867年に再建された聖ペトロ&パウロ(ピエール&ポール)教区教会堂が建っている。教会堂は1900年にフランスの「歴史的建造物」に指定され、入口(南側)を入って直ぐ頭上に見える巨大なパイプオルガン、祭壇は大型の聖画パネルなどネオ・ゴシック様式の美術で装飾されている。 なお、教会堂広場の東側に地下トイレがあり、その直ぐ脇に高い塔が建っているが、これらは中世には城壁の一部を成していた。教会堂の西側から裏手の墓地の北側へと右回りに走る通りを急カーブで左折して丘へ登って行くと、急に展望が開けオベルネの旧市街を一望できる標高250mの丘となる。この辺り一帯がリースリング種などAOCワインブドウ畑であるが、オベルネ地区にはアルザス特級ワイン・グラン・クリュの指定ブドウ畑はない。 |
● オベルネ教区教会堂 オベルネの聖ペトロ&パウロ(ピエール&ポール)教会堂には、ドイツに生まれアルザス地方でオルガン製作を始めたアンドレアス・シルバーマン Andreas Silbermann が1713年に製作した「シルバーマン・オルガン」があったが、1867年の教会堂の再建時にオベルネから南東3kmのニエデルネ村 Niedernai の聖マキシモス教会堂へ移された。 ※「シルバーマン・オルガン」は後述の「エベルスマンステ修道院・付属聖モーリス教会堂」を参照 2014年7月下旬、夕方、たまたま訪れたオベルネの教会堂では、ストラスブール交響楽団所属の金管メンバー5名とオルガン奏者との共演コンサートがあり鑑賞することができた。例年のように行われる教会コンサートだが、演奏の選曲も良かった上に、トロンボーンなど金管楽器とパイプオルガンのオーケストラに比肩できる荘厳で豊かな響きが身廊全体に響きわたり久々に美しい教会音楽の演奏に触れた。 コンサート終了後、偶然にも主催者から声がかかり、オベルネの街に住むこの教会堂の専属オルガン女性奏者も含め、金管演奏者など30人ほどの関係者が集まる「軽い打上パーティ」に招待され、しばし生ハムとアルザス白ワイン、音楽談話で盛り上がり、深夜まで楽しい時間を過ごした。アルザス地方はプロ、アマチュアの演奏者も含め、伝統的にクラシック音楽に精通する人達が多い。 |
駅から街を西方へ貫くグロー将軍通り Rue du General Gouraud を進むと、旧市街の真ん中付近でマルシェ(市場)広場となり、盲目で生まれながらも奇跡的に視力を得た1904年製の聖オディール(後述)の像と噴水がある。 マルシェ広場の西側はフランスの「歴史的建造物」に指定されているが、張り出し窓が印象的な16世紀ゴシック・ルネッサンス様式の 町役場 Hotel de Ville、アルザス地方特産の赤色砂岩を積 み上げた高さ60mの13世紀の礼拝堂の鐘楼が建っている。 オベルネ旧市街の中心・マルシェ(市場広場)周辺 アルザス・ワイン街道 マルシェ広場の北側で町役場と向かい合うように建ち、傾斜のある切妻屋根に小型鐘楼とコウノトリの巣を乗せ、二階バルコニーに浮彫レリーフを残す白壁・三角屋根の建物は、16世紀のかつての穀物取引所であった(現在=地方料理レストラン)。この建物もフランスの「歴史的建造物」に指定されている。 マルシェ広場の周辺にはコロンバージュ様式のレストラン、カフェテリア、ホテル、土産物ショップなどが密集的に建ち並んでいる。広場から南東へ延びる狭いマルシェ通り Rue du Marche は、伝統的なアルザス地方料理を提供する良質なレストラン・エリアでもある。 歴史を紐解くと、中世13世紀にオベルネが要塞化され繁栄が始まると、市街は堀で囲まれ、38か所に塔が建ち、12か所の城門を備えた二重の城壁で守られていたと言う。かつてのオベレンヘイム(オベルネ)は壮観な城塞都市の様相だったはずだ。 マルシェ通りの東端の突き当たり周辺〜旧市街の南東部へ続くエリアには、今でもフランスの「歴史的建造物」に指定されている中世の繁栄を伝える城壁や塔が残されている。「オベルネ観光局」は町役場の西側、かつて教会堂であった中世の建物に入っている。 マルシェ広場の町役場の西方100mが南北に長いエトワール広場、この周辺も窓辺にキレイな花を飾ったコロンバージュ様式の家々が軒を連ね、中でも目を惹くのは広場の北側奥の「オーベルジェ(宿泊&食事)Zum Schnogaloch」や旧学校だった由緒ある建物などである。 エトワール広場から西方50m、グロー将軍通りのレストランの脇から入る狭いアテック通り Rue Athic の奥は、フランスの「歴史的建造物」に指定されているが、アーチ型ファザードと屋根に特徴を残す建建物、そしてそれに取り囲まれた袋小路的な三角形の細長い中庭となる。ここは奇跡の聖オディール(後述)が、660年頃盲目で生まれた場所で、かつてアルザス公の邸宅居城があった。 この「聖オディール生誕の館」は、その後12世紀〜13世紀には中世で最も進歩的な君主と呼ばれたシシリア王であり、神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒU世のアルザス滞在のシャトーとしても使われたが、13世紀の半ばになると、ストラスブール司教の兵隊により焼き落とされた。その後再建され、1500年前後には学校、さらに穀物倉庫などにも利用された。 ● 「フランスの最も美しい街/寄り道100選」のケーキ作りの街 オベルネ旧市街は「フランスの最も美しい街/寄り道100選」にも認定されている。絵画的とも言える石畳の狭い袋小路を入ると、突然「☆☆☆☆ホテル」の玄関に出たり、お洒落な画家のアトリエや彫刻工房だったり、或いは広場に面する美味しいケーキを飾る小さなカフェテリアもたいへんとオシャレだ。 そう言えば、アルザス地方はフランス国内でもケーキ作りが盛んなエリアと言われ、ヨーロッパだけでなく世界各国から多くのケーキ職人達が集まり競い合っているとか。どんな小さなカフェでも美味しそうなケーキがきれいに並べられ、オベルネには誘惑に駆られてつい立寄りたくなる魅力と親しみ深い雰囲気があり、何度訪れても飽きることのない中世の街と言える。 |
● 「アルザス・ワイン街道」/花を飾る「コロンバージュ様式」の家々 「フランス 花咲く町と村」: http://www.villes-et-villages-fleuris.com/ 現在、フランスには人口2,000人以下の「村」と言われる自治体が約32,000か所あるとされ、そのう ち「フランスの最も美しい村」に認定されているのはわずか172だけ(2023年現在)である。 「フランスの最も美しい村」: http://www.les-plus-beaux-villages-de-france.org/ 「アルザス・ワイン街道」とは、「ライン下流県」のストラスブール Strasbourg の西方20kmのマルレンヘイム Marlenheim からスタートして、南方の「ライン上流県」のミュールーズ Mulhouse の西北西20kmのタン Thann へ至るまで、直線で100km、道路の総延長で170kmほどの範囲である(下描画・アルザス・ワイン街道 最南端タンのブドウ畑)。 山岳スイスから流れ出るライン川に平行するヴォージェ山地の東側の山ろくと裾野の地域、正確に言えばワインを産する「103か所の市と町と村々」、それらを結ぶ「昔からの道筋」の別称である(下地図=アルザス・ワイン街道・北部〜中部〜南部)。 アルザス・ワイン街道・タン/遠方の尾根に「魔女の眼」が残るエンジェルブール城砦跡 聖アーバン礼拝堂 St-Urbain Chapelle を囲む急斜面45°の特級ワイン用ブドウ畑「Rangen」 黄金色に染まる秋の季節/描画=Web管理者legend ej アルザス・ワイン街道(南部)タン周辺/アルザス・カリウム岩塩鉱山 アルザス・ワイン街道の街と村々の多くの住宅は、この地方が歴史的にドイツの影響を強く受けて続けてきたことから、ドイツ的な「コロンバージュ様式 colombages」と呼ばれる、壁面に柱や梁がむき出した建築施工・「木骨組み造り」に最大の特徴を示す。 また、春から秋の季節、アルザス・ワイン街道のほとんどの家々の窓辺やベランダ、階段やバルコニーには美しい花々が飾られ、さながら中世の風情を呈し遠方から訪れるツーリストの心を癒す。そして、幾つかの村は「フランスの最も美しい村」に指定されている。 アルザス・ワイン街道(ライン下流県)/作図=legend-ej アルザス・ワイン街道(ライン上流県)/作図=legend-ej アルザス地方の農道・地方道で見かける標識 標識のある農道・地方道は「アルザス・ワイン街道」 アルザス地方の村々や町の端にある標識 標識のある自治体は「アルザス・ワイン街道」のブドウ栽培とワイン造りの村々と町 コロンバージュ様式の家々/ストラスブール旧市街/真冬 「プチット・フランス」の夜/アルザス地方 世界遺産/ストラスブール旧市街「プチット・フランス」とノートルダム大聖堂 |
位置: ストラスブール⇒西方20km 人口: 3,900人/標高: 190m 「フランス 花咲く町と村」: http://www.villes-et-villages-fleuris.com/ アルザス・ワイン街道の北端のスタート地点・マルレンヘイム Marlenheim から南端のタン Thann へ向かって、比較的多くのツーリストが訪れる代表的なワイン産地の街と村々を訪ねてみよう! アルザス・ワイン街道の北端のスタートの街となるマルレンヘイム旧市街は、地方道D-1004号の北側で逆三角形のように広がり、街の南側はアルザス地方ならどの街にもあるスーパーマーケット・「Simply」やバス・トイレ設備販売の企業などが入る産業団地となっている。旧市街の中心にある変形の広場を取り巻くように、18世紀コロンバージュ様式の邸宅や堅固なシャトー様式の市庁舎などが建ち並ぶ。 また、街の北方の標高300mの穏やかな斜面には、アルザス特級ワイン・グラン・クリュに指定された「Steinklotz」のブドウ畑が広がっている。一方、マルレンヘイムの街と北西3.5kmのヴァスロンヌ Wasselonne との間には、手頃なハイキングコースでもある標高370mの山地が横たわり、ドイツ語・「王冠の谷」を意味する標高210mのクロンタール峠 Kronthal が分水嶺を形成している。 |
