legend ej の心に刻む遥かなる「時」と「情景」

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「南部アルザス・サングオ地方/フェレット Ferrette〜ダンヌマリー Dannemarie 周辺

「鯉フライ街道 Les Routes de la Carpe Frite du Sundgau」とスイス国境地帯の村々

ダンヌマリーDannemarie〜鯉フライ街道〜コロンバージュ街道〜フェレット Ferrette〜レメン Leymen
ランズクロン城 Chateau de Landskron〜スイス・マリアシュテイン修道院 Abbeye de Mariastein

中世の名門貴族フェレット伯家が治めたフェレット Ferrette)


位置: ミュールーズ⇒南方28km/スイス・バーゼル⇒西南西21km
人口: 780人/標高: 500m

フェレットの村/名門貴族フェレット伯家の濃密な歴史
標高600m〜650mの複数の丘陵に挟まれた谷間に発達したフェレットは、現在の人口780人から言えば、大きな町でなく村に相当する自治体である。しかし、中世の時代のフェレットは堅固なシャトー城砦を築き、アルトキルシェを含め一帯を治めたフェレット伯家の本拠地であり、文化的にもサンングオ地方の正真正銘の「センター」であった。故にフェレットに関しては、名門伯家の系譜と今日廃墟となった「シャトー・フェレット城砦 Chateau de Ferrette」を抜きに語れない(下写真・丘の上)。

フェレット村とシャトーフェレット城砦 Ferrette. Alsace/(C)legend ej
         フェレット旧市街/遠方は標高600mの丘に残る「フェレット城砦」の廃墟
         左側の傾斜屋根は聖ベルナール・ド・マントン教会堂/南部アルザス・サングオ地方

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アルザス地方の名門貴族エグイスハイム家、深掘と高い城壁に囲まれた八角形のシャトー・エグイスハイム城館(下写真)を建てた伯ユーグW世と神聖ローマ帝国・皇帝コンラートU世の母親とは「従兄妹」の血族関係であった。
10世紀の末期から11世紀の初頭、「子沢山の伯」で知られるエグイスハイム伯ユーグW世は、エグイスハイム&ダグスブール領を治めた伯ジェラルドU世を初め、後のヴァチカン教皇レオ\世となるブルノや娘ヒルデガルドなど9人の子供達をもうけた。

11世紀・シャトー・エグイスハイム城館(1885年描画)/(C)legend ej
                  11世紀 創建当時のエグイスハイム・シャトー城館&街
                  深い堀&高い城壁に囲まれた堅固な城砦タイプの城館
                  情報:Wikipedia(FR)・描画:1885年

ロレーヌ地方メッス家へ嫁いだ娘ヒルデガルトvon エグイスハイムは、後にサングオ地方〜フランシェ・コンテ地方〜スイス・バーセルに至る広大な領地を治めるモンベリアール伯ルイU世を生み、その息子がナンシー周辺バールを治めたテオドリクT世(Theodoric I /ティリー Thierry I )である。

その後、父テオドリク(ティリー)T世 が、息子のフレデリクT世 Frederic I(1080年〜1168年)にフェレット領地を与え、 1103年、ここに最初のフェレット伯が誕生することになる。
この時代、すでにローマ人の築いた小規模な見張り砦が建つ標高600mの丘の麓には、今日見られるような最初のフェレット集落が形成されていた(上写真)。1105年、フレデリクT世は谷間に広がるフェレット集落の北側にそびえるこの丘に、アルザス地方でも「最古のシャトー」の一つとなる最初のシャトー・フェレット城砦を造営した.

有力なフレデリクT世はフェレット城砦のほかにも、1105年、アルトキルシェの東郊外にクリュニー修族(クリュニー会)系譜の小修道院を建立(下記コラム=聖モラン埋葬)、1138年にはアルザス・ワイン街道コルマールの西北西18km、ヴォージェ山地の標高650mの谷間にペイリス Pairis の修道院(現在=病院)を創建している。
さらに、フレデリクT世は現在ロマネスク様式教会堂と鐘楼を残しているが、フェレットから北西6kmのフェルドバッハ Feldbach に、1145年「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」を支援するクリュニー修族の修道院(フランスの「歴史的建造物」)を建立した。
信仰心の厚いフレデリクT世に始まる名門貴族フェレット伯家は、11世紀後半〜12世紀の初めに南部アルザス地方で活躍したクリュニー修族のドイツ人修道士聖モラン(下記コラム)を擁護・崇拝した。

その後、フレデリクT世の息子、「第三次十字軍(1189年〜1192年)」に参加した伯ルイT世 Louise I が、1189年、中東の戦場で倒れることで、その息子の伯フレデリクU世(フレデリクT世の孫)の時代へ入る。
フレデリクU世(Frederic II 〜1234年)の統治はフェレットへ安定と繁栄をもたらし、1232年頃、村は城壁で囲まれ、この頃フェレットは「市」として記述されている。また、フレデリクU世は、1224年、ヴォージェ山地を越えてロレーヌ地方へ抜ける交通の要衝タン旧市街に張り出した標高415mの尾根に、敵対意識の強いフランス王国との神聖ローマ帝国の防衛最前線となる重要なシャトー・エンジェルブール城砦 Chateau d'Engelbourg を造営している。

シャトー・エンジェルブール城砦とタン旧市街の情報:
アルザス・ワイン街道(南部)タン周辺とコロンバージュ様式の美しい村々/アルザス・カリウム岩塩鉱山

繁栄のフレデリクU世の統治時代は一方で政治的にはフェレットの「混乱の時」とも言え、男系断絶となったアルザス・エグイスハイム伯家の継承問題でストラスブール司教と、さらにフェレットの地政学的な重要性に拘る強力なバーゼル司教との紛争が絶えなかった。
伝説では、中世の時代に多々ある親子・親族の争いとも言える、バーゼル司教の影響を受けた?とされる「ルイU世」、または「ルイV世」の陰謀か(下記コラム)、1234年、フレデリクU世が暗殺されてしまう。疑いをかけられた「ルイV世」は父親殺害の罪で破門され、この時、タンのエンジェルブール城砦もバーゼル司教の管理となった。

フェレット領は第四代伯となる若年ウルリヒU世(Ulrich II 〜1275年)へ継承されたが、バーゼル司教ベルトルドU世 Berthold II von Ferrette の執拗な干渉が続き、結局、1271年、ウルリヒU世はフェレットの城砦と「市」の譲渡を迫られ、事実上、司教の「家臣」となってしまう。ただフェレット城砦との引き換えに司教ベルトルドU世は、タンのエンジェルブール城砦の所有をフェレット伯家に委ねている。

父伯フレデリクU世が暗殺された後、10歳に満たない少年でフェレット領を継承したウルリヒU世は、成長して二度の結婚をしている。ブルゴーニュ地方の封建領主の未亡人エリザベスとの最初の結婚で二男一女をもうけた後に離婚、そして、名門ヴェルジー家系のアグネス(ナンシー近郊シャロン・封建領主の未亡人)との二度目の結婚で三人の子供をもうけた。その長男がバーゼル司教からフェレット城砦と領地を引き継いだティエボーT世(シオボールドT世 Thiebaut I 〜1311年)である。

さらにフェレット城砦と領地はその息子ウルリヒV世(Ulrich III 〜1324年)へと引き継がれる。しかし、フレデリクU世の暗殺犯人の被疑者となった「ルイV世」を含め、第七代目の領主伯となるウルリヒV世は、「名門家系の繁栄はそう長くは続かない」という歴史の皮肉なめぐり合わせなのか、1324年、男系継承者なくして亡くなり、フェレット家系の正統継承者はその娘ヨハンナ(FR=ジャンヌ)と次女ウルスラとなった。

長女ヨハンナ(FR=ジャンヌ Jeanne de Ferrette 1300年〜1351年)は、母ジャンヌとオーストリア公レオポルトT世との話し合いの結果、父伯ウルリヒV世の死亡からわずか二日後、アルザス・ワイン街道のタン大聖堂においてオーストリア公国・公アルブレヒトU(アルベルトU)と婚姻を結び、ハプスブルグ家へ嫁いで行く。ここに200年以上系譜されてきた名門貴族フェレット伯家は事実上の断絶とった。

その50年後、1375年、アルザス地方とフェレットを含むサングオ地方の40か所を数える町と村々は、戦いと略奪で生計を立てるフランスの貴族騎士団・「フリーカンパニー(傭兵団)」の「修道服軍 Gugler」により破壊と強奪の被害を受ける。
この過激な傭兵団はパリの北東100kmのクーシー領伯アンゲランZ世(エンゲルラム)の率いる16,000名から成る騎士団とされ、フェレットなどが襲撃されたのは、傭兵団がスイス・ジュラ山系地方を襲う「修道服軍 Gugler の戦い」への途中であった。
その後、フェレット城砦とサングオ地方の広大な領地はバーゼル司教の手を経て、ハプスブルグ家の廷吏により管理され、16世紀にリヒテンシュタイン家やアウグスブルグの富豪フッガー家系なども居住するが、17世紀の「三十年戦争」の終結の時まで、その多くは神聖ローマ帝国の貴族階級によって継承されて行く。

フェレット伯家と深い関わりのあったアルザス地方の名門貴族・エグイスハイム伯家の本拠地・エグイスハイム(下写真):

「フランスの最も美しい村」・エグイスハイム Eguisheim/(C)legend ej
             「エグイスハイム定番写真」の路地(城壁南通り)/アルザス地方
            アルザス・ワイン街道・コルマール周辺

Ref.
聖モラン(St Morand 1050年〜1115年)
モランはドイツ・マンハイム北方のヴォルムス Worms の貴族階級の家で生誕、聖職者の教育を受け法律などを学んだ後、「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」に参加、後にブルゴーニュ地方のクリュニー修族(クリュニー会)へ入る。その後修道士としてアルトキルシェなど南部アルザス地方で活躍、1106年頃、故郷のドイツへ戻った。

死後、1181年、列聖に加えられた聖モランの遺骸は、現在の「アルトキルシェ病院」の敷地内にある聖クリストファー教会堂(現在=聖モラン教会堂)に埋葬され、今日でも病院を訪れた人や教会堂への参拝者は、聖モランの石棺に手を触れることができる。
後述のように、1324年、フェレット伯家の最後の継承者ヨハンナがオーストリア公の元へ嫁いだことで、フレデリクT世以降、家系の守護聖人・聖モランへの崇拝は遠くハプスブルグ領内へも浸透して行く。聖モランはアルザス地方のワイン生産者が崇拝する守護聖人でもあり、聖モランによりブルゴーニュ地方から幾らかのブドウ品種と栽培技術がもたらされた。


フェレット伯家の「歴史の闇」
十字軍参加のルイT世に関する記録は複雑で、ハプスブルグ家の娘リチェンザと結婚をして先ず「ウルリヒT世」が生まれるが、父伯ルイT世が十字軍遠征で亡くなった後、「ウルリヒT世」は1197年に病死、まはた暗殺で亡くなっている。
また、ルイT世は最初の妻リチェンザが亡くなった後、スイス・ジュラ地方の旧名サウゲルン伯家 Saugern の「アグネス」と結婚したとされ、生まれた息子が「ルイU世」とされる。そして、「ルイU世」の息子が「ルイV世」であり、後にフェレットの繁栄に尽力するフレデリクU世の「暗殺事件」には、この「ルイU世」、または「ルイV世」が関わっていたとする説もある。

また、多くの説では、1234年に暗殺されたフレデリクU世は、エグイスハイム家系譜の最初の妻との間に二人の娘をもうけた後、二番目の妻にドイツ・「黒い森地方」の伯家からヒイルウィッグを迎え入れ、次のフェレット伯となるウルリヒU世など合計8人の子供をもうけたとされる。このうちウルリヒU世の弟となる「ルイV世」が、1236年、「父伯暗殺」の疑いから教皇グレゴリウス\世の書面で破門を受けている。ただし記録では「ルイV世」もフェレット伯の称号を受けているとされる。

フレデリクU世の暗殺に関して、16世紀になり疑いの「ルイV世」とは別に、兄の伯ウルリヒU世の「同意」があったとする羊皮紙の記述が発見されている。しかし、暗殺の事件当時、ウルリヒU世も疑惑の「ルイV世」も若過ぎることから、背後に何らかの、おそらくフェレット領を狙うバーゼル司教の「影の動き」が事件解明の重要な鍵となるだろう。何れも名門貴族の「歴史の闇」の中で起こった出来事であることは間違いない。


フェレット伯家・最後の継承者ヨハンナ(FR=ジャンヌ Jeanne de Ferrette 1300年〜1351年)
ウルリヒV世の長女ヨハンナは聡明で思い遣りのある女性とされ、結婚後、関節炎を患って身体が不自由であった夫公オーストリア・アルブレヒト(アルベルト)U世に代わり、揺れ動く中世の政治世界でも能力を発揮したとされる。
が、結婚後、長い間子供に恵まれず、39歳の高齢になってから公国を継承するルドルフW世、続いて修道女カタリーナ、フリードリヒV世、レオポルトV世など合計6人、ハプスブルグ家の発展につながる子孫を生んだ。51歳で最後の息子レオポルトV世を出産した時、急死して人生を終えた。
今でもヨハンナはスイスやオーストリアでは歴史上の敬愛する女性として人気が高い。なお妹のウルスラ Ursula は姉ヨハンナが嫁いだ10年後、1333年、ホーエンブルグ公ユーグT世へ嫁いで行く。

