legend ej の心に刻む遥かなる「時」と「情景」

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「フランスの最も美しい村」 ゴルド Gordes

映画≪プロヴァンスの贈りもの A Good Year≫の撮影ロケ地

南フランス・リュベロン平原の美しい村々/ルシヨン・ルールマラン・メネルブ・アンスイ

プロヴァンス地方ゴルド Gordes/(C)legend ej
                   「フランスの最も美しい村」 ゴルド/プロヴァンス地方

ゴルド Gordes の「極上の眺め」

位置: アヴィニオン(アヴィニョン)⇒東方30km/エクス・アン・プロヴァンス⇒北方35km
人口: 行政区含め2,100人/標高: 350m/リュベロン平原の尾根

「フランスの最も美しい村」
 現在、フランスには人口2,000人以下の「村」と言われる自治体が約32,000か所あるとされ、そのう
 ち「フランスの 最も美しい村」に認定されているのはわずか172村だけ(2023年現在)である。
 「フランスの最も美しい村」: http://www.les-plus-beaux-villages-de-france.org/



ゴルドの歴史
南フランス・プロヴァンス地方を象徴する小さな村ゴルドは、厳しい条件と審査を経て「フランスの最も美しい村」に認定されている。その言葉通り、ゴルドはプラタナスの美しい並木道と「水の都」として知られるエクス・アン・プロヴァンス生まれ、「近代絵画の父」と呼ばれるポール・セザンヌの油彩の風景画に勝るとも劣らない美しい景観、「極上の眺め」を誇る。
プロヴァンス地方の中心アヴィニョン(アヴィニオン)の東方30km、ゴルドの村は、北側のヴォークリーズ山地 Vaucluse からリュベロン平原に張り出した標高350mの高原台地の尾根にある(後述・地図 参照)。その頂点には、ゴルドの村の中心的な存在になっている中世のシャトー城塞が建ち、それを取り囲むように広がるヒナ壇状の露岩斜面には、迷路のような石畳の路地で結ばれた朱色の屋根の石造りの家々が密集している。

イタリアに見られる多くの古い城塞都市と同様に、地中海の繁栄と戦いの歴史と共に歩んで来た丘上都市ゴルド。村には古代ローマ時代に居住された痕跡や墳墓も発見され、中世11世紀には初期シャトー城砦が建造され、12世紀になると城壁も築かれた。
しかし、ルネッサンス期には外部からの襲撃を受け、続く16世紀のヨーロッパの「宗教戦争」でも大きな被害を受けるなど、村はほかのヨーロッパの町と同様に、繁栄と戦いが交互する混乱の時代の中を生き抜いて来た。16世紀の前半、ゴルドは槍騎兵として名を馳せたゴーダン家の領主アントワーヌ・ゴーダン(1526年生)に始まり、8代目のシャルル・フランソワ・ジョセフ・ゴーダン(1772年〜1840年)まで約3世紀にわたって治められた。

その後、近世18世紀〜19世紀には、ゴルドは周辺の豊かな土地を利用した農業生産を初め、地中海特産とも言える皮なめし、靴作りを初めとするレザークラフト、オリーブ油製造などの手工業が大いに発達したとされる。
また「第二次大戦」では、ゴルドは中世に受けた被害に匹敵する、ナチス・ドイツ軍の激しい攻撃により甚大な損害を被りながらも、住民の勇敢な反撃行為に対して、フランス政府は村に「フランス軍・戦功十字勲章」を授与している。


展望ポイントからの絶景/ツーリストは「ゴルドの魔法」にかかる
プロヴァンス地方の中心である世界遺産・アヴィニョン(アヴィニオン)や古代ローマ時代の凱旋門を残すカヴァイヨンからの地方道(通称=カヴァイヨン道路 D2号〜D15号)は、斜面畑と雑木林を通過して徐々に高度を上げ、村へ近づく手前の標高300mを越えた左カーブの尾根で展望が一気に開け、右手遠方400mの距離、ゴルドの全景が飛び込んで来る(トップ写真)。

この突然の如く出現する圧倒される光景を目にする時、「ウワァ〜 ゴルド! ゴルドだ、キレ〜〜イ!!」と誰しもが声を上げて絶叫せずにはいられない。日本が誇る常識の海外旅行ガイドブック≪地球の歩き・・・≫やWeb画像などの予備知識で事前に心の準備をして来たにもかかわらず、この本物の美しいゴルドの全景を視界に捉えた時、すべてのツーリストの感動神経は一気にヒートアップ。

感慨した心は興奮の坩堝(るつぼ)と化し、発音は異なっても世界中からやって来たツーリストが発する「キレ〜〜イ!!」の絶叫言葉が、毎日、微風の吹くリュベロン平原へパルス曲線を描いて流れ行く。
その瞬間、日本から来た食事中もスマホを手放さない若いキレイな女性達だけでなく、感動・感激が最近めっきり薄れたと自嘲する中高年グループさえも、男女を問わず、皆揃って、「ゴルドの魔法」にかかったように歓喜の極み、過去に経験したこともない抑制不能の熱狂のトルネードに我を忘れる。
そうして、瞬く間に5分が経過、ようやく興奮の魔法が解け、正常血圧値を取り戻したツーリストの発する言葉は、誰もが等しく、「とにかく、ゴルドの定番写真、撮らなきゃ!」。