位置: ストラスブール⇒西南西20km 人口: 9,4000人/標高: 180m 「フランス 花咲く町と村」: http://www.villes-et-villages-fleuris.com/ 古くから交通の要衝として栄え、ヴォージェ山地のサン・ディ St. Die 方面とオベルネ方面へのフランス国鉄SNCFの分岐点であるモルスアイムは、中世の時代にはストラスブール司教領地でもあり、「カトリック改革」の中心地でもあり、旧市街にはカトリック教会に関連する建造物が多く残されている。 16世紀末にはイエズス会の神学校が建てられ、今日でも17世紀アルザス後期ゴシック・バロック様式の壮大なイエズス会教会堂が、モルスアイムの最大の建造物で、バロックオルガンの名工とされたアンドレアス・シルバーマンの息子ヨハン作パイプオルガン(後述=エベルスマンステ聖モーリス教会堂 参照)や1631年の説教壇などを含め、教会堂はフランスの「歴史的建造物」に指定されている。 中世のモルスアイムは城壁に取り囲まれた城塞都市であり、第二次大戦の自由フランス軍フィリップ・レクレール将軍の名を取った、旧市街の南側を走る将軍通り Rue du General Leclerc の道路脇(北側)に残る塁壁跡もフランスの「歴史的建造物」である。 アーチ型窓と淡緑色の壁面が特徴的なルネッサンス様式の市庁舎前には、市民の憩いの場でもある三角形の市庁舎広場があり、これを囲むように窓辺に花を飾ったコロンバージュ様式の建物群が建ち並び、かつてのこの街の繁栄を今に伝えている。特に広場の南東端の階段状の破風や左右階段や手摺りなど、過度の装飾を施した1625年建造の「旧肉屋ギルド Metzig」は、フランスの「歴史的建造物」に指定されている。 私は過去に一度だけ数時間の滞在しかしていないので明確な評価を言えないが、城塞都市の割には市庁舎広場を除き、モルスアイムの旧市街には結構空間もあり、その分密集した統一性がなく、個人的な印象では少々散漫的な街に感じた。なお、旧市街の比較的大型の建物の屋根に「アルザス観光の目玉」でもあるコウノトリの巣がたくさんあり、ツーリストの関心をひいている。 旧市街は鉄道駅から川を渡って北方300mに位置するが、一方、あまり大きくない駅の南側〜東側には産業団地と新市街が広がっている。産業団地で最大規模を誇るのは、かつて1940年代まで高級クラシックカーを製造していたブガッティ社の創業工場で、1991年にフォルクスワーゲン工場となり、現在はメルセデスベンツ工場となっている。 また、モルスアイムの街の北西2kmほど、森が続く標高380mの丘にはドイツ・プロセイン帝国ヴィルヘイムU世が、第一次大戦時に築いた要塞陣地があり、激戦に使われたトーチカや大砲群が残されている。この陣地の丘と旧市街との間の斜面が、アルザス特級ワイン・グラン・クリュに指定された「Brudelthal」のブドウ畑である。 |
位置: ストラスブール⇒南西22km/オベルネ⇒北方4km 人口: 4,900人/標高: 190m 「フランス 花咲く町と村」: http://www.villes-et-villages-fleuris.com/ ● 歴史と花の街 南方のオベルネより小さい自治体だが、住民4,900人の住むロスアイムは、郊外に大型ショッピングセンター「Simply」も出現して、アルザス・ワイン街道にあっては比較的大きな町である。 ロスアイム旧市街はフランス国鉄SNCF駅から西南西1.5kmである。中世14世紀〜17世紀、ロスアイムは神聖ローマ帝国の「自由都市」であり、その間、14世紀のカールW世の時代〜16世紀まで、アルザス・ワイン街道のコルマールやオベルネ、ケゼルスベルグやミュールーズなどと共に「十都市同盟」に加盟して発展した。 今日、新市街を含むロスアイム町は1.5km四方に広がっているが、最初に城壁に囲まれた「城塞都市ロスアイム」が造られた時には、東西に城門を備えたおおよそ直径200mの円形の街(初期旧市街)であった。その後、中世14世紀になると街が城壁外部へ大きく拡張され、東西950m 南北400mの細長いオーバル楕円形の新城壁が追加して築かれ、東・北・西側の三か所に外部城門を設け、「二重の城壁」に囲まれたかなり大規模な街(後期旧市街)へ拡大された。 城門は城壁がそれぞれ建造された時期の13世紀〜16世紀に遡る。また、南城門は残されていないが、「橋」の痕跡があるので後期旧市街の南城壁の外側は、間違いなく深堀(現在=埋め戻され草地)があったはずである。後期旧市街の西城門を除き、後期旧市街の東城門と北城門、そして、初期旧市街の東門と西門、合計4か所の城門はフランスの「歴史的建造物」に指定されている。 ● ロマネスク様式/聖ペトロ&パウロ(ピエール&ポール)教会堂 鉄道駅の東方から後期旧市街の東城門を抜け、旧市街を東西に貫くドゴール将軍通り Rue du Gen de Gaulle を西方へ進む。初期旧市街の東門であるホーエンブルグ中学校の中央を突き抜ける形容の頑強なアーチ型門を通り抜け、ロスアイムの初期旧市街の中心部へ入ると直ぐ右側(北方)、聖ペトロ&パウロ(ピエール&ポール)教会堂の堂々とした姿が目に飛び込んでくる。 旧市街に入って最初に注目する大型建造物への驚きだけでなく、囲いもない教会堂の基礎面が道路より1m以上高い位置にあることから、なおさらに圧倒される感じを受ける。12世紀起源の教会堂の外観を見ると、壁面には窓が少なくしかも小型で、アルザス地方特産の赤色&ベージュ色砂岩の石材ブロックを積み重ね固定しただけで幾分荒々しい感じを受ける。これがどっしりとした力強さを特徴とするアルザス・ロマネスク様式独特の持ち味である。 良く観察すると、教会堂の壁面や軒には背後から人の肩に前足を置くライオンや優しそうな羊、ワシなどの動物や想像上の生物の凝った石像が置かれている。八角形の高い鐘楼が青い空に伸び、朱色の屋根とマッチして非常にバランスの良い形容と言える。 装飾的な彫刻が顕著であるブルゴーニュ地方のクリュニー修道会系とは異なり、西入口は斜線模様がびっしりと刻まれた単調だが独特な表現である。身廊はアーチ型、柱頭部には外部と同様に動物や植物、人像や幾何学文様などが施され、内陣は南と北外側に小礼拝室アプシスを付属した形式である。なお、教会堂はフランスの「歴史的建造物」に指定されている。 ● 花に埋もれるロスアイム旧市街の中心/町役場と歴史的な建物群 ロスアイム旧市街では歴史をしのばせる遺産をそこ彼処で見ることができる。特に旧市街を東西に貫くドゴール将軍通りに面する広場の南側に建つフランスの「歴史的建造物」に指定された町役場 Hotel de Ville は、古い建物を解体して18世紀の後半、1775年に完成(1884年拡張)したルネッサンス調の非常に立派な建築である。 町役場の北側に隣接しているが、ドゴール将軍通りをまたぐような形容の時計付きゴシック様式の塔門が、ロスアイムの初期旧市街の西門にあたる。1605年建造、広場の花を飾った高雅な造りの泉水(井戸)は、町役場や塔門と同様にフランスの「歴史的建造物」の指定を受けている。 初期の旧市街、特に町役場前の広場周辺とドゴール将軍通り沿いのあらゆる建物は、16世紀からのコロンバージュ様式の造り、公的機関や一般住宅の窓辺や階段、玄関先やバルコニーなど、至る所にペチュニア改良花など鮮やかな草花がびっしりと飾られている(下写真)。なお、「ロスアイム観光局」は町役場の広場の東側50mである。 |
アルザス・ワイン街道・ロスアイム旧市街/色鮮やかな花を飾った民家の窓辺 |
● コロンバージュ様式の家々 コロンバージュ様式や古い建物に関しては、ロスアイム町役場の西門から西方の後期旧市街へ延びるドゴール将軍通りの両側にも、窓辺にキレイな花を飾った典型的な木骨組み造りの家々が建ち並んでいる。 特に注目は町役場から西方へ350mほど、後期旧市街の西門から東方100m付近、ドゴール将軍通り23番地(北側)、地元で「異教徒」と呼ぶ1152年起源のロマネスク様式の三階建て(La Masion Romac)、大小ランダムなサイズの赤色砂岩を積み上げた頑丈な造り、サイド切妻屋根の一見では「倉庫」か「塔」のような建物は必見であろう。 窓の小さなこの建物はアルザス地方で「最も古い建築」の一つとされ、14世紀に旧市街に新城壁が造られる以前、まだ城壁で守られていない無防備な地区に存在したことから、盗難などを含め建物内部への出入りが難しい構造となっていた可能性がある。現在、二階へは木製外付け階段がセット(見学者へ見せるため?)されているが、建てられた12世紀当時は、二階へはその都度取り外しができる梯子(はしご)を使って上がっていたと推測できる。 ● 周囲に展開する広大なブドウ畑 キレイな花で飾られた中世都市ロスアイムの街自体は、標高180mのほぼ平坦な場所で発展したが、街の周辺、北側〜西側〜南側の標高200m〜300mのなだらかな丘と斜面には広大なブドウ畑が展開されている。ただし、ロスアイム周辺はアルザスAOC種だけで、アルザス特級ワイン・グラン・クリュに指定されたブドウ畑はない。 |