その後、17世紀になり、1618年、カトリック教会とプロテスタント派との宗教戦争の「三十年戦争」が始まり、覇権を争うヨーロッパ全土に破壊の嵐が吹きまくり、アルザス地方のほとんどの街や村々と同様に、サングオ地方も複数回にわたって戦場となった。特にフランス支持の好戦的なスウェーデン軍とその傭兵は、1632年、カトリック教会を擁護する神聖ローマ帝国領のフェレット城砦を攻撃して駐屯した。

ただ、2年後の1634年、フェレット周辺の農民が「反乱」を起こして城砦へ侵入したことで、撤退するスウェーデン軍は特に上部城砦を復興できないくらい徹底的に破壊、村の住民の虐殺も行われた。翌1635年になると、ルイXV世のフランス国王軍がサングオ地方へ進軍してフェレット城砦を攻撃、フェレットの「市」の住民にとっても破壊に継ぐ破壊の連続、血に染まる激しい悪夢の年月が続いた。

「三十年戦争」では、フェレットのみならず、アルザス・ワイン街道の古い街タンでは、スウェーデン軍と神聖ローマ帝国軍とが入れ替わり駐屯したことから、1633年〜1639年、6年間の短い間にエンジェルブール城砦の所有者が7回も代わる異常な事態となった。
1648年に戦争が終結、フェレット城砦と「市」は神聖ローマ帝国からルイXV世のフランス王国管理となった。部分的に城砦は修復され、1659年から枢機卿で次の幼少フランス王ルイXIV世の教育担当で、事実上の宰相(さいしょう)であったジュール・マザラン Jules Mazarin が、城砦とサングオ地方の領地の所有と管理を行った。

なお、アルザス地方がフランス領となり、ツュル渓谷の「出口」に位置するタンに課されていた国境防備の役目が薄れたことから、ルイXIV世は、1673年、エンジェルブール城砦の破壊を発令、居住建物と大きな見張り塔も破壊された(下描画=横倒し塔の一部・円筒型の穴空き遺構)。

          アルザス・ワイン街道 タン・ブドウ畑/エンジェルブール城砦・「魔女の眼」 Thann, Alsace/(C)legend ej
     アルザス・ワイン街道・タン/遠方の尾根に「魔女の眼」が残るエンジェルブール城砦跡
     聖アーバン礼拝堂 St-Urbain Chapelle を囲む急斜面45°の特級ワイン用ブドウ畑「Rangen」
     秋 黄金色に染まるブドウ畑/描画=Web管理者legend ej
     アルザス・ワイン街道(南部)タン周辺/アルザス・カリウム岩塩鉱山


17世紀、アルザス・ロレーヌ地方が領土拡大を目論み次々に対外戦争を仕掛けるルイXW世のフランス王国領となり、フェレット城砦の所有権が宰相マザランへ譲渡され、その後、マザラン亡き後もイタリアからフランスへ移り住んだ妹の娘達(マザランの姪=下記コラム参照)の系譜により城砦は管理された。

18世紀後半、1789年、パリで「フランス革命」が勃発してルイXY世のフランス王朝政権が倒され、革命軍がフェレット城砦へ攻撃をしかけ、残存していた下部城砦は完全に火の海となった。フェレット城砦を構成していた切石材は格好の建築資材となり、「石切場」と化した丘から多くの石材が解体され運び降ろされた。

その後、19世紀、フェレット城砦の丘は壁紙メーカーのズベ財閥 Zuber に買収されたが、20世紀となりフランスの「歴史的建造物」に指定されている。城砦はわずかな遺構を残し廃墟となっているが、2011年に個人財産となり、現在、中世を解明する発掘作業も実施されている。なお、1892年、ミュールーズ=フェレット間に鉄道が敷設されたが、1953年に廃線となった。

Ref.
17世紀以降のフェレット城砦/宰相ジュール・マザラン Jules Mazarin
イタリア生まれの聖職者であり、「三十年戦争」の最中に特使としてパリを訪れたジュール・マザランは、戦後にフランスに帰化、その外交能力を評価したルイXV世の推挙で枢機卿となる。その直後、ルイXV世とその宰相リシェリュー枢機卿が亡くなり、4歳で次のフランス国王となるルイXW世の教育係と摂政の大后アンヌの相談役となり、事実上の宰相となったマザランは、政治・外交能力をフルに発揮、「太陽王」と言われたルイXW世のフランス絶対王政の確立から王朝の絶頂期に至るまで最大限の尽力をする。

テュレンヌ元帥の率いるフランス王国軍が「三十年戦争」の神聖ローマ帝国軍に勝利して、マザラン外交はアルザス・ロレーヌ地方を獲得、「フランス・スペイン戦争」に勝利して「ピレネー条約」で領土拡大を果した。またスペイン王女マリー・テレーズ(マリア・テレサ)とルイXW世との政略結婚を実現させ、拡大志向の戦争を続ける王国財政の立て直しから庶民に重税を課せ、コンデ公の「フロンドの乱1648年〜1653年」を招くなど、その政策と「裏工作」には相当なる意外性もあった。


マザランの5人の姪たち「マザリネット」
マザラン自身は聖職者(枢機卿)であったことから生涯を独身で通したが、イタリアの二人の妹とその家族への思慮と厚情は異常なほど強かった。特に姉ラウラの二人の娘と妹ジェローラマの三人の娘は世間から「マザリネット」と呼ばれ、マザランは5人の姪たちに莫大な持参金を授け、コンティ公アルマンやモデナ公爵アルフォンセW世など、フランスとイタリアの有力な王侯貴族の元へ嫁がせた。

「マザリネット」のうち、妹の四女オルタンス・マンシーニ(Hortense Mancini 1646年〜1698年)は、富豪マイユライユ公アルマン・シャルルと結婚する。その後、マザランが亡くなると、アルマン公がマザランの資産の多くを継承してマザラン公を名乗り、次のマザラン公を継承する息子ポール・ジュールが生まれる。ただ、オルタンスと夫アルマン公との結婚生活は破綻に近く、オルタンスはかつてフランス亡命中に求婚してきたイングランド国王チャールズU世の愛人にもなっている。


フェレット城砦とモナコ王室
マザラン公ポール・ジュールと妻フリス・アルマンとの間に次の継承者となるマザラン公ギー・ユーレス・パウロが生まれ、さらにギーの孫娘ルイーズ・ジャンヌの娘がルイーズ・フェリシティ Louise Felicite Victoria d'Aumont となる。マザランの妹の娘オルタンスを含め六世代目となるルイーズ・フェリシティは、1777年6月、パリにてモナコ王子オノレW世 Honore IV と結婚式を挙げる。

17世紀以来、フェレット城砦は歴史の中で「マゼラン家所有」となっていたことから、歴史を尊ぶ王子オノレW世はフェレット城砦の所有権を主張した。王子オノレW世にはオノレX世とフロレスタンT世の二人の王子が生まれ、次男のフロレスタンT世の系譜が現在のモナコ王室へと継承されている。

フェレットの旧市街(下の街)/聖ベルナール(ベルンハルト)・ド・マントン教会堂
標高の低い穏やかな形容の丘陵や草原と農耕地が波打つ風景が標準であるサングオ地方の町や村々とは異なり、フェレットは東〜南〜西側から迫る標高差50m〜100mの丘陵と山に挟まれ、北方のダンヌマリーやアルトキルシェへ続くサングオ平原へ出口を構える狭い谷間に開けた村である。

バーゼルからサングオ地方を横断している地方道D473号とアルトキルシェへ連絡する地方道D432号、そして、スイス・ジュラ山系へ向かう地方道D23号の交差点の周辺、さらに交差点から南東方向へ登る傾斜道路の「シャトー通り Rue de Chateau」が、中世の昔からフェレットの貴族階級と庶民の住む旧市街を形成して来た。旧市街の建物はほとんど中世邸宅様式の造りである。

歴史を秘めたフェレット旧市街の東側には、標高600m、フェレット城砦の建つ「険しい山」とも言える露岩の丘が、村を覆うように居座っている。城砦の丘全体は石灰岩の崖とゴツゴツの露岩と広葉樹で被われている。フェレットの歴史を語る古くからの家並みは、この城砦の丘の西側〜南側の麓へ長く延びている(トップ写真)。

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一方、地方道D432号は交差点の西側で直ぐに南方へ左カーブとなる。「三角形広場」のような感じのカーブ交差点の北側の四階建ての建物の破風部分には、ギリシア神話・農耕の神クロノスと天使が彫刻され、地元では「天使の家」と呼ばれている。
カーブ交差点の西側に美味しい商品が並ぶ「小さなパン屋さん」があり、その前の歩道には八角形の古い噴水がある。この場所には1830年と1848年に2本の木が植えられてとされるが、その後、枯れてしまったのか、現在では痕跡はない。

噴水〜南方30m付近から地方道D432号は左カープして登坂して行く。この登坂カーブ交差点の東側には、アルザス地方の村々で良く見ることができる清流を利用した中世の屋根付き洗濯場があり、春〜秋には季節の花々が飾られる。

           フェレット旧市街・中世洗濯場/(C)legend ej
              フェレット旧市街・中世の屋根付き洗濯場(再建)/アルザス地方

訪ねた2014年に聞いた地元の人の説明では、かつて中世の時代、5〜6人の女達が横一列になって清流で洗い物に勤しんだ洗濯場は、過去に凍結の傾斜道路でスリップした車がカーブを曲がり切れず、突込み事故が二度あり、最近再建されたものとされる。
また、八角形噴水〜洗濯場の中間に「大きなパン屋さん」があり、東対面の路地の角の建物は、1700年創建・グレー色彩の三階建て、宰相マザランが居住した旧マザラン邸宅である。

教会堂の西下の変則の交差点の南脇には、「鯉フライ街道」に登録された赤錆色壁面のオーベルジェ(宿泊・食事)・「Hotel Restaurant Colin」、そのほか邸宅様式の建物には銀行が入居、さらに上述の「三角形広場」のような感じのカーブ交差点から北西へ延びている斜路の Rue Lehmann 通り3番地には、美味な「鯉フライ」を提供する「レストラン白馬 Restaurant Cheval Balanc」などもある(下述・鯉フライ街道)。

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村の中心となっている教会堂の西下の交差点の東側にパーキング場があり、その脇の高い切石積みの擁壁の上部には(一部は教会堂の地下室)、崖と急斜面のフェレット城砦の建つ丘を背に1914年に再建されたフェレット教会堂が建つ(トップ写真)。教会堂は急傾斜の切妻屋根と厚い柱状壁(バットレス/控え壁)で強化されたネオ・ゴシック様式の身廊、12世紀起源の小切妻様式の高い鐘楼が特徴的である。

伝承では、最初のフェレット伯となるフレデリクT世統治の以前から、1050年頃、この場所に≪聖アウグスティヌスの戒律≫を規範とする小修道院があったとされ、その後、1144年、伯フレデリクT世が教会堂を建立、11世紀の貴族出身でアルプスの守護聖人・聖ベルナール(ベルンハルト)・ド・マントン St Bernard de Menthon を奉るようになった。
東側に石灰岩の高い垂直な崖が迫り、周囲の余剰スペースが限られていることから、教会堂の入口は身廊の右側(南側)である。フランスの「歴史的建造物」に指定されている教会堂の内部には、13世紀のゴシック様式の祭壇が残り、切石積みで外観八角形の後陣の南側は14世紀起源の礼拝室である。また、内部の壁画は1491年起源である。

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フェレットの旧市街(上の街)/シャトー通り
村の中心の交差点から教会堂の強固な擁壁面に沿うように南東方向へ走る、結構な登り傾斜のシャトー通り Rue de Chateau を500mほど上るとフェレットの旧市街は終わってしまう。その間、道路脇には戦いの度に再建されたコロンバージュ様式も含め、中世の面影を残す由緒ある建物が隙間なくびっしりと建ち並んでいる。

フェレット・シャトー通り・レリーフ彫刻 Relief, Ferrette/(C)legend ej  先ず、教会堂の南方、坂道を登り始めて直ぐ右側、シャトー通り10番地に建
 つ白壁の建物は中世には廷吏邸宅で、1789年、「フランス革命」の活動家に
 よる攻撃を受け、現在、レストラン・「La Caveau St Bernard」が営業。

 また、教会堂から100mほど上った右側の広い庭を備えた朱色の大型の切妻
 屋根の建物は、城砦領主と修道院が庶民に生産量の10%を納税・物納する
 義務(十分の一税)を課せ集めた穀物などを保管した「十分の一税倉庫
 であった。

 さらに上がった右側、シャトー通り28番地、1669年創建・1819年改修、かつ
 て財務検察官の邸宅であった建物の二階部分は、正面壁面には中世からの
 特徴的な武器・ハルバード(矛先槍&斧刃の長柄武器)を持った儀礼・護
 衛兵のレリーフ彫刻、そして建物の角部には緑色の帽子と髭(ひげ)の男性の
 レリーフ彫刻で装飾されている(左描画)。