ゴルドの「定番写真」の撮影ポイント
このページのトップ写真も含め、ゴルドの「定番写真」の撮影ポイントはたった一か所だけ。村を眺望するのに絶好の位置にある道路脇のパーキング場である。スペースに余裕あるとは言えないが、この展望ポイントから眺めるゴルドの村は、正に「フランスの最も美しい村」の名誉に胸張る絶景である。
それは何時間も眺めていても飽きることはなく、この展望ポイントを訪ねたツーリストが立ち去るのをグイッと袖をつかみ引き止めるに相応しい、プロヴァンス地方を象徴する「極上の眺め」、と過言なく私には強調できる。
そうなのだ! このゴルドの「定番写真」の撮影ポイントからの眺めこそが、≪生涯に一度は訪ねたい場所≫にファーストセレクトできる絶景と言える。フランスの本物の魅力は首都パリにだけあると、自慢話のように勘違いしている人が居るなら、それはあまりに心狭く非常に残念なこと。

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「フランスの最も美しい村」 「フランスの最も美しい村」に関しては、東フランス・「アルザス・ワイン街道」にも美しいスポットが点在し
 ていることを忘れてはいけない。 例えば人口1,850人のエグイスハイム村、人口1,250人にもかか
 わらず年間200万人のツーリストが訪れるリクヴィール村、そして人口600人のブドウ畑に囲まれた
 小村ユナヴィールミッテルベルガイム村などがある(下写真・下描画)。


参考だが、フランスのテレビ局F2の調査、バカンスなどで滞在したいとする「フランス人の最も好きな村」では、アルザス・ワイン街道の美村エグイスハイムは2013年1位に、またリクヴィール村は2012年6位にランクされている。

アルザス・ワイン街道・エグイスハイム/(C)legend ej
              「フランスの最も美しい村」・アルザス・ワイン街道・エグイスハイム村

アルザス・ワイン街道・リクヴィール Riquewihr, Alsacer/(C)legend ej
 特級ワイン・グラン・クリュのブドウ畑の丘から「フランスの最も美しい村」 リクヴィール旧市街の眺め/アルザス地方
 アルザス・ワイン街道(中部)・コルマール周辺/リボーヴィレ〜ユナヴィール村〜リクヴィール村

アルザス・ワイン街道・ミッテルベルガイム村 Mittelbergheim, Alsace/(C)legend ej
     南方の平原から「フランスの最も美しい村」・ミッテルベルガイム村を遠望する/アルザス・ワイン街道
     描画=Web管理者legend ej
     アルザス・ワイン街道(北部)・オベルネ周辺/「フランスの最も美しい村」ミッテルベルガイム

ゴルドの村へ向かう

村へのアクセス道路/村の広場・兵士の慰霊碑
≪アルルの女・メヌエット≫の流麗な旋律の余韻を各自が胸に刻み、期待に逸る気持ちを制御しながら、露岩の展望ポイントから地方道(通称=カヴァイヨン道路 D15号)をさらにゴルドの中心へ向かう。展望ポイントから北方へおおよそ500m、セナンク修道院へ通じる地方道D177号(左折)との分岐点となる。
谷を挟んで右手遠方にゴルドの村を望みながら、さらに地方道D15号を北方へ250m進め、道路は「行って来い」の超ヘアピンカーブとなる。カーブポイントから南東へ400mほどダラダラ登坂すれば、ゴルドの村の中心、標高350m、ツーリストで賑わう広場へ至る。

村の広場の真ん中には、1914年〜1918年の「第一次大戦(下記コラム)」で村から出兵し戦死した「兵士の慰霊碑」があり、グリーンの植込みロータリーの役目を果している。また、地方道D15号が広場に達する右側角には、鐘を備えたカトリック白色苦行会(ペニタン・ブラン)の礼拝堂があり、芸術作品の展示会などが開かれている。
兵士の慰霊碑のロータリーから北方へ向かう地方道(通称=ミュール道路 D15号)は、村外れから北方へ延びる尾根を登坂、その後分岐してヴォークリーズ山間部を左回りで大きく迂回、セナンク修道院へ向かっている。また、兵士の慰霊碑のロータリーから巨大な壁のシャトー城塞の北壁部に沿い、郵便局の南側を抜け、北東へ急に下る感じの地方道(通称=ヌーヴ道路 D102号)は、村から離れ右へ左へ緩やかに蛇行して、詩を歌いながら広大なリュベロン平原の彼方へと延びている。


石積み建築・「ボリー」の家屋保存地区
ゴルドの南方、露岩の展望ポイントの丘から西方1.5kmには、紀元前の青銅器時代〜19世紀頃まで使われたとされる、石材だけで円錐状に壁も屋根の積み上げた「ボリー Borie」と呼ばれる独特な建築家屋群がある。石積み家屋ボリーはゴルド地区のみならず村の南東5.5kmのグルト Goult なども含め、現在、プロヴァンス地方全体では5,000〜6,000棟を数えるとされる。ボリーの石積み家屋群はフランスの「歴史的建造物」に指定されている。

Ref.
「第一次大戦」の関連情報
1939年9月、ヒットラー率いるナチス・ドイツ軍のポーランド侵攻で始まる「第二次大戦」の遠因でもある「第一次大戦」は1914年6月、オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が、重要な宗教行事で訪れたボスニア・サラエボで妻と共に暗殺されたことで始まった。「第一次大戦」はヨーロッパのみならずアフリカ・中東諸国、アジアや南太平洋へも拡大され、死者は4年間で約1,700万人となり、次の3,000万人の犠牲者を出す「第二次大戦」と並び、人類史上、最大の犠牲者を出した戦争となった。