位置: オベルネ⇒南西(直線)6.5km 標高: 760m/ヴォージェ山地・ホーエンブルグ山 7世紀、680年、標高760mの「高い山 Hohenbourg」の山頂に、(聖)オディールが初代修道院長となるで「ホーエンブルグ女子修道院 Abbaye de Hohenbourg」が創建された。今日、アルザス地方の人々は盲目から奇跡的に視力を得た聖オディールに尊厳をこめて、この修道院の建つホーエンブルグ山を≪聖オディールの山 Mont Sainte Odile≫と呼ぶ。 ● 聖オディールの伝説と史実 「アルザスの守護聖人」となる(聖)オディールが生まれたのは、7世紀の半ば、660年(or 662年)とされる。当時のアルザス地方は「アルザス公国」として歴史に登場、オベレンヘイム(現在=オベルネ)の街に邸宅居城を置いた、聖オディールの父であるアルザス公家の三代目アーダルリヒT世(Adalric I 645年〜720年/別名=エティション Etichon)の治める時代であった。 アーダルリヒT世はオベレンヘイム(オベルネ)のほかに、ヴォージェ山地ホーエンブルグ山にもローマ様式の小規模な砦を改築した城砦を持っていた。この見晴らしの良い山頂に建つ城砦こそが、娘(聖)オディールの人生に深く関わる重要な場所である。 有力者アーダルリヒT世はメロヴィング朝フランク王国の北東部(フランス東部・ベルギー・ドイツ西部)を占めたアウストラシアの王女ベルスヴィンデ Berswinde を妻に迎え、世継ぎ公に男児を強く望んでいた。しかし、運命はあまりに皮肉なこと、オベレンヘイム(オベルネ)の街の邸宅居城(上述・現在=アテック通り Rue Athic)で最初に生まれたのが、後に(聖)オディールとなる「盲目の女児」であった。 好戦的で策略家、強硬な性格とされたアダルリヒT世は、「生きる値はない」としてすぐさまその女児の殺害を命じるが、王女から嫁いだ母親は秘密裏にその盲目の女児をブルゴーニュのパルム Palm、現在のフランシュ・コンテ地方ブザンソンから北東30km、ボーム・レ・ダム修道院 Abbay de Baume les Dames へ預ける。 盲目の女児は修道院で育ち、12歳(or 13歳)の少女に成長した672年頃、ドイツ・ババリア地方(バイエルン)で布教活動を行っていたアイルランド・ロングフォードの司教エアハルト St Erhard、そして南ババリア地方出身の聖ヒドルフィ(St. Hydulphe de Moyenmoutier 612年〜707年)がパルムの修道院へやって来て、盲目の少女に洗礼名・「光の娘・オディール」を授け、眼に聖なる薬油を点した。伝承では、その数日後、奇跡が起こり、少女オディールに視力が与えられたとされる。 その時すでにオベレンヘイム(オベルネ)の公家にはオディールの弟ユーグ Hugo が居り、オディールを暖かく迎えようとしていた。しかし不幸なことに弟ユーゴが亡くなってしまう。父アーダルリヒT世は(公がユーグを殺害したという説⇒後悔からか?)深く嘆き悲しむが、奇跡で視力を得たオディールの優しさが失意の父公の心を癒し、公はオディールをオベレンヘイム(オベルネ)の公家へ迎え入れる。 その後、アーダルリヒT世には次男アーダルベルト(アルザス公 Adalbert 665年〜722年)、そして、三男のアーダルリヒU世(アルザス伯Adalrich 673年〜735年)などが生まれる(下記コラム)。しばらくして、さらに成長したオディールを政略結婚させるために父アーダルリヒT世は思案するが、信仰の道を歩み始めていたオディールは強く拒否の意志を示す。 伝承では、執拗な父公の説得から逃れようとオディールは、オベレンヘイム(オベルネ)からライン川を渡ってドイツ・「黒い森地方」へ逃げ、「神」の助けで岩の裂け目に身を隠し祈りを奉げたとされる(下記コラム)。 |
● アルザス公アーダルリクT世の系譜 アルザス公アーダルリクT世とアウストラシア王女であった妻ベルスヴィンデ Berswinde には、娘(聖)オディールのほかに息子ユーグ(若くして死亡)、アルザス公となるアーダルベルト Adalbert、アルザス伯となるアーダルリクU世、ユーグ Hugh、そして娘ローズミンダ Rosminda が居た。 オディールの弟・アルザス公アーダルベルトは、717年、ストラスブールに聖エティエンヌ修道院を建立する。アーダルベルト公と妻ゲルリンダは6人の子供(オディールの甥と姪)に恵まれた。息子エーベルハート公はエグイスハイムに最初の小城砦を造り、娘アターレ Athale は父が創建したストラスブール聖エティエンヌ修道院の初代修道院長となり、次の娘ユージェニア Eugenie はオディールの亡き後、それを継いでホーエンブルグ女子修道院の二代目修道院長に、末娘ガンドリーナ Gundlina はオディールが修道院長を兼務していたニーデルマンステ女子修道院の二代目修道院長に就任する。 オディールの末弟・ユーグ伯はボデール Bodel、ブレオン Bleon、レミ(レミギウス Remi/Remigius)の3人の子供を儲け、レミは後にストラスブール司教となり、南方10kmのライン河畔エッシャウ Eschaus に聖ベネディクトウス派修道院&付属聖トロフィーム教会堂を建立する。 ● オディールが身を隠した場所 オディールが身を隠した「黒い森地方」の岩場は、ドイツ・フライブルグ旧市街から北東4km、「ムスバッハ Musbach 渓谷」とされる。深い針葉樹に覆われた標高480m付近には、現在、オープンテラス・レストランを併設する16世紀創建の聖オッティーリエ St Ottilien 教会堂が建っている。フランス語・「オディール」はドイツ語では「オッティーリエ Ottilie」となる。 この場所は7世紀〜16世紀頃まで人々の信仰を集める巡礼地で、13世紀には礼拝堂が建てられた。医学的な効用は不明だが、教会堂近くから湧き出るホルミシス効果があるラドン含有の湧水は「眼に効く」とされている。 また、オディールが身を隠した洞窟では、スイス・バーゼルの南方8km、ビルス河畔のアルレスハイム Arlesheim にある洞窟という別な説もある。「スイス最後のシルバーマン・オルガン」があるバロック様式のアルレスハイム大聖堂から東方600m、ブドウ畑と森と草原に囲まれた標高差50mの丘にビルセック城が建ち、丘の南側麓には聖オディール伝説の「エルミタージ洞窟 Ermitage」があり、泉水が湧き出して池をつくっている。中世13世紀まで、アルレスハイムの領地はホーエンブルグ女子修道院が管理をしていた。このためアルレスハイムの街と大聖堂の守護聖人は聖オディールとなっている。 |
● ホーエンブルグ女子修道院(モン・サントディール修道院)の創建〜発展〜「帝国修道院」 オディールのその敬虔な「神」への信仰心を知った父アーダルリヒT世は、オディールを理解して娘の望みを叶えるために、680年、ヴォージェ山地ホーエンブルグ山に築いていた自身の城砦の改築を行い、「ホーエンブルグ女子修道院(モン・サントディール修道院)Abbaye de Hohenbourg」を創建した。その時20歳であった奇跡のオディールがその女子修道院の初代修道院長となる。 その後、奇跡のオディールのホーエンブルグ女子修道院は、人々の信仰を 集め、アルザス地方最大の巡礼聖地となってゆく。 増え続ける巡礼者の中には、当然、高齢者や病弱な人なども大勢居て、 体力的に標高750mを越す山頂に建つ修道院へ登ることができないこと が多々あった。このため、40歳のオディールは山の中腹、標高500mの平 坦な場所に、700年、「下の修道院」となる「ニーデルマンステ女子修道 院 Abbaye de Niedermunster」を創建(下記コラム)、さらに巡礼 者用の宿泊施設や病院なども増設した。 720年、オディールがニーデルマンステ女子修道院で60歳で亡くなった後、 ホーエンブルグ女子修道院の二代目修道院長には、アーダルリヒT世の 孫(オディールの弟アルザス公アーダルベルトの娘=オディールの姪)とな るユージェニア Eugenie が就任する。 また麓のニーデルマンステ女子修道院では、ユージェニアの妹ガンドリーナ Gundlinaが二代目修道院長となる。 ホーエンブルグ女子修道院(モン・サントディール修道院) 入口ニッチ・「聖オディール像」/アルザス地方ヴォージェ山地 |
● タペストリー≪聖オディールの生涯≫ 聖オディールの像が立っている修道院の中庭には、色とりどりの草花が植えられた花壇とリンデンの大木が日陰をつくり立ち並んでいる。広い中庭の西側を占める建物は修道院の管理棟で、内部通廊内には聖オディールや修道院と歴代の女子修道院長などの関連情報が描画や写真や年表などで詳細に説明されている。 15世紀の≪聖オディールの生涯≫と呼ばれるタペストリー(タピストリ)、元々の現物タペストリーは横長の1枚織りとされ、サイズはおおよそ長さ6.5mm 高さ0.9mであったとされる。タペストリーの写真は、上下に二列の組合配置した複製描画で修道院の展示通廊で展示されている。 修道院の説明用に展示されているのは「模写描画」だが、タペストリーの現物はストラスブールの「エーヴル(傑作品)ノートルダム博物館」に収蔵されている。 現物のタペストリーでは、画像表現は横一列だが、修道院の写真では左上の「オディールの生誕」から始まり右方へ、さらに左下〜右下の「オディールの埋葬」へと至る、聖オディールの生涯の重要な出来事を表現している。描かれた重要なイベントは合計・「11シーン」であるが、怒りの父公アーダルリクT世が「息子ユーグを殺害した」こと、そして父公との意見の違いからオディールが「森の洞窟へ隠匿した」という、二つの伝承は表現されていない。 なお、タペストリーは660年〜60歳で生涯を閉じる720年までの聖オディールの生涯を記述していた、ボーデン湖南岸のスイス・ザンクト・ガレン修道院の修道士の保存資料を元に15世紀に製作されたとされる。世界遺産となっているザンクト・ガレン修道院は、7世紀、アイルランドの修道士・聖ガレン(St Gall/St Gallen/St Gallus 550年〜645年)が創建したとされ、中世におけるスイスとドイツ・「黒い森地方」の最重要な修道院の一つであった。 タペストリーの現物を収蔵するストラスブールの「エーヴル(傑作品)ノートルダム博物館」は、ストラスブール大聖堂の南広場に面する、階段状破風(いらか段)の切妻様式の6階建ての建物である。 博物館では11世紀〜16世紀に遡るストラスブールの歴史、特に大聖堂を飾った傑作の聖人像を初め、市内とアルザス地方の町やシャトーなどからのゴシック様式の絵画、ステンドグラス作品、タペストリー、金細工品などを展示している。 時代背景からしても、博物館の所蔵品のほとんどは中世の宗教関連だが、15世紀のオランダ・ライデン生まれのニコラス・ゲルヘルト作の彫像やストラスブールの西南西23kmのミュティグのシャトー・ロハン城館 Chateau Mitzig de Rohan にあった15世紀作の多色木像の「聖母子像」などと並んで、タペストリー≪聖オディールの生涯≫は貴重な所蔵品である。 ● ニーデルマンステ女子修道院 ホーエンブルグ女子修道院への「登り口」の役目を果たし、参拝者の休息所でもあったニーデルマンステ女子修道院は、創建当初〜12世紀の末期まで財政と運営管理などはすべてホーエンブルグ女子修道院が担っていた。12世紀の崩壊の危機から再建を果し、13世紀から双方の女子修道院は別々な管理体制で活動を行った。 16世紀になり、宗教戦争でもあった「ドイツ農民戦争(1524年〜1525年)」に巻き込まれ、さらに火災も起こり、1545年に完全に放棄され、その後、ニーデルマンステ女子修道院は二度と再建されることはなかった。 現在、ニーデルマンステ女子修道院は深い森に囲まれた草原の中に、12世紀の基礎壁だけを残して崩壊状態で公開されている。この修道院跡から北方200mほど離れた場所には、12世紀に修道女ヘラード(後述)が建立、19世紀に再建された赤色砂岩造りの聖ニコラオス礼拝堂も残っている。1846年、ニーデルマンステ女子修道院はフランスの「歴史的建造物」に指定されている。 |