 なお、護衛兵のレリーフ彫刻は、良く観察すると、上半身は道路側を向いている
 が、何故か?下半身は壁面へ向いている。
 理由は不明だが、「狭い梁から落ちない」ように「つま先立ち」するような格好で、
 あえて下肢を建物側へ向かうように表現しているのかもしれない。あるいは作者
 のジョーク表現かもしれないが。


 フェレット旧市街・シャトー通り28番地・「旧財務検察官の邸宅」のレリーフ彫刻
 南部アルザス・サングオ地方/描画=Web管理者legend ej


 さらに上がった右側、シャトー通り38番地、三階建てのフロント切妻屋根にバー
 ゼルで鋳造された小さな鐘楼とコウノトリの巣を乗せた、フランスの「歴史的建造
 物」に指定されている村役場 Hotel de Ville がある。
 中世からのままなので狭い道路脇に車を止めるスペースもなく、傾斜するシャト
 ー通りに面する赤錆色の壁面には、円形時計と直線だけで構成された美しい
 幾何学デザインの凸型窓枠が配置され、この建物がライン流域ルネッサンス様
 式であることを主張している。

村役場の建物の起源は1572年、その後、18世紀〜20世紀に複数回の改修が行われたが、内装の一部には16世紀のオリジナル造作を残している。建物の建築起源を刻んだ入口上部の紋章は二つ、伝承の「二匹の黄金の魚」をデザインしたフェレット伯家の、そしてハプスブルグ家の紋章である。「黄金の魚」は鯉を意味している。

村役場の南東60m、シャトー通りがほぼ平坦になる右側は、背丈の異なるフロント切妻屋根3棟を横連結した邸宅様式の四階建ての「☆☆☆☆ホテル La Masion des Fontaines」、横長の前庭にはホテル名称の由来である中世の八角形の噴水がある。
さらに100mほど東方へ進み、シャトー通りの旧市街が終わりかける場所、右側に三階建てのルネッサンス様式の美しい城館形式の大型建物があるが、ここは裁判審議官の邸宅であった。
この周辺はフェレット旧市街の東外れとなるエリアだが、小高い位置であり伝統あるプチホテルや小奇麗なペンション、レストランが点在する。

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フェレット城砦の丘へ登る
教会堂の脇から登坂して来たシャトー通りは、気品ある「ホテル La Masion des Fontaines」の前で「Y字分離」となり、通りはそのままほぼ直進で東方へ向かい下方の交差点から上がって来る地方道D23号と合流する。
一方、左方へ分かれ山麓に沿うようにわずかに登る狭い路地は聖ベルナール通り Rue St-Bernard と呼ばれている。この狭い聖ベルナール通りは150mほど先で突き当たり、再びシャトー通りと合流するが、この通りには1488年に遡る中世の建物などが残っている。

「ホテル La Masion des Fontaines」の前からの聖ベルナール通りを80mほど上ると、左折して逆角度で北西方角へ上る感じの狭い路地があり、これが城砦の丘へ通じる中世からの「登り道」である。直ぐにかつて城壁の役目と警備詰め所を成していた、16世紀建造の三階建ての建物が行く手を塞ぎ、一階部分をアーチ型門として貫通させた城砦への入口ポーチとなっている(下描画)。

              シャトーフェレット城砦/描画情報 chateauxfortsalsace.com
            フェレット城砦/全景図/描画情報: 「アルザス地方シャトー&城砦」
            http://www.chateauxfortsalsace.com/ より引用⇒文字追加

入口ポーチからブナなど広葉樹の中をわずかに右カーブを描きながら、城砦への「アクセス登り道」が急斜面の丘の形容に沿って約170m続き、16世紀の再建とされる半壊状態の城砦入口アーチ門へ至る。
アーチ門の内部が「下部城砦」で、円形の稜堡を含め廃墟に近い城砦の遺構全体の中で、この周辺の石積みのぶ厚く高い城壁部分は比較的保存状態が良好な区画である。上描画では城砦が「崩壊していない状態」で描画されているが、現実の遺構は建物の基礎部を残し、多くはほとんど廃墟の状態である。

フェレット城砦は、ほぼ南北に長く延びる岩の丘の複雑な段差を上手に利用して建造された城壁と建物群で構成されている。城砦全体のサイズは、「下部城砦」を取り囲む高い城壁区画から「上部城砦」に至るまで約270m、東西の横幅は約75m、斜面が多いことから一部を除き建物はほぼ単独に配置され、多くは岩盤を掘削した基礎構造を持っていた。

下部城砦の城壁とその上部に構築された複雑な建物施設、そして屋根は崩壊しているが外形はほぼ原型を保つ「円形稜堡」が、この場所が岩の丘という自然の利だけでなく、防御のために強化された城砦であったことを物語っている。ブナの大樹が生い茂る下部城砦の城壁に立ち、眺めるフェレットの旧市街とサングオ平原の眺望は素晴らしい。また「正方形の塔」と呼ばれる建物基礎部は、城砦で唯一の12世紀に遡るロマネスク様式の遺構である。

下部城砦と上部城砦とを結ぶ中間付近には、ひな壇状の岩盤斜面が展開し太い広葉樹が点在している。このエリアの13世紀に建てられた建物は擁壁形式の石積み基礎部の一部が残るだけ、ほとんど原型が確認できないほど荒廃している。18世紀の「フランス革命」の後、建築資材として城砦の構造石材が運び出された結果と考えられる。

露岩が目立ち足場が悪く、急激に標高が高くなる上部城砦の建物は、岩盤を方形に削って基礎部としている区画が多く、その部屋内部が想像以上に深い(高い)ことに驚くほどだ。今日、その最上部の標高600m付近に残る「天守閣 Donjon」と呼ばれる建物遺構を利用して、休憩ベンチを備えたツーリスト用展望台が設備されている。

この場所からは北方の一部を除き、ほぼ全方角への展望が開け、特に丘の南側、旧市街の東端に位置するルネッサンス様式の美しい裁判審議官の邸宅、その南方〜東方背後に広がる丘陵の草原斜面とスイスへ向かう蛇行する道路、広葉樹の点在と小奇麗な民家の織り成す美しい光景は本当に素晴らしい。それはこの地が豊かな大自然のジュラ山系の最前線にあることを教えている。

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フェレット観光局/フェレットの「新市街」/有名チーズ工房 Antony
サングオ地方観光局(本拠地=アルトキルシェ)フェレット事務所は、旧市街の東外れのルネッサンス様式の裁判審議官の邸宅より南東150m、地方道D23号脇である。
谷間地形という市街の拡張が望めないフェレット旧市街の北西方角の平原に、今日、名称は「古いフェレット」を意味するヴュー・フェレット地区(Viex-Ferrette 人口600人)が、言わばフェレットの「新市街」として隣接拡大している。
地区には歴史的な建造物などはないが、フランス軍機動憲兵隊が基地を置き、私も2014年に立ち寄ったが、物価が安いフランスで越境買い物するスイスからの主婦で賑わう「スーパーマーケット SIMPLY」などもあり、ヨーロッパ内陸地方なのに北海からの新鮮な魚介類も豊富であった。

フランスの大統領官邸(エリゼ宮殿)やパリ市内の著名レストランへ納入している有名なチーズ工房・「Antony- Eleveur de Fromages」はフェレット旧市街の教会堂下の交差点から南側の山麓に沿って北西500m、新市街ヴュー・フェレットのモンターニュ通り5番地(5 Rue de la Montagne)である。

戦争の歴史の町 ダンヌマリー Dannemarie /マンシュパッハ村 Manspach

位置: ミュールーズ⇒南西22km/ベルフォール⇒東方19km
人口: 2,300人/標高: 320m

「フランス 花咲く町と村」: http://www.villes-et-villages-fleuris.com/

戦争による破壊・再生の歴史
ケルト系ゲルマン人やローマ人の古代居住遺跡が確認されているダンヌマリー地区だが、記述として最初に登場するのは、11世紀の初め1016年、神聖ローマ帝国・ハインリヒU世の設立憲章において「Danamarachiricha」という村の名称である。その後、13世紀になるとアルザス地方の名門貴族エグイスハイム伯家の断絶と継承問題から、ストラスブール司教とサングオ地方の名門フェレット伯家との論争に巻き込まれ、その戦いでダンヌマリーは被害を被る。

14世紀以降、南部アルザス地方では最も有名なマーケット(市)が毎週開かれたとされるが、1313年、この地域でヨーロッパを恐怖に陥れたペスト病が流行して、ダンヌマリーでも多くの村人の命が失われたとされる。続く15世紀以降、ほかの多くのアルザス地方の町や村と同様に、ダンヌマリーは戦争による破壊と再生の歴史を繰り返して来たと言える。

先ず、モンシャウ伯とオーストリア貴族との戦いの場所となり、さらに「100年戦争」の最中の「アルマニャック伯の乱」でも大きな被害を受けた。そして、1474年、フランス王派とブルゴーニュ公派(シャルル突進公)との戦いである「ブルゴーニュ戦争」でラルギュ川 Largue 流域は激戦の場となり、ダンヌマリーは略奪され、教会堂に閉じ込められた農民の虐殺さえも行われたとされる。
その後、17世紀には神聖ローマ帝国を舞台に行われたカトリック教会派とプロテスタント教会派との宗教戦争でもあり、ヨーロッパ列強の主権争いでもあった「三十年戦争」が始まり、1632年、フランス王国支持の好戦的なスウェーデン軍の襲撃を受け、ダンヌマリーは略奪され、その後の荒廃で人口の激減を見る。
そうして1648年に「三十年戦争」が終結した後、アルザス地方は名門貴族フェレット伯家による統治からルイXIV世のフランス王国領となり、宰相ジュール・マザランによる支配が始まり安定化が図られた。

しかし、戦争の時代はさらに続き、1860年代になるとスペインの「王位継承問題」が起こり、ドイツ・プロイセン王国とナポレオンV世・「フランス第二帝政」は敵対、1870年、「普仏戦争」が勃発する。10か月間続いた戦争は動員兵力に勝ったドイツ・プロイセン軍が圧勝、翌年1871年に戦争終結となる。
「普仏戦争」の結果、フランスはアルザス・ロレーヌ地方を失い、国の政治力も経済力も大きく後退する。一方、プロイセン王国は「統一ドイツ帝国」を宣言、アルザス・ロレーヌ地方を「独語=エルザス・ロートリンゲン」と名称し直轄統治を行う。間もなくして、1914年、ヨーロッパは大量殺戮の「第一次大戦」の暗雲に覆われる。ダンヌマリーではすでに19世紀半ばにミュールーズ方面からの鉄道が敷設されていたが、特に街の東西2か所に架かる戦略的に重要な鉄道橋などが破壊された(下写真)。

1918年、「第一次大戦」の終了時、フランス領となったアルザス地方を視察したレモン・ポアンカレ大統領がダンヌマリーを訪れ、ミュールーズ〜ベルフォール〜ブルゴーニュ地方〜首都パリを連絡する鉄道と幹線道路沿いに位置するこの町の地政学的な重要性に注目して、破壊された町の復興と鉄道橋の修復・再建を約束した。
しかし、1939年に「第二次大戦」が始まり、交通の要衝としてのダンヌマリーの町は再び容赦なく破壊尽くされてしまう。

南部アルザス・サングオ地方ダンヌマリー 鉄道橋/(C)legend ej
      「第一次大戦」と「第二次大戦」で破壊・修復されたダンヌマリー郊外・「バラースドルフ鉄道橋」
      南部アルザス・サングオ地方

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ダンヌマリーの街の景観
市街の中心には、屋根にアルザス地方のシンボルであるコウノトリが巣を造っているネオ・クラシック様式の町役場 Hotel de Ville が建ち、その南側には聖レオナルド教会堂がある。教会堂の歴史は古く、すでに13世紀の末には最初の記述を確認できるが、15世紀には「ブルゴーニュ戦争」など度重なる戦争で破壊されてしまい、1670年になり教会堂は再建された。

また、町役場周辺など一部に壁面が辛し色などの伝統的なコロンバージュ様式や三階〜四階建ての豪奢な外観の邸宅様式の住宅も点在するが、ダンヌマリーの街全体が「第一次大戦」と「第二次大戦」で大きく破壊されたこともあり、歴史的建造物は少ない。
地方道D419号沿いの市街の東地区では「プジョー自動車」の部品工場が稼動している。さらに市街の北側には西方のブルゴーニュ地方ローヌ川と東方のライン川とを結ぶ「ローヌ=ライン運河」が流れ、小型船の物資輸送やヨットのレジャーなどが行われている。

ダンヌマリー鉄道駅の東方1km、南北に流れるバーレンウィック川に架かる「バラースドルフ鉄道高架橋 Viaduc Ballersdorf 」は日本では見かけない堅固なレンガ積み構造(一部コンクリート)、高さ20m、わずかにカーブしながら34か所のアーチ構造が連続する全長390mの見事な景観を示している(上写真)。
高架橋の建造は1857年〜1862年、その直後の1870年の「普仏戦争」で破壊され、その後、「第一次大戦」の開戦時の1914年の夏にフランス軍により橋の中央部分の橋脚が破壊され、戦後になって完全に修復されている。