「第一次大戦」の、主にフランス軍とドイツ軍が激しく戦い、3万人の犠牲者を出した東フランス・「ハルトマンズヴィラーコフの戦い」:

      「第一次大戦」の激戦地・ハルトマンズヴィラーコフの丘/(C)legend ej
     ハルトマンズヴィラーコフ・「第152ライン歩兵連隊」の記念碑       塹壕と陣地
     アルザス・ワイン街道(南部)・タン周辺の美しい町と村々/激戦地ハルトマンズヴィラーコフの丘


ゴルド〜セナンク修道院へのアクセス
ツーリストがゴルドから徒歩、または車でセナンク修道院へ向かう場合、露岩の展望スポット近くで分岐する地方道D177号(通称=セナンク道路)を利用すれば3km弱の道のりである。この道路は歩行者と一般車の限定通行が行われている。
なお、ツアーグループの大型バスは、村の兵士の慰霊碑のロータリーから北方へ向かう地方道D15号へ進み、村外れから北方へ延びる尾根を登坂、その後ヴォークリーズ山間部を大きく左回りで迂回する地方道D244号を走る。そして標高600mポイントから西方へ下り、迂回して最終的には地方道D177号の北ポイントからセナンコル渓谷へ下り、ラベンダー畑のセナンク修道院&パーキング場へ向かう。
このヴォークリーズ山地の迂回コースでは、ゴルドからセナンク修道院まで走行8kmとなる。なお夏季にはD177号の一般車についても一方通行規制が設定される。


ゴルドの「定番写真」の撮影
トップ写真のように、ゴルドを訪ねたツーリストの10人中全員が撮影する露岩の展望ポイントからの「定番写真」。地形的な偶然性が幸いしているが、ゴルドの美的魅力を引立てている家々が建つ岩盤斜面はほぼ南向き、一方、村からジャスト400mという適度の距離の展望ポイントは北向きである。
天候が晴れの日ならば、早朝から夕方まで何時眺めても、一日中、陽光は南向きの村へ順光で照射する。故に展望ポイントのツーリストは誰でも、デジカメの露光性能の良し悪しに関係なく、純粋色のゴルドの全景を視野に入れたキレイな写真を撮ることができる。

ゴルドの村の風情/映画≪プロヴァンスの贈りもの A Good Year≫の撮影ロケ地

映画の撮影ロケ地は?/堅固な城塞シャトー/噴水(泉水)のシャトー広場
心くすぐる憧憬を誘うような見事な日本語タイトルにも影響され、ロマンを求める人々の間であまりに有名となった映画≪プロヴァンスの贈りもの A Good Year≫のシーンの中に、露岩の展望ポイントからのゴルドの全景(トップ写真)や兵士の慰霊碑のロータリー広場も登場している。
さらにロータリー広場の南側を立ち塞ぐように建つ城塞シャトーの南側、兵士の慰霊碑からではレストランや工芸品ショップなどの前を50mほど歩きジャンティ・パンタリイ広場 Genty Pantaly へ、さらに南東へ50m進むと噴水(泉水)を備えた長辺三角形の空間のシャトー広場となり、この場所も映画の撮影ロケシーンに使われている。

映画≪プロヴァンスの贈りもの A Good Year≫:
   製作 アメリカ 20世紀FOX社/2006年配給
   原作 ピーター・メイル(Peter Mayle イギリス ※下記コラム参照)
   監督 サー・リドリー・スコット(Sir Ridley Scott イギリス)


兵士の慰霊碑の広場〜ジャンティ・パンタリイ広場〜噴水(泉水)のシャトー広場にかけて、ゴルドでは毎週火曜日、オープンエアーのマルシェ(市場)が開かれ、村と近郊の農家や生産者がテントショップを開き、野菜やジャムやサラミなど農産物や加工品、チーズなど乳製品、色々な食品や雑貨・日用品などを販売する。
シャトー広場の噴水(泉水)の脇、シャトー南壁部のアーチ型の頑強そうな南入口の前には、3本のプラタナスの巨木が手ごろな日陰をつくり、カフェのパラソルテーブルも置かれている。また、シャトー広場の噴水(泉水)の周りは、今日、ゴルドを訪ねるツーリストの人気の休憩スポットとなっているが、1950年代まで村で唯一の水源の役目を果たしていたとされる。
またピーター・メイル原作・イギリスBBC制作のテレビドラマ作品≪南仏プロヴァンスの12か月≫の「春シリーズ」では、晴れた天気の下、噴水(泉水)の広場で村の物産コンテスト(フェスタ)が開かれ、村長の居眠りを誘う長〜い挨拶に続いてパン屋の主人が優勝して祝福された後、子供から老人まで大勢の村人達がカップルをつくり、音楽バンドに合わせ早いテンポのダンスを踊るシーンがある。


