legend ej の心に刻む遥かなる「時」と「情景」

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世界遺産/キリスト教巡礼聖地 ロカマドール Rocamadour

ロカマドール・聖域&市街 Rocamadour, Sanctuary & Town/(C)legend ej
     ロカマドール/「聖域」=聖マリア聖堂・聖ミカエル聖堂・聖アンア礼拝堂・聖アマドール礼拝堂など
     「下の市街」=レストラン・カフェ・プチホテル・土産物ショップ・住宅など
     ケルシー地方/描画=Web管理者legend ej

スペイン・聖ヤコブの墓発見/ロカマドール巡礼の始まり/聖アマドールの遺骸発見

スペイン・聖ヤコブの墓/「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」
2,000年前、ユダヤ教系譜でありながら「新たな宗教的な考え(後のキリスト教)」を唱えたイエスが、ユダヤ教徒とローマの兵隊によりエルサレムで処刑される。そして、イエスの弟子の一人であった(聖)ヤコブ(St Jacob/スペイン=サンティアゴ Santiago/聖ヨハネの兄)はユダヤ教徒の迫害からスペインへ逃れた。しかし当地でイエスの唱えた原始キリスト教の布教を行なった後、(聖)ヤコブはユダヤの地へ戻った際に捕らえられ処刑されてしまう。

(聖)ヤコブはイエスの弟子の内で「最初の殉教者」となり、後に信徒達の手で(聖)ヤコブ遺体は再び「スペインへ運ばれ葬られた」と伝承されてきた。その後、9世紀初め813年になり、スペイン西北部サンティアゴ・デ・コンポステーラの地でこの守護聖人ヤコブの墓が偶然に発見された。

これ以降、サンティアゴ・デ・コンポステーラは、イエスの一番弟子であった聖ペトロの墓があるローマ・ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂、イエスの処刑と埋葬の地ユダヤのエルサレム、そして15世紀にイスラム教徒により陥落するまでの東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリス(イスタンブール)に建つ聖ソフィア大聖堂と共に、中世キリスト教徒の最重要の「四大聖地」となった。
このスペインの聖地・聖ヤコブの墓を詣でるキリスト教徒の巡礼の旅を、古くから人々は「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」と呼ぶ(下記コラム参照)。

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修道院管理の礼拝堂の存在/聖アマドールの遺骸発見〜ロカマドールの繁栄〜衰退〜復興
「世界で最も美しい書物」とされる≪15世紀・ベリー公のいとも豪華なる時祷書≫の「3月・農作業の始まり」の背景画に描かれているのは、ポアティエの南西25km、リュジニャン Lusignan に中世最大級のシャトー城砦(フランスの歴史的建造物)である。このシャトー城砦を治めた名門家系、後にキプロス王やエルサレム王を排出するリュジニャン家の領主の一人、ラ・マルシェ伯であったユーグZ世(Hugues VII 1065年〜1151年)が居た。

このユーグZ世の時代、1105年にはミディピレネー地域の北部、ケルシー地方のロカマドールの崖上には、古くからの「小規模な礼拝堂」が在ったとされる。
そして、ロカマドールの北方55kmのコレーズ河畔チュール Tulle には、聖母マリアを奉る後のチュール大聖堂(14世紀)の前身となるベネディクト会系譜の聖マルタン修道院(7世紀建立)があり、その修道院長であったエブル・テュレンヌ Eble de Turenne が、1112年、ロカマドールへ移り住んだ。その後、この地域を治めていたラ・マルシェ伯ユーグZ世が、修道院のための土地を寄進することで、ロカマドールの壮大な歴史の舞台が成立して行くことになる。

この頃、礼拝堂にはロカマドールの聖なるシンボルとなる、全身を銀で覆われた12世紀作の「聖母マリア像」が納められていた。一方、ヨーロッパ・キリスト教世界では、偶然なことに聖母マリア信仰に傾倒したローマ教皇パスカリスU世が、ローマやエルサレムなどと同様に各地の「聖母マリア巡礼」を強く推奨していた。
こうした偶然とも言える社会背景から、すでに10世紀を待たずしてロカマドールを含めフランスやドイツなどへ、帆立貝をシンボルとする遠くスペインの聖ヤコブの墓を詣でる、「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」の流行の波が届いていたはず。
そうして、ロカマドールがフランスから出発する巡礼路(寄り道:上述コラム)に組み入れられた結果、当地の「聖母マリア像」を礼拝した人々の幸運と奇跡の話が数多く伝わり、さらなる信仰の相乗効果が倍々ゲームで増幅、敬虔なキリスト教徒の人々は挙って「ロカマドール参拝」の列を成したと言う。
1152年、エブル修道院長が亡くなり、次の修道院長にロカマドールの北東、美しい草原の丘にシャトー城館が建つエスコライユから来たジェラルドが就任する。12世紀の終わりまでには、ユーグZ世から寄進された場所に新たな礼拝堂など、今日の「聖域」となるロカマドールの修道院管理の色々な宗教施設が完成した。
その後、ロカマドールへの人々の憧憬と参拝の流行は、フランス以外の遠い地域までも大津波となって波及して行く。