なお、高架橋は間近で眺めても迫力感があるが、セメント鉱山が稼動する古い街アルトキルシェ Altkirch 方面へ連絡するマロニエの並木道(地方道D419号)から、上写真のように、草原を隔て350m遠方に堂々と構える雄姿の方が感激を覚えるかもしれない。

市街の東方に位置するこのバラースドルフ鉄道橋とは別に、さらに鉄道駅の西方約1kmにもラルギュ川と低耕作地を跨ぐ43か所のアーチ構造が連なった全長500mの「大鉄道橋 Grand Viaduc(地元=西の鉄道橋 Viaduc Ouest)」がある。こちらの高架橋も「第一次大戦」で先ずフランス軍が中央部分を80mに渡って大きく破壊、そして1915年になるとドイツ軍の砲撃によりさらに激しく破壊され、終戦後に修復された。

現在、二つの鉄道橋ともにスイス・バーセル〜産業都市ミュールーズ〜サングオ地方の中心アルトキルシェ〜要塞都市ベルフォール〜首都パリ東駅を結ぶ、フランス国鉄SNCFの重要な現役橋梁として鉄道輸送の役割を果たしている。なお、ダンヌマリー駅は高速列車TGVは停車せず、ミュールーズ〜ベルフォールを結ぶ青色とグレーの「芋虫」に似たローカル列車TERのみ利用できる。

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ダンヌマリー近郊の文化遺産/マンシュパッハ地区
ダンマリー市街〜南西1.5km、ラルギュ川の西側脇に人口550人のマンシュパッハ村 Manspach がある。マンシュパッハはダンマリー市街〜デルへの連絡道路や南東の歴史の街フェレット(上述)へ向かう街道の通過点であることから、中世の時代から宿場町として栄えてきた場所でもある。
このため地区の中心にある聖レジェ教会堂の周囲や街道筋には、現在でも半切妻屋根に張出ドーマー(出窓・明り採り・通風)を施工した伝統的なコロンバージュ様式の大型の邸宅や農家などが点在している。

なお、1867年創建、北側入口上部に時計台を兼ねるゴシック様式の鐘楼を備えたマンシュパッハの聖レジェ教会堂は、2010年、身廊の屋根にスレート瓦形容に製作された特注の太陽光発電パネルを施工したことでも知られている。

レストランもカフェテリアもない小村マンシュパッハの、デルへ向かう道路に面する一軒の農家の納屋には、かつて菜種(アブラナ)などの種子から植物油を搾った、ロバ駆動の石臼回転装置が保存されている。
この石臼回転装置は18世紀起源とされ、支柱につながれたロバの単純周回を駆動力として、天井の円盤歯車から回転軸を経由した回転力が、まったく同構造の隣りの円盤歯車装置に伝動され、ロバの周回と同じ速度で支柱が回転、装着された石臼の周回&自転で菜種やヒマワリの種子から、時にはクルミや大豆、大麻などの植物油を搾っていた(下描画)。

複雑な装置なのでエネルギーの損失が相当に大きいと想定できるが、機能面ではスペイン・ラ・マンチャ地方に残された風力活用の風車と同じ(下描画)、機械工学の「フェースギア装置」の原理と言える。ただし、回転と伝動装置は木製である。
ロバがつながれた支柱の回転で直接的に石臼を回転させる方が構造的にも簡単で有効だが、そうしない理由は粉砕前の菜種など種子をロバが食してしまうことや衛生面から、あえて複雑な装置となるが、ロバ駆動部屋と作業区画とを壁で仕切り、ほぼ同じ歯車装置を二つ設備していたと推測できる。

東フランス・ロバ駆動・石臼回転装置 Oil Mill-Moulin/(C)legend ej

              スペイン風車&石臼駆動システム Windmill Driving System/(C)legend ej
               スペイン・ラ・マンチャ地方の「風車回転⇒石臼駆動」のシステム
               描画=Web管理者 legend ej
               スペインの乾いた風・コンスエグラとカンポ・デ・クリプターナの風車の丘

また、アルザス・ワイン街道の「北部」、「フランスの最も美しい村」のミッテルベルガイム(下描画)には、やはり馬駆動の石臼回転装置を使って菜種油などを搾っていた作業所があり、村の小規模な「博物館」的な施設に古い大型石臼が展示されている。

アルザス・ワイン街道・ミッテルベルガイム村 Mittelbergheim, Alsace/(C)legend ej
      南方の平原から「フランスの最も美しい村」・ミッテルベルガイム村を遠望する/アルザス・ワイン街道
      赤茶色鐘楼=カトリック教会堂/白色鐘楼=プロテスタント派教会堂
      描画=Web管理者legend ej
      アルザス・ワイン街道オベルネ周辺/ロスアイム旧市街〜「フランスの最も美しい村」ミッテルベルガイム

             「アルザス・ワイン街道」地図(ライン下流)/(C)legend ej
                 アルザス・ワイン街道(ライン下流県)/作図=legend-ej

             「アルザス・ワイン街道」地図(ライン上流)/(C)legend ej
          アルザス・ワイン街道(ライン上流県)&「鯉フライ街道」/作図=legend-ej

アルザス地方の典型的な小さな村、コロンバージュ様式の家々が密集する「フランスの最も美しい村」 ユナヴィール村の教会堂/ブドウ畑が「黄金色」に染まる秋の風景(下描画)。
「アルザス・ワイン街道」コルマール&リボーヴィレ〜ユナヴィール〜リクヴィールなど

アルザス・ワイン街道・ユナヴィール村・教会堂 Eglise de Hunawihr, Alsace/(C)legend ej
        アルザス・ワイン街道・ユナヴィール村/秋 聖ヤコブ教会堂の周辺 黄金色に染まるブドウ畑
        アルザス地方/描画=Web管理者legend ej

Ref.
Webページ・「アルザス・ワイン街道」は「北部」〜「中部」〜「南部」の三部構成となっています;
「アルザス・ワイン街道」(北部)オベルネ周辺/城塞都市ロスアイム、聖オディール伝説のモン・サントディール修道院、美村ミッテルベルカイム、バロック装飾の聖モーリス教会堂など:
「アルザス・ワイン街道」(北部)オベルネ周辺/コロンバージュ様式の美しい村々
「アルザス・ワイン街道」(中部)コルマール周辺/リボーヴィレ、フランスの最も美しい村(ユナヴィール・リクヴィール・エグイスハイム)、テュルクアイム、世界遺産ヴォーバン要塞など:
「アルザス・ワイン街道」(中部)コルマール周辺/コロンバージュ様式の美しい村々
「アルザス・ワイン街道」(南部)ロウファッハやタン周辺/ヴォージェ山地グラン・バロン山〜第一次大戦激戦地ハルトマンズヴィラーコフ、ヴィッテルスハイム・カリウム鉱山など:
 「アルザス・ワイン街道」(南部)ロウファッハ〜タン周辺/コロンバージュ様式の美しい村々

また、「アルザス・ワイン街道」とは別に「南部アルザス地方」〜「スイス国境地方」の村々の情報は;
南部アルザス地方・ダンヌマリー、アルトキルシェ、「鯉フライ街道」と「コロンバージュ街道」、フェレット城砦、レイメン、ランドスクロン城砦、スイス・マリアシュテイン修道院など:
「南部アルザス・サングオ地方/フェレット城砦&ダンヌマリー/「鯉フライ街道」とスイス国境地帯の村々(このページ)

アルザス・ワイン街道 Alsace/(C)legend ej
             アルザス・ワイン街道(北部)イッタースヴィラー村/キレイな花を飾る家

アルザス・ワイン街道・アンドー Andlau, Alsace/(C)legend ej
       アルザス・ワイン街道 「花咲く美しい村」 アンドー村/描画=Web管理者legend ej
       秋の頃 黄金色に染まるワイン用ブドウ畑に囲まれた聖アンドー礼拝堂とブドウ栽培の農家

アルザス・ワイン街道 V       アルザス・ワイン街道 
          アルザス地方の農道・地方道で見かける標識
          標識のある農道・地方道は「アルザス・ワイン街道」



 アルザス地方の村々や町の端にある標識
 標識のある自治体は「アルザス・ワイン街道」のブドウ栽培とワイン造りの村々と町

小さな村の「夏祭り」 エルバッハ Elbach

位置: ダンヌマリー⇒西北西3km/ベルフォール⇒東方16km
人口: 250人/標高: 320m

「フランス 花咲く町と村」: http://www.villes-et-villages-fleuris.com/

エルバッハ村
ダンヌマリーから「ローヌ・ライン運河」に沿って西方へ3km、そして、北方へ500mほどわずかに逸れる地方道D26-1号沿いに民家が点在するエルバッハは、かつて古代ローマ街道が通り、城砦化された遺跡も確認されている歴史的な地区だが、現在、人口250人、詳細地図でなければ村名が記載されていない、忘れられたような本当に小さな村である。

笑顔の女将が経営する農家民宿・「Une Historie d'Eau(宿泊13人)」と夏にシーズン営業する民宿・「Le Gite du Schlossberg(宿泊8人)」、1770年創建のゴシック様式の聖ペトロ&パウロ(ピエール&ポール)礼拝堂、電子部品とガラス加工の小企業が稼動、淡水魚・鯉(コイ)の養殖、牛の育成と農業の村である。村の西側に建ち、かつて聖パウロの銅像が盗難されたという(現在=複製)、朱色の屋根と白壁が印象的な礼拝堂には18世紀の木製の聖ペトロ像が安置されている。

春にはサクランボの淡いピンクの花に埋もれ、そして、毎年、夏7月下旬のある日の夕方〜夜、村を挙げての「夏祭り」が開催される。村の中心の芝生の空き地に大型テントが張られテーブルと長椅子が並べられ、ワインやビールの販売とソーセージ焼きの店がオープン、簡易舞台の生バンド演奏に合わせて村人だけでなく、結構遠方からやって来た「祭り大好き」のアルザス人達の遠慮の無い地元ダンスが途切れなく披露される。

2014年7月、「夏祭り」の夕方、村を訪ねた時は、ヴァイオリンとバグパイプの名手を含めたケルト音楽を得意とするミュールーズからの4人構成のバンド演奏に、「夏祭り」を企画したスコットランド衣装の若い村長(楽器演奏も得意)も踊り捲くっていた。遠方の親戚や友人も大勢やって来るたった一晩だけの恒例の「夏祭り」、老いも若きも子供達も村の人達全員が集まり、汗をかかない快適な夏の夜、飲んで歌って会話して英気を養うのである。

伝統と信仰心を重んじた埼玉県の北西部の田舎で育った私には、ちょっと「田舎くさい」と言うのは失礼だが、大都市パリなどにはないエルバッハの「夏祭り」のような「土の香り」がプンプンする村の祭りは、何とも魅力的である。アルザスの人々はアルザス・ワイン街道の白ワインと祭りが大好きである。

サングオ地方/中心都市アルトキルシェ Altkirch

位置: ミュールーズ⇒南西15km
人口: 5,800人/標高310m

「フランス 花咲く町と村」: http://www.villes-et-villages-fleuris.com/

サングオ地方の中心アルトキルシェ
南部アルザス地方の中心都市はミュールーズの南西15km、人口5,800人のアルトキルシェ Altkirch である。国鉄SNCF駅の南側に南方から突き出した標高310mの尾根上に発達したアルトキルシェの旧市街は、南北に細長い城壁に囲まれた街であった。街が最初に記述されるのは、1105年、旧市街の丘から東方1km、現在の「アルトキルシェ病院」の敷地内に残されているが、フェレット伯フレデリクT世が建立したクリュニー修族(クリュニー会)系譜の聖モラン修道院の存在である。
16世紀の「農民戦争」で被害を受けた後、17世紀にイエズス会に譲渡された修道院は、現在、フランスの「歴史的建造物」の指定を受けている。

そのほか、旧市街には正面中央に高いゴシック様式の鐘楼を構える聖母教会堂、市街の中心となっている共和国広場の東側に構える切妻屋根の堂々たる市庁舎、四階建ての建物の1階をくり貫いた形容の丘の西側へ出る石積みの市街門などもフランスの「歴史的建造物」に指定されている。

個人的な感想だが、南北に細長い尾根上に発達した旧市街は、スペースなど地形的な条件に制約されるため坂道と狭い通りが特徴で、歴史的な建物が軒を連ねる古い街ではあるが、何かゴミゴミとした感じを受けなくもない。
今日のアルトキルシェは、城壁に囲まれていた旧市街から南方へ延びる尾根と麓のエリアに新市街が展開され、高速列車TGVも停車する国鉄駅の北側には、スイスに本部を置く世界最大級のセメント企業(HOLCIM 社)の露天掘り鉱山とセメント生産工場を初め、中規模の化学メーカーなどの進出で産業都市の様相を呈している。