680年、ホーエンブルグ女子修道院の創建後、盲目で生まれながらも奇跡的に視力を得たオディール信仰は、大波のように世間へ広がり、救いを求め修道院を訪れる敬虔な信仰者は増加の一途を辿る。 800年、カールT世(フランス=シャルルマーニュ)が西ローマ帝国の皇帝(大帝)に就き、フランス王国はアルザス・ロネーヌ地方を含め東方と北方へ領土拡大を図る。この時期、ホーエンブルグ女子修道院はカール大帝により「帝国修道院」へ昇格される。 11世紀半ばになり、オディールはヴァチカン・ローマ教皇レオ\世により聖人の列聖に加えられ「聖オディール」となった。なお、教皇レオ\世はアルザス地方の名門貴族エグイスハイム伯家の生まれである(下記URL参照)。 アルザス地方の名門貴族エグイスハイム伯家などの情報、コルマール周辺の「フランスの最も美しい村」: 「アルザス・ワイン街道」(中部)コルマール周辺/花を飾るコロンバージュ様式の美しい村々 ● ホーエンブルグ女子修道院の波乱の歴史/破壊〜レリンダ(再興)〜へラード(黄金時代)〜戦争〜閉鎖 その後、時代は血に染まる戦いが当たり前の中世へと移り、アルザス地方の支配権の変遷と平行して、かつてローマ時代から砦が築かれた見晴らしの利く山頂でもあり、その地政学的な優位性からか、それとも突出した宗教的な力を示した女子修道院だったからかホーエンブルグ女子修道院は幾度となく激しい攻撃の的となり、焼失と破壊が繰り返されることになる。 神聖ローマ帝国のハインリヒX世の軍隊の駐屯を初め、その後、シュヴァー ベン大公フリードリヒU世(独眼公)が修道院へ攻撃を加えた。 12世紀半ばのホーエンブルグ女子修道院の状況は、建物の破壊と被害 だけでなく、財政面でも深刻な状態であったとされる。そうした混乱の中、 1154年、ミュンヘンの北北西80km、ババリア・ベルゲン修道院から来た 修道女レリンダ Relinde がホーエンブルグ女子修道院長に就任する。 レリンダは、当時、聖ベルナール(左写真)に代表されるブルゴーニュ地 方のシトー修道会が採用した、イタリア中部の旧名ヌルシア出身の聖ベネ ディクトウスにより6世紀に制定された「修道会則」、≪聖ベネディクトウスの 戒律≫を厳守する修道生活を徹底することで、混乱から人数も激減した 修道女の文化的な資質を向上させ、修道院は危機の中から再興の兆し を得る重要な人物である。 「聖ベルナール」の画像/写真情報:Georg Andreas Wasshuber 1700年作 オーストリア・ウィーン南西25km 「ウィーンの森地方」 シトー修道会系譜 ハイリンゲンクロイツ聖十字架修道院 Helingernkreuz Abbey 所蔵 ※シトー修道会&聖ベルナールなどの詳細情報: クリュニー修族とシトー修道会/クレルヴォー修道院の聖ベルナールと妹・聖アンベリーヌ/「プロヴァンス三姉妹」 フォントネー修道院・付属教会堂・西正面部(西入口)/ブルゴーニュ地方 描画=Web管理者legend ej 世界遺産/シトー修道会・ブルゴーニュ地方・フォントネー修道院 さらに神聖ローマ帝国の混乱と安定化に寄与するフリードリヒT世(バルバロッサ=赤髭王 1122年〜1190年)の登場で、父皇帝・シュヴァーベン大公フリードリヒU世(独眼公)が破壊したホーエンブルグ女子修道院のパトロンとなり、再建に尽力する。 1176年、レリンダが亡くなると、フリードリヒT世はアルザス地方の貴族ランツベルグ家 Landsberg 出身のヘラード Herrad(下記コラム)をホーエンブルグ女子修道院の、さらに同家のエデリンダ Edelinde を聖オディールが建立したニーデルマンステ女子修道院の院長にそれぞれ就かせた。 特にヘラードの就任によって、ホーエンブルグ女子修道院は聖オディールの創建後、5世紀を経て再び繁栄の「黄金時代」を迎えることになる。しかし、戦いの時代、16世紀になりカトリック教会からプロテスタント派への改宗が相次ぎ、10万人の犠牲者を出した「ドイツ農民戦争(1524年〜1525年)」に巻き込まれ、さらに二度も火災を起こした山麓のニーデルマンステ女子修道院は、1545年、完全に放棄されてしまう。 翌1546年、同様に火災が発生したホーエンブルグ女子修道院はほとんど崩壊状態となり、多くの修道女が去り、修道院の機能も失われ、事実上、聖オディールの女子修道院はここで「終焉の幕」が降ろされる。 680年の創建以来、9世紀にわたる繁栄と衰退、再興を経て、ホーエンブルグ女子修道院は厳しい時代の潮流の中で姿を消して行った。 ● 女子修道院の崩壊後/プリモントル修道会のホーエンブルグ修道院の再興〜その後 1660年代になり、プレモントル修道会(下記コラム)がその修復と男子修道院の再建を担った。17世紀に入り、ヨーロッパ全土を巻き込み破壊し尽くした「三十年戦争」の後、17世紀後半のフランスによる「オランダ侵略戦争」、18世紀初頭の「スペイン継承戦争」を経ても、常に地政学的にターゲットとされたホーエンブルグ修道院では破壊と再建が繰り返し行われた。 18世紀後半の「フランス革命」の後、1791年に「修道院解散令」が発令され、ホーエンブルグ修道院は革命政府の管理下に入り、1796年、民間へ競売された。その後、幾らかの所要者の変遷を経て、1853年、ストラスブール司教により民間から買い戻された。 20世紀になり、第二次大戦後、1946年、ヴァチカン・ローマ教皇ピウスXU世により、聖オディールは「アルザスの守護聖人」と宣言された。1988年、当時のヴァチカン・ローマ教皇ヨハネ・パウロU世が修道院を訪れている。また、ホーエンブルグ修道院では、1840年に回廊の一部である聖オディール礼拝堂や図書館などが、1997年には堂(教会堂)がフランスの「歴史的建造物」に指定された。 |
● 修道女ヘラード Herrad ヘラードは歴史の中ではアルザス地方の貴族ランツベルグ家の出身とされているが、実は出生の確たる証はない。ヘラード自身、著書・≪至福の園≫の中で出生、子供の頃の話、家族、あるいは聖ヒルデガルトのようなスピリチュアル経験などをまったく記述していない。その上で、12世紀のランツベルグ家の系譜上で「ヘラード」という女性名を探すのは難しく、最も可能性の高いヘラ−ドの家系は、ホーエンベルグ女子修道院のパトロンでもあったフリードリヒT世の父、大公フリードリヒU世のシュヴァーベン家とする説が、私には有力であると思う。 ≪La 'Hortus Deliciarum(Garden of Delights)=至福の園≫を記述したヘラードは、その教書的な著書の中で340枚以上のイラストや詩を含め、修道院で学ぶ修道女のために聖書の歴史・規範・神学・哲学・文学などのテーマを1,100以上の原典からの抜粋を交えて教えを説いている。これは当時の「百科事典」に相当する著書であり、ヘラードは中世で唯一の女性事典編集者とも言える。 ≪至福の園≫はその当時の有能な修道女の書いた修道生活の単純なスクラップブックではなく、論理を伴った修道女教育の先進事典であった。ただ原書は長くストラスブール図書館が保管していたが、19世紀、1870年、「普仏戦争」の最中に焼失してしまう。現在は19世紀の手書き写本を元に20世紀に編集した物が残っている。 ヘラードは自身が管理したホーエンブルグ女子修道院の「娘修道院」となる二つの修道院を建立している。一つはホーエンブルグ山の東南東2km、ハイリゲンシュタイン村 Heiligensteinの手前、標高370mのツルッテンハウゼン Truttenhausen の≪アウグスティヌスの戒律≫を規範とする修道院、もう一つは聖ゴルゴンを奉るプレモントル修道会系譜の St-Gorgon 小修道院である。 また、プレモントル修道会は聖ベルナールの友人クサンテンの聖ノルベールが、1120年、北フランス・プリモントルに設立した≪アウグスティヌスの戒律≫を規範とする修道会で、シトー修道会と並び12世紀に急速な発展を遂げたカトリック教団の一つである。17世紀、ホーエンブルグ女子修道院が破壊され終焉した後、聖堂(教会堂)などの再建を行ったのはプレモントル修道会であった。 オベルネ旧市街〜南東3kmのニエデルネ村 Niedernai にかつて城壁に囲まれていたランツベルグ家のシャトーの一部があり、さらにホーエンブルグ女子修道院の南東2km、標高580m付近の山麓にはランツベルグ家が建てた赤色砂岩造りのシャトー城砦の廃墟がある。 |