こうした中、1166年、ロカマドールでさらに大きな宗教的な意味を成す出来事が起こった。岩崖墓から保存状態の良い遺骸が発見されたのである。現在、デザイン鉄格子枠で保護されているが、聖域のほぼ垂直な崖壁面に方形掘削された墓から偶然に発見された遺骸は、死後1,100年が経過していたにもかかわらず、信じられないことだが、まったく腐敗していない(聖)ヴェロニカの夫である隠匿の聖人アマドールとされた。
聖アマドールの遺骸の発見以降、西フランスのモン・サン・ミッシェル修道院を初め、マグダラのマリアに関わるブルゴーニュ地方ヴェズレー修道院、あるいは「聖母マリアの家」を祀るイタリア・ロレート村Loreto などと同様に、「聖母マリア像」と「聖アマドールの聖遺物」のロカマドールは、「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」の途上の立ち寄り場所であると共に、ヨーロッパ中世における絶大人気の「キリスト教巡礼聖地」としての地位を確実なものにした。

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その後、聖域を含め宗教施設の急拡張、「門前町」としてアルズー渓谷の河畔にロカマドールの庶民の住む「下の市街(上描画・下部建物群)」、崖上には騎士や司教など「宗教関係者」の住むエリア、少し離れて庶民の生活する「上の市街」も形成され、巡礼聖地は発展と繁栄を享受することになる。
13世紀の終わりには、ローマ教皇ニコラウスW世による参拝者への「贖宥状」が大量に発行される有様となり、衰えを知らないロカマドール巡礼の流行は絶頂期を迎える。
また、中世の時代、12世紀のキリスト教の発展に尽力したシトー修道会クレルヴォー修道院の聖ベルナール(下記URL)が、そしてドミニコ修道会の聖ドミニコも、さらには宗教的な情熱を持ち高潔な人物とされた13世紀のフランス王・聖ルイ(ルイ\世)、あるいは政治的には陰謀が過ぎると言われながら「最もキリスト教的なフランス王」であった15世紀のルイXI世など、フランスの歴史にその名を刻む多くの指導者達が、次々とロカマドールの聖地参拝を行っている。

しかし、13紀世紀の末、かつて400年前に修道士がヴェズレー修道院へ持ち帰ったとされたイエスのパートナー、マグダラのマリアの聖遺物(遺骨)は、実は「本物ではない」とするローマ・ヴァチカンから教皇判断が出され、未曾有の繁栄を極めてたヴェズレー修道院参拝が一夜にしてその熱気を失ってしまったように、中世キリスト教世界の繁栄と衰退は紙一重で共存した(下写真)。

ヴェズレー修道院・聖マリー・マドレーヌ大聖堂・クリプト/(C)legend ej
     ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂・「マグダラのマリア」の地下納骨堂クリプト/ブルゴーニュ地方
     世界遺産/ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂

14世紀になると、ロカマドールの聖域の運営と管理が、これまで担当して来た修道院から司教の任命する聖堂参事会へ移行されることで、修道士達がロカマドールから去って行き、さらにヨーロッパ全土を襲ったペスト病の蔓延や農業干ばつなども発生したことで、参拝者の激減傾向が顕著となった。

さらに15世紀になると、追い討ち的に崖の大規模な崩落により聖堂施設が大きく破壊されてしまう。続く16世紀の後半に起こったヨーロッパの宗教戦争の一環である「ユグノー戦争」では、プロテスタント・ユグノー派の傭兵の攻撃の的となり、「聖アマドールの聖遺物(遺骸)」が破壊されたことから、なおさらに施設の崩壊が進み、巡礼の人々がロカマドールからますます遠退いて行った。
だが、19世紀の半ば1858年、カトリック教会の司祭であり、建築家でもあったジャン・ベティスト・シェルヴァの指導の下に、壊滅状態であったロカマドールの聖域の保全と修復・再建作業が始まり、1872年までには今日見ることのできる景観を取り戻した。

クリュニー修族とシトー修道会/聖ベルナールとクレルヴォー大修道院/「プロヴァンス三姉妹」

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UNESCO・世界遺産/フランスの「歴史的建造物」/「フランスの聖地」と「ベスト景勝地」
ロカマドールの名称は聖アマドールの名にちなみ、「ロック・デ・アマドール(アマドールの岩)」から由来されたとされる。聖なる物語と奇跡の話が数多く伝承され、中世以来、フランスからのスペインの聖地・「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」の立ち寄りコースに組み込まれたロカマドールは、現在、UNESCO世界遺産に登録されている。

また村の中の古い建物と施設、聖域の建物、具体的には後述する聖域内に建つ聖母マリア礼拝堂など5つの礼拝堂、さらに聖ソヴール教会堂など3つの教会堂と聖アマドールの埋葬室クリプト、13世紀の巡礼者救護所(ロスピタレ)の遺構、14世紀の起源とされる現在の村役場 Hotel de Ville や神聖美術館などの中世からの建物群、村と聖域を守る14世紀〜15世紀の5か所の城門、18世紀の旧修道院宮殿なども含め、合計22か所の建物と施設がフランスの「歴史的建造物」に指定されている。