サングオ地方/「鯉フライ街道」/「コロンバージュ街道」の風情を残す村々

位置: ミュールーズ⇒南方〜南西一帯の小さな町と村々
標高: 300m〜600mの丘陵地帯

「フランス 花咲く町と村」: http://www.villes-et-villages-fleuris.com/

サングオ地方の地形と「鯉フライ街道」
産業都市ミュールーズの南方〜南西の方角、ベルフォールの東方、さらにスイスとの国境に挟まれたサングオ地方 Sundgau は、北方に1,000m級のヴォージェ山地の山々が展開、南方には屏風のように立ち塞がる500m〜1,000m級のスイス・ジュラ山脈、その間に広がる区域である。アルザス平野よりわずかに標高が高いが、サングオ地方には「高山」と呼べる山はなく、形容の穏やかな森林の低山と草原、農耕地が波打つように展開する標高300m〜600mの範囲の、言わば見た目にも優しい「丘陵地帯」である。

サングオ地方には大きく5か所を数える標高400mに満たない森林の「丘陵の帯」が、2km〜5kmほどの幅を置き北西〜南東方向へ長く延びている。秋の紅葉が見事な広葉樹で占められたそれらの丘陵と隣の丘陵の間には、ほとんど流速のない川が蛇行しながら流れ、後述のフェレット周辺を除き、流域一帯には露岩は見られず、広葉樹林が生み出す腐葉土で構成されている。

冬季、大西洋からの幾分湿った西風がスイス・ジュラ山脈へ運ばれる際、寒さが厳しいサングオ地方では雨ではなく数cm〜20cmの粉雪に覆われる。春に雪解けした豊富な水は、標高差のない蛇行する狭い川幅のラルギュ川 Largue やフェルトバッハ川 Feldbach、イル川 La Ill やタールバッハ川 Thalbach と支流の小川へ流れ込み、さらに平地の河畔と流域にできた500か所以上、数珠のように連続する無数の「小さな池」の水量を保持する役目を果す。

サングオ地方・鯉フライ料理/(C)legend ej サングオ地方では腐葉土がもたらす栄養豊かな雪解け
 水を溜めた池を利用して、淡水魚・コイ(鯉)の養殖
 が伝統的に盛んに行われてきた。
 「肉の国・フランス」にあって、淡水魚の料理もバラエティ
 に富むが鯉を使った最も人気のある料理は、何をさて
 置いてもフライに揚げた鯉の切り身、「鯉フライ」である。
 その「鯉フライ」をメニューにしている地元レストランの点
 在をして、人々は「鯉フライ街道」と呼んでいる。

 南部アルザス地方の名物料理・「鯉フライ」
 サングオ地方・フェレット・地元レストラン

「鯉フライ街道」の区域は、おおよそ上述地図の「赤点線・・・・・」で囲まれたエリアである。アウトラインで言えば、鉄道橋のある上述ダンヌマリー付近から「ローヌ・ライン運河」に沿って北東のミュールーズ方角へ約12kmのイルヒュート Illfurth、右折してタールバッハ川を遡り南東20kmのフォルジャンスプール Folgensbourg 〜南西11kmのフェレット Ferrette 、さらに南西6kmのリーブスドルフ Liebsdorf 〜ラルギュ川に沿って北方(下流)へ向かいフリーゼン Friesen 〜さらに北方のマンシュパッハ(上述)〜そして再びダンヌマリーへ戻る範囲である。

「鯉フライ街道」は中心都市アルトキルシェを含め、サングオ地方のほぼ「中央丘陵部」を占めている。例えばアルトキルシェ周辺では、市内とカルスパッハ村 Carspach など合計3軒、ダンヌマリーではSNCF駅前・「Restaurant Ritter、運河沿いのイルヒュート周辺では3軒、歴史の町フェレットでは「Restaurant Colin」など2軒、さらにラルギュ河畔フリーゼン村では「Restauranto de la Carp」など2軒、東方のバーゼル下流のライン河畔の2軒も含め、合計24軒の老舗レストランが連盟を組み、伝統的な鯉料理などをメインディッシュとするWebサイト・「鯉フライ街道 Les Routes de la Carpe Frite」を立ち上げている。

「サングオ鯉フライ街道 Les Routes de la Carpe Frite」(主なレストランは上述地図・赤点線囲み)

当然、「鯉フライ街道」のエリアに点在するほかのすべての町と村々には、Webサイト・「鯉フライ街道 Les Routes de la Carpe Frite」に加盟していない伝統的な地元レストランが無数にある。それぞれのレストランやホテルが競うように「鯉フライ」だけでなく、鯉のスープ煮込みやグリルなど多種多彩、さらに「肉の国」なので伝統的な牛・豚などの肉料理、ウサギやシカ肉やカモ料理、新鮮サラダなどをサーブしている。

ただし、このエリアでは飲み物はアルザス特級ワイン・グラン・クリュが推奨され、どのレストランでも自慢ディッシュは何をさて置いても「鯉フライ」に尽きるだろう。また、コルマールの旅行会社は「鯉フライ街道・バスツアー」を企画、中部アルザス地方の「ワインの試飲ツアー」などと並び、サングオ地方は年間を通じてハイキングや「中世シャトー巡り」と共にグルメ分野でも人気が高いエリアである。

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「コロンバージュ街道」/街道筋の美しい家並み
サングオ地方の中心都市アルトキルシェから南東方角、スイスとの国境線に位置する小さな村レメン(ライメン Leymen) へ向かって止まったような緩やかな流速で小刻みに蛇行するイル川 La Ill に沿い、地方道D9-Bis号がほぼ直線的に延びている(上述地図)。

アルトキルシェから南東13kmほどのグレンツィゲン村 Grentzingen 〜オーバードルフ村 Oberdorf 〜ヴァルディゴフェン村 Waldighofen まで、この間約2.5km、一本しかない中世からの街道筋の両脇には朱色の屋根、コロンバージュ様式の凝った造りの大型の家屋が連続している。
柱や梁がむき出しになっている壁面は赤錆色や枯れ草色、淡い青色や黄色などカラフルで個性的、私流に言ってしまえば、さながら「コロンバージュ街道」と呼べる情緒溢れる風景だ。

多くは伝統ある農家と思われることから、昔から穀物の乾燥スペースなどの広い庭を併設、こちらの家屋と隣家の建物とが丁度良い距離を保ち、アルザス地方中部のコルマール旧市街などに見られるコロンバージュ様式の住宅がびっしりと建ち並ぶ光景とは少々異なり余裕の空間には立樹が植えられたり花壇があったり、何か落ち着いて眺めていられる優しい風情が漂う。

2014年の夏、たまたま停止して写真を撮った際、古風な住宅の所有者が庭先の花壇の手入れをしていたので立ち話をしたら、30代後半のサラリーマンのご主人は、この街道筋が気に入り、数年前に二階建て農家の空き家を購入、妻と二人だけで外装の修復と内部の改築を行い、ようやく満足できる状態となったと回想を語り、さらに数年かけて大型の納屋の改装をプランしているとか。

アルザス地方では、このご主人のようにサラリーマンや公務員が古い造りの農家や廃屋などを購入して、週末と夏期休暇などを使い、外観に伝統を残しながらも一部でモダン様式も取り入れ、10年くらいの期間で自分流に修復を行う人がたくさん居る。何でも金銭で購入してしまう日本と異なり、スケールが大きな「趣味」と言うか、時間と手間をかける人生の取り組みと方法論の差異を感じる。

Ref.
「鯉フライ」の調理法の例
上写真の「鯉フライ」はツーリストに人気ある歴史の村フェレット旧市街の Rue Lehmann 通り3番地の「レストラン白馬 Restaurant Cheval Balanc」でオーダーした料理(3人前)である。このレストランではこのボリュームを食べ切ると、無料で「鯉フライ」が追加サーブされる(2014年・夏)。お好みでホワイトソースもあるが、アルザス特級ワイン・グラン・クリュのグラスを傾け、レモンと塩だけの味付けでカラリと揚がった淡白で美味な「鯉フライ」は幾らでも胃の中へ吸収された。

食事の後、「日本からはるばるやって来たツーリスト」として、オーナーシェフにお願いして厨房を覗かせて戴いたが、新鮮な鯉の切り身に荒いセモリナ粉をまぶし冷蔵庫で寝かした後、高温220℃の油で3分間揚げるだけ。一言で「鯉フライ」の調理法と言っても、各レストランで調理手順も盛り付けも異なるはずだが、「レストラン白馬」では絶品の味なのに「企業秘密」の調理法が非常にシンプルなのには驚かされた。


サングオ地方の「鯉フライ」の伝承/リーベンシュテイン城砦 Chateau de Liebenstein
かつて、中世の時代、この地方を治めた名門貴族フェレット伯家の息子が、リーブスドルフ村 Liebsdorf を歩いていた時、美しい羊飼いの娘に出会ったという。息子は一目で娘に恋をしてしまったが、内気な彼は愛の告白ができず、休憩に使う置石に愛の詩を刻み、熱い恋心を伝えたとされる。
父フェレット伯は息子と羊飼い娘の結婚を認めることができず、息子との結婚に値する偉業を問うと、娘は「黄金色の魚」を差し出した。さらに娘が自身で釣った鯉を調理、褐色の油で揚げた「鯉フライ」をサーブした所、父伯はたいそう喜び二人の結婚を承諾したとされる。そうして「鯉フライ」は東フランス〜スイスに知れ渡るサングオ地方の「名物料理」となった。
その後、フェレット伯は二人の愛が刻まれた置石の場所にシャトーを建てた。今日、フェレット城砦の建つフェレット旧市街から南西へ6kmほど、リーブスドルフ村の南方800mの丘に「シャトー・リーベンシュテイン城砦 Chateau de Liebenstein」の廃墟(後述)が残されている。なお、現在のフェレット自治体の紋章には、伝承の村娘がフェレット伯へ差し出した「黄金色の魚」が二匹デザインされている。


ヨーロッパ内陸部の「鯉の養殖」
淡水魚であるコイ(鯉)の養殖はヨーロッパ、特に海のない内陸の国々で盛んに行われている。私の狭い経験論では、ハンガリー南部の中世都市セゲド周辺〜旧ユーゴスラヴィア・セルビア北部、チェコ共和国の南ボヘミア地方の世界遺産ホラショヴィツェ村や優美なフルボカー城の町などでも養殖が行われ、伝統レストランでは地方毎の美味しい淡水魚料理がサーブされる。

また、ハンガリー大平原のセゲド周辺では「ヨーロッパ・ナマズ」の養殖も盛んで、地方色豊かな食材を使ったハンガリー料理である濃厚スープ・「ハーラスレー Halaszle漁師のスープ」にはナマズや鯉が使われる。私は1980年代に長期滞在した中世都市セゲドで何度も経験したが、白ワインと赤パプリカを多用するこのスープ料理も絶品の味である。

                フルボカー城/(C)legend ej
         「チェコ共和国で最も美しい城」とされるフルボカー城・城門/南ボヘミア地方
         世界遺産/ホラショヴィツェ村の民俗バロック建築&美しいテルチ旧市街/フルボカー城

リーベンシュテイン城砦 Chateau de Libenstein/モリモン城砦 Chateau de Morimont

リーブスドルフ村 Liebsdorf :
位置: フェレット⇒南西6km/スイス国境まで南方5.5km
人口: 340人/標高: 470m

リーブスドルフ村/「鯉フライ」の伝承リーベンシュテイン城砦 Chateau de Liebenstein
上述の「鯉フライ」の伝承に語られるフェレット伯が造営したとされる城砦は、フェレット城砦の建つ旧市街から南西へ6km、小村リーブスドルフ Liebsdorf の南方800m、標高530mの丘で廃墟となった「シャトー・リーベンシュテイン城砦 Chateau de Liebenstein」とされる。周囲は草原と農耕地、標高差30mほどの城砦の残る岩の丘には、ローマ時代には「バーゼル=ブザンソン道路/現在=地方道D473号」を見張る小砦があったとされる。

リーブスドルフは過去の戦争で破壊された村だが、農家などコロンバージュ様式の大型建物もかなりの数で残り、周囲に広がる穏やかな高原の田園風景に溶け込む静かな雰囲気をかもし出している。人口340人の小村にはサングオ地方からジュラ山脈を越えてスイスへ連絡する地方道D473号が通り、村の中心に石積みゴシック様式の教会堂が建ち、その広場脇には「鯉フライ街道」に登録されたベージュ色の壁面に特徴ある「ホテル・レストラン Au Soleli」が営業をしている。

村の南方のリーベンシュテイン城砦の史実はあまり詳細に分かっていないが、1234年に暗殺されるフェレット伯フレデリクU世の時代の1218年に初めて記述され、その後1243年には現在の村の名称に近似する「Liebesdurf」として記述されている。この時代に城砦が建造されたとすれば、「鯉フライ」の伝承に出てくるフェレット伯とはフレデリクU世を意味して、その息子とはウルリヒU世と仮定できる。ただし史実では、二度結婚をしたウルリヒU世の妻はいずれも貴族階級の高貴な女性(二人とも未亡人)であったが・・・

当時、若いウルリヒU世はバーゼル司教の強い干渉を受けていた時期、13世紀の城砦には紛争の相手であった司教に関係深い「騎士バークハート Burkhart」と呼ばれる領主が居住した、とも言われている。その後、14世紀の1324年、ウルリヒV世の長女ジョアンナが公アルベルトU世へ嫁いて行くことで、フェレット城砦と同様にリーベンシュテイン城砦もオーストリア公国の廷吏による管理となる。