堅固な城塞シャトー内部
プラタナスの巨木の脇、16世紀に強固され角に堂々たる塔を構えた3階建ての威圧感さえ覚える城塞シャトーの南壁部、シャトー広場に面する南入口から25段ほどの急な石段を登った奥には、ツーリストへ現地情報を提供しているゴルド観光局が入居する。そのほかシャトー内部には村役場など公的機関も入居、なおシャトーはフランスの「歴史的建造物」に指定されている。
2007年7月、たまたま遭遇したので私の推測となるが、内部の礼拝堂チャペルでは結婚式を挙げることもできるようだ。挙式の後、新カップルは家族・親族、友人や村人達の集まる婚宴の席で、≪アルルの女・第二組曲・第四曲・ファランドール≫と同じ、プロヴァンス地方に古くから伝わる「祝い舞曲 Farandole」に合わせた軽快なテンポのお披露目ダンスを踊るのであろうか?
《アルルの女》を初め、プロヴァンス地方の生活や民話をつづった短編集≪風車小屋だより≫の文豪ドーテの活躍した19世紀のゴルドの村人達ように、あるいはテレビドラマ作品≪南仏プロヴァンスの12か月≫の中で村の人達が噴水(泉水)のシャトー広場でダンスを踊るシーンのように軽快に・・・


城塞シャトー内部/ポル・マラ美術館/暖炉の大広間
城塞シャトーには、観光局と同じ石段入口から、芸術的な螺旋階段で入場できるポル・マラ美術館がある。1972年以来この村に住み、ゴルド名誉村民となったベルギー生まれ著名な画家ポル・マラ(Pol Mara 1920年-1998年)の作品、水彩画やリトグラフなど200点あまりを展示している。
また、ポル・マラの作品展示と共に、シャトー内部では神殿様式とも言える大型の見事な彫刻が施された16世紀の暖炉の大広間が公開されている。≪南仏プロヴァンスの12か月≫の「春シリーズ」では、この暖炉部屋は物産コンテストの最中、実力者マダム・エヴェリン・エルムンヴィーレ夫人が村長を介して呼んだ主人公ピーター・メイルと微妙な会話を交わすシーンで使われている。

Ref.
イギリス人作家 ピーター・メイル Peter Mayle
ピーター・メイルは1939年にイギリス・ロンドン郊外で生まれ、父親は外務省職員であった。アメリカや西インド諸島などで過ごしたピーターは、その後、本国へ戻り子供向けの絵本や童話を書いていた。
40代後半、離職したピーターは夫人と共にプロヴァンス地方メネルブ村の郊外へ移住した。生活や伝統や風習の異なりからカルチャーショックの連続、毎日起こるハプニングをまとめ、1989年、50歳で執筆したエッセイ集≪南仏プロヴァンスの12か月 A Year in Provence≫が世界的なベストセラーとなり、「イギリス紀行文学賞」を受賞する。

1993年、このエッセイ集をイギリスBBCがテレビシリーズでドラマ化したことで人気にさらに拍車がかかり、ヨーロッパ中に「プロヴァンス旅行ブーム」を引き起こし、NHKアナログ衛星番組(下記)で1994年・1995年に3回(各1.5時間x4シリーズ)放映された。
このテレビドラマ作品は「フランスの最も美しい村」ゴルドを初め、メネルブなどリュベロン地方の郷愁溢れる小さな村々で撮影が行われた。2002年、フランス文化への貢献が高く評価され、ピーターはフランス政府から「レジオンドヌール勲章・第5等(騎士ナイト相当)」を授与された。

その後、2006年、再びゴルドなどリュベロン地方で撮影された映画≪プロヴァンスの贈りもの A Good Year≫が公開された。映画は2004年にピーターが執筆した同じタイトルの長編小説が原作となり、監督はピーターの友人サー・リドリー・スコットである。
一時期、アメリカで生活したピーターと夫人はプロヴァンス地方へ戻り、魅力的な村ボニューから南東8km、ゴルドから20km以上離れているが、作家カミュが愛した村、長期滞在者が多く住む「フランスの最も美しい村」のルールマルン Lourmarin(後述)で生活している。

BBC制作テレビドラマ作品≪南仏プロヴァンスの12か月≫:
  NHK・アナログ衛星放送 1994年1月・6月/1995年4月 合計3回
  本編6時間 放映(冬・春・夏・秋/各シリーズ1.5時間)

丘上都市ゴルドの村を歩く

迷路のような石畳の路地/石材・粘土・朱色の屋根/気取らない人々の生活
シャトー城塞の南脇、噴水(泉水)のあるシャトー広場から石畳の狭い路地を南方へ少し下り、右側の「ゴルド薬局」の南側に14世紀建立の聖フィルマン礼拝堂 Saint Firmin、更に曲がりくねった石畳の路地を歩くと岩盤に掘られたワインセラーやチーズ工場、ケーキやパン焼き店、古風なカンテラのさがる展望の斜面テラスなどへ至る。
聖フィルマン礼拝堂の東側には、中世ゴルドを約3世紀にわたって治めた槍騎兵の「ゴーダン家の邸宅 Palais Saint Firmin」が残されている。建物の起源は12世紀に遡り、14世紀頃の壁面痕跡があり、17世紀〜18世紀に改造されたアーチ型の堅固なロジア様式の階上部分と漆喰装飾の手摺りや階段は素晴らしい。
特にアーチ型ヴォールト天井の地下区画は「邸宅の洞窟」と呼ばれ、15世紀の圧縮機や穀物粉砕装置、古い貯水槽なども残されている。ゴーダン家の邸宅はフランスの「歴史的建造物」に指定されている。

ゴーダン家の邸宅の南側、盛夏の時期に展望テラスに立つならば、上述の露岩の展望ポイントと同じように、下方の平原から吹き上がる乾いた微風に汗が速乾されて行く。路地には足元を照らす古風なカンテラがさがり、地元産の石材を使い、気が遠くなるほどの歴史の中でメンテナンスを繰り返して来た石組みテラスからは、波打つようなヴォークリーズ山地と丘陵、ワイン用ブドウや野菜の栽培畑が織り成す雄大なリュベロン平原の展望を楽しめる。