データから言えば、現在、年間150万人の参拝者と観光ツーリストが「巡礼聖地ロカマドール」を訪れているとされ、フランス国内ではモン・サン・ミッシェル修道院、パリ・エッフェル塔、ヴェルサイユ宮殿に次いで第四番目の人気スポットになっている。
そのほか、オクシタニー/ラングドック・ルシヨン・ミディ・ピレネー地域圏の「コッス・デ・ケルシー地方自然公園 Causses de Quercy(下地図)」に含まれるロカマドールは、ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂などと並んで「フランスの聖地(20か所)」にも認定されている。

「フランスの聖地(20か所)」: http://www.villes-sanctuaires.com/

フランスの最も美しい村・サン・シル・ラポピー St. Cirq Lapopie/(C)legend ej
   「フランスの最も美しい村」 サン・シル・ラポピー村 聖シル教会堂と「下の街」 の眺望/ミディピレネー地方
   木板・アクリル描画450mmx300mm=Web管理者legend ej
   「フランスの最も美しい村」サン・シル・ラポピー

          ミディピレネー地方 地図/(C)legend ej
              南西フランス・ミディピレネー地方/作図=Web管理者legend ej

世界遺産・ロカマドールの景観

位置: ボルドー〜東方180km フィジャック〜北西40km
人口: 600人

GPS 司教シャトー城館: 44°47′59″N 1°37′02″E/標高220m/下の市街170m

UWH

ロカマドールの「下の市街」と「聖域」
ロカマドールは南西フランス・ミディ・ピレネー地域の北端、ケルシー地方を蛇行しながら25km下流でドルドーニュ川と合流するアルズー川 Alzou の渓谷に発達して来た住民600人余りの小村である(上地図)。村は深い渓谷や垂直にそそり立つ石灰岩の崖など幾分荒荒しい風景の中で、不思議なほど調和と安定があり、それでいて聖地としての神々しい威厳を秘めている。
圧倒されそうな夜間照明に浮かび上がるロカマドールの「聖域(下写真)」を眺めていると、古くからこの地がキリスト教の巡礼聖地として栄えて来た理由を理解できるような気がする。
個人ツーリストの場合、ロカマドールへの行き方、交通アクセスは非常に難があるが、南西フランス地域を旅する時、無理してでも訪れたい場所と強調できる。 ※交通アクセスは最下項・「参考・関連」参照

ロカマドールの事実上の「上の市街」に相当する「ロスピタレ L'Hospitalet=巡礼者救護所: 後述」に残されたロスピタレ門をくぐり、長い下り坂・「聖域の参道 Voie Sainte」で南方の渓谷に密集するロカマドールの「下の市街」へ向かうとしよう。
参堂脇には徐々に家々が建ち並び始め、右側の「☆☆ホテル・ロック」を過ぎると、今日、駐車場とプラタナスの巨木が立っているが、最初の市街城門・「イチジクの樹の門 Porte du Figuier」となる。利用者は少ないが、門の右手の急階段を昇れば聖域を通らないで崖上へ至る。
イチジクの樹の門の内側(南側)が城壁で囲まれたロカマドールの「下の市街」であり、勇者ローラン通り Rue Roland Preux をさらに南方すると次の城門・ソロモン門 Porte Salmon が待ち構え、門の内側がロカマドール市街の中心となるメインの道路、石畳のクロンヌリー通り Rue de la Couronnerie である。アルズー川の右岸(西側・標高150m)を南北に走るクロンヌリー通りは標高170m付近に相当する。

クロンヌリー通りには村役場 Hotel de Ville やロカマドール観光案内所を初め、ホテルやレストランやカフェ、地元ヤギチーズやジャムやワインなどを揃えた物産ショップ、骨董品や土産物を扱う店など、家々が密集して建ち並び、ロカマドール観光の最も賑わうエリアとなっている(下写真・下部建物群)。
通りには決して広いとは言えないが三角形の広場があり、北方へ登る「大階段」と呼ばれる200段以上の巡礼者の階段 Escalier des Pelerins が、市街から上方30m〜40mの聖域へ通じている。かつて、中世の時代には、敬虔な巡礼者は中国チベット地方や雲南省の仏教徒が行う礼拝の苦行、両手・両腕・顔を地面に投げ伏せる「五体投地」に似た「膝突き」でこの巡礼者の階段を昇ったとされる。

ロカマドール Rocamadour/(C)legend ej
     黄昏のロカマドールの景観/淡い紫色の神秘的な輝きに染まる「聖域」の聖堂群/ケルシー地方

大階段の後、狭い場所に圧倒してそびえる巨大な建物群を見上げながら、順路に従ってトンネルのようなゲートをくぐり、さらに急階段を登ると傾斜60度〜ほぼ垂直となる険しい岩壁面に辛うじて確保した狭い空間のロカマドールの「聖域」となる(上写真・崖壁建物群)。
わずかなスペースを囲む聖域には、有名な「黒い聖母子像」を奉る「奇跡の礼拝堂」とも呼ばれる、石積み構造のノートルダム・聖母マリア礼拝堂を初め、見上げるほどの堅固な外観の聖ソヴール教会堂、大天使聖ミカエル礼拝堂、聖アマドール礼拝堂、洗礼の聖ヨハネ礼拝堂など、多くの聖堂と宗教施設が互いに連結するように、石積みの高層建築の複雑な構成で建てられている。