リーベンシュテイン城砦は17世紀の戦争で破壊され、さらに18世紀以降に元々「台形」の形容であった石積みの城壁や堅固な建物などがほとんど解体され、現在、上部が崩壊した円筒形の石積み塔と建物壁面の一部が遺構されている。城砦の直ぐ麓には大型の農家が居住している。

また、フェレット伯フレデリクU世統治のアルザス地方はドイツ・神聖ローマ帝国領の時代、ドイツ語「liebe=愛」、「dorf=村」であり、リーブスドルフ Liebsdorf/Liebesdurf は”愛の村”と言う、「鯉フライ」の伝承通りの素晴らしい意味を含んでいる。

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モリモン城砦 Chateau de Morimond
リーベンシュテイン城砦から南西3kmのルベンクール村 Levoncourt の東方1km付近、スイスとの国境線まで約1km、標高520mの広葉樹の丘にこの地域では珍しい石灰岩の切石積みと石膏を使った非常に強固で複雑な構造の「シャトー・モリモン城砦 Chateau de Morimont」の廃墟が残されている。現在、モリモン城砦はフランスの「歴史的建造物」に指定されている。

当初、城砦は1183年に小砦としてスタートしていたとされ、フェレット伯家の家臣であり、1324年のジョアンナの結婚以降はオーストリア公の家臣となったモリモン家が居住した。その後、断絶となったアルザス地方エグイスハイム伯家の継承問題でダンヌマリーの町が破壊されたのと同様に、1227年、フェレット伯フレデリクU世へ圧力を掛けるストラスブール司教の兵隊が、モリモン城砦を攻撃し破壊したが半世紀後にフェレット伯ウルリヒU世が城砦の再建を行い、1271年、バーゼル司教へ寄進したとされる。

1356年10月18日、犠牲者1,000人、バーゼル南方10km付近を震源とするM6.2〜M7.1に相当する「バーゼル大地震」が発生、城砦は相当部分が崩落したが、すぐさま再建された。しかし、続く15世紀のスイスとの戦争で再び破壊された。15世紀〜16世紀、7か所の円形砲台も含め、頑強な軍事要塞を目指す「台形」の形容で大規模に修復されたが、16世紀末期に城砦はオルテンブルグ・サラマンカ伯へ売却された。

「三十年戦争」が始まり、1632年にフランス王国支持のスウェーデン軍が駐屯、続いて1637年のフランス王国軍の攻撃で破壊され尽くされ、その後にモリモン城砦が再建されることはなかった。
以降、円形の稜堡や高い塔を含め、東西約80m 南北約55mの規模を誇った城砦は良質な建築石材の「供給場所」となり、破壊にさらに拍車がかかった。

なお、現在、城砦の東方450mほど、城砦へのアクセス道路入口で四階建ての方形の塔のような形容の「ホテル Le Morimont」が営業をしている。城砦の西側低地に小さな池が二つあり、スイスとの国境線まで南方約1km地点、ホテルの周辺は草原と広葉樹の丘陵が波打つのどかな風景が展開、地元ハイカーに人気のあるアウトドアースポットとなっている。

Ref.
14世紀・「バーゼル大地震」
1356年10月18日、犠牲者1,000人を出したバーゼル南方10km付近を震源とするM6.2〜M7.1に相当する「バーゼル大地震」では震源地のスイス北西部を初め、ジュラ山系地方〜南部アルザス・サングオ地方の広い範囲、各地のシャトー城館・城砦など30か所で完全崩壊、または部分被害を被った。
城砦の基礎部が岩盤上にあったランズクロン城砦(後述)は部分被害であったが、モリモン城砦は相当部分が崩壊、さらにランズクロン城砦の西南西1,300m付近、地元で「タンネンヴァルド(モミの森)」と呼ばれる標高490mの張り出し尾根に、12世紀にヴァルデック家が創建したヴァルデック城砦 Chateau de Waldeck は完全に崩落(現在=石積み基礎部わずかに残存)してしまう。

草原と丘陵に囲まれた村レメン(ライメン) Leymen

位置: フェレット⇒東方13km/バーゼル⇒南西10km
人口: 1,200人/標高: 350m

レメンの戦争の歴史
村の中心からスイスとの国境線まで東方へわずか1.5kmの距離、正に国境に位置するレメン(ライメン)が歴史の中で初めて登場するのは、8世紀、ヴォージェ山地のムルバッハ修道院の記述である。その後、13世紀にはバーゼル司教とサングオ地方を治めたフェレット伯家との関わりが続くが、15世紀にはドイツ・「黒い森地方」〜スイス西部を統治した有力王国ライシェンシュテイン家 Reichensterin がレメン(ライメン)地域を統治した。

17世紀に入ると「三十年戦争」が始まり、多くのアルザス地方とサングオ地方の町や村々と同様に、1637年、フランス王国支持の好戦的なスウェーデン軍の襲撃を受けて、レメン(ライメン)は徹底的に破壊された。1663年、レイメンはフランス王国ルイXW世の支配下に入る。

「フランス革命」では、革命を支持した村人の一部が犠牲となり、幾らかの家族は村を去りスイスへ亡命をしている。「ナポレオン戦争」の余波は少なく済んだが、「第一次大戦」ではレメン(ライメン)はアルザス地方から分離された。
戦争中、ドイツ軍が村を囲むように、レメン(ライメン)の南西2,5kmローダースドルフ Rodersdorf 〜北方600mの標高450mエイチワルドの丘 Eichwald 〜北東3.5kmベンケン村 Benken 村を結ぶ長距離の高圧電流柵を敷設した。約170人の村人がこの電流柵に接触して、30人が命を落としている。
「第二次大戦」ではフランスの「マジノ防衛線」に位置していたレメン(ライメン)はナチス・ドイツ軍に占領され、多くの村人がスイスへ亡命、幾らかの人は強制収容所へ送られた。レメン(ライメン)が解放されるのは1944年11月になってからであった。


小奇麗な村レメン
戦争による破壊が激しく、現在のレメンの村の中にはフランスの「歴史的建造物」に指定されている建物など、後述の「シャトー・ランズクロン城砦」のほかはない。ただし、スイスとの国境線までたった東方1.5kmと言う特異な条件から、精密機械や薬品や電子産業など、報酬の高いスイス企業への就職者が多く、村は越境勤務サラリーマンの建てた別荘のような高級邸宅風の住宅が並ぶ。

統計では、南部アルザス・サングオ地方はフランス国内で最も失業率が低く(2%前後)、首都パリを除き最も平均所得が高い地域となっている理由が、スイスへの越境就職と高額収入がもたらす結果と言える。
周囲に波打つ草原と広葉樹の丘陵が展開する豊かな自然環境の豊かなレメンは、スイス・バーゼル市街地からの越境の「トラム路線10番」が運行されている。このトラム路線の終点は、レメンの南西2.5kmのスイス領ローダースドルフ村、国境線が複雑に入り組むエリアを走る路線で唯一レメン駅がフランス領となる。

シャトー・ランズクロン城砦 Chateau de Landskron

位置: レメン⇒南側の丘/標高:540m(レメンからの標高差90m)

ランズクロン城砦の丘
レメン(ライメン)の直ぐ南側に東西800mの細長い広葉樹の丘が横たわっている。丘は標高540m、レメン(ライメン)村からの標高差は約90m、馬の背のような形容の丘である。「シャトー・ランズクロン城砦 Chateau de Landskron」は、この丘の丁度中央の頂点付近に残されている。
レメン(ライメン)の市街地からトラム線路を渡り南方へ、そして丘の西端麓からわずかな登り道(ランズクロン通り Rue du Landskron)を反時計回りに南東へ1.2km進むと小規模のパーキング場(標高480m)となる。車利用のツーリストはここで下車する。
このパーキング場から城砦の「天守閣」と呼ばれる高い塔が目視できるので、徒歩で10軒ほどの農家の点在するアネックス・タンネンヴァルド地区 Annexe Tannenwald を通過して、北方の丘を目指し広葉樹の林道を緩やかに約300m登れば、ランズクロン城砦の広場と城門(下描画)へ至る。


ランズクロン城砦の歴史
ランズクロン城砦は標高540m、丘の頂上付近の露岩を巧みに活用した基礎部を持つどっしりとしたシャトーの遺構で、円筒形の塔と稜堡と城壁を含めた敷地の平面視野は丁度六角形に近い形容である。
ランズクロン城砦の建つ高い丘の有利性に注目したバーゼル・レイン家が、13世紀、丘の麓に小規模な「シャトー・レイネック城砦 Chatea de Rheineck」を創建したとされる。
その後、1297年、バーゼル地域の騎士家系ヴィスタム家 Viztum が、麓のレイネック城砦より上方、丘の頂点付近に現在の城砦の基礎となる「シャトー・ランズクロン城砦 Chateau de Landskron」を造営、ジュラ山系の領土管理と引き換えに、時のサングオ地方の領主であったフェレット伯ティエボーT世(シオボールドT世)へ城砦を寄進した。

この政治的な取引に対して、バーゼル周辺の封建領主ロイテルン家 Rotteln は不服を主張、フェレット伯ティエボーT世(シオボールドT世)が、一時、ロイテルン家により拘束される事件さえも起こった。その後、両家の和解が成立、ランズクロン城砦はフェレット伯家とロイテルン家の共同管理という複雑な所有権の時期が生まれる。
その後もランズクロン城砦の所有と管理を巡り領主は次々と替わり、1313年にはライン川東岸・バーデンバーデンなどを治めたホーフベルグ家 Hochberg が、さらにフェレット伯ウルリヒV世が男系継承者のないまま亡くなり、1324年、長女ジョアンナがオーストリア公家に嫁いだことから、以降、フェレット城砦やランズクロン城砦などはハプスブルグ家の領有となる。そして、その30年後、1356年10月に「バーゼル大地震」が発生、上述のモリモン城砦が大きな被害を被ったように、ランズクロン城砦も部分崩壊を起こした。

「バーゼル大地震」の後、崩落部分の修復と防衛施設の強化が行われ、その後、15世紀の半ばになると、ドイツ・「黒い森地方」〜スイス西部を統治した有力王国ライシェンシュテイン家 Reichensterin が、城砦の麓の村レメン(ライメン)も含め、ランズクロン城砦の所有権を獲得して、その管理をライン川東岸・バーデン・バーデン辺境伯に委ね、城砦の拡張工事が行われた。

そうして、1466年にはアルザス地方・「十都市同盟」のミュールーズの地方貴族と市民が、強力なベルンとゾロトゥルン Solothunn のスイス都市連合と軍事同盟を結び、オーストリア・ハプスブルグ家系の領主貴族との戦い、「6デニール戦争」が始まる。
この戦争では帝国貴族支配からの脱却を企てるミュールーズを支援した、「十都市同盟」のコルマール近郊テュルクアイムとケゼルスベール とムンステなどの民兵(ドイツ: 合計6都市=6羽のオウム戦争)が組織され参戦した。「6デニール戦争」では、ランズクロン城砦はスイス・ゾロトゥルン派の兵隊に一時的に占拠されたが、翌年にはハプスブルグ家が所有権を確保した。

1504年以降、「三十年戦争」が終結する1648年まで、ランズクロン城砦は基本的にバーデン・バーデン辺境伯とハプスブルグ家の共同管理が行われた。1504年、城砦はルネッサンス様式へ改修される。しかし、所有者であるハプスブルグ家と辺境伯との見解の不一致を反映したか、それとも地政学上の城砦の重要性に満場一致した構想の結果なのか、防衛施設など随所に過剰強化された区画が構築された。

              シャトーランズクロン城砦/描画情報 chateauxfortsalsace.com
           ランズクロン城砦・全景図/描画情報: 「アルザス地方シャトー&城砦」
    http://www.chateauxfortsalsace.com/ より描画引用⇒Web管理者legend ej文字追加

その後、1515年、共同所有者となったライシェンシュテイン家ジョン・ライヒ Jean-J-Reich Reichenstein が神聖ローマ帝国・皇帝マクシミリアンT世に、ランズクロン城砦のさらなる強化を名目にメンテナンス資金を要請した。
特に「天守閣」と呼ばれる岩盤の上にそそり立つ長方形の巨大な塔の壁面の補強、城砦の拡張翼部の工事が行われた(上描画・下描画=高い建物)。

1517年、丘の麓にあった古いレイネック城砦の石材が大量に運び上げられ、ランズクロン城砦の拡張工事に使われた。結果、屋上には砲兵のプラットフォームが完成、城砦は軍事に対応した堅固な「要塞」へ変貌する。その後、1570年、ライヒ・ライシェンシュタインが城砦をバーゼル司教へ譲り渡す計画を提案したが、ハプスブルグ家は猛烈に反論した。

1618年にヨーロッパ列強国を巻き込む宗教戦争である「三十年戦争」が始まり、傭兵からスウェーデン軍の近衛騎兵連隊長を歴任したプロテスタント派のドイツ・ザクセン・ヴァイマール公ベルンハルト Bernhard von Sachsen Wiemar がフランス王国支持に回り、1637年にランズクロン城砦へ猛烈な攻撃を仕掛け、ライシェンシュタイン家へ城砦の明け渡しを迫る圧力を掛けた。