ゴルドの大半は急勾配のヒナ壇状の斜面で、岩盤を上手に利用しながら不規則で複雑な路地が村全体を縦横に走っている。路地のほとんど全てが狭い石畳の通り、日本なら何処でも見られるアルミ製の伸縮タイプのモダン玄関ゲートや家屋を隠す高い塀などは許可されないので皆無である。さらに郊外住宅を除き、電線や電話線などもすべて地中埋没施工となっている。
石灰岩や凝灰岩のむき出しの岩盤、家屋の壁面やアーチ型の天井通路を初め、階段や伝統的な手摺り風の石組みも含め、木製ドアーや窓ガラスを除き、ゴルドの村は石材と石灰質粘土の塗り壁、そして素焼きテラコッタ製の朱色の屋根だけの構造である。

ヨーロッパの大都市に見られる整然とした平らで美的な石畳とは異 なり、ゴルドの石畳の路地はプロヴァンス地方の町村で良く見かける地元産の石灰岩や砂岩など自然石材をちょっと横長に割ってびっしりと並べただけの、「カラード calade」と呼ばれるゴツゴツした路面施工である。

プロヴァンス地方ゴルド/(C)legend ej 古代ローマのモザイク舗装路のように、とても美的とは言え
 ないが、ゴルドの実用本位の「カラード石畳」は5年前から
 メンテナンスを忘れ、スカイブルーの塗装が剥がれた納屋の
 歪んだ扉やツタの這う少し崩れた壁面などと共に、伝統を
 尊ぶ気取らない村の人々の慎ましやかな日常と生き方を
 代弁しているとも言える。

 迷路に近い石畳の路地を歩く度に、100年単位の歴史
 の刻まれた木目が浮き出た家々の古風なドアーや見上げ
 るほど高く積まれた石造りの立派な壁面(左写真)に驚
 かされる。
 また、骨董品ショップで売られるような風情のある年代物の
 取手を興味本位で押せば暗い地下室や小さな礼拝堂な
 どが現れ、斜面の通りは郷愁や異文化に憧憬して遠方か
 らやって来たツーリストの期待と旅情をくすぐり続ける。


 ゴルド・「カラード石畳」の坂道/プロヴァンス地方
 城壁のような高い石積みの壁面の住宅の立つ路地Rue
  des Tracaplles(兵士の慰霊碑広場〜南西の斜面)


石造りの家々が斜面に建ち並ぶゴルドの雰囲気は、同じく「フランスの最も美しい村」に認定されている南西フランス・ケルシー地方・サン・シル・ラポピーのそれに共通する旅情感がある。美村サン・シル・ラポピーもゴルドと同様に「坂道と斜面」からなる古風な佇まいを見せる(下描画)。 

フランスの最も美しい村・サン・シル・ラポピー St. Cirq Lapopie/(C)legend ej
    「フランスの最も美しい村」 サン・シル・ラポピー村 聖シル教会堂と「下の街」 の眺望/ミディピレネー地方
    木板・アクリル描画450mmx300mm=Web管理者legend ej
    「フランスの最も美しい村」サン・シル・ラポピー

ゴルド周辺の風景

季節の花咲くゴルド周辺/郊外には別荘やホテル
春から初夏、ゴルドの直ぐ下方の平原も含め、この地方では薄紙の造花のような赤や朱色の色鮮やかなヒナゲシ(シャーレイポピー/コクリコ Coquelicot)の花で彩られる。微風の中で15歳の大人になる前の少女のように、はにかみながらも可憐にしてデリケートに揺れるヒナゲシの花言葉は「恋の予感」とか。

そして盛夏になると、誰もが知っているヴォークリーズ山間地区の広大なラベンダー畑(例: 下写真=セナンク修道院)が一気に満開となり、青紫色の花と輝きの陽光による鮮やかな夏のプロヴァンスの協奏曲が奏でられる。ちなみに映画≪プロヴァンスの贈りもの≫のオリジナル英語タイトルになっている≪A Good Year≫は、ワイン用ブドウなどの「豊作の年」を意味する。
なお、ゴルドは村の中心である丘上地区と周辺地区を含め、人口約2,200人である。


ラベンダーのセナンク修道院
ゴルドの村から潅木と露岩した尾根の西側を蛇行しながら、地方道(通称=セナンク道路 D177号)を北西へ3km弱で、シトー修道会の「プロヴァンス三姉妹」として知られるセナンク修道院(下写真)へ至る。
真夏7月上旬、セナンク修道院は青紫色のラベンダーの花に埋もれ、訪ねる人に感動を提供する。夏の時期、ツーリストが「フランスの最も美しい村」の丘上都市ゴルドを訪ねたなら、無理をしてでも「セット」として、ラベンダーの花咲くセナンク修道院を訪ねることを推奨したい。

セナンク修道院 Abbeya de Senanque/(C)legend ej
               満開のラベンダーの花咲くセナンク修道院/プロヴァンス地方
               シトー修道会・「プロヴァンス三姉妹」・セナンク修道院

魅力溢れるリュベロン地方の町と村々

「フランスの最も美しい村」
 現在、フランスには人口2,000人以下の「村」と言われる自治体が約32,000か所あるとされ、そのう
 ち「フランスの最も美しい村」に認定されているのはわずか172村だけ(2023年現在)である。
 「フランスの最も美しい村」: http://www.les-plus-beaux-villages-de-france.org/