● ホーエンブルグ女子修道院(モン・サントディール修道院)を訪ねる 標高750mの尾根に施設された細長い駐車場から、4階建ての均整のとれたネオ・クラシック様式(新古典主義)の建物の中央部にあるトンネル状のホーエンブルグ女子修道院(モン・サントディール修道院)の入口(下描画)へ向かう。 ホーエンブルグ女子修道院(モン・サントディール修道院)入口〜中庭/右手が聖堂(教会堂) アルザス地方ヴォージェ山地/描画=Web管理者legend ej ベージュ色の壁、グレーの屋根、左右対称の造り、どっしりと構えるこの建物は、アルザス地方ならどの町でも見ることのできる町役場 Mairie に近似する外観である。アーチ型入口の上部には地元産の赤色砂岩を使った初代修道院長・「聖オディールの像(上述 石像写真)」とラテン語の教示が刻まれている。 入口へ入らずに右方(東方)への階段を下ると、岩盤上に建てられた壮大な修道院の崖下・足元を周回する散策道となる。イエスが十字架を背負ってエルサレムのゴルゴダの丘へ向かう場面など「イエスの受難」を大型陶器プレートに描き、岩壁にはめ込んだ野外作品群を見ることができる。 さらに散策道は聖オディールが岩の崖から清水を湧き出させたという伝説の「奇跡の泉水」へも至る。今日でも、奇跡で視力を得た聖オディールに肖ろうと、岩盤から湧き出る「聖なる水」を汲む信仰の人々の参拝が絶えない。 余談だが、入口建物へ入らず左方(西方)への階段を降りて、通路に従って右折(北方)すると、(私も立ち寄ったが) 訪れた参拝者やツーリスト用の驚くほど清潔なトイレとなる。 アーチ型の修道院入口(上写真)を抜けると、リンデン(菩提樹)の大木が林立し花壇が配置された公園のような修道院中庭となる。左手に見えるアルザス地方特産の赤色砂岩造りの4階建ての建物は、部屋数111室を誇る「☆☆ホテル Hotel Mont Sainte-Odile」のレセプション入口と宿泊セクション、一方、入口の右手には、1988年、当時のヴァチカン・ローマ教皇ヨハネ・パウロU世が修道院を訪れたことを記念する大型レリーフがある。 枝を張り覆い茂るリンデンの樹間を進むと、右手奥の大型の建物が、17世紀の後半、プレモントル修道会により再建された、アルザス地方の赤色砂岩造りの修道院の付属聖堂(教会堂)で、さらに右手は崖上の展望テラスとなっている。12世紀の古い部分も含む聖堂(教会堂)の外壁は、厚い柱状壁(バットレス/控え壁)で強化され、内部は細身のエンタシス様式円柱で支えられた三廊形式、入口上部を振り返ればパイプオルガンがあり、内陣には黄金の聖母マリアが奉られている。 ------------------------------------------------------------------------ 教会堂の北側から修道院の東翼部(回廊部)となり、聖オディールの父、アルザス公アーダルリクT世の遺骸を収めた石棺を安置する「十字架の礼拝堂」が連なる。礼拝堂は12世紀に遡り、修道院で最も古い時代の建築である。 さらにその北隣は茶色プレート(上写真)で示すように「聖オディールの礼拝堂」となり、あまり広くない堂内には聖オディールの遺骸を収めた13世紀の石棺が置かれている。照明を抑えたこの聖オディールの礼拝堂で15分ほど独りで過ごしたが、その静寂と聖なる空気に何か身が引き締まる思いがした。 ホーエンブルグ女子修道院(モン・サントディール修道院)/聖オディールの石棺と礼拝堂のプレート それは、かつてシャルドネ種のブドウ畑が色鮮やかな黄金色に染まる2007年の晩秋、訪ねたブルゴーニュ地方の世界遺産ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂、夜遅く、イエスのパートナーとされた「マグダラのマリア」の遺骸を収めたとする地下納骨堂クリプト(下写真)で独り長い時間を過ごした時に感じたのと同じ、時空を越えた畏敬と言うか、歴史の残した聖なる空気が漂う崇高な空間でしか感じることのない「凛とした厳かさ」であった。 ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂・「マグダラのマリア」の地下納骨堂クリプト/ブルゴーニュ地方 ブルゴーニュ地方ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂 聖オディールの礼拝堂より北側、東翼部の長い回廊を北方へ抜けると修道院の裏手となり、巨木の立つ段差のある展望テラスが広がっている。ここには手入れが行き届いた美しい円形の花壇、その脇には球を載せた大型の「優勝カップ」のような石製彫刻にも似た17世紀起源の「日時計(八角形側面&突起=時計)」がある。 花壇から少し離れて、数段のステップの先には天井画の美しい二つの礼拝堂が建っている。手前の飾りのない赤色砂岩造り、堅苦しい壁面の「涙の礼拝堂」の天井には、黄金色を背景にイエスの祝福を受ける10人の修道女、聖レオ\世(教皇)とエジプトの聖女エウゲニア(ウージェニー)などが鮮やかな色彩で描かれている。 父アーダルリヒT世の死を悲しんだオディールが涙に暮れたこの礼拝堂の後(崖側)には、岩盤に掘られたオディールの生きたメロヴィング朝時代(5〜8世紀)の幾つかの墓が残されている。また崖の先端に建つ12世紀の起源、赤色砂岩造りの正方形の「天使の礼拝堂」の場所には元々ローマ時代からの古い見張り塔があったとされ、礼拝堂の天井は淡青色を背景に穏やかなベージュ色系の聖画で満たされている。 展望テラスから振り返って眺める修道院の赤色砂岩造りの建物外観(東翼部〜北翼部)は、何か中世の堅固な「要塞」のように見えここがかつて中世7世紀〜16世紀まで、アルザス地方の人々の信仰を集め繁栄を極めた女子修道院とする連想はやや難しい。ただ、足元は断崖だが、標高760mのテラスからの眺望は素晴らしく、天候に恵まれれば、直ぐ麓のツルッテンハウゼン修道院のハイリゲンシュタイン村やバールの街(後述)など、ブドウ畑が穏やかに波打つアルザス・ワイン街道の村々、さらに遠く東方25km先のライン河畔の平原まで見渡すことができる。 なお、リンデンの大木と聖オディールの像を囲む花壇のある広い中庭の西側の通廊内には、修道院の歴史と変遷の解説ボード、そして≪聖オディールの生涯≫のタペストリー複製画、レリンダやヘラードなど歴代の女子修道院院長の描画などが展示されている。また、修道院の最も北西翼部の建物では、修道院を訪れる参拝ツーリストとホテル宿泊者のためにレストランとカフェテリアが営業している。 ● モン・サントディール山中の遺跡 ホーエンブルグ修道院の、特に西方〜南方、おおおそ1km〜1.5kmの距離範囲、森林地帯の中にホーエンブルグの山を円周するように、幅2m 長さ3mなど大型石材を積み上げた考古学的な塁壁状の連なりが数多く見つかっている。その総延長は10kmあまりとされ高さ5m以上の規模の残存もある。紀元前10世紀頃の構築物とされ、古くからの言い伝えでは、ギリシア・ローマ時代の「異教徒(多神教徒)」に関係するという説があるが、考古学上の確証的な判断は発表されていない。 |
位置: セレスタ⇒北方16km/オベルネ⇒南方7km 人口: 7,000人/標高: 210m 「フランス 花咲く町と村」: http://www.villes-et-villages-fleuris.com/ ● バールの歴史 古代の時代から居住があったが、バールに関して最初に文書に記録されているのは8世紀の後半である。その後、神聖ローマ帝国がバール周辺も統合して、長い間、バールはこのエリアの中心的な役割を果してきた。 1522年、バールはハプスブルグ家の支配となり、さらに1566年にはストラスブール市の管轄となった。ところが、空席となったストラスブール司教の座を争い、当初、モルスアイムのカトリック教会派とストラスブールのプロテスタント派が対立、さらにカトリック・ロレーヌ枢機卿とルーテル教会の対立が「司教戦争(1592年〜1604年)」へ発展、巻き込まれたバールは城砦を初め、市街の多くの家屋が破壊尽くされることになる。 ● バールの街の印象 赤色砂岩造りのどっしりとしたSNCF鉄道駅から600mほどの旧市街へ向かう途中、道路が蛇行してわずかに広くなる場所を中心にマルシェ(野外市場)が開かれる。旧市街には城壁はなく、曲がりくねった通りで結ばれた市街の北端に、町役場 Hotel de Ville と円形の噴水を備えたひな壇のような町役場広場がある。 この広場の周囲はほぼすべての建物がコロンバージュ様式の造りである。ただ、個人的には、旧市街にしてはどうも交通量が多く、オープン・カフェテリアで席を取ったが、落ち着いてゆったりとした時間が過ごせなかった経験がある。 町役場広場の西側には、階段と裏手に墓地を付属した高い塔のプロテスタント派教会堂が建っている。旧市街との標高差は最大で150mほど、教会堂の背後の南向き斜面にバールのワイン・ブドウ畑は展開されている。アルザス特級ワイン・グラン・クリュに指定された約41haのブドウ畑・「Kirchberg de Barr」は教会堂の北側に広がっている。 |
位置: ストラスブール⇒南西31km/セレスタ⇒北方15km 人口: 670人/標高: 240m 現在、フランスには人口2,000人以下の「村」と言われる自治体が約32,000か所あるとされ、そのう ち「フランスの最も美しい村」に認定されているのはわずか172村だけ(2023年現在)である。 「フランスの最も美しい村」: http://www.les-plus-beaux-villages-de-france.org/ ● 「フランスの最も美しい村」 バールから南方のアンドーへ抜ける地方道D362号と高速道路A35号からヴォージェ山地へ登る地方道が交わる点がミッテルベルガイム村である。 村の印象はともかく「道路が狭い」の一言に尽きるだろう。「フランスの最も美しい村」に認定されたミッテルベルガイム村は、2008年の夏にバールからアンドーへのハイキングを兼ねて徒歩で、そして、2014年の夏には乗用車を使って、過去に私は二度訪ねているが、如何にしても「道路の狭さ」は解消されていない。近代化が図れないミッテルベルガイム村の地形的な構造と言うか、素朴を前面に押し出した素地、だからこそ「フランスの最も美しい村」に認定されているとも言えるだろう。 広いパーキング場も大型バスがすれ違いできる広い道路もなく、サイクリングやハイカーを見ることがあるが、「フランスの最も美しい村」でありながら、村を訪れる観光ツーリストは非常に少ない。しかし、これこそがアルザス・ワイン街道を代表する正真正銘の「ワイン造りの素朴な村」、ミッテルベルガイムの最大の魅力と言えるだろう。 ミッテルベルガイム村は地方道の交差点を中心に、わずかに東傾斜をしながらほぼ東西に長く、春〜秋には窓辺や手摺り階段に赤や白紫色の色鮮やかな花々を飾るコロンバージュ様式の住宅が狭い道路に沿うように密集的に建ち並んでいる。10軒以上のワインカーブを含め、村の約80軒を数える住宅は16世紀後半〜17世紀中期のドイツ・ルネッサンス時代に建てられた歴史的な建物と言われている。 16世紀のヨーロッパ宗教戦争の「ドイツ農民戦争」やフランスのカトリック教会とプロテスタント派との「ユグノー戦争」の後、村は分裂し崩壊状態となった。しかし、今日、交差点の東方に赤色砂岩造りの「ワイン造りの守護聖人」と崇められるカトリック系聖エティエンヌ教会堂とプロテスタント派教会堂が、互いに100mも離れない位置に建っているように、村にはワイン造りを共通意識とする融和思想が生まれ、宗派を超えた村人の共存精神で発展してきた(下描画)。 19世紀に落雷を受け改築された高さ35mの塔に時計がはめ込まれたプロテスタント派教会堂は、当初、12世紀にロマネスク様式で建てられたが、「ユグノー戦争」の後にゴシック様式へ改装されたとされる。 南方の平原から「フランスの最も美しい村」・ミッテルベルガイム村を遠望する/アルザス・ワイン街道 赤茶色鐘楼=カトリック教会堂/白色鐘楼=プロテスタント派教会堂 描画=Web管理者legend ej 狭い交差点の北角には、村で唯一の「☆☆ホテル GILG」がワインカーブ兼オーベルジェ(宿泊&食事)として営業している。また交差点から北方300mの丘にある展望台へ向かう狭い道路(Rue de Rotland/D362号)をバール方面へ150m ほど登ると車15台がリミットのパーキング場となる。 その東側には、少々きゅうくつな配置と言ったら失礼だが、かつて油搾り工場で使っていた18世紀の手動式の大型搾り装置などを展示する、朱色の屋根の小規模な博物館的な施設がある。1991年、16世紀から続く油工場が旧式装置を村へ寄贈したとされる施設、年代物の分厚い木製プレス装置のほか、馬で駆動した重量3トンの巨大な石臼なども展示されている。 なお、約150haとされるブドウ畑がミッテルベルガイム村の全周の穏やかな斜面に広がり、その内、アルザス特級ワイン・グラン・クリュに指定されブドウは、村の北西のジュラ紀土壌(泥灰土マール)36haのブドウ畑・「Zotzenberg」で栽培されている。 |