「三十年戦争」の末期、ルイXW世のフランス王国軍はランズクロン城砦のハプスブルグ家の管理区を占拠したが、共同所有者であったバーデン・バーデン辺境伯の管理区は温存される格好となった。
しかし、戦争終結の1648年、「ヴェストファーレン条約」が締結され、神聖ローマ帝国領であったアルザス・ロレーヌ地方がフランス王国領となり、1663年、ルイXW世はライシェンシュタイン家のバーデン・バーデン辺境伯からランズクロン城砦の譲渡を引き出し、城砦は対スイス都市連合への「国境の砦」の役目を果すこととなる。

17世紀、拡大政策を続けるフランス国王ルイXW世は「オランダ侵略戦争」を開始、対抗する神聖ローマ帝国軍がランズクロン城砦を攻撃して来たが、フランス王国軍守備隊は辛うじて守り通した。
その後、さらなる攻撃に備えフランス王国軍の有能指揮官(元帥)であり、要塞建築の専門家であったヴォーバン領主セバスティアン・ル・プレストル(通称=ヴォーバン Sebastien le Prestre de Vauban)は、ランズクロン城砦の強固な要塞化と守備隊増強を提唱する。そうして守備隊は300名の駐屯体勢を整えた。

しかし、ヴォーバンがバーゼルの北方6km、ランズクロン城砦から北東15kmのライン河畔ユナング Huningue に、1679年、五角形の「星型要塞」の建設(現在=幾多の戦争で破壊⇒痕跡なし)を始めたことから、対神聖ローマ帝国軍を意識したランズクロン城砦の軍事的な重要性が薄れ、18世紀の初頭には除隊兵士の小規模駐屯地となり、さらに障害者の収容施設になってしまう。

フランス王国軍の「天才」要塞建設家ヴォーバンに関して; アルザス地方・ヌフ・ブリザック「要塞&都市」を参照
アルザス・ワイン街道コルマール周辺/コロンバージュ様式の村々/世界遺産ヌフ・ブリザックの「要塞&都市」

  アルザス地方・世界遺産ヌフ・ブリザック要塞/(C)legend ej
  ヌフ・ブリザックの「要塞&都市」・「コルマール門」の橋      世界遺産・ヌフ・プリザックの「要塞&都市」
  アルザス地方                            作図情報: Wikipedia⇒文字追加

「フランス革命」の後、革命派は価値ある略奪のターゲットとして貴族の象徴であったランズクロン城砦を破壊した。その後、城砦は政治犯の刑務所や病院としても使われた。19世紀に入り、「ナポレオン戦争」が起こり、その末期、オーストリア軍がランズクロン城砦を守る退役軍人で編成された守備隊を攻撃し占拠した。

その翌年、1814年、撤退するオーストリア軍は大量の火薬を仕掛けて爆発、城砦は一部を残し円形の火薬塔や堅固な大要塞棟や兵舎棟などはすべて焼け落ち、その後に周辺の農民による略奪も行われた。19世紀の半ばになり、バイエルンの司教の嘆願で辛うじて原形として残された、城門と露岩の上に建つ「天守閣」の長方形の高い塔だけになったランズクロン城砦は、バーゼル近郊のライナッハ家 Reinach が購入し、1923年、ランズクロン城砦はフランスの「歴史的建造物」に指定された。

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ランズクロン城砦を訪ねる
パーキング場のアネックス・タンネンヴァルド地区(下写真)〜300mの登り道は、ランズクロン城砦の芝生の城外広場へ至り、ぶ厚い城壁に設けた修道院の施設のようなアーチ型の城門を抜けると、南城壁と城砦翼部に挟まれた空地となる。
城門付近から見上げる石灰岩の露岩の垂直壁の上部にそそり立つ「天守閣 Donjon」と呼ばれる巨大な塔の堂々たる姿は圧倒的で、かつてこの城砦が神聖ローマ帝国の、後にフランス王国の国境線を守る最重要な「要塞化シャトー」であったことを今に伝えている(下描画)。

シャトー・ランズクロン城砦 Chateau de Landskron. Alsace/(C)legend ej
       ランズクロン城砦・城門〜天守閣〜廃墟/右手前の垂直壁面=ヴォーバン増築の稜堡部分
       南部アルザス・サングオ地方/描画=Web管理者legend ej

城砦の主要翼部を成していた大要塞棟やアーチ型入口ポーチ、その周辺の建物の基礎部とぶ厚い崩壊壁面が雑然と残る。直径14mの巨大な円形の火薬塔も三階相当(登れる)から上部と三角屋根は存在しない。
入口ポーチの内部(北側)から事実上の城砦の内部区画となり、「下の中庭」と呼ばれる比較的広い空所がある。城壁を含め、城砦のすべての建物と施設は切石積みの精巧な壁面、縦長の窓部、各所にアーチ型を多用した凝ったデザインであったと想像できる。
が、高い火薬塔のほか、少なくとも中庭の北東端と北側中央部などに存在したはずの4か所の円形塔の痕跡はわずか、三階建てと推測される兵舎棟などの跡形もない。

「下の中庭」の北西側の木製アーチ型ドアーを抜けると「上の中庭」と呼ばれる三角形の空所となる。この中庭には水溜めなどがあり、その南側は大要塞棟だが、アーチ型の窓枠を含め三階相当の厚い壁面が複雑に残されている。天井は崩落して存在しないが、大要塞棟の内部から観光客用のモダンな螺旋(らせん)階段を時計回りに登ると、天守閣と呼ばれるランズクロン城砦で唯一原形で残された長方形の高い塔の内部へ入れる。

「天守閣」の内部、中世のままの乾いた狭い内部階段を登ると、塔の屋上の西端に上がることができる。屋上は西側の半円形の付属部を除き、私の目測だが、東西約13m 南北約17mの平坦な長方形のスペースである。
この場からは360度の展望が開け、晴れていれば、遠く北西へ10km離れたバーゼル市街を初め、標高500m〜1,000m級の丘陵と山々が連なる南方のジュラ山脈、さらに丘の麓のレメン(ライメン)村、東側の足元にはスイス・フリュー Fluh の町などが一望できる。

特に私が感動したのは、城砦の南側、パーキング場と農家の点在するアネックス・タンネンヴァルド地区 Annexe Tannenwald とその遠方のジュラ山系の雄大な風景である(下写真)。

ランズクロン城砦からの眺め/フランス・スイス国境/(C)legend ej
     ランズクロン城砦からの眺め/草原の広がる美しいアネックス・タンネンヴァルド地区
     草原の遠方の「横帯状の森」=フランス・スイス国境線/遠方3km先=スイス・ジュラ山系の丘陵
     南部アルザス・サングオ地方&スイス・ジュラ山系

アネックス・タンネンヴァルド地区から城砦へ登らずに、集落から東方わずか100mでスイスとの国境線となり、500mほど草原を下ればスイス・フリューの町、あるいは集落から徒歩で草原を抜ける緩やかなハイキングルート Rue Annexe Tannenwald を南方へ向かえば、約400mで標高550mの広葉樹の森の国境線(上写真=民家と草原の向こうの幅50mほどの「横帯状の森」)となる。

さらに「横帯状の森」が切れている箇所、白壁の建物が建っているこの国境線〜南方700m、わずかに傾斜する農耕地の先にはアルザス地方とジュラ山系の人々の崇拝する、キリスト教巡礼聖地・「洞窟の慰めのマリア像」のスイス・マリアシュテインの修道院(後述)がある。
小奇麗な村レイメンを初め、上述のリーベンシュティン城砦やモリモン城砦など、国境エリアではフランス側、スイス側を問わず、少し標高のある丘陵地に立てば、アッと驚くほどの雄大な大自然とそれに見事に溶け込んだ民家の点在、波打つ草原、蛇行する広葉樹の並木道など、「絵ハガキ」に匹敵する穏やかで美しい風景に出会える。

「慰めの聖母マリア像」の巡礼聖地マリアシュテイン修道院
Kloster Mariastein/Abbey de Mariastein

位置: ランズクロン城砦⇒南方1.4km/スイス・フリュー村⇒南南西1.2km/バーゼル⇒南西11km
人口: マリアシュテイン地区190人(行政区メッツァーレン・マリアシュテイン村=全体人口920人)/標高: 520m

マリアシュテイン修道院の位置/年間15万人の参拝者
ランズクロン城砦から南方へ約700mでスイス・フランス国境線(幅50mの帯状の森)、さらにわずかに傾斜する広い耕作地の先約700m、マリアシュテイン修道院 Kloster Mariastein 付属教会堂の高い塔(左下写真)が絵のような風景の中に佇んでいる。修道院の建つマリアシュテインは人口190人のスイスの小さな地区だが、現在は行政区として南西2.5kmのメッツァーレン・マリアシュテイン村(地区人口730人)に属している。

修道院の周辺は上述のフランス・ランズクロン城砦から眺めた風景と同じ、農耕地と果樹園、広い草原が波打つ自然豊かなスイス西北部の典型的な丘陵地帯と言え、南背後にはジュラ山系の美しい形容の山々が控える。
慰めの聖母マリア像 Madonna von Trost」で知られたマリアシュテイン修道院は、聖母マリアを奉るスイス国内のキリスト教巡礼聖地としては、中部地方アインジーテルン Einsiedeln の修道院に次いで二番目の規模を誇るとされ、「スイスの重要文化遺産」に指定されている。

中世以来、その信仰と人気は地元スイス・ジュラ山系地方だけでなく、アルザス地方〜サングオ地方〜ドイツ・「黒い森地方」にも知れわたり、現在、マリアシュテイン修道院は年間約15万を数える信仰心ある多くの人々が訪れる、キリスト教関連の有名なスポットとなっている。

マリアシュテインの伝承と歴史
  伝承によれば、14世紀の後半頃、あるいは15世紀の初めか、マリアシュテイン修道院の建つ場所、正確なピンポイント位置で言えば、修道院の回廊の東側に落ち込む垂直の崖の淵でのこと;

--- 崖上を地元の牛飼いの母親と少年(または幼児)が通りかかった。夏の暑い日だったのか、母親は岩陰で休み、ウトウトと居眠りを始めた。この時、母親から少し離れた位置で遊んでいた少年が、誤って岩盤の裂け目に転落、40mほど滑落してしまう。崖を降りて救助に向かった母親が見たものは、奇跡的に無傷のまま平坦な岩の上に居る少年であった。そうして、母親が聞いた少年の説明では、滑落してくる少年を両腕で支えてくれた「美しい女性」の姿を見た、ということであった ---

無傷の少年の奇跡の生還は両親から村人へ伝わり、人々は近くの洞窟に住む聖母マリアの「執り成し」と考え、その後、家族により少年が転落した崖の裂け目のような洞窟付近に石積みの小礼拝堂が建てられた。礼拝堂には、当初、木製の聖母マリア像が奉られていたと想像されている。

その後、1434年、この礼拝堂は「洞窟の礼拝堂」として初めて言及されるが、間もなく1466年に火災が発生し、1470年、バーゼルの司教により奇跡の礼拝堂は再建され、アウグスティヌス修道会の隠者修道士に管理が委ねられた。さらに不思議なことにその70年後の1540年になり、再び同様な少年の崖からの転落事故と無傷での救出が起こった。
翌年1541年、ドイツ・「黒い森地方」〜スイス西部を統治した有力ライシェンシュテイン家の騎士ハンスは、二度も起きた奇跡的な出来事に感動し心癒され、礼拝堂の拡張を行った。
以降、礼拝堂は「ライシェンシュテイン礼拝堂」と呼ばれ、「慰めの聖母マリア像(右下写真)」と呼ばれる聖母マリアと子供(転落した少年、または幼いイエス)の石像が作られ、奇跡に肖ろうとキリスト教聖地巡礼の人々が列を成したとされる。

1622年、ジュラ山系バインヴィール修道院(上記コラム)の再建を願うベネディクト修道会は、アインジーテルン修道院での会議でバインヴィールの地を諦め、替わりにメッツァーレン村や東方ホフシュテッテン村 Folstetten などを含むマリアシュテイン地域の買収プランを採決1636年、ベネディクト修道会のマリアシュテイン居住が初めて実現の運びとなった。
実際のマリアシュテインへの移転と居住は1648年に許可が下り、ベネディクト修道会はゴシック様式の祭壇を備える、壮大なゴシック様式の三廊形式、アーチ形式の5か所のベイ(格間=柱と柱間)の修道院の付属教会堂(左下写真)を建立した。以降、修道院の拡張と繁栄が始まり、信者の数も増加を続け、18世紀には4万人を超えるほどであったと言う。

しかし、18世紀後半、フランス首都パリで「フランス革命」が起こり、1798年、革命軍が修道院を襲撃したことから、修道士は一時的にドイツ・「黒い森地方」への避難を余儀なくされた。その後、スイス国内の政治体制が大きく変わり、カトリック教会と政治機関との「文化闘争」から宗教的な権利の削除が叫ばれ、1875年、マリアシュテイン修道院の修道院長と修道士の追放が行われ、修道院の財産と建物は州の学校建設の資金に転用された。
修道士達はフランス・ベルフォール南方のデル Dell に再建されたベネディクト修道院へ移転して行くが、その直後、20世紀の初頭、フランスの法律改正から、さらにオーストリア・ザルツブルグ司教区のデュルンベルグ Durrnberg への転移を強制された。