ノートルダム・聖母マリア礼拝堂は聖域の崖側(西側)に建ち、天まで届く先の尖ったキジュラン葉に似た優美な曲線形容の入口が特徴で、その上部のタンパン部では、古フランス様式のシールド・エスカッシャン(紋章)と頂飾りを少々お澄まし顔の二人の天使が支えている。礼拝堂内部の黄金装飾の祭壇の最上部に納められているのが、比較的シンプルな木製・「黒い聖母子像」である。
聖母子像は12世紀作とされるが、一説では、2,000年前、イエスの処刑の後、ユダヤの地エルサレムを追われた聖アマドールが「最初の像」を当地へ持ち運んで来たとも言われている。極端な装飾が施されていない細身の聖母マリアは王冠を被り、その左膝に冠の幼いイエスを乗せている。
なお、中世の時代には、聖母マリアは船乗り達の守護聖人でもあり、遠く地中海沿岸やスペイン・ポルトガルの船乗り達が挙ってミニチュアの奉納船を携えてロカマドール巡礼に訪れたとされ、今でもその奉納品の一部が残されている。

また、聖母マリア礼拝堂の左隣(南側)の崖壁面に建つのが聖ミカエル礼拝堂で、その見上げる外壁最上部には大天使ガブリエルとマリアを描く「受胎告知」、そして、聖母マリアが洗礼の聖ヨハネの母親エリザベト(ルカの福音書=マリアと姉妹であった)を訪ねる様のフレスコ画が確認できる。
ニッチ(凹み)風のアーチ型外壁に描かれたこの12世紀作のフレスコ画は、長い間雨露にさらされているので若干色褪せてはいるが、大天使と人物は何れも高貴なデザイン衣装、鮮明な青色を背景としてモーブ色(伝統和色=紫苑色)とベージュ色を基調とする、比較的明るい雰囲気の神聖描写である。

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幾らかの説によれば、8世紀〜9世紀、フランク王国カロリング朝・大帝カールT世(シャルルマーニュ/800年=西ローマ帝国皇帝)の妹ギセーラ Gisela の息子に武将ローラン Roland/Hruodland が居た。
好戦的な勇者ローランは黄金の柄(つか)、岩石をも砕くほど強靭な両刃の剣、ローランを称える11世紀のフランス最古の叙事詩である≪ローランの歌 La Chanson de Roland≫によれば、天から授かった伝説の聖剣≪デュランダル Durendal≫を保持して幾多の戦いで活躍したとされる。

聖ミカエル礼拝堂のフレスコ画と同じ見上げる高さで、聖母マリア礼拝堂寄りの崖壁面の斜めの裂け目には、長い年月の経過で錆びてしまったが、大天使ミカエルが運んで来たとされるこの聖剣≪デュランダル≫が刺さったまま残されている。聖剣の下方、聖母マリア礼拝堂の入口の直ぐ左側、現在、デザイン鉄格子枠で保護されているが、崖壁面を方形に掘削した場所が聖アマドールの遺骸の見つかった墓であり、ここがロカマドール名称の「起源・由来」となったピンポイント場所である。

聖母マリア礼拝堂の右隣に連結している四階建ての巨大な建物は聖ソヴール教会堂、その階下は分厚い石積みの尖頭アーチ型ヴォールト天井で控え目装飾の聖アマドールの埋葬室クリプトとなっている。
なお、聖母マリア礼拝堂と聖ミカエル礼拝堂へ登る階段とバルコニー、さらにこれとバルコニー連結している聖ソヴール教会堂の階段の手摺りは、単純な小柱などではなく、荒々しい崖壁面とは対照的な建築仕様、眼にも優しいくり貫いた縦型楕円が連鎖するシャトー様式の優美な凝ったデザインである。

さらに聖域の東側(村側)には階段状破風(いらか段)の正面ファサード、祭壇が印象的な大型レリーフで飾られている聖アンナ礼拝堂と聖アマドール礼拝堂が連結されている。
その南側で入口リンテル石にラテン語の啓示、タンパン部にヒツジ(羊)の紋章を抱く八角形の塔のような建物は洗礼の聖ヨハネ礼拝堂で、内部には1518年に亡くなったエルサレムの聖ヨハネ騎士団の騎士聖ヨハネ・ヴァロンの石棺がある。
また、聖域の南側、下方の賑わうクロンヌリー通りから昇って来る交差ヴォールト・トンネル階段の上階を占有する手摺りに囲まれた四階建ての建物は、高層の円形の稜堡塔を備えた旧修道院宮殿と神聖美術博物館となっている。

8世紀〜9世紀、カロリング美術とフランク王国・大帝カールT世(シャルルマーニュ):
世界遺産/ブルゴーニュ地方ヴェズレー修道院・聖マリー・マドレーヌ大聖堂/「マグダラのマリア」とロマネスク美術

Ref.
「聖母子像」と巡礼聖地
「聖母子像」が奉られたキリスト教巡礼聖地としては、たとえばミディピレネー地方では聖フォワを奉るコンク修道院など、ヨーロッパ各地の教会堂や修道院などが知られている。スイス・バーゼルからほど近いマリアシュテイン修道院付属の「洞窟の礼拝堂」に納められた「慰めの聖母子像」も有名である。14世紀後半からマリアシュテインの地に残る伝承では;