リュベロン地方とは
リュベロン地方とは、おおよそセナンク修道院のある「ヴォークリーズ山地〜リュベロン平原〜プチット・リュベロン山地〜デュランス川」までの範囲である。
この地域には「フランスの最も美しい村」に認定された丘上都市ゴルドを含め、郷愁を誘うその景観から訪れるツーリストの誰もが満足して心癒される、プロヴァンスの典型的な町と村々が数多く残っている。

          プロヴァンス・リュベロン地方 地図/(C)legend ej
             プロヴァンス・リュベロン地方 地図/作図=Web管理者legend ej


わずかな経験論から、その代表的なスポットを記してみると/リュベロン平原では
先ずこの地域を北から南方へ下って行くなら、丘上都市ゴルドの東方10km、日本からのツアー・コースにも選択されつつある「フランスの最も美しい村」に認定された顔料イエローオーカーの赤褐色の村ルシヨン Rousillon、またその東方4.5kmのガルガ Gargas でもオーカーの大規模な採掘場跡が残されている。

ルシヨンの南方4.5kmにはデュランス川へ注ぐカラヴォン川が流れ、紀元前1世紀に活躍した古代ローマの政治家・軍人ジュリアス・シーザー(G・ユリウス・カエサル)の発案、紀元0年前後に建造されたジュリアン石橋 Pont Julien が残されている。
フランスの「歴史的建造物」に指定されているこの石橋は、2005年まで車両通行が行われていたが、現在、ツーリストなど歩行者以外に通行はできない。石灰岩を使った堅固な構造橋は、全長47m、3か所のアーチ型橋脚が2,000年前の精緻な建築設計を今に伝えている(下描画)。

プロヴァンス地方・ローマ時代のジュリアン石橋 Pont Julien/(C)legend ej
          2000年の歴史を秘めたフランスの「歴史的建造物」 ジュリアン石橋/プロヴァンス地方
          描画=Web管理者legend ej

おそらく撮影の特別許可と思うが、BBCテレビドラマ作品≪南仏プロヴァンスの12か月≫の「夏シリーズ」では、「ヤギの走行競争」がルシヨンの広場で開かれたり、ジュリアン石橋を水道業や塗装業者などの車が車列を組んで渡り、誠実なブドウ農夫アメディの運転する収穫したブドウを満載したパワー不足のオンボロトラックも石橋を渡っている。


Ref.
  古代ローマ人が建造した石造橋では、大規模な水道橋としてアヴィニオン〜西方25kmの世界遺産・ポン・デュ・ガール橋やスペイン・セゴヴィアの水道橋など、そしてジュリアン橋のような石橋では本家イタリアを初め、フランス・スペインなどヨーロッパ各地に沢山残されている(下描画)。

      ポン・デュ・ガール Pont du Gard/(C)legend ej
            世界遺産/ローマ時代の水道橋 ポン・デュ・ガール/ラングドック・ルシヨン地方
            描画=Web管理者legend ej

      セゴヴィア・ローマ水道橋 Roman Bridge, Segovia/(C)legend ej
               世界遺産/セゴヴィア・ローマ時代の水道橋/カスティーリア地方
               描画=Web管理者legend ej

さらにローマ帝国の支配が及んだバルカン半島〜ギリシア〜トルコでも多くのローマ時代の石橋を見ることができる。
経験論で言えば、トルコ・西部・エーゲ海沿岸、ギリシア・レスボス島を望む古代ギリシア都市アッソス遺跡(世界遺産・トロイ遺跡〜南方60km)が残るベヘラン村の手前1km付近、Tuzla川に架かるローマ石橋も橋の中央部が盛り上がる尖頭式・4アーチ型の美しい石橋である。

世界遺産/トルコ西海岸・「トロイ戦争」の舞台・トロイ遺跡/古代ギリシア・アテネ神殿のアッソス遺跡

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ジュリアン石橋の東方7km、この地方では最大の街、人口12,000人のアプト Apt の旧市街は、何れもフランスの「歴史的建造物」に指定されているが、守護聖人アンナの地下埋葬室クリプトと緑青色の銅屋根ドーム、鮮やかな後陣ステンドグラスで有名な聖アンナ大聖堂を中心に中世の狭い路地が交差している。
そのほか17世紀の城門と城壁で囲まれた旧市街には、16世紀起源の高い時計塔や17世紀の聖カタリナ礼拝堂などの見所スポットがあり、雑貨やプロヴァンス・ワイン、強い香りが特徴の乾燥ラベンダー・サシュ Sachet などを求めるツーリストで賑わう。

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ジュリアン石橋〜地方道(通称=ジュリアン橋道路 D149号)を南方へ5kmほど、プチット・リュベロン山地の直ぐ北側、人口1,500人のボニュー Bonnieu もツーリスト好みの村である。
村の北東1km、映画≪プロヴァンスの贈りもの≫の舞台、主人公マックスがオジの遺産として引き継ぐシャトー城館(実名称=Ch. Canorgue)があり、丘上都市のゴルドのように平原へ突き出た尾根と斜面に家々が密集するボニューの村は、今日、この地方を訪れるツーリストの人気度ではトップレベルである。
ヒマラヤスギ科の巨木が茂る標高400mの村の尾根には、鐘楼を備えた12世紀の要塞教会堂があり、ここから見下ろす1870年に新たに建立されたボニュー教会堂の塔、斜面の住宅群の下方に広がるリュベロン平原の展望は素晴らしい。なお、要塞教会堂はフランスの「歴史的建造物」に指定されている。