20世紀になり、「第二次大戦」の開戦前、洞窟に納められていた「慰めの聖母マリア像(右下写真)」は戴冠、教会堂内部は祭壇や説教壇などが美しいネオ・バロック様式で改装され、壮麗な天井画も完成したが、1939年、「第二次大戦」が始まり、ドイツ軍の修道院の接収が行われた。
そして、「第二次大戦」の終戦後、ゾルトゥルン評議会は法律により修道院の再興を決定、1971年以降、マリアシュテイン修道院への「ノートルダム・ド・ラ・ピエール修道会 Notre Dame de la Pierre」の修道士の帰還と再居住が始まり、2000年までには建物の美しいほどの再建と修復が実行された。

            マリアシュテイン修道院・教会堂/(C)legend ej
         マリアシュテイン修道院・西正面ファサード  洞窟の「慰めの聖母マリア像」/スイス・ジュラ地方

Ref.
フリュー村⇒マリアシュテイン修道院方面ローカル路線バス/周辺の美しい風景
マリアシュテイン地区への玄関口となるフランスとの国境の村スイス・フリュー Fluh へは、上述のレメン(ライメン)と同様にバーゼルから「トラム路線10番」が運行され、駅前から南南西1.2kmのマリアシュテイン修道院まで、1時間に1便程度、「スイス・ポストバス PTT」が運行されている。またフリュー駅から草原ハイキングコースを徒歩30分で修道院へ到達できる。

マリアシュテイン修道院は標高520mの平原に建っているが、修道院の直ぐ東側にフリュー村でビンバッハ川と合流する小川タールTal が流れ、標高差70mの垂直断崖の渓谷を形成している。この渓谷には小川に沿ってフリュー村からマリアシュテイン修道院やメッツァーレン・マリアシュテイン村へ通じるタール通り Tal Strasse が走っている(PTTバス道路)。

「PTT路線バスルート069番」は「フリュー駅前⇒マリアシュテイン修道院⇒南西2,5kmメッツァーレン・マリアシュテイン村⇒村郊外」を結び、さらに「村郊外」で別便乗り換え、またはフリュー駅前から直通便では「村郊外⇒ブルグ・イム・ライメンタール村 Burg im Leimental⇒レストランカフェFelsplatt展望台⇒Challhochi高原折り返し点」を結んでいる。

標高520m、いかにもドイツ的な美しい名称のブルグ・イム・ライメンタール村は、メッツァーレン・マリアシュテイン村の西南西2kmの小さな地区、村の直ぐ南背後の崖上には村の名称となっている「ライメンタール城館」がある。なお、「タール」とはドイツ語で「谷」を意味する。
経験論だが、ライメンタール村の東方1km、標高670mの丘陵尾根のバス道路脇・「レストランカフェFelsplatt展望台」のオープンテーブルから眺めるライメンタール村の小奇麗な民家の点在する光景は素晴らしい。PTT路線バスはレストランカフェ展望台からさらに南方1km、ジュラ山系のハイキング基点の一つになっている、標高760mの広葉樹の「カールホッチ高原 Challhochi 折り返し点」まで運行される。

マリアシュテイン修道院〜メッツァーレン・マリアシュテイン村〜ライメンタール村周辺の平原では、春の頃、草原は草花で覆われ、果樹園のリンゴなどが一斉に花を付け、周りの緑の丘陵と織り成す春の輝きのコラボレーションを提供する。この地方のハイカーは、先ずフランス側ランズクロン城砦(上述写真)からスタートして、草原ハイキングルートで国境線の「幅50mの森」を抜けてマリアシュテイン修道院を訪れ、その南方1.5kmの標高600mの山麓にあるロートベルグ城館(現在ユースホステル)やライメンタール村のライメンタール城館などを回る、「Oneday トレッキング」する人が多い。


ジュラ山系地方のバインヴィール修道院
マリアシュテイン修道院の位置から南東15km、ジュラ山系の標高580m付近、11世紀後半の1085年、地元の貴族階級によりベネディクト修道会系譜のバインヴィール修道院 Kloster Beinwill が創建された。バインヴィール修道院は、13世紀には女子修道院となるが、経済的な問題が浮上するなど運営は徐々に下降傾向となった。
その後、14世紀、バインヴィール修道院はバーゼル司教の管轄下でスイス・ベネディクト修道会に帰属し、その系譜修道院はアルザス地方やスイスなど合計57か所に上り、一旦は再興を見た。が、繁栄は長く続かず、バーゼルやゾルトゥルンなどの「都市間紛争」に巻き込まれ、1445年、襲撃され火災で崩壊寸前となる。1527年に最後の修道院長が、1555年に最後の修道士が亡くなり、バインヴィール修道院は世俗司祭の管理となった。

マリアシュテイン修道院・付属教会堂
修道院の西側にマリアシュテインの中心地区が広がっている。ただ地区の規模は小さく、レストランを兼ねるホテルが2軒、警察署参拝者とハイカーのための広いパーキング場、ほかに民家が25軒ほどである。修道院から北西へ700m離れた「国境の森」の手前の55軒ほどの地区を合わせて、行政的には「マリアシュテイン地区」と呼ぶが両地区を合わせても80世帯、人口はわずか190人である。国境の村フリュー駅前からタール渓谷を経由する「スイス・ポストバス(PTT)069番」は、修道院前の広場まで運行されている。

広場の東方にわずかにグレー色に近似する白色のジュラ山系産石灰岩を使った明るい色彩の外観、ゴシック様式のマリアシュテイン修道院の付属教会堂の西正面ファサードが、左右対称のたいへん美しい姿を見せている(左上写真)。教会堂の内部は三廊形式(側廊+身廊+側廊)で、アーチ形式の5か所のベイ(格間)と高いアーケードで構成され、初めて修道院を訪れた誰もが、明るい教会堂内部のバロック様式の圧倒される美しさに声を呑む。

マリアシュテイン修道院の付属教会堂は大聖堂ではなく、あくまでも修道院に付属する聖堂であるので、内部は決して大規模とは言えない。しかし、20世紀になり統一的に修復メンテナンスが行われた結果、バロック様式特有の均整のとれた高貴と言うか、曲線と直線の洗練された建築構成の群を抜く美しさが顕著と言えるだろう。ただし宝飾類の多くは動揺する歴史の中で紛失してしまった。

建築技術面に力点を置き、尖頭アーチ型やリブ・ヴォールト型の身廊天井などに特徴を見るゴシック様式と異なり、壁面と天井がほとんど白色に近いマリアシュテイン教会堂内部では、バシリカ式に類似する身廊の八角形の支柱と美しい柱頭彫刻がアーケードの優雅なアーチで結ばれ、その上部に描かれた無数の描画が列を作る。高窓からの明るい光がわずかに曲線する、1999年〜2000年にネオ・ゴシック様式で再描画された天井絵(聖母マリアや奇跡の子供の物語など)をまるで立体の絵物語のように照らし出している。

身廊から振り返れば、正面入口上部の美し過ぎるパイプオルガンが眼に飛び込んでくる。39を数えるストップ(音色選択機構)を備えるとされる、鉛を主成分に錫(すず)との合金独特の青灰色を放し露出するパイプ部が曲線過多の金色装飾で固定され、身廊の幅一杯に広がるオルガンの両脇に高窓が迫り、明るい光が「いぶし銀」のような色彩を放す上品なパイプ部を照らす。

さらに入口付近から眺める時、身廊の右側にある金色に装飾されたバロック様式の木製の説教壇(18世紀)、その奥正面に控える金色で装飾されたやはりバロック様式の内陣、1680年にフランス・ルイXW世により装飾された聖歌隊席(コーラス)などが織り成すバランス、荘厳な色彩、そして豪華さと美しさに圧倒される思いがする。

この感覚は、経験論で言えば、アルザス平野の小さな村エベルスマンステに建つ修道院・付属聖モーリス教会堂の内部に共通するものがある。
ドイツ南部で流行したバーバリアン・バロック様式の極致とも言えるエベルスマンステの聖モーリス教会堂内部では、全体を明るい白色を基調として、淡いモーブ色やグレー色調の穏やかな横縞模様で何層にも積み重ねた品の良い複合角柱の身廊、聖歌隊席(コーラス)は透き通るような象牙色と青緑色の細身の円柱に支えらた過剰とも言える装飾群で埋もれている(下写真)。

          アルザス地方エベルスマンステ修道院・付属聖モーリス教会堂/(C)legend ej
     エベルスマンステ修道院・付属聖モーリス教会堂/「王冠」を抱くバロック様式の内陣/アルザス地方
     アルザス・ワイン街道(北部)オベルネ周辺/コロンバージュ様式の美しい村々

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マリアシュテイン修道院・洞窟の礼拝堂・「慰めの聖母マリア像」
バロック様式の豪華壮麗な教会堂内部もさることながら、マリアシュテインを訪れる人々の「最もたる目的」は、何をさて置いても、1434年にその存在が記述された修道院付属の「洞窟の礼拝堂」、その洞窟壁面に納められた「慰めの聖母マリア像 Madonna vom Trost(上述写真)」への崇拝と奇跡の肖り(あやかり)への祈願である。

教会堂の入口左側の指示マークに従って東京のメトロ地下鉄駅の階段に似た折り返し階段を下がり、東方へ向かう半円アーチ型の地下通廊に出ると、慰めの聖母マリア像の救済を得たと信じる世界各地の人々から無数のメッセージプレートが壁面を埋めている。若干照明を落とした交差ヴォールト型天井、ほぼ直線的な白塗り地下通廊をさらに70mほど進み、修道院施設の北東端となる場所から時計回り(右折)に下る傾斜30度前後あろうか、50段以上の階段となる。
この急な階段はおそらく中世の時代から存在した参拝者用の古い階段を改造したと推測でき、左側の窓から見える外の風景は、階段が修道院レベルから一気に標高差70mの屏風のように落ち込む、緑の渓谷の垂直崖面にへばり付くように施工されていることを教えている。

階段の最下部の右側扉を静かに開けると、そこは岩盤がむき出しのL字状に区画された洞窟の礼拝堂で、想像以上に高い空間の右側の垂直岩盤に慰めの聖母マリア像が安置されている。
今日では渓谷側は完全に施工壁面で覆われているが、長椅子が備えられた岩盤の巨大な裂け目の洞窟の礼拝堂の位置は、教会堂の内陣から南東30mほど、水平レベルでは修道院から40mほど低い崖の途中、この場こそが、かつて14世紀の後半、牛飼いの少年が転落した崖の裂け目であり、聖母マリアの支えで少年が無傷で生還した「奇跡の場所」である。

左手に黄金の杖を携え、右手に崖の裂け目に転落し生還した子供(または幼いイエス)を抱き、黄金の光の束を背にした聖母マリア像は高さ1mほど、決して大きな像ではない。わずかに眼を開け、うつむき加減の聖母マリアは、この場を訪れる敬虔なる信仰の人々へ正に「救済の笑顔」を投げかけている。転落した子供の「無傷の生還」があったとされる伝承の中世14世紀後半から今日まで、間違いなく数百万の人々がこの聖母マリア像の穏やかな微笑に心救われて来たことであろう。

彩色石製の聖母マリアと子供の像は、今日、金色の刺繍で装飾された錦織りの衣装を羽織り、十字架を胸に王冠を被っているが、戴冠したのは1926年であり、また地元の人によれば、羽織っている衣装は時期により色々と変更があるとの事である。マリアシュテイン修道院の洞窟の礼拝堂を訪ねた2014年の夏、遠く南米からと思しきカトリック教信者の小グループ、そしてフランスとスイスの近郊からの人達20人ほどが、物音も立てず長い時間静かな祈りを奉げていた。

修道院と洞窟の礼拝堂の建つマリアシュテイン地区に限らず、このスイス・フランス国境地帯の波打つような穏やかな耕作地では、春の頃、大地を真っ黄色に染める菜の花が咲き乱れ、草原に点在して植えられたリンゴの木が一斉に桜のような白〜淡いピンク色の花を付けることでも知られている。

フランス・サングオ地方と並び、このスイス北西部の地域が「最も美しい」と言われる早春〜初夏の時期、丘陵の広葉樹の森が芽吹き緑色の新芽の草原は初々しくも光輝き、あたり一面に花が咲く頃、上述のランズクロン城砦などを基点として、マリアシュテイン修道院さらに草原と丘陵が連なるブルグ(独語=城砦)が残るライメンタール村、より健脚なハイカーならジュラ山系の高原などをトレッキングして回るとのこと。

ヴェズレー修道院・聖マリー・マドレーヌ大聖堂・クリプト/(C)legend ej
     ヴェズレー修道院・聖マドレーヌ大聖堂・「マグダラのマリア」の地下納骨堂クリプト/ブルゴーニュ地方
      世界遺産/ブルゴーニュ地方ヴェズレー修道院・聖マリー・マドレーヌ(マグダラのマリア)大聖堂

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