--- 渓谷をつくる崖上を地元の牛飼いの母親と少年(または幼児)が通りかかった。夏の暑い日だったのか、母親は岩陰で休み、ウトウトと居眠りを始めた。この時、母親から少し離れた位置で遊んでいた少年が、誤って岩盤の深い裂け目に転落、40mほど滑落してしまう。崖を降りて救助に向かった母親が見たものは、奇跡的に無傷のまま平坦な岩の上で何事もなかったように無心に遊ぶ少年であった。そうして母親が聞いた少年の説明では、滑落の時、少年を両腕で支えてくれた「美しい女性」の姿を見た、ということであった ---

「美しい女性」とは聖母マリアであり、その後少年の両親により渓谷の岩壁に「洞窟の礼拝堂」が建てられ、当初、木製(後に石製)の「聖母子像」が奉納された。以降、この地はスイス第二番の重要な巡礼聖地となり、スイス国内を初め東フランス・アルザス地方〜ドイツ・「黒い森地方」の信仰深い人々が参拝の列を成したとされる。

          マリアシュテイン修道院・教会堂/(C)legend ej
      マリアシュテイン修道院・西正面ファサード  洞窟の「慰めの聖母マリア像」/スイス・ジュラ地方
      南部アルザス/フェレット城砦とダンヌマリー周辺/「鯉フライ街道」とスイス国境地帯の村々

ヴェズレー修道院・聖マリー・マドレーヌ大聖堂/(C)legend ej
  ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂・西正面ファサード/澄み切った夜空に満月が輝く /ブルゴーニュ地方
  世界遺産/ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂

Ref.

「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」/フランスからの「四つの主要巡礼路」
9世紀に発見されたイエスの三番弟子・聖ヤコブの墓を最終目的地とする「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」は、10世紀以降、フランスやドイツなどの王侯貴族も競って奨励するほど大流行となり、その最盛期となる12世紀には年間50万人のキリスト教徒の巡礼参拝があったとされる。
その背景には、当時のヨーロッパ・キリスト教世界で盛り上がった聖人と聖遺物への崇拝思想の深化、あるいはイスラム系ムーア人による長期支配が続くイベリア半島でのキリスト教徒による領土回復運動・「レコンキスタ」との連動が強く働いたとされる。

流行となった「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」では、イギリスや中欧諸国も含めヨーロッパ各地からの主要巡礼路が決められた。
特に中世キリスト教の信仰が高まっていたフランスでは、
  ・出発地パリからの「ツゥールの道
  ・ブルゴーニュ地方ヴェズレー修道院からの「ヴェズレー(リモージュ)の道
  ・オーヴェルニュ地方ル・ピュイからの「ル・ピュイの道
  ・プロヴァンス地方アルルからの「ツゥールーズの道
合計4か所の出発地とルートが確定された。
中でも「マグダラのマリア」の聖遺物とロマネスク様式美術の宝庫とされたヴェズレー修道院は、フランスからの最も重要な巡礼路の出発地であった(上写真)。

ヨーロッパ各地からの敬虔なカトリック教巡礼者は、一生に一度、資財を投げ打つまでしても、胸に聖ヤコブのシンボルであった帆立貝を下げ、先ずこれらの4か所の出発地を目指した。
そうして、人々はイギリスからはモン・サン・ミッシェル修道院、ドイツやスイスからはロマネスク美術の聖フォワ・コンク修道院やモワサック修道院など、途中の有名な修道院や教会堂、聖地などを巡りながらスペインを目指す「巡礼の旅」を行った。

フランス・ヴェズレー修道院・「帆立貝」の道標/(C)legend ej サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路はフランスからピレネー山脈を越
 えて、スペイン北部プエンテ・ラ・レイナ Puente le Reina の「王妃の
 橋」で合流、巡礼者はさらに西方の果て最終目的地サンティアゴ・デ・
 コンポステーラを目指した。たとえキリスト教信仰とは言え、徒歩で往復
 3,000km以上を旅する庶民にとっては非常に厳しい長い道のりであ
 った。

 ケルシー地方はフランス中央高地から延びる「ル・ピュイの道」にカバー
 され、先ず聖フォワを奉る聖地コンク修道院から歴史の街フィジャック
  Figeac を経由、その後、巡礼路(本道)はロット渓谷のロマネスク
 様式の街カオールやモワサック修道院へ向かっていた。

路面に埋め込まれた帆立貝の巡礼飾り(道標)/聖地巡礼では帆立貝は聖ヤコブのシンボルであった
ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂広場/ブルゴーニュ地方/
描画=Web管理者legend ej

「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路(本道)」が通過する場所でなかったロカマドールへは、フィジャックから北西へ向かう「寄り道」が設定されていた。その後、この「寄り道」は南西へ向かい、グールドン Gourdon などを経由してピレネー山脈へ向かった。

個人的な経験・「東京⇔関西 往復33日間=徒歩1,300kmの旅路」とロマネスク美術のヴェズレー修道院:
世界遺産/ブルゴーニュ地方ヴェズレー修道院・聖マリー・マドレーヌ大聖堂/ロマネスク様式美術