位置: ストラスブール⇒南西32km/セレスタ⇒北方14km 人口: 1,850人/標高: 230m 「フランス 花咲く町と村」: http://www.villes-et-villages-fleuris.com/ 「TV局F2 フランス人の最も好きな村」: 2014年調査・2位 ● 聖リシャルディの修道院の歴史/花咲く美しい村 ミッテルベルガイム村〜南西2km、春から秋にかけて至る所に花々を飾る「花咲く美しい村」として知られるアンドー村がある。 アルザス地方では名の知れたワイン村アンドーは、ヴォージェ山地から流れ出る村と同名の川の谷間とその出口付近、東西2kmに細長く延びる村である。曲がりくねった道路沿いに美しく花を飾ったコロンバージュ様式の家々が密集的に建ち並んでいる。 なお、アンドーは2014年のフランス・テレビ局F2の調査・「フランス人の最も好きな村」として第2位にランクされている。ちなみに2012年には南西フランスの美村サン・シル・ラポピーが1位、2013年1位にはアルザス・ワイン街道の美村エグイスハイムが、さらにアンドーが2位にランクされた2014年の1位には、南西フランスの城塞都市コルド・シュル・スィエルが選ばれている。 「フランスの最も美しい村」 サン・シル・ラポピー村 聖シル教会堂と「下の街」 の眺望/ミディピレネー地方 木板・アクリル描画450mmx300mm=Web管理者legend ej 南西フランス・「フランスの最も美しい村」サン・シル・ラポピー&城塞都市コルド・シェル・スィエル アンドー村のアルザス特級ワイン・グラン・クリュに指定されたブドウ畑は、村の直ぐ北側、標高240m〜290m付近、約6haと小規模な「Kastelberg」、その東側のミッテルベルガイム村への地方道の両側には約13haのリースリング種の「Wiebelsberg」が広がっている。さらに東方1.5kmのエイコフェン村 Eichhoffen との中間にはリースリング種の「Moenchberg」の畑がある(下描画)。 住民1,850人、アンドー村を有名にしているのはワインの生産は無論のこと、家々の窓辺や中庭や階段、無数の花壇を彩るキレイな花々だけでなく、9世紀のフランク王国の王であり、西ローマ帝国の皇帝でもあったシャルル(肥満王)/カールV世の妻リシャルディ Richardeis が、880年、この村に建立したベネディクト派の修道院の存在である(下記コラム)。 |
● 聖(女)リシャルディ Sainte Richardeis の伝説 南ドイツ・シュヴァーベン公のAhalolfinger家の娘リシャルディが、「肥満王」と言われたフランク王シャルルと結婚した後、主権継承と政治状況の偶然性から、肥満王は西・中・東に分裂していたフランク王国を一時的に「再統一」する。しかし、元来臆病で病的であった王の治世はスムーズに行かず、遠征の失敗や北方からの異民族の侵入を許してしまう。 そんな中、伝説によれば、シャルル肥満王は高潔な妻リシャルディと王の部下との「不倫」を妄想、これを口実に妻を素足で縛り上げ、ワックス(蝋)塗りの衣服のまま「火炙り」にしようとするが、奇跡にも炎はリシャルディの身体へ燃え移らなかったとされる。その後、リシャルディは住まいの宮殿からヴォージェの森へ逃げて、天使から「クマが示す場所に修道院を建てる」ようにお告げを受ける。それがアンドー川の脇に建つ修道院ということになる。 また、別な伝承では、リシャルディが森へ行くと、死んだ小熊に覆いかぶさる悲しみの母熊と会ったと言う。その時、リシャルディが小熊を抱えた途端に小熊は生き返り、この奇跡の後、親子の熊はリシャルディにずーと仕えることになったとされる。 895年頃、リシャルディは55歳前後で亡くなり、自身が建立したアンドー修道院に埋葬された。その後、1049年、リシャルディはヴァチカン・ローマ教皇レオ\世により聖列に加えられ「聖リシャルディ」となった。聖リシャルディはアンドー村の「火の守護聖人」でもある。なお教皇レオ\世はコルマール近郊の名門貴族エグイスハイム伯家の生まれである。 |
村は15世紀にはアンドーを統治したアンドー伯家により城塞化され、この時代、地下納骨堂クリプトで聖母マリアを奉る修道院の付属教会堂は、人々の信仰を集める巡礼教会でもあった。地方道D425号の脇に建つアルザス地方特産の淡ベージュ色&赤色砂岩を使った付属教会堂は、17世紀に再建されたもので、現在、聖ペトロ&パウロ(ピエール&ポール)教会堂となっている。 総石畳の細長い中庭にどっしりと建つ付属教会堂は、オータンの聖ラザール大聖堂などブルゴーニュ地方のクリュニー修族(クリュニー会)の教会堂のような豪華で巨大なタンパン彫刻ではない。が、西入口上部の半円形の小タンパン部には、赤色砂岩のイエスがベージュ色砂岩の聖ペトロへ鍵を、聖パウロへは本を手渡すシーンが刻まれている。ただ彫刻自体は石材にもろい砂岩を使っていることもあり、風化も手伝ってか若干「アルザス的」と言うか、ややシンプルで素朴性が見て取れる。 タンパン彫刻が濃密なブルゴーニュ地方・オータン聖ラザール大聖堂/見事な12世紀ロマネスク様式の柱頭彫刻 タンパン部の下部の、ドアー上部の一枚岩のリンテル部を含め、ドアーの左右にも赤色と白色砂岩が縞文様で積み上げられ、「横たわるアダムの身体から小さなエヴァが生まれる場面」とか、≪創世記≫に関わる聖なる物語が浮彫レリーフされている。 ちょっと高い位置でもあり、風化と劣化が進んでいるので判別は難しいが、教会堂の西正面と左右の赤色砂岩の外壁面には、人を食べるライオンやラクダに乗る人、巨大なサソリや怪獣、さらに狩猟や神聖シーンを表現する高さ60cm、総延長30mに及ぶ12世紀作とされるロマネスク様式の横帯状の浮彫レリーフが施されている。 砂岩のメス熊の像に守られた11世紀の地下納骨堂クリプトも見逃せない。なお教会堂の西側の淡色の窓と朱色の屋根に特徴があるルネッサンス様式のL字形の大きな建物は、かつて修道院の施設の一つであったが、現在、高齢者ホームとなっている。 アルザス・ワイン街道 「花咲く美しい村」 アンドー村/描画=Web管理者legend ej 秋の頃 黄金色に染まるワイン用ブドウ畑に囲まれた聖アンドー礼拝堂とブドウ栽培の農家 ● 聖アンドー礼拝堂 Chapelle de Sant-Andrew と墓地 村の南東のブドウ畑に囲まれた丘にはアンドー村の人々の墓地を付属する聖アンドー 礼拝堂が建っている(上描画)。元々は8世紀カロリング朝時代に遡るとされ、今日でもロマネスク様式の基礎部を確認できる。1800年代まで東方1.5kmのワイン村エイコフェンには教会堂がなく、この礼拝堂の墓地で共同埋葬していたとされる。 礼拝堂の高い尖塔の上部は八角形の形容、内陣の壁画は15世紀、墓地の周囲は1500年頃に築かれた塀で囲まれている。墓地には、2008年に訪ねた際に確認したが、すでに1,000年以上の長い間村人の埋葬に使われてきていることから、十字架や加工板石、彫刻石、あるいは彫像形など、美しい花と共に中世からの時代を反映する「色々な形式」の墓標が立てられている。この礼拝堂から眺めるブドウ畑が緩やかに波打つアルザス・ワイン街道の展望は素晴らしい。 ● シャトー・アンドー城砦 Chateau de Haut-Andlau/シャトー・スペスブール城砦 Chateau de Spesbourg アルザス平野の遠方からも二つ塔が確認できるが、村から北北西へ少し離れた標高450mの山頂には、13世紀に建てられ、19世紀に修復された後、20世紀にフランスの「歴史的建造物」に指定されたシャトー・アンドー城砦がある。このシャトーの周囲はヴォージェ山地の深い森と岩崖となっていることから難攻不落の「自然の砦」であった。 崩壊してしまったが元々屋根で覆われていた城砦内部を取り囲むように、現在、花崗岩の切石を積み上げ、所々に開口窓部を設けた頑強な数m厚さの外壁面が、北西と南東端にある直径10mの二つの高い見張り塔を結び、おおよそ幅25m 長さ80m、一体物として細長い楕円状に残っている。 また、アンドー城砦から西方1km付近、村から北西2km以上(直線)離れるが、尾根の頂上に13世紀中期に築かれたシャトー・スペスブール城砦が残されている。城砦は14世紀〜15世紀のフランス・イギリスの「百年戦争」で完全に崩壊したが、アンドー城砦と同様に、20世紀にフランスの「歴史的建造物」に指定されている。 |