ボニューの西方、突き出た尾根に18世紀のサド侯爵のシャトー城館の廃墟(現所有=装飾デザイナー・ピエール・カルダン)が残り、東側斜面に家々が広がる小村ラコスト Lacaste は人口500人。丘の麓には果樹園とブドウ畑が広がり、「これでもか!」とばかりにプロヴァンスらしい風景を主張している。なお、ラコストの城館はフランスの「歴史的建造物」に指定されている。

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リュベロン平原へ標高差70mで突き出た尾根に細長く延びた人口1,200人の村、「フランスの最も美しい村」のメネルブ Menerbes は坂道の多い村、BBC制作のテレビドラマ作品≪南仏プロヴァンスの12か月≫と映画≪プロヴァンスの贈りもの≫の撮影ロケ地として世界的に有名となった。
14世紀建立のメネルブの要塞教会堂は、16世紀のフランス宗教改革の「ユグノー戦争」では、ユグノー派(プロテスタント)の拠点となりローマ・カトリック教会との間で激しい戦いが行われ大きく破壊された。また、ラコストとメネルブの中間付近、標高290mの山腹にある聖ヒラリウス修道院もフランスの「歴史的建造物」に指定されている。
聖ヒラリウスはガリア(西フランス)の要衝ポアティエの司教を務めた4世紀の「アタナシオス派(三位一体論)」の聖人である。

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プチット・リュベロン山地の南側/デュランス河畔では
ボニュー村の南側にはプチット・リュベロン自然保護区の山地(Max標高1,256m)が広がっている。
山地の最近注目を浴びる高級別荘地の標高430mの峠を越え、蛇行する地方道(通称=アプト道路 D36号〜D943号)を麓へ南下すると「フランスの最も美しい村」のルールマラン Lourmarin(ルールマルン )となる。

ルールマランは伝統的にヨーロッパの、特に中高年層の人達に人気があり、また最近は首都パリやごった返すモン・サン・ミッシェル修道院に飽きた日本人ツーリストにも急激に魅力が認識され始めている、情緒溢れる美しい村である。
村の周辺は農耕地、ブドウ・オリーブの畑が広がり、春、桃に似た白〜ピンク色の花を付けるアーモンド栽培も盛んである。そしてゴルドと同様にヒナゲシ(シャーレイポピー/コクリコ Coquelicot)の鮮やかな朱色の花が、素朴な雰囲気と旅情をバックアップしている。

南フランスらしく、プラタナスの並木道の彼方に長期滞在者向けの小奇麗な別荘やペンションが見え隠れする美しい村ルールマラン(ルールマルン)市街地の西方200mには、村の領主であったボー家系 Baux が12世紀に建造した城砦(要塞)を、領主アウル家・フルーク三世 Fouques III D'Agoult が、1475年、ルネッサンス様式へ改修したシャトー城館がある。
シャトー城館の領主であったアウル伯家は、16世紀末、アンリW世により平定されたフランスの宗教戦争・「ユグノー戦争」の後、シャトー城館を離れ、その後、幾らかの城館所有者が変わり、「フランス革命」の後には著名なエンジニア・発明家フィリップ de ジラードが所有者となった。
20世紀に入り、歴史家・実業家のロヴェルト・ローラン・ヴィベルがシャトー城館を買い取り、修復・整備を行った。なお、1992年ルールマルンのシャトー城館はフランスの「歴史的建造物」に指定されている。

シャトー城館と市街の中間に1816年建造のプロテスタント派教会堂が建っている。この教会堂は、創建当時、この地方では最大級の規模であったとされる(下描画)。
17世のルールマランン(ルールマルン)には約1,300人が居住、その内80人がカトリック教徒、残りの多数派がプロテスタント派の人々であった。この人口比率は、16世紀後半の宗教戦争・「ユグノー戦争」の影響と考えられる。

プロヴァンス地方ルールマラン(ルールマルン) Lourmarin, Provece/(C)legend ej
         シャトー城館から眺める「フランスの最も美しい村」 ルールマラン(ルールマルン)市街
           ・手前鐘楼: プロテスタント派教会堂(1816年)
           ・左遠方:   中世17世紀城砦跡・鐘楼・「時計塔(1942年)」
           ・中央遠方: カトリック教・聖アンドレ&聖トロフィーム教会堂(12世紀創建)
         描画=Web管理者legend ej

上描画の左遠方に見える小高い丘に建つ鐘楼は、「カスティーラ」と呼ばれる中世の城砦の廃墟である。現在、この鐘楼を活用して1942年に村の「時計塔」となった(上描画)。
さらに描画・中央遠方の青色屋根の鐘楼は、聖アンドレ&聖トロフィームを奉るカトリック教会堂である。創建は12世紀に遡り、当初ロマネスク様式、その後、火災がありゴシック様式で改修されているが、ロマネスク様式のアーチが残る。

ほかのヨーロッパの街と同様に、14世紀、ルールマラン(ルールマルン)は人口の1/3が死亡したとされる「ベスト病」が流行、さらに1720年にも「ベスト病」が起こり、14世紀より多数の犠牲者を出したとされる。現在のルールマラン(ルールマルン)の人口は約1,200人である。
ルールマラン(ルールマルン)は、「異邦人」・「ペスト」などの著者、1960年に40代で亡くなった作家アルベール・カミュ(1913〜1960年)が住み愛した村であり、カミュの墓地は村の南端の「バス停」〜南西300m、地方道D27号の南側である。なお小説・「ペスト」の舞台は14世紀と17世紀に「ペスト病」が大流行したルールマラン(ルールマルン)ではなく、北アフリカ・アルジェリアである。