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聖アマドール/「エリコのザキアス」
ロカマドールの聖アマドールは、元々ユダヤの国・エルサレムの北東、死海の北方の古い街エリコ(ジェリコ)で生まれた「エリコのザキアス/ザカイ Zakchaios/Zacchaeu」とされ、イエスと同時代を生きた庶民であったが、後に初期キリスト教の隠匿聖人となったとされる。ザキアス(アマドール)の妻が聖ヴェロニカ(下述)で、ザキアス(アマドール)が(フランス・ケルシー地方ロカマドールで?)亡くなったのは紀元70年頃とされる。
30歳前後のイエスが、ヨルダン河畔で遠縁の洗礼のヨハネ(イエスの母親マリアとヨハネの母親エリザベトは姉妹の関係)から洗礼を授かった後、ユダヤ・ガリラヤ湖畔で新たな教義、原始キリスト教の布教を始めた。この時期、布教で立ち寄ったエリコの町にはイエスを一目見ようと大勢の群衆が集まったとされる。
エリコのザキアス(アマドール)もイエスと同年代の中年(30歳〜40歳前後)であった。その時、伝承によれば、大きなプラタナス(スズカケノキ)の枝に登ってイエスを見ていたザキアス(アマドール)は、イエスから直接声を掛けられたとされる。現在、エリコ市内にザキアス(アマドール)の登ったプラタノスの巨木があり、「聖なる樹」として保護されユダヤ教・キリスト教信仰の対象スポットとなっている。

GPS イスラエル・エリコの「聖なるプラタナスの樹」: 31°51′32.50″N 35°27′26.50″E


聖ヴェロニカの「聖顔布」
ユダヤ教から「新たな宗教的な考え(後のキリスト教)」を唱えたイエスが、エルサレム・ゲッセマネの丘で祈りの最中に捕えられ、ユダヤ教指導者による裁判の後、ローマ・ユダヤ属州総督ピラトから磔刑を宣告される。
紀元33年頃、イエスは自身が磔にされる重い十字架の横木を背負い、総督官邸から刑場となったゴルゴダの丘(現在=聖墳墓教会)まで約1km、「悲しみの道・ヴィア・ドロローサ Via Dolorosa=十字架の道」と呼ばれる坂道を3回も倒れながら登って行く。
この坂道でイエスは母マリアと会い(第4留)、さらに坂道の中間付近に住まい(第6留)があった女性ヴェロニカが、通りへ出て手渡した亜麻布(ベール)を使い、イエスは顔の汗を拭き取った。そうしてイエスからヴェロニカへ返されたベールには、不思議なことに茨の冠を付けた血と汗のイエスの顔の陰影が残り、後にその亜麻布は「ヴェロニカのベール」として世に知れ渡る。

イエスの死はローマ帝国・第二代皇帝ティベリウムの時代、紀元37年、晩年、重い病にあった皇帝からローマへ招かれたヴェロニカは、「ヴェロニカのベール」で皇帝の病を癒したとされる。その後、その亜麻布は「聖顔布」となってローマ・ヴァチカン・サンピエトロ大聖堂が保管する。なお、ヴェロニカは≪福音書≫には登場しない伝説的な女性であるが、後にローマ・ヴァチカンから列聖に加えられ聖人となる。

司教シャトー城館と「ロスピタレ=巡礼者救護所(病院)」の「上の市街」
「下の市街」の石畳のクロンヌリー通り〜急傾斜200段以上の巡礼者階段を昇り、聖域を参拝&見学、そして聖ソヴール教会堂の裏手(北側)に出るとリモージュの守護聖人・聖マルシアル(3世紀)の名を付けたマルシアル門 Porte St Martial となる。
この門から始まる蛇行を繰り返す坂道・「十字架の道 Chemin de Croix」を昇り切ると、「下の市街」から標高差で70mほど上方、岩崖の頂点には司教の住まいであった修道院付属の司教シャトー城館が構えている(上述夜景写真・崖上部)。

司教シャトーから渓谷へ突き出すような城壁の上面の手摺りを設けた狭い通廊の先端からの展望は素晴らしく、渓谷と石畳の参道に沿う密集したロカマドールの「下の市街」の家並みや複雑な構成の聖域を真上から見下ろせる。
Webで見かける村の「下の市街」と聖域を上方から眺めた多くの写真は、展望台を兼ねるこの城壁通廊の先端の「定番位置」から撮影されている。

            ロカマドール・市街の家並み Rocamadour/(C)legend ej
         司教シャトー城館から見下ろすロカマドール・「下の市街」の家々/ケルシー地方

司教シャトーのある崖の上がこの地方一帯の基準平面で標高220m〜260m前後、周辺の景観は地形学で言う「テーブルマウンテン」と同じと考えれば良い。
従って司教シャトーの建つ地平レベルより標高150mのアルズー川は約100m低く、渓谷の崖壁面に密集しているロカマドールの「下の市街」は、司教シャトーより70m前後低く、そして、礼拝堂などの聖域は司教シャトーより標高差で約30m〜40mほど低い位置となる。
中世の時代では、ロカマドールの村は河畔から上方へ向かって分かり易く、「庶民の住む村の通り(下の市街)」〜「聖職者の聖域」〜「司教シャトーと騎士の住む崖上地区」という、三つの居住レベルに区分されていた。