位置: ストラスブール⇒南西34km/セレスタ⇒北方12km 人口: 280人/標高: 250m 「フランス 花咲く町と村」: http://www.villes-et-villages-fleuris.com/ アルザス・ワイン街道・イッタースヴィラー村/キレイな花を飾る家 ● ワイン街道の最も小さい村 人口280人、おそらくはイッタースヴィラーはアルザス・ワイン街道の中で「最も小さな村」の一つで、最も魅力的でキレイな村と言えるだろう。村の家々はすべてと言って良いコロンバージュ様式の造り、後述の聖マルグリット礼拝堂のエプフィ村からの地方道D335号に添って、村は東西に250mほどで終わってしまう。本当に小さな村だが、家々の窓辺など、手入れされた無数のっ草花が飾られ、何とも美し過ぎる(上写真)。 村はすでにローマ時代から居住され、12世紀の公式文書には村の存在が記述されている。17世紀、アルザス地方の多くの街と村と同様に、イッタースヴィラーも「三十年戦争」で好戦的なスウェーデン軍の攻撃を受け徹底的に破壊された。20世紀になり、村はワイン生産と観光産業で繁栄を享受している。 小さな村でありながら2軒のホテルとペンション、6軒のワインカーブが営業している。村の西外れに建つ6世紀のランス大聖堂の司教・聖レミギウス(レミ)を奉る聖レミ教会堂は12世紀の建立とされ、塔の壁画は14世紀の≪最後の晩餐≫である。 教会堂の道路を隔てた南側には「☆☆☆Hotel ARNOLD(28室)」が、その東側には巨大なワイン樽と大量の花を飾った、典型的なコロンバージュ様式の Hotel ARNOLD 兼営のオーベルジェ(宿泊&食事 )がツーリストを迎えている。オーベルジェの前のテラス仕様の見晴らしパーキング場からの展望は素晴らしい。 また、村の東外れで営業する印象的なコロンバージュ様式の「☆☆Hotel KIEFFER(14室)」は、ワイン街道を訪れるツーリストの写真の被写体として見逃せないスポットになっている。 アルザス・ワイン街道の中で人口規模では小さな村でありながら非常に美しい村がある。イッタースヴィラー村のみならず、「フランスの最も美しい村」に認定されているユナヴィール村がその一つである。丘に建つ村の聖ヤコブ教会堂からやや下方、ブドウ畑に囲まれた斜面的な地形に佇むユナヴィール村は、ツーリストもまばらで本当に静かな雰囲気が漂う(下描画)。 アルザス・ワイン街道・ユナヴィール村/秋 聖ヤコブ教会堂の周辺 黄金色に染まるブドウ畑 アルザス地方/描画=Web管理者legend ej |
位置: ストラスブール⇒南西32km/セレスタ⇒北方11km 人口: 2,200人/標高: 170m ● ワイン街道の小ぎれいな村 周囲を全面ブドウ畑に囲まれ、東方のライン川方向へ僅かに傾斜を示すエプフィ村は、東西に2kmと細長く、北方のオベルネと南方のセレスタを結ぶ地方道D422号が村の中を南北に貫いている。村の住宅は古いコロンバージュ様式もあるが、多くはモダンな様式へ建て替えられ、競うようにしてそれぞれがキレイな花々を飾っている。 古代にはこのエリアはケルト人とゲルマン民族に占有されていたとされ、古代ローマ帝国支配下のエプフィは「エピアカム Epiacum」と呼ばれ、駐屯したローマ軍により早くもワイン造りが行われていた。12世紀になると、ストラスブール司教がエプフィに小規模な城砦を建てその後、15世紀にエプフィは城壁に囲まれた城塞都市を形成していた。しかし、17世紀の「三十年戦争」では、1632年、スウェーデン軍により街は破壊し尽くされてしまう。 ● 聖マルグリット礼拝堂 エプフィ村の西端の離れた位置にSNCFフランス国鉄駅が、一方、村が終わる東端に古い墓地があり、その敷地に小さな聖マルグリット礼拝堂が建っている。11世紀起源のロマネスク様式の聖マルグリット礼拝堂は、アルザス地方特産の赤色砂岩の切石を使い、漆喰でキレイに表装施工されている。礼拝堂はフランスの「歴史的建造物」に指定されてる(下写真)。 エプフィ村の東外れにある聖マルグリット礼拝堂・ロマネスク様式の小柱の通廊内部から墓地を見る。 アルザス・ワイン街道 礼拝堂内部の平面形式はビザンティン様式の十字形を成し、全体がロマネスク様式特有の分厚い壁面で、身廊・トランセプト・右の礼拝室・内陣という基本配置である。身廊の長さは6mほど、礼拝堂内部(身廊〜トランセプト〜内陣)の奥行きは13m強、祭壇の置かれた内陣の幅は3mにも満たず、天井は目測5mほどの本当に小規模な造りの礼拝堂である。 アーチ型の内陣に明かり取りとなるわずかな文様を描くステンドグラスの半円長窓があり、これが祭壇と内陣の淡い天井画に光を与えている。小さな礼拝堂ということで、内部には単独の柱はなく、壁面で囲まれた空間をつくり、並べられた30人分の木製の椅子とともに圧迫感のない飾らない優しさが漂っている。 11世紀に遡る身廊の西側と南外側を囲むように、12世紀に追加された通廊が付属されている。幅は2,5mほど、通廊は丁度L字形の空間で、西側と南側分を合わせた通廊長さは14mに満たないと目測できる。 開閉ドアーを持たないシンプルな通廊入口は、礼拝堂の西入口の真西に位置している。通廊入口の右側の外壁には、半円型アーチとエンタシス型の2本の短柱が壁面を支えている。 同様に通廊の南側外壁面にも半円アーチと5本の短柱の組み合わせ窓が二か所ある。このため通廊内部は短柱窓から取り込まれた光で結構明るい。墓地側となるアーチ型入口を入って右側にある小さなドアから、内部のトランセプトへ抜けることができる。 上写真の丁度裏手側になるが、身廊の北外側の金網保護の空所には、多くの頭蓋骨や大腿骨がびっしりと収められている。 その多くは礼拝堂の南南西9km、ワイン街道のシェーヴィラー村 Scherviller で行われた「農民戦争」で亡くなった農民達の遺骨、また礼拝堂の東方1.5kmの高速道路A35号付近にあった古い地区 コールヴィラー Kollwiller の墓地から集められた遺骨も含まれているとされる。 「シェーヴィラーの農民戦争」とは、ドイツを発端とするヨーロッパ各地で発生した16世紀の「農民戦争」の一つで、1525年5月20日、アルザス地方の領主と農民の連合軍が、強力なロレーヌ公の軍隊に対抗して、セレスタの北西3.5km、シェーヴィラーの南側の平原・「クレフトゼン Kreftzen」で交戦した。たった1日の激しい戦いで農民連合軍の死者は約6,000人を数えたとされ、「アルザス地方の悲劇の戦い」として長く歴史に刻まれている。 |
位置: セレスタ⇒北東8km/ストラスブール⇒南南西35km 人口: エベルスマンステ村600人/標高: 160m 「フランス 花咲く町と村」: http://www.villes-et-villages-fleuris.com/ ● エベルスマンステの村/修道院の歴史と付属 聖モーリス教会堂 St-Mourice アルザス・ワイン街道の村ではないが、民家150軒ほどのエベルスマンステは、アルザス平野の中では目立たない小さな村である。しかし、村に建つエベルスマンステ修道院と付属聖モーリス教会堂の歴史は、上述のホーエンブルグ女子修道院(モン・サントディール修道院)と同じく、現在の村の規模からは想像できない濃密な内容を誇る。 ストラスブールからコルマールへ向かうSNCF列車からも、並行する国道N1083号からも、ほぼ平坦な農耕地が続くこの辺りのランドマーク的な、ドームがネギ坊主形容の3つの高い塔を備えたエベルスマンステの教会堂の上部が見える。 セレスタ方面から、時折コウノトリの群れがエサを探すトウモロコシやアスパラガスなどの栽培耕地を抜け、エベルスマンステ村へ入り、コロンバージュ様式と現代様式の家々が連なる村唯一の通り Rue du Gen Leclerc を東方へ向かい、2か所の小さな橋を渡れば、エベルスマンステ修道院・付属聖モーリス教会堂の堂々たる西正面ファサードが迫ってくる。 今日見ることのできる修道院付属の教会堂の外観は、中世12世紀にはロマネスク様式だったが、17世紀の「三十年戦争」で大きく破壊された後、18世紀の初頭から再建工事が始まり、1727年にドイツ・バーバリアン・バロック様式で完成されたものである。 675年頃から、この地にはアイルランド系の修道士デオダット Deodat が小教団をつくり、キリスト教の布教活動を行っていた。その小教団のために、聖オディールの父、アルザス公アーダルリクT世(Adalric 別名=エティション Etichon)は、アルザス平野の小村に過ぎないエベルスマンステの地に残っていたローマ時代の教会堂跡に、683年、ブルゴーニュ地方ヌベールの司教の後援を受け、ローマ帝国テーベ軍団・「司令官・聖モーリス(下記コラム)」を奉る≪聖ベネディクトウスの戒律≫を規範とする修道院を建立した。 |
● 「十分の一刑」/古代ローマ帝国・テーベ軍団 司令官モーリス 古代ローマ帝国の時代、反乱行為や不服従などに対して軍隊で行われた刑罰の一種。罰を受ける兵隊を10人グループに分け、各グループはその中から抽選で1人ずつ兵士を選び(10%)、残りの9人(90%)がその兵士を棒や石で殺害するという非常に残虐な刑罰。生き残った9人(90%)の兵士も流刑的な移動や粗悪食料の配給など別な刑を受ける。 後に聖人となるモーリス St-Mourice は、2世紀にエジプト・テーベで生まれたエジプト人キリスト教徒で、ローマ帝国の兵士となり、昇進して6,600人を率いるテーベ軍団の司令官となった。ガリア(現在=フランス・ベルギーなど)への遠征の際、アカウンAcaunum(現在=スイス南西部サント・モーリス)に駐屯、ローマ皇帝マキシミニス(在位286-310)から「十分の一刑」の実行を命令された。モーリスはこれを拒否したことで、ほかのテーベ軍団の多くの兵士達と共に殺害された。 ● 西ローマ帝国・「帝国修道院」 818年、エベルスマンステ修道院は西ローマ帝国の「帝国修道院」となるが、聖オディールが初代修道院長となったホーエンブルグ女子修道院は、これより早い800年頃にカールT世により「帝国修道院」を認可されている。 史実では、ほぼ同時に西ローマ帝国の「帝国修道院」となったことから、双方の修道院はキリスト教世界の「競争相手」となり、その後400年も経過した12世紀に至っても、宗教的な教義と経済問題の継続的な紛争が行われていたとされる。特に紛争の解決に尽力したのが、1176年、ホーエンブルグ女子修道院長に就任した修道女ヘラードであった。 ● 「緑釉陶器」とは 先ず素地を焼き窯で焼き、冷ましてから珪酸鉛を主成分とした釉(うわぐすり)を表面に塗布、800℃前後の適温で再度焼成することで、鉛分が熱変化して陶器面に緑色ガラス質を生成させる非常に高度な陶器製作の技法の一つ。二度焼きと焼成温度の調整の難しさなど、ハイレベルの技法から生まれる陶器で価格も高く高級品となる。 |