さらに上述の通り、ルールマラン(ルールマルン)はエッセイ集≪南仏プロヴァンスの12か月≫の作家ピーター・メイルが住む村である。
かつて夏の頃、私は並木が木陰をつくる村のオープン・カフェで冷たい飲み物を頼み、草原の向こうに建つくすんだ色彩のシャトー城館を眺め、しばし寛ぎの時を過ごしたことがある。
また、BBCテレビドラマ作品≪南仏プロヴァンスの12か月≫の「春シリーズ」では、主人公ピーター・メイルと夫人アニーが、プラタナスの並木道で毎週・金曜日に開かれる賑やかな朝市マルシェを歩き、夫人愛用のストローテーパード籠に青野菜などを手に入れて、帰路に着く際、南西の方角、草原の向うにシャトー城館が遠景として映る、如何にもプロヴァンス的な印象シーンがある。

ルールマラン・朝市マルシェ: 通年 毎週金曜日 08時〜13時/リュベロン地方最高人気のマルシェ
郵便局がある全長180m・プラタナス並木が美しい「Boulevard du Royol通り」と段差のない10段の階段を上がった観光局前の「Henri Barthelemy広場」/登録出店数=180店/果実・野菜・チーズ・肉・魚・スパイス・工芸品・ファッションなど。

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ルールマラン(ルールマルン)の直ぐ南方3kmのカデネ Cadenet は、デュランス川北側の河岸段丘の斜面に発達した村である。
以前、私はこの村を2時間ほど歩いたが、村の通りは幾分狭く、中都市エクス・アン・プロヴァンスからルールマルンやボニュー、アプト方面への交通の要衝なので通過する車も多く、プロヴァンス地方の村としてはザワザワ、個人的には何処か落ち付かない雰囲気を感じた。ただ、聖エティエンヌ教会堂はフランスの「歴史的建造物」に指定されている。

カデネの西方5km、ルールマラン(ルールマルン)からアヴィニオン(アヴィニョン)へのバスルートにあるローリ Lauris の人口は約3,500人、プチット・リュベロン山地の南側、河岸段丘の上部に発達した村というより小さな町である。
段丘から南西側へ突き出るように長方形の庭園のあるシャトー城館が建ち、旧市街の通りは狭いが整然としている。シャトーからは700m先のデュランス川への展望も良いことから、個人的には気に入った場所の一つである。

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カデネの東方7kmのアンスイ Ansouis は、広大なブドウ畑やプロヴァンス松の林などに囲まれた緑豊かな典型的な丘上都市で、「フランスの最も美しい村」に認定された人口1,100人の小村。
10世紀にさかのぼる歴史あるシャトー城砦を中心に、ワイン生産などで小村ながら繁栄を享受してきた。ゴルドと同様に石造りの家々が密集する景観に惹かれ、特に夏のシーズン、アンスイを訪れるツーリストは結構たくさん居る。

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美しい村ルールマラン(ルールマルン)の東方6km、アンスイの北方5km、人口1,850人、周囲はブドウ畑、かつて城壁に囲まれた村キュキュロン Cucuron には、西側の丘に14世紀の分厚い壁面の方形塔を、東方へ約250m離れた丘には円形の稜堡(塔)が残されている。
二つの塔の中間が13世紀〜15世紀に三回にわたって拡張されたフランスの「歴史的建造物」の城壁で囲まれた旧市街である。また市街の中心には13世紀起源の古い城壁を利用した高い鐘楼が建ち、1500年代に装備されたという時計と鐘が今でもその役目を果している。
旧市街の北側、かつて14世紀から水車用水溜めに使われ、今日、人々の憩いの場になったプラタナスの巨木に囲まれた長方形の大きな池がある。映画≪プロヴァンスの贈りもの≫では、この場所は主人公マックスと魅力的なファニーがデートするが、突然激しい雷雨となり、急ぎレストランから人々が去り、雨粒の落ちる池脇に広げたパラソルテーブルで、(映画らしく予想した通りの舞台が整い)二人が濃密なキスを交わすシーンに使われた。

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「プロヴァンス三姉妹」・シルヴァカーヌ修道院/(C)legend ej
       シルヴァカーヌ修道院 付属教会堂 西正面ファサード&プラタノスの大木/プロヴァンス地方
       「プロヴァンス三姉妹」のシルヴァカーヌ修道院/モリモン修道院

さらにリュベロン地方で見逃せないスポットがある。カデネから南西5km、デュランス川の対岸(南側)、セナンク修道院と並び「プロヴァンス三姉妹」と呼ばれる12世紀ロマネスク様式のシルヴァカーヌ修道院(上写真)が建つ、人口5,400人、ラ・ロック・ダンテロン La Roque d'Antheron である。

夏季に有名な「国際ピアノ音楽祭」が開催されるラ・ロック・ダンテロンでの回想は、シャトー城館の近く、ふらりと立ち寄った地元レストランの若いオーナー・シェフの勧めで、ビネガードレッシングをたっぷりかけて食した生ハムとエシャロット入り南欧風サラダで、真夏に相応しい酸味の効いたあのフレッシュな味は今でも記憶に新しい。

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