崖上の司教シャトー周辺を含め、この一帯には林と牧草地から成る平原と丘陵が広がっている。司教シャトー前から崖縁に沿う崖上道路D673号を北東へ1kmほど歩くと、東方へ向かう比較的交通量の多い、かつての「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路」である地方道D36号と合流する。
交差点のエリアは、中世には巡礼者救護所(病院)があったことから、「ロスピタレ L'Hospitalet=巡礼者救護所」と呼ばれた地区で、ロカマドールの庶民が住む「上の市街」を形成していた。上述したように「上の市街」のロスピタレ門から長い下り坂である「聖域の参道 Voie Sainte」が、南下方のイチジクの樹の門の内部、ロカマドールの「下の市街」と聖域へ至っている。

交差点の直ぐ南側、ロカマドール無人駅へ通じる道路D673号沿いには村の古い墓地があり、フランスの「歴史的建造物」に指定されているロスピタレ教会堂が建っている。
ロマネスク様式の単身廊の教会堂の起源は12世紀だが、14世紀に改造され、天井は船底と同じ木造梁を組み合わせた特殊な建築様式で造られている。

ロスピタレ教会堂と墓地の直ぐ西側には、かつてロスピタレ巡礼者救護所(病院)が存在したが、現在はアーチ型門と壁面の基礎部をわずかに遺構する廃墟跡となっている(フランスの歴史的建造物)。ここから西方へ延びる地方道D673号は、かつての「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路」であり、南西20kmのグールドン Gourdon を経由して、遠くピレネー山脈へ向かっている。

ロスピタレ教会堂の南側には、深いアルズー渓谷とその崖壁面にへばり付くロカマドールの聖域を真横から、1kmほどの距離で遠望できるロカマドールの遠景の「定番写真」の撮影スポットの展望台がある。この周辺はしゃれたプチホテル、カフェやレストラン、土産物ショップなどが並び、沢山のツーリストの集まる明るい雰囲気の「門前町」を形成している。


Ref.
ロカマドールの北方4.5km、民家50軒の小村メリナック・フランカル Mayrinahac le Francal には、フランスの「歴史的建造物」に指定された聖マルタン教会堂がある。半円形の柱状壁(バットレス/控え壁)で強化された石積み単身廊の教会堂は、937年の起源とされ、初期ロマネスク様式の建築を今に残している貴重な建造物の一つである。

GPS メリナック・フランカル教会堂: 44°50′24″N 1°36′44″E

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聖地観光のロカマドールの近未来
ロカマドールは中世の時代から人々に知られたキリスト教の重要な巡礼聖地であった。多くの宗教的な聖地なら、通常、環境として粛然としたおごそかさが見え隠れするのがスタンダードな情景と思うが、ロカマドールの場合、地形的にも異様とも言える標高差のある荒々しい渓谷の険しい崖壁面にへばり付く聖堂群が、ほかの場所とは少々異なる聖地の厳しい雰囲気をかもし出しているように感じる。それが当地を訪れる信仰の人々の内部へ働く強いインパクトを増幅させているのかもしれない。

スケールが大きく迫力感ある渓谷美と朝夕に見られるコントラストの強い周辺の雄大なパノラマ、崖上から見下ろす村の密集した古い家並み、石灰岩の崖壁面の聖域と頂点の司教シャトーなど、どの要素を取っても公共交通アクセスが極端に不便な小さな村でありながら、中世から現在に至っても聖地ロカマドールの魅力は大きく、人々は世界遺産に相応しい環境と雰囲気に魅了される。
たとえキリスト教徒でなくとも、訪れる人々のロカマドールに対する憧憬は限りなく、今後、フランスにおける聖地観光では、人気が過熱沸騰となったモン・サン・ミッシェル修道院や聖地ルルドを凌ぐほど、重要なスポットになる潜在力を秘めている、と私には思える。

ただ、日本が「東洋の三流国」と呼ばれ、家庭では白黒画面のテレビが標準だった時、まだ世界的な観光ブームが始まっていない時代だが、私が首都パリから二日間かけて初めてノルマンディー地方を訪ねた1970年代の初め頃、今や「世界の観光地」となったモン・サン・ミッシェル修道院でもツーリストの姿はまばら、静かで閑散とした感じであった。
パリからの連絡バスの便などなく、乗客が数人の一両ディーゼル車が玄関口ポントーソン村へ日に数える本数で運行されていた。村から遠浅の潟に浮かぶモン・サン・ミッシェル修道院へは約9km、ヒツジが放牧された草原の道を徒歩で向かった。モン・サン・ミッシェル修道院は、当時、主に敬虔なキリスト教信者だけが訪れる、近づき難い「辺境の聖地」という凛とした雰囲気が保たれていた。

1970年代 装飾のないヴェルサイユ宮殿・鏡の間/(C)legend ej しかし、かつては装飾も無いガラーんとした長い通廊(左写
 真)だったが今や黄金に燦然と輝くフランス王朝ヴェルサイ
 ユ宮殿の「鏡の間」と並び、今日のモン・サン・ミッシェル修
 道院は、年間350万人以上の世界中のツーリストが大挙
 して押し寄せるフランスを代表する世界遺産、「ドル箱観光
 地」へと変貌してしまった。

 巡礼聖地ロカマドールは最も近い無人の鉄道駅まで4km、
 交通アクセスは決して良好なスポットではないので、近未来
 にたとえツーリストの関心が注がれても、信仰とは無関係の
 「世界のテーマパーク」となったモン・サン・ミッシェル修道院ほ
 ど人々でごった返すほどの混雑はないだろうが。
 歴史ある聖地は「ワイワイ・ガヤガヤ」の「Vサイン」を決めて
 写真を撮るファッショナブルな観光地ではなく、あくまでも精
 神文化の「聖地」のままであって欲しいもの、と私は思うのだ
 が・・・