その後、9世紀のカールT世の時代に勢力拡大を成し遂げたフランク王国は、息子ルートヴィッヒT世(ルイT世/敬虔王)へと引き継がれ繁栄を続ける。 まだ周囲は森で覆われていたであろうエベルスマンステの修道院も活況の時代を迎え、818年、西ローマ帝国皇帝でもあったルートヴィッヒT世により「帝国修道院」へ昇格される(上記コラム)。「王冠」のマークは今でも教会堂の内陣を飾っている。 12世紀になると、聖モーリス教会堂はロマネスク様式へと建物が改築され、それは17世紀の「三十年戦争」による破壊の時まで続いていた。ただ、アルザス地方の多くの宗教施設がそうであったように、「三十年戦争」ではエベルスマンステ修道院と付属教会堂もフランス王国支持の好戦的なスウェーデン軍による破壊から逃れられず大きな被害を被った。 そうして教会堂の再建は18世紀の始まりと同時にスタートしたが、直後に火災が発生したことで工事が遅れ、今日の姿となるバーバリアン・バロック様式の壮大な教会堂が完成したのは1727年であった。東フランスにおけるバーバリアン・バロック様式で言えば、ここエベルスマンステの聖モーリス教会堂が「唯一最高傑作」とされている。 ● 聖モーリス教会堂の外観/バロック美術の美しい内部 エベルスマンステの聖モーリス教会堂の外観の最も特徴的な要素は、赤色砂岩のわずかな柱状壁(バットレス/控え壁)のベージュ色の身廊外壁、緑釉陶器(上記コラム)の八角形ネギ坊主形容の左右の鐘楼が圧倒する高さ48mを誇り、二塔型の西正面ファサード上部には槍を携えた古代ローマ帝国テーベ軍団の司令官・聖モーリスの銅像が立ち、さらに後陣外部の同様な施工の同じ高さの塔などである。 この建物設計を担当したのは、スイス・ボーデン湖南岸のザンクト・ガレン市内に建つ世界遺産・聖ゴール修道院のロココ様式の最高傑作の一つ、中世書籍16万冊所蔵を誇る付属図書館を設計した、オーストリア最西部のフォアアールベルグ地方 Vorarlberg 出身の著名な建築家ピーター・トーム Peter Thumb であった。 バーバリアン・バロック様式の美術とは、均整のとれた美しい調和を主張するルネッサンス美術とは異なり、流動感溢れる曲線と曲面の劇的で鮮やかな色彩と装飾過多を特徴とする南ドイツ・バイエルン地方で発展してきた建築様式である。王冠を抱く内陣(下写真)、あたかも王の住む「宮殿」を連想させる奥行56mの三廊形式の豪華な身廊など、バーバリアン・バロック様式の内部施工は、再建の教会堂外容が完成を見た1727年から開始された。 バーバリアン・バロック様式の極致とも言える聖モーリス教会堂内部では、全体を明るい白色を基調として、淡いモーブ色やグレー色調の穏やかな横縞模様で何層にも積み重ねた品の良い複合角柱の身廊、聖歌隊席(コーラス)は透き通るような象牙色と青緑色の細身の円柱に支えらた過剰とも言える装飾群で埋もれている。 教会堂内部の画像(絵画)装飾も素晴らしく、身廊とトランセプトの境を形成する左側には豪華な装飾枠に描かれたスコットランドの伝道師・聖オズワルド(1692年)の画像、その右下には大型ではないが緑色衣装の「聖母の教育」の図像が、一方、右側には「イエスの磔刑」の画像が描かれている。 その奥、トランセプトに面する聖歌隊席(コーラス)の入口左脇はイエスの死を悲しむ「嘆き(1720年)」の画像、そのさらに左側は聖ベネディクトウスの妹であり女子修道院の指導者といわれた聖(女)スコラスティカ(1730年〜171年)が描かれ、入口の右側には「イエスの磔刑」、その右側はアルザス地方の守護聖人・聖(女)オディール(18世紀)の画像である。何れも豪華な装飾枠に収められている。 そして内陣、聖歌隊席の両脇には上述のホーエンブルグ女子修道院の聖(女)オディールを初め、アンドー修道院の聖(女)リシャルディなど、18人分の精緻な聖人彫刻が施された木製席(ストール・18世紀)、その奥中央が聖職台の置かれた究極美とも言えるメイン内陣(1727年〜1820年)となる。 内陣の中央には細身の青緑色の大理石柱4本に支えられた「聖モーリス」の画像(時期により交換あり)、その上部には天使に囲まれたハトの図象が彫刻された淡いピンクとベージュ色の大理石装飾オーダー部、さらに最上部には両脇を天使が支える巨大な「王冠」が黄金色に光り輝いている(下写真)。 また、聖職台から見上げる上方、円形絵枠スペースに描かれた「聖母マリアの被昇天」の天井フレスコ画など、教会堂の内部全体が観る人を圧倒させるほどのバロック芸術の極致の美しさを主張している。 エベルスマンステ修道院・付属聖モーリス教会堂/「王冠」を抱く豪華なバロック様式の内陣/アルザス地方 さらに、身廊の各ベイ(格間)毎の交差ヴォールト型の天井では、サイズと形状の異なる変形の凹み絵枠スペースを設け、聖ベノイツ St. Benoit や聖モーリスを初め、まるで絵巻物のような美しい色彩の聖なるフレスコ画が描かれている。また、身廊の半ばの左角柱に付属するバロック様式の説教壇(1693年)と懺悔室(18世紀)は、磨き抜かれ焦げ茶色の神秘な光沢を放す、腕の血管が浮き出るほど力強い木像の「サムソンとライオン像」が下から支えるという珍しいタイプである。。 教会堂内部は何ともため息が出るほど美しいバーバリアン・バロック様式美術の「豪華な洪水」と言っても良いだろう。車以外にアクセスが難しい、詳細地図でなければ位置が確認できないほど小さな村であるが、バロック美術で埋もれる聖モーリス教会堂の内部の価値と美しさを確認する意味でも、エベルスマンステは「ぜひとも訪ねたいアルザス地方の魅力ある村」の一つである、と過言なくして私には強調できる。 ----------------------------------------------------------------------- ● 「シルバーマン・パイプオルガン」 身廊から西正面入口を振り返れば、入口上部を飾る大型パイプオルガンが目に飛び込んでくる。チェコとの国境地帯であるドイツ・エルツ地方で生まれ、アルザス地方でオルガン製作を始めたアンドレアス・シルバーマン Andreas Silbermann と息子ヨハン・アンドレアス・シルバーマンのアシストにより、1731年に完成したバロック様式の素晴らしいパイプオルガンである。 聖モーリス教会堂のオルガンは、鉛を主成分に錫(すず)との合金独特の青灰色のパイプ部が露出され、その上部周辺はチェロやオルガンや小楽器を弾く女神と無数の天使達の奏でる流麗な「音楽の世界」が絵画されている。なおアンドレアス・シルバーマンはこのオルガン製作の3年後、1734年、ストラスブールで亡くなっている。 毎年5月〜7月の毎日曜(6回前後)、聖モーリス教会堂ではこの大型の「シルバーマン・オルガン」を演奏する教会コンサートが開催される。当然、ストラスブールやコルマールからやって来る音楽愛好者が待ちに待っている人気の恒例クラシックコンサートであり、チケットは即時完売となるとのこと。アルザス地方には音楽を愛する人達がたくさん居る。 なお、エベルスマンステ修道院・付属聖モーリス教会堂は、内陣の精緻な木製ストールやパイプオルガンなども含め、フランスの「歴史的建造物」に指定されている |
● 「シルバーマン・オルガン」 18世紀、オルガン製作では突出した才能を発揮したアンドレアスと弟ゴットフリート Gottfried のシルバーマン兄弟の製作したオルガンは「シルバーマン・オルガン」と呼ばれている。アンドレアスは三人の息子(Johann Adreas/Johann Daniel/Johann Heinrich)が居り、彼らもバロック・オルガン製作者となった。 アンドレアスはストラスブールやコルマールなどアルザス地方を中心に合計20基(親族共同では35基)のオルガンを製作、聖モーリス教会堂のパイプオルガンはアンドレアスの東フランス地域の最高傑作の一つとされる。また、弟ゴットフリートはドイツの教会堂などを中心に親族共同を含めパイプオルガン50基ほどを製作した。 また、響きが素晴らしいことで有名な、バーゼル南方8km、アルレスヘイムの大聖堂 Dom zu Arlesheim の「スイス最大級シルバーマン・オルガン」は、アンドレアスの長男ヨハン・アンドレアスが1761年に製作したオルガンである。バロック様式の美しい大聖堂から東方600m、標高差50mの丘にビルセック城が建ち、丘の南側麓にはホーエンブルグ女子修道院に関わる聖オディール伝説の≪エルミタージ洞窟 Ermitage≫があり、泉水が湧き出して水草の池をつくっている。 |
位置: セレスタ⇒西南西8km(道路12km) 標高: 700m/オークニグスブール城 ● オークニグスブール城の歴史/造営〜崩壊〜再建 ヴォージェ山地の標高700mの山頂にオークニグスブール城塞がある。11世紀の後半に建てられた最初の城砦の名称は「スタフェンベルグ場」であったが、12世紀の半ば、ドイツ語の「王の城」を意味する「クニグスブール城」へ名称変更された。13世紀にはロレーヌ公により城の拡張が行われた。その後も時代とともに次々に替わる所有者により城の修復と拡張が行われた。 17世紀にはカトリック教会とプロテスタント派とのヨーロッパ宗教戦争・「三十年戦争」が勃発、1633年、スウェーデン軍の激しい攻撃が始まり、オークニグスブール城は52日間の包囲戦を経てそのほとんどを焼失、その後、完全に放棄され荒れ放題となってしまった。 ただし、アルザス地方はフランスの領土となり、コルマールなどの貴族階級が城の所有者となった。その後、1871年に始まるプロセイン王国との「普仏戦争」に至り、フランスは敗退、プロセイン王国は「ドイツ帝国」の成立を宣言して、アルザス・ロレーヌ地方のほとんどを「ドイツ語=エルザス・ロートリンゲン」と名称して直轄統治下に置いた。 そうして城の所有権がドイツ・プロセイン帝国ヴィルヘイムU世へ譲渡されたことで、20世紀初め、1500年代の考古学的な情報を基にして、1901年から7年余りの歳月を費やし、現在見ることのできる堅固な城塞が再建された。最高62mの塔、壁は平均高さ40m、長さ270m、山頂の崖の上に何層にも複雑で横長に建てられたオークニグスブールの城塞、使われている石材はアルザス地方の教会堂などで見ることのできる地元特産の赤色砂岩である。 ストラスブール⇒コルマールへの列車や高速道路A35号線からもその目立った位置に建つ城の存在を確認できる。ヴォージェ山地から東方へ張り出した尾根状の山頂に建つオークニグスブール城塞からのアルザス平野の展望は素晴らしい。 |