 装飾のないヴェルサイユ宮殿・「鏡の間」
 パリ近郊/1972年

参考だが、上写真は装飾の燭台もシャンデリアもない、閑散とした1970年代のヴェルサイユ宮殿・「鏡の間」である。個人ツーリストがほとんど訪れない時代、時折、リッチなアメリカ人の団体ツアーだけがやって来るだけであった。
200年以上前、「フランス革命」で露と消えた王妃マリー・アントワネットも佇んだであろう、左側の明るいバルコニーに立ち、長い時間、ヴェルサイユ宮殿の広大な庭園を眺めた経験は、今でも私の「心の宝石箱」に大切に納められている。 

地元料理を味わう

ロカマドールの黄昏時/賑わう地元レストラン/骨付き仔羊料理
黄昏迫る頃、聖域を一望できる「上の市街」のロスピタレ交差点付近の伝統的なレストランに席を取り、地元で産するフォア・グラをパンに塗り、ローストした美味な骨付き仔羊肉を味わう。日本で食するのと異なり、ケルシー地方の肉や野菜は美味しく、何故か豊かな大地の味がするような気がする。

聖地ロカマドールより更に南方に位置する「フランスの最も美しい村」のサン・シル・ラポピーでは、レストランの地元料理に鴨(アヒル=カナール)が使われるが、ここロカマドール周辺には比較的平坦な耕作地が広がっていることもあり、多くの牛や羊が飼育されグルメ食材に活用されている。
仔羊料理はこの地方の伝統的な料理の一つであり、有名なヤギ乳チーズの「ロカマドール」のみならず、当地を訪れた多くのツーリスト達は、西方のボルドー・ワインやフォア・グラと共にくせのないこの美味な肉料理を一度は味わうことになるだろう。

ロカマドール市街の夕べ Rocamadour, France/(C)legend ej
    ロカマドールの「下の市街」・クロンヌリー通りの黄昏時/小奇麗なレストランの明かりがツーリストを誘う
    南西フランス・ケルシー地方

参考だが、ドイツ文化を継承する美しい街並みで知られたコルマール(下写真)や歴史の街フェレットに代表される東フランス・アルザス地方にも大衆的な伝統料理がある。例えば、ワイン祭りのお決まり料理となれば、お馴染みの「シュークルト」、あるいは挽肉をパスタ生地でロール状に巻き、ブイヨンで煮込んだ渦巻き形状の「ドイツ語=肉&カタツムリ」を意味する「フレッシュシュナッカ」、そして「タルト・フランべ」、飲まれるのは濃厚な香りとこく、アルザス特級ワイン・グラン・クリュである(下写真)。

コルマール Colmar, Alsace/(C)legend ej
             「アルザス・ワイン街道」の中心地コルマールの夏の夕暮れ/アルザス地方
             アルザス・ワイン街道・コルマール周辺

シュークルト タルトフランベ&白ワインワイン祭りのファーム・レストラン料理・「シュークルト」    ワイン祭りの定番おつまみ・「タルト・フランべ」&白ワイン

アルザス地方・鯉フライ料理/(C)legend ej また、南部アルザス・サングオ地方では腐葉土がもたらす
 栄養豊かな雪解け水を溜めた池を利用して、淡水魚・
 コイ(鯉)の養殖が伝統的に盛んに行われてきた。
 「肉の国」にあって、淡水魚の料理もバラエティに富むが、
 鯉を使った最も人気のある料理は、何をさて置いてもフ
 ライに揚げた鯉の切り身、「鯉フライ」である。この「鯉フラ
 イ」も個人的には絶品の味である(左写真)。
 その「鯉フライ」をメニューにしている地元レストランの点
 在をして、人々は「鯉フライ街道」と呼ぶ。


 東フランスの名物料理・「鯉フライ」/サングオ地方

Ref.
「フランスの最も美しい村」&「フランスの聖地」
「フランスの最も美しい村」
 現在、フランスには人口2,000人以下の「村」と言われる自治体が約32,000か所あるとされ、その
 うち「フランスの最も美しい村」に認定されているのはわずか172村だけ(2023年現在)である。
 「フランスの最も美しい村」: http://www.les-plus-beaux-villages-de-france.org/


「フランスの聖地(20か所)」: http://www.villes-sanctuaires.com/


ロカマドールへの行き方・交通アクセス/列車/タクシー/徒歩
巡礼聖地ロカマドールへの交通アクセスは、残念ながら個人ツーリストでは簡単ではない。ベストな方法はレンタカーであるが、パリから列車を利用する場合では、彩色陶器で有名なリモージュ Limoges からブリーヴ Brive la Gaillarde を経由して、南のフィジャック Figeac を結ぶフランス国鉄SNCF・ロカマドール駅で下車する。
ブリーヴからローカル路線となり列車の本数は非常に少ない。また、ロカマドール駅は無人駅である。駅から北方200mの地方道D673号を左折(西方)すると、ロカマドールの崖上シャトーとロスピタレ地区まで約3.5kmの距離である